共産主義者同盟赤軍派諸派


共産主義者同盟赤軍派'69.08~'72


 連合赤軍あさま山荘事件後も、赤軍派の公然部分は残存していたが、指導部を喪失し、崩壊しかけていた。赤軍派としての機関紙誌は’71年3月5日発行の『赤軍』8号を最後に発行が停止されていた。
 ’72 年5月30日に日本赤軍が結成されたころから、残る赤軍派活動家らが再建運動を始め、8月25日には反戦共闘(レーニン研究会)や旧ML派(後に解放委員会を結成。)、赤色戦線派らとともに「ベトナム8月革命支援集会」を開催し、「八・二五共闘」を発足させるなど公然面の活動を活発化させていたが、同年末には主流派(大菩薩峠事件被告人グループ)と、反主流派(連合赤軍グループ)に大きく分裂した。 




・共産主義者同盟赤軍派日本委員会(’74.07~)


 このような動きの中で反主流派に拠る、かつて赤軍派大阪部隊の幹部であった高田英世らが、「共産主義者同盟赤軍派日本委員会」を名乗って、赤軍派機関誌『赤軍』復刊の形で『赤軍』9号を'74年9月4日付で発行し、同紙上で7月15日をもって赤軍派を再建したと宣言した。
 「共産主義者同盟赤軍派日本委員会」という名義は、赤軍派機関誌が停刊となった'71年3月の『赤軍』8号の名義を踏襲することで正統性を示そうとしたのではないかと思われる。
 日本委員会派は連合赤軍路線を支持していたが、東アジア反日武装戦線狼の三菱重工爆破事件を支持する声明と、爆弾闘争継続を先導するアピールを機関紙『赤軍』11号('74年10月20日付)で発表したことから、幹部高田英世が爆発物取締罰則4条違反で指名手配('77年5月8日逮捕)され、その他の主な活動家も地下に潜ったことから、実質的な活動は停滞に陥りその後顕著な活動は見られなかったが、'76年7月に機関誌『赤軍』13号を
「世界気象観測報告書」の偽装誌名で発行したことで知られる。



・共産主義者同盟赤軍派プロレタリア革命派(’74.11~)

⇒・共産主義者同盟赤軍派『マルクス・レーニン主義』編集委員会(’75.09~'77.02)

 →・共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派('77.02~'79.07)

 ⇒・共産主義者同盟赤軍派プロレタリア革命派塩見グループ(’78.01~'79.03)

 →・日本社会科学研究所(マルクス・レーニン主義、毛沢東思想)('79.03~)


 ’74年7月には赤軍派再建グループ主流が、再建路線を巡って八木健彦グループと大久保文人グループに分裂した。

 11月になって八木健彦グループは『赤軍』再刊準備1号('74.11.10付)を発行し、「共産主義者同盟赤軍派プロレタリア革命派」を名乗った。プロ革派はそもそもは獄中の赤軍派元議長塩見孝也を指導者とし、赤軍派結成当時の路線に基づく組織再建を企図していた。

 しかし、'75年にはよど号裁判の公判闘争戦術を巡って塩見と対立した高原浩之らが分裂し、「共産主義者同盟赤軍派『マルクス・レーニン主義』編集委員会」を結成、機関紙『革命通信』('75,09.25付)を発行した。同派は'77年2月の第一回大会で組織名称変更を決議し、「共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派」に改称した。同派は游撃派、怒濤派、紅旗派などに組織統合のための呼びかけを行い、これに応じた游撃派と
'79年7月に組織合同し、「共産主義者同盟(革命の旗)」を結成した。

 また'77年夏ごろからは島根大学を拠点とする新興勢力が台頭し始め、'78年1月頃から対立が鮮明化。2月に塩見の自宅が襲撃されたことで対立が決定的となり、塩見らを中心とする旧幹部グループが実力追放され、水田・町田らを指導者とする島根大学グループが組織の実権を掌握した。

 追放された旧幹部グループは、'79年3月になって「
日本社会科学研究所(マルクス・レーニン主義、毛沢東思想)
」を結成し、塩見の公判支援闘争を行っていた。



共産主義者同盟赤軍派プロレタリア通信派(’74.11~’75.05)

→・共産主義者同盟(プロレタリア独裁編集委員会)(’75.05~'76.03)

 大久保文人グループは八木健彦グループが機関紙を発行したころ、これに対抗して「共産主義者同盟赤軍派プロレタリア通信派」を自称したが、翌'75年5月になって漸く機関誌『プロレタリア独裁』を創刊し、組織名称を共産主義者同盟(プロレタリア独裁編集委員会)としたが、’76年3月には、「共産同全国委員会(ボルシェビキ)」と合同して、「共産主義者同盟(紅旗)」を結成した。