中村警部補の慰霊碑を訪ねる

※この記事は2011年11月24日にボリューム(E:)(現「ボリューム(E:)ブログ版」)にて公開したものに多少の加筆を施し公開したものです。


 1971年11月14日の渋谷暴動事件から、今月で40年が経った。渋谷暴動の話を初めて聞いたのは共産趣味の世界に入る前、いつかは定かではないが父からだった。
 おそらく小学生の時であったと思う。他愛もない話をしていて話が将来のことに及んだ。父は今は普通のサラリーマンだが、将来の夢はなんだったのかと聞くと、父は「ハワイの新聞記者」と答えた。

 奇妙な答えである。

 父が言うには新聞記者になりたかったのだが、1971年の渋谷暴動事件の際、火炎瓶を投げつけられ火達磨になってのた打ち回る機動隊員をテレビカメラは平然と追いかけており、消そうともしなかったことに失望したというのである。だから平和(そう)なハワイの新聞記者になりたいと。まぁハワイの件は冗談だろうけど。

 父の言では「学生側であろうと機動隊員であろうと、火達磨になって苦しんでいる人間を傍観するというのは人間性に問題がある」と。私も尤もだと思う。

 これを「きれいごとだ」という人もあるかもしれない。なるほど確かにこの世界に入ってから機動隊員がどのような仕打ちをした(している)かとかは、事実かどうかは別にしてよく聞くことであるし、それによって嫌いになるのも分からないではない。だが、それでも私は火達磨になって苦しむ人が目の前に居れば何とかして消そうとするのが人間であろうと思うし、それに本来中立であるべきマスコミが手を出したとて非難される筋合いはないと思う。
 後年ピューリッツァー賞を受賞したスーダンの少女の写真で物議を醸したのと同様の問題であろう。もっとも飢餓の問題は一度手を差し伸べても解消されないが、火達磨になっている機動隊員は一度消して適切な救護が施されれば足り、継続的な努力による問題解消は必要がない。

 このことについて論争するつもりはない。何と言われようと目の前で火達磨になっている学生や機動隊員が居れば私は消火に努めるのが人間であると思うし、それに反対するような輩と話すつもりはない。

 父がテレビで見たという火達磨の機動隊員が中村警部補であるかどうかはわからない。だが中核派がこの暴動を引き起こし、若い警官が焼き殺されたという事実があり、その研究に携わる人間として一度は中村警部補の慰霊碑に手を合わせたいと思って今回、慰霊碑を訪れた。

 さて、本題に入ろう。
 慰霊碑を訪ねようと思ったのは現在も指名手配中の活動家のポスターに小さく慰霊碑の写真が載っていたからで、それまではその存在すら知らなかった。

 実際インターネットで調べても慰霊碑の場所はわからない。個人ブログに載っていた日記から渋谷のお米屋さんの近くにあるということまではわかったのだが。
 場所がネットで調べてもわからないとなると、訪ねるだけでなく場所をネット上で公開しなくてはいけない気がしてきた。

 そこで過去の新聞記事を探したところ、中村警部補が襲撃されたのが渋谷区の神山町であること、慰霊碑の土地を提供したのが付近のお米屋さんだということまでわかったので検索したところお米屋さんが特定でき、Googleのストリートビューで慰霊碑の確認ができた。

 場所は東京都渋谷区神山町11-10

中村警部補慰霊碑



 NHKのセンター下の交差点と観世能楽堂のほぼ中間にある神山町東の交差点にあるローソンの向かいの精米店脇である。
https://sites.google.com/site/nagato0326/1971-okinawa/DSC_1695.jpg
写真の精米店の向かって右側、クロネコヤマトの看板の辺りにある。

https://sites.google.com/site/nagato0326/1971-okinawa/DSC_1702%20kai%E3%80%80%E7%B8%AE%E5%B0%8F%E7%89%88.jpg
道の反対側から慰霊碑を望む。高さは50cmに満たない程の小ささだが立派なものである。

https://sites.google.com/site/nagato0326/1971-okinawa/DSC_1682%E3%80%80%E7%B8%AE%E5%B0%8F%E7%89%88.jpg
慰霊碑。正面の碑文は不明。沢山の献花をどけるのは憚られたので。

https://sites.google.com/site/nagato0326/1971-okinawa/DSC_1707%E3%80%80%E7%B8%AE%E5%B0%8F%E7%89%88.jpg
慰霊碑全景。

https://sites.google.com/site/nagato0326/1971-okinawa/DSC_1705%E3%80%80%E7%B8%AE%E5%B0%8F%E7%89%88.jpg
横の碑文。

中村警部補のご冥福をお祈り申し上げます。

※訪問される方へ
意外と車の往来が激しい道路で歩道もないので、他の通行者や自動車等への配慮をお願いします。また事故に遭わないよう呉々も気を付けてください。


中村警部補の来歴と、渋谷暴動について(HP再公開にあたって加筆)

 中村恒雄警部補(死後特進。殉職時巡査。)は新潟県佐渡郡相川町(現佐渡市)出身で、相川町職員の三男に生まれ、相川高校を卒業後'69年に警察学校入学。’70年3月新潟中央署外勤課配属。'71年3月に同署警ら隊に編入され、渋谷で殉職するまでの間に、都内や成田などの警備に3~4回出動していた。

 中村巡査は'71年11月14日、警視庁警備の応援として出動していた関東管区機動隊川島大隊富沢小隊の26名とともに渋谷区神山町に配置され、沖縄返還協定批准阻止闘争として闘われることが予告されていた渋谷暴動に備えていた。

 その日の15時15分頃、小田急線代々木八幡駅から約250名の鉄パイプと火炎瓶で武装した集団が、神山町の渋谷署神山交番に向かったため、中村巡査らはこれに対する警備にあたった。集団は途中で深町交番前で火炎瓶を投擲するなどしつつ、神山交番へ駆け足で向かった。

 15時25分頃、神山町18先の神山交番近くの路上で中村巡査を含む小隊27名は路地から突然現れたこの集団と衝突し、同集団は小隊と交番をめがけて火炎瓶を投擲。機動隊はガス銃を用いて規制を試みるも多勢に無勢でNHK放送センター付近まで後退したが、ガス銃の射手であった中村巡査ら7~8人が逃げ遅れた。集団は火炎瓶を投げられ転倒した中村巡査を取り囲み鉄パイプで滅多打ちにし、火炎瓶4~5本を更に巡査の倒れている付近の路上へ投げつけたため中村巡査は火だるまになってのたうち回った。

 およそ5分後、体制を立て直して機動隊が現場に引き返した時には中村巡査の下半身は焼け爛れ、上半身の服からもまだ煙が出ていたという。同集団はこの後東急電鉄本社前で火炎瓶を投擲し、或いはバリケードを築くなどして暴れまわったとみられている。

 巡査はすぐに警察病院へ収容されたが、熱傷による呼吸困難に陥っており、気管切開手術を受けたものの、翌15日21時25分息を引き取った。都内の警備事件で警官が殉職したのは’68年の日大経済学部封鎖解除で亡くなった警視庁第五機動隊の西条秀雄警部以来のことだった。

 中村巡査の遺体は慶應義塾大学病院法医学教室にて解剖が行われた後、翌16日18時から大塚の護国寺にて通夜が営まれ、葬儀は17日9時から同所で密葬で営まれた。

 警視庁公安部はこの機動隊員焼殺事件に対し捜査本部を設置。同本部はこの犯行を行った集団を中核派系の「軍団」とみて捜査を開始した。理由としては、①中核派が暴動を企図し警官の殺害や警察施設の襲撃を計画していたこと、②川島大隊と衝突した集団があらかじめ武装した上で、小田急線代々木八幡駅方向から約250名の集団で行動し、偶発的にできた集団でないこと、③同集団の一部が白ヘルメットを着用していたことなどが挙げられている。

 この集団は三鷹市の東大三鷹寮から200名で出発するところが目撃されており、国鉄中央線吉祥寺駅で二手に分かれ、うち150名は井の頭線で下北沢駅まで向かい小田急線へ乗り換えて代々木八幡駅へ向かい、もう一方の50名は吉祥寺駅から中央線で新宿駅へ向かう途中、中野駅などから乗り込んだ中核派系の反戦青年委員会と合流し新宿駅で武装、15時4分新宿駅発の電車で代々木八幡駅へ向かい、同所で合流したものとみられ、当局は警察の目をごまかすために一度別れて再度合流したものであり、計画的犯行という見方を強めた。

 この集団は吉祥寺駅前で警視庁武蔵野署員の職務質問を受け、火炎瓶やビニール袋に入った石油、ハンマーなどを所持していた4名が放火予備の現行犯で逮捕されている。また中村巡査襲撃後に東急本社前でバリケードを築くなどして暴れまわったとされ、この時学生や労働者ら30名が凶器準備集合罪などの容疑で逮捕されている。

 この後、逮捕された30名のうちの1名の女性活動家G(労働者)が12月3日までに犯行を自供。中村巡査を襲撃した一団に自分もおり、火炎瓶を投擲したことを認めた。このGの証言によれば、当日の経路は概ね上掲の通りであったという。

 当局によれば中核派が組織したとしていた12の「軍団」のうち、14日に実際に動いたのは「池袋軍団」、「吉祥寺軍団」、「仙川軍団」の650名であり、このうち後二者は労働者が主力であったという。自供したGが居たのはこのうちの吉祥寺軍団であり、北部地区反戦青年委員会指導下にあった北区、板橋区、練馬区、豊島区らの労働者と一部の学生から構成されていたとされる。

 当局はこの吉祥寺軍団に加わっていた北部地区反戦の活動家を重点的に捜査し、翌'72年2月2日に別件にて傷害や放火などの容疑で逮捕されていた中核派「群馬軍団」キャップ高崎経済大学4年の奥深山幸男、同大学1年の少年、群馬工業高等専門学校3年の少年ら3名が犯行を自供したため、殺人容疑で再逮捕し、更にこの3人の証言に基づき、吉祥寺軍団の軍団長とされる高崎経済大学4年の星野文昭、千葉工業大学4年大坂正明を殺人容疑で指名手配した。

 上では3名について実名を挙げた。これは中核派が機関誌「国際労働運動」誌上で名前を挙げていることから、敢えて実名としたものである。中核派側の主張についてはLink先を参照。以下にこの3人の現況について概略を述べる。

 この3名は現在も支援者らによって活発な運動が行われている。3名のうち奥深山幸男と星野文昭は逮捕され、大坂正明は現在も手配中である。支援者は冤罪であるとして'70年代から救援会を組織して裁判闘争に出た。

 このうち星野は無期懲役の判決を受けて現在徳島刑務所在監。支援者は「星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議」を組織し、再審闘争に取り組んでいる。また最近では『無実で39年 獄壁こえた愛と革命 星野文昭・暁子の闘い』が刊行された。

 奥深山は精神疾患により公判停止のまま30年近くが経過。今もなお治療を続けており、無実を訴える支援者は免訴を求めて活動に取り組んでいる。(追記。2017年2月7日に誤嚥による急性呼吸不全のため死去。中核派機関紙「前進」2823号)

 大坂は共犯とされる奥深山の公判停止により時効が停止され、またその後で殺人罪の時効が撤廃されたために現在も指名手配中である。マスコミ報道によれば最近になって摘発された中核派の非公然拠点に於いて、大坂が他の中核派拠点に近年まで匿われていたことや、地方の病院で治療を受けていたことなどがわかる資料が発見されたとのことである。