日本のこえ


1.基本情報

【名称】日本のこえ[日本のこえ同志会('64.06~)⇒日本共産党(日本のこえ)('64.12~)⇒日本のこえ('68.05~)]
【結成】1964年6月
【機関紙誌】『日本のこえ』


 ’64年5月に日本共産党の志賀衆院議員が、党議に反して部分的核実験停止条約批准に賛成し、除名され、鈴木参院議員と共に日本のこえ同志会を結成したのが始まりである。その後日本共産党(日本のこえ)に改称。’65年頃から日本のこえ派が構改派系政治組織の統一を呼びかける中で、’67年に共労党が結成されるが、志賀などの首脳部は結成を前に脱落。日本のこえに止まるが、日本のこえ派の多数は共労党結成に参加。志賀らは少数派に転落し、更に神山、中野らが日本のこえを脱退し、少数派に陥った。68年5月、日本共産党(日本のこえ)から「日本共産党」の文字を外し、日本のこえに改称。


2.ヘルメット

≪学生組織

【名称】民主主義学生同盟(民学同右派)

【結成】1963年9月

【ヘルメット】白地に「民学同」。※未確認


 ’63年9月に大阪市立大学小野義彦教授指導下の、平民学連の一部が分裂して、民主主義学生同盟を結成した。小野教授が新志賀派だったことから後に日本のこえ派の指導下に入る。 '67年2月の共労党結成後は民学同内は、指導団体である日本のこえ派の分裂に伴い、共労党系の民学同左派(後にプロ学同に改称)と、日本のこえ系の民学同右派の二潮流を形成し、68’年3月に民学同左派が完全に民学同から離脱して後は、民学同は日本のこえ派のみによって担われることとなった。
 ヘルメットは、『全学連各派』’70年増訂版表紙裏や『全共闘グラフィティ』のイラストにあったもの。緑地に『民学同』は当時のアサヒグラフ誌上で確認しているが、これは民学同左派のヘルメットであるという見解がある(共労党の頁のプロ学同の項参照)。これについてはなお調査を要する。