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礼拝メッセージ

「あなたのためにも主イエスは祈られた」

このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。そして、イエスは彼らと一緒に山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などからの大群衆が、教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。また群衆はイエスにさわろうと努めた。それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。
ルカによる福音書第6章12~19節


私たちの教会では、毎週水曜日に祈祷会を行っております。そこでは、必ず皆さん一人一人の名前をあげて神に祈っています。だから、皆さんから、腰の骨折がよくなったとか、インフルエンザが治ったとか聞くと、とても嬉しくなります。日曜日の礼拝で、高齢者の方々の姿を見ると、「ああ、神様は先週も怪我や事故から守ってくださった」と思ったりします。

もちろん、怪我をすることがあったとしても、神の御守りが同じくそこにはあると信じています。神の御守りは、具体的に目に見える形で現れる場合もありますし、見えて来ない場合もあります。しかし、どちらであったとしても、神は、私たちの祈りに応えて、確かに守っていてくださいます。祈ってみると分かる事ですが、神は私たちの祈りに確かに耳を傾けていてくださいます。そして、不思議と祈ったことが、また祈ったこと以上のことが起こってくるのです。これは、事実です。神は、私たちの祈りに答えてくださる、生きておられるお方なのです。


ところで、祈るということで思い起こすのが、今日、私たちが読んだ聖書箇所です。そこには、主イエスが夜を徹して祈られた姿が記されています。12節「そのころ、イエスは祈る為に山へ行き、夜を徹して神に祈られた」。

教会は、祈りながら今日までの歴史を作って来たと言ってよいでしょう。歴代の信仰者たちは、祈るときに、主イエスが自分たちの先頭を行くようにして夜を徹して祈られたことを、思い起こしたのではないかと思います。私たちも、主イエスのその祈りの姿に励まされて、祈りを重ねてまいりたいと思います。

主イエスが夜を徹して祈られたことから、ある人は、こう考えるかも知れません。神の子であられた主イエスでさえ、それほど祈らなければならなかった。ならば、人間である私たちは、それ以上に祈らないと、神に聞いてもらえない。だから大いに祈りに励もう、と。この考え方も悪くはないと思いますが、その前に共に考えてみたいことがあります。


それは、主イエスが私たちのためにまず祈られた、ということです。主イエスは、この時、何について祈られたかと言いますと、12人の弟子たちを選ぶ為でした。ということは、イエス・キリストの弟子たちとは、イエス・キリストによって徹夜の祈りを積まれた者たちなのだと言えます。私たちは、使徒と呼ばれた彼ら12弟子たちとは違いますが、しかし、主イエスの弟子であるということについては同じ者たちです。

皆さんは、自分のことをどういう者であると理解しているでしょうか。いろいろな答え方ができると思います。例えば、自分は一人娘にとってかけがえのない母親である。今、会社で取り組んでいるプロジェクトにとって欠けてはならない者である。認知症の夫と共に暮らしており、心身ともにぎりぎりのところで踏みとどまっている、夫にとって無くてはならない者である。毎日、油まみれになって働いて、家族を支えている者である。そのように、私たちは、各々の生活において、それぞれ与えられているところで精一杯生きている者たちです。そのような私たちに、この朝、主イエスは、改めてお語りになっておられるのです。あなたは、私が夜を徹して祈った者、私の祈りが積まれた者であると。あなたは、私に祈られて一人娘の母親、プロジェクトの担い手、認知症の夫を支える者、家族を支える者として在るのだ。そう、主イエスはお語りになっておられるのです。


主イエスが捕えられてしまうことが濃厚になっていた最後の晩餐の時に、12弟子の1人であるペテロが、「主よ、わたしは死に至るまであなたとご一緒します」と、堅く誓いました。残念ながらペテロは、それから数時間後に、主イエスを見捨てて逃げてしまい、激しく泣き崩れます。しかし、そのペテロを支えたのは、主イエスのお祈りでした。あの最後の晩餐の時に、主イエスはペテロにこう語っておられたのです。「わたしは、あなたの信仰がなくならないようにあなたのめに祈った」。ペテロの確信や力がまったく無くなってしまう限界よりももっと深いところで、イエス・キリストの祈りがペテロを支えたのでした。そして、私たちも、実はそういう者とされているのです。

その確かさの中で、私たちは、神に祈るのです。私たちが一所懸命祈るのは、そうしないと神から顧みて頂けないからでも、望みを見いだせないからでもありません。子どもが、親にお喋りをするのは、親から顧みられたいためではありません。親から愛され顧みられているから、お喋りをするのです。私たちは、神から充分に顧みられており、イエス・キリストに祈られ支えられている者たちです。だから、私たちは祈りをするのです。時には泣き崩れながら、時には喜びに溢れながら、時には絶望的な思いを抱えながら、神に祈れるのです。

私たちの父なる神は、確かに私たちの祈りを聞いていてくださいます。そして、不思議と道を拓いてくださるお方です。祈りましょう。

説教 南つくばキリスト教会 工藤章洋

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