「パンタナルからイスムスへ」

モレキュラーシアター20年/ダンスバレエリセ50年
「パンタナルからイスムスへ」
豊島重之

(1)
余白が明滅する。
ダークマター=暗黒物質の黒い矩形の画像に騒乱のノイズ。
余白が明滅する。
モーホの丘のスラム街=ファヴェーラの暴動の音が遠ざかる。
巨大な環礁が隆起する。
大湿原を何艘もの小舟が往く。
口々に日付けを呼びあうごとに何枚もの写真が焼かれる。
一面に蚊柱が立ち、それをジュネの断章が貫く。
いつも葉書それ自体はここには決して届かず、
ディスパリシオン=消印だけが一斉に到来する。
アパリシオン=亡者たちのひしゃげた泳法。
ダークマターの画像がゆっくりと旋回し始める。

(2)
いま演劇史と世界史はどういう倍音を奏でているのか。
そこにモレキュラー演劇の契機がある。
私達は集団創造の拠点を北方の八戸に置き20年間、実験演劇を世界に発信してきた。
「極地の演劇」だからこそ「演劇の極地性」を掘り深め、
演劇の内部に自足することなく、
「演劇の外部」にこそ交響する「外部の演劇」を模索してきた。
冷戦構造崩壊後、中近東だけに耳目を奪われがちだが、
世界史のもう一つの火薬庫が中南米である事を忘れてはならない。
そのエリアのど真ん中にある大湿原パンタナル。
いわばポストコロニアルな未踏の生態系。
それこそ演劇の極地=外部なのではないか。
今作はこの巨大なヴォイドの渾身の舞台化となるだろう。

(3)
毎年モレキュラーは東京で実験的な新作を上演してきた。
2000年「OS-IRIS/OSCILLIS=オシリス・オシリス」
01年「PERPENDICULAR/EPICENTER=直下型演劇」
02年「COLD BURN=低温熱傷性演劇」
03年「ITADORI=イタドリ」
04年「HO PRIMER=ホー・プライマー」
05年「ベケット東京サミット/NOWOH ON=ナウオー・オン」
06年「FOTEU LA CENDRE=フォトゥ・ラ・サンドル」など。
どれも八戸の小さなスタジオで集団創造され、一年がかりで錬成を重ねた舞台である。
気がつくと20年。どんなに見事な出土品も博物館の陳列室ではなく、まさにその発掘現場で見るのが正しいとすれば、この機会に演劇生成の拠点=八戸で「焼き上がったばかりの舞台」を観てもらえたらと思う。
テクスト・身体性・舞台美術が複層化する生成現場にどういう外部性が応答しているのか。
上演の「SCOTOMATIZED MOMENT=盲面」を存立させている地層をどう顕在化していくのか。
こうした作業を継続的に実践していく事こそがダンス・演劇の現在と未来に問われている。

(4)
2006年9月18日(月=祝)14時半〜15時45分
ポストトーク:八角聡仁・豊島重之「ダンス・演劇:未踏の生態系」15時50分〜16時半
会場:八戸市公会堂
助成:日本芸術文化振興基金

『PANTANAL』場面構成

テクスト:ジャン・ジュネ「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」(鵜飼哲訳・現代企画室)
ジャック・デリダ「火ここになき灰」(梅木達郎訳・松籟社)

テクスト音声:高沢利栄・大久保一恵・苫米地真弓・田島千征
プロジェクショナー:豊島圭佑・大久保一恵・田島千征

第一場:CORIOLIS(コリオリ=旋回する気流・海流)
田島千征(振付・出演) 
小幡由佳・斎藤尚子・秋山容子・得丸文野・武部聡美(出演)

第二場:ALLO-WANA(アロワナ=垂直跳躍の狩人)
苫米地真弓(振付・出演)

第三場:ICHTHYOID (イクシオイド=魚形/未踏の生態系)
服部明子(振付)
佐々木麻友・山道圭・坪井翠・金沢理沙・副島千佳・内田真由子・高谷奏恵・武田紗弥(出演)

第四場:PICAIA (ピカイア=幻魚/「いま・ここ」にあるカンブリア紀)
豊島和子(振付・出演)

第五場:POROROCA(ポロロッカ=河鳴り/アマゾン逆流)
大久保一恵(振付・出演) 
四戸由香・苫米地真弓・田島千征(出演)

(5)
 上述のように「パンタナル」公演はジュネとデリダのテクストに、正確には、それを翻訳された鵜飼哲さんと梅木達郎さんのテクストに基づいている。
 本書に収録された2005年7月「ベケット東京サミット」や2006年7月ICANOF企画展にも出席なさった鵜飼さんには直接、上演許可をお願いできたが、ジュネやデリダのあとを追うようにして亡くなられた梅木さん御自身からは上演許可を頂く事が出来ない。梅木さん訳「火ここになき灰」の編集者だった竹中尚史さんに御連絡をとると、竹中さんは梅木達郎さんの御遺族から御快諾を戴く労をとって下さった。御遺族や多くの方々に対して、ここで改めて感謝の意を表したい。

 テクスト「に基づく」舞台とは言え、これほど心許ない言い方はない。

 「に基づく」以上、舞台上の佇まい、身体性のどこかにテクストから喚起されたものがあるはずだが、それがここだと指摘できるかどうか心許ないどころか、それが指摘されるようなものなら、テクストから喚起されたとは言えそうにないからだ。

 仮に百歩譲って、舞台上の佇まいがテクストから喚起されたものだとするなら、その身体性は、一回限りの観客のみならず、その場に居合せなかった限りない消息に向けて、もう一つのテクストを喚起するに違いない。そうでなくては「に基づく」とは言えないだろう。

 しかし反面、そんな事がこの「パンタナル」で容易に成されるとも思えない。
 本書に収録された二つのコロック=共同討議を引くまでもなく、私達の浅薄な読みは、始まったばかりだ。考えてみれば恐ろしい事だが、しばしば浅薄な読みさえも、時として浅薄な読みこそが、著者や訳者の思考の深淵に届く事がありうる。その苛酷さは、読みそこねた者と読まれそこねた者のどちらが背負うべきなのか、もはや言を待たない。

 私達は、このジュネとデリダのテクストを読み続けていく事をやめないだろう。
 その途上で、例えば2007年に再びそのテクストに基づく「ISTHMUS=イスムス/地峡」公演に挑むだろう。「パンタナル」には見渡す限りの壮大な「分厚い平面」を思わせる語感がある。そこに何らかの地層の褶曲が加われば、あちこちに陥没を伴なう隆起が生じるかも知れない。「パンタナル」から「イスムス」へ。寄る辺ない私達にとっての秘かな里程標として。

(初出:「PANTANAL 2006」)
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