八戸の「ハ演劇」=コロニアル演劇をめぐって

八戸の「ハ演劇」=コロニアル演劇をめぐって
《 Theatre of ha:colon/colonial theatre 》
豊島重之

 (1)
 私が八戸で演劇を始めたのは1968年。今でこそ失笑ものだが「八戸を日本のカルチエ・ラタンに」と口走る者がいてもおかしくはない時代の空気があった。政治の演劇性にはウンザリさせられたものの、演劇の政治性のほうはほとんど手つかずに思えたからだ。それに演劇風土の根付いた津軽圏や盛岡圏とは違って、ちょうどその中間に位置する八戸はいわば演劇的エアポケット[*1]であり、一人の医学生というより一人の考古学少年・弓道少年・ロック少年を横ブレさせるに足るものがその空域にはあったのだろう。
 何らかの硝煙を鼻毛か睫毛に焚(た)きしめて八戸に遁走してきた連中と組んで『日本舌切雀考/羊曼胎=やまたい/球体伝説/怪盗へのへのもへじ/戒厳へのへのもへじ/皆目(かいもく)へのへのもへじ』[*2]といった演劇を、あとさき考えずゲリラ的に上演した。
 打ち上げるごとに喧嘩別れが常であり、メンバーは入れ替わり立ち替わり『銀河サーカス/恋迷路変=こいめるへん/五百羅漢/続・恋迷路変/千年王国/ブリキ本願/千一年王国』[*3]といった劇団名が上演の数だけ併存したものだ。内情にうとい人なら八戸には劇団が結構あるなぁと思ったかもしれない。私自身はあくまでハチノヘの「ハ演劇」と「ヘ演劇」を「ト演劇」[*4]することばかりに汲々(きゅうきゅう)としていただけなのだが。

(2)
 「あなたたちが終わったところから ぼくたちは始める」を合言葉に、83・86年「東北演劇祭=TATA(タータ=多数多様体)」や89年「国際カフカ演劇祭=KAFKA Colloque」も提唱・実現した。いささかナイッフ(素朴)な響きを匿さず一閃(いっせん)するナイフを突きつけてくるこの合言葉は、ソウルの「テハンノ=大学路」にも似たパリの「カルチエ・ラタン=ラテン人街」を八戸に隣接する「サンナイ丸山遺跡」と強引に綯(な)いあわせてくれる。
 ここで詩人吉増剛造が三内丸山を訪れて書いた詩題『不思議な並木道=コロネード』をもちだすのは唐突だろうか。唐突ついでに、ベンヤミン『第二帝政期のパリ』というボードレール論=パサージュ論をハリー・ゾーンの英訳で読むなら、冒頭からアーケードとバリケードが対(つい)になって登場するのに気づくだろう。すなわちアーケード・バリケード・コロネードのABC[*5]。
 たしかに八戸は東北の「端=ハ」・閉域の「辺=ヘ」ではあるけれど、単にローカル都市ではなく異風の「コロニアル=植民都市」[*6]と読みかえる一人の考古学少年がいて、彼は安易にポストなどという接頭辞をつけない代わりに、カフカのプラハやヴィトキェーヴィチのザコバネを中世の八戸と、ルーセルのパレルモやアルトー/ベンヤミンのマルセイユ[*7]を地中海の八戸と名ざしていくのである。

(3)
 昨年モレキュラーは国際交流基金助成で豪州「アデレード・フェスティバル」に招待され、画家・写真家・劇作家・ジャンキーにして「純粋形式」の哲学者でもあったヴィトキェーヴィチの肖像画商会定款(ていかん)に基づく『ファサード・ファーム』を9ステージ上演した。俳優たちが舞台上から客席の観客を素描した9点の肖像画[*8]が、劇場ロビーにリアルタイムに展示され、それを横目に観客たちは帰途につくという、そこまで含めての上演である。
 この舞台はワルシャワ・ヘルシンキ・ターリン・東京・八戸でも数回上演されているが、元はといえば91年イスタンブールで開かれた「国際演劇協会=ITI世界大会」ニューシアター・ワークショップの所産なのだ。私は二週間かけて旧ユーゴスラヴィア・アルメニア・チュニジア・シリア・キプロスなど十数カ国の俳優たちとともに「タブロイド=平面状身体」と「ファヌロイド=漏斗状身体」をモチーフとした新作『Wall』[*9]を国立アタチュルク文化センターで上演し、それが五年後にアデレードで一応の結実をみたことになる。
 私たちは五年がかりで、コロニアリズム=植民地主義の圧制の悪夢から覚めた/そしてそれ以上の悪夢へと目覚めたのかもしれない。今や地上のどこのアジールもバザールも楽市楽座も、あまねく世界市場にリンケージした/ケージに囚われたのだから。

(4)
  豪州ではメルボルンの「プレイボックス」で三十余名のプロの俳優たちに、翌々日はシドニーの「NIDA=国立演劇学校」で第二第三のメル・ギブソンやジェーン・カンピオンを目指す学生たちに、少し風変わりなワークショップも試みた。まず写真批評・演劇批評の八角聡仁による翻訳論のレクチュアから始まる。むろん受講者は一様に面くらうのだが、そこには『ファサード・ファーム』が解読性の演劇ではなく「翻訳性の演劇」[*10]だという含みがある。
 翻訳性とは、端的に英文書法上のコロン=ドゥ・ポワンのことだ。それを私は植民地と結腸菌の群落という二つのコロンに展開し、それを身体の動きに不用意にコロナイズ=移植させるのではなく、そこに身体の底/コロフォン=奥付を明記するというものであった。これがイスタンブールでのタブロイドとファヌロイドを一段と方法化したものであるのは言うまでもない。
 そして写真家港千尋・演出家及川廣信を加えたコロック「パサージュの演劇とは何か」で締めくくるというワークショップ形式。日本的身体表現なり昭和文学的群像劇なりの実地指導を期待した受講者たちは見事に裏切られて、いっそ爽やかなリアクションがもたらされたことを付言しておきたい。港千尋の締めくくりの一言はこうだ。「まず君たちの内なる幕を引きちぎれ」と[*11]。

(5)
 「アップアップの木/紋章学上の紋がひたひた水面にみなぎる/世界没落前の地球全体にかけられた漁の網」(飯吉光夫訳)——幻覚剤ハシッシがベンヤミンから抽きだした一種カタストロフィックな水のイマージュ[*12]をひときわ鮮やかに思い起こさせたのは、まる八十年前に孫文が着想したという世界最大級の三峡ダム建設によって、千三百もの遺跡とともに四千年来の古代漁労民「巴人=ハジン」文化も水没すると報じた、天安門事件からまる八年目の日の新聞である。
 ワクワクの木やビリー・ホリディの木、タクラマカンの胡楊(こよう)の木やテキサスのジョシュア・トリー、ひいては温暖化ならぬ寒冷化のために実をつけるのをやめた三内丸山のクリの木を連想させずにはおかないアップアップの木。どんな災厄に首まで浸(つ)かればこうしたユーモラスな表現が口を突いて出るのだろう。
 その一方、「巴」の字源には弓手(ゆんで)の肘あてに描かれた図柄を意味する「とも・え」のほかに、洪水を示唆する渦流と蛇など爬虫類のトグロの両義があって、そこから畏怖すべき聖徴にも忌避すべき賤民にも転じる。言ってしまえば、ハジンとハシッシの思いがけない「パサージュ=間道・杣道(そまみち)」、それがさしあたっての主題なのだが、巴の字形そのままに今しばらくあたりを蛇行・旋回してみることにしよう。

(6)
 三峡のひとつ巴峡(はきょう)。巴蜀(はしょく)とは四川省の古名、険峻たる長江(ちょうこう)上流にひそかに共棲していた漁労民「巴」と農耕民「蜀」に由来する。最近、発見された三星堆(さんせいたい)遺跡は黄河文明以前の蜀文化のものであり、近々、水没するはずの「土家=ドカ」族の古集落こそ巴人文化の最後の遺構なのだと考古学者茂木雅博は指摘している。
 三内丸山や亀ヶ岡の遮光器(しゃこうき)土偶が、たとえば出産の脅威を横一文字の「平目=ヒラめ」に託したとすれば、三星堆の魔よけの仮面は縦一文字の「蟹目=カニめ」で怒髪(どはつ)天を抜いてみせる。平安朝絵巻の引目鉤鼻にことよせて、三内丸山が極端なヒキ目なら三星堆は突出したカギ目だと言えば通りが早い。そればかりか丸山も堆も早く言えば墳墓、つまりは「盛土=モリド」のことであろう。
 アップアップの木のモク・紋章学のモン・水面のモ・漁網のモウ、加えてメキシコ語で死を意味する「森へ行く」のモリをベンヤミンが列挙する時、北方や西域の異族が奏でる胡琴(こきん)と胡歌(こか)にも似た巴琴=ハキンと巴調=ハチョウが私の耳にも届く気がする。

(7)
 荒れるのは黄河や天安門ばかりではなかった。いや荒れるからこそ長江流域にあれほど多くの石窟寺院や磨崖(まがい)仏群や「土家」の盛土が集中したにちがいない。三内丸山のドカ雪ならぬ長江のドカ水に、土家とはまたなんと似つかわしくない部族名ではなかろうか。
 かりに「客家=ハッカ」がコンピュータ・ウィルス産業に進出すると言ったらお里の知れたギャグにしかなるまいが、土家にはどこか長江然たる寡黙なしたたかさの響きがあって、いわば死ぬ前から墓穴に住まいし、物ごころつく前から「喪のこころ」を周到に刷りこませた、漁労民であるより漁網そのもの、長江の地勢それ自体となって起伏にへばりつくカビか地衣類のような趣がある。
 数千年もの海上交易を想えば、シャケを追って鳥男トーテムのハイダや撚糸文(ねんしもん)土器のバヌアツまで足をのばす三内丸山人ならでは、福建省から四川省へ、いつしか巴人=ハジンを名のるに到った一群がいたとしてもおかしくはないし、あるいはアボリジニの聖なる山々ウルルや「カタジュタ=多頭」に護られて身低く林立するハニー・アントの蟻塚めいた、それこそ遠くトルコ=土耳古のカッパドキアの土の家や旋回僧ダーヴィッシュの石窟を重ね合わせたとしても、それほど荒唐無稽な脈絡と言うには及ぶまい。

(8)
 現にイスタンブールでつくった舞台がアデレードで上演されたばかりか(フェス一番人気はダーヴィッシュ旋回舞踏だったし)、つい先頃、三内丸山に材を得た新作『盛土カビ』も日の目を浴びた。発掘状態での展示が目玉の盛土に、昨冬だったか緑色のカビが繁殖したのを知って、ひょっとしてこれは千余年も続いた五百人規模の集中定住が大きく崩れはじめる誘因のひとつではなかったか、言いかえれば縄文都市の亡びを告知する「戻りカビ」ではなかったか。
 タイトルはそこから来ている。むろん裏地として「MORIDO・MOLD」のモリドーにはリビドーに対する都市自体がはらむ希死衝動を、モールドにはカビのみならずデュシャン「鋳型/アンフラマンス=超薄」[*13]の問題系を、上演の用法として翻訳=パサージュする構想もあるにはあった。
 しかしそれ以上に、モリ「ドカ」ビという、円滑なリエゾンを拒否するいささか無骨(ぶこつ)なオンに心そそられたのも確かである。それがたまたま巴系「土家」に結びついたにすぎないのだが、私にはどうしても単なる牽強付会には思えず、ベンヤミンの言う「後熟(こうじゅく)=ナッハライフェ」[*14]をめぐる思考からなお脱することができないでいる。

(9)
 最新の八戸の演劇シーンにもふれておこう。長尾広海作・田中勉演出主演『蟻』、安達良春作演出主演『ラグ・Ⅱ』、音喜多由記子作・小屋敷暁主演『イミテーション』、平葭健悦作演出主演『グリグリスモグリ』といったサイバーパンク演劇が前線を形成している。
 90年代前半どころか、つい一年前には考えられなかった異才の輩出ぶりである。これは単に東京の演劇ブームが褪色したせいなのか、それともモレキュラーのコロニアル戦略がいくらか功を奏したせいなのか、今は皆目へのへのもへじである[*15]。

(10)
 「巴=ハ」の見低き種族だけが踏みしだくことのできた杣径がぷっつり立ち消える「死地ならぬ死地」に、ある日、拒みようもなくこみあげてくる声なき笑いとともに回流してくるものがある。
 それは、ヴィトキェーヴィチのペイヨーテ体感とりわけレプタイル・マシーン=爬虫類機械のひしめきであり、ベンヤミンのハシッシ体感とりわけタブロイドやファヌロイドのリリパット効果(港千尋[*16])であり、そして吉増剛造のもうひとつの三内丸山素描『道路(ミチ)の遠近を忘れたり』[*17]に忘れ難く匂いたつ、コカの「葉」/コトの「端=ハ」/傍=ソバと古=ヌエバの「刃・歯・羽」/海はハ、平らかなりの「肌・破・巴」/『花火の家の入口で』の跋(ばつ)に爆(は)ぜかえる、(ハゝゝゝハ)。千のコロン/コロニーから千のコロン/コロニーへのパサージュはやむことがない。

(初出「テアトロ」658号/1997.08)(著者校正2009.02.01)

再録承諾者註[*]:
(1)
[*1] 雪深い津軽と盛岡に反して雪がパッタリとなくなる空域、かつ、津軽弁とも盛岡弁とも異なる八戸弁という独特なアクセンチュエーションの「dialect area」をさしている。当時の八戸にも高校演劇上がりの小市民的劇団はあることはあったが、津軽や盛岡ほどの演劇的隆盛ではなかったことを付言しておこう。
[*2] 文字でできた人の顔のフィギュール=「へのへのもへじ」とは、書く人はそれ自体で、刻々、書かれる人でもある、という音声中心主義の演劇に反する、戦略的パラドックスを含意していた。
[*3] 一見ふざけた劇団名のなかで特筆すべきは、「続・」や「続々・」であり、また「千年・」(81年東京公演)の次に「千一年・」(83年東北演劇祭)であり、「千二年・」とすべき84年ヒノエマタ・フェスティバル参加に際して「モルシアター」と改称し、それが現在のモレキュラーシアターの前身となった。今となっては、自力本願でも他力本願でもなく、無力でも非力でも武力でもない「ブリキ本願」なるネーミングが、ことのほか私には印象深い。
[*4] お察しのとおり「ト音記号・ヘ音記号・ハ音記号」になぞらえて、俳優のことを「ト演記号・ヘ演記号・ハ演記号」と名付けていた。当時の自作の筋書きには、「ト書き」という役名を軸に、「ハ書き」や「ヘ書き」を登場させたものさえあった。

(2)
[*5] ナポレオン三世と建築家オスマンによるパリ改造は、かつてのパリ・コンミューン蜂起における大掛かりな「往来止め=barricade」を赦さぬために、結果として小見世通りのごとき「拱廊/抜け道=arcade」を散在させた。
その「arcade」に、失われた「barricade」の記憶を甦らせたベンヤミンに倣って、私もまた、忘れ去られた「colon/colophon=奥付」を裏地にもつ「併廊=colonnade の演劇」を模索していくだろう。
[*6] 中学の考古学部当時、八戸の縄文晩期の宝庫「是川中居遺跡」の発掘を手伝わせられた。のちに青森の三内丸山に縄文後期の大掛かりな遺跡が発見され、その集中定住が千余年でプッツリと途絶えたことを知った。かれらはどこへ消えたのか。海を渡っていった連中もいただろうが、その一部は南下して是川中居に植民したのではあるまいか。そう考えると、文化的・技術的にも高度な発掘遺産の説明もつく。港からの外来者で生じたコロニアル都市=八戸の「近代性=modernity」の発生機=ナッセント・ステートを、そこに推測することができる。
[*7] ヴァルター・ベンヤミンにとって幻覚ルポ『陶酔論』執筆の地であり、また亡命/自死直前に再訪する地中海に面した「Marseilles」は、ギリシア出自の父母をもつアントナン・アルトーの生地でもあって、一方、レーモン・ルーセルが死地に選んだのも、古代ギリシア以来の植民都市「Sicily島のPalermo」であった。

(3)
[*8] 透明タブローの随処に、漏斗状の視力がその振戦する先端で素描したスクリッブルや、種々の貫通痕やニクロム線による縫合が施された、マルセル・デュシャン『大ガラス』もどきのヴァリアント。
[*9] どうすれば舞台上の佇まいに、前項[*8]のごとき「tabloid=平面状」の一撃と「funneloid=漏斗状」の一撃を、その「:=ドゥ・ポワン」をもたらすことができるか。それが『Wall』のモチーフであった。

(4)
[*10] 眼前に立ちふさがる可視/不可視の壁をメタフォリカルに物語るのが、解読性の演劇だとすれば、壁をアーケードと翻訳して「metonymical=換喩的に」通り抜けてしまうのが「翻訳性の演劇」である。
[*11] 俳優たちの思考を支配しているのは、始まりと終わりに開閉される劇場の幕=緞帳であるに留まらず、何をどう見るかという己れの「主体性の網膜」なのだ。ここにも演劇の外部を示唆するコロンが作動している。

(5)
[*12] ベンヤミン『陶酔論』における水没の徴候は「global warming」の世紀をますます覆うだろう。

(8)
[*13] 「鋳型=moule(ムル)」や「超薄=infra-mince」については北山研二訳『デュシャン全著作』。
[*14] ベンヤミンの「Nachreife=後熟」を、トキ満ちて円熟するとか老いて完成するとか、間違っても捉えてはなるまい。どんな芸術作品も「死後の生/解放的回帰」であるほかなく、未来の読者こそが作者なのであり、そうであるなら未来とは無限定過去だからである。どんなアクチュアルな演劇も、上演された途端に「Nachricht=消息/Nachruf=哀悼」と化して、誰か見知らぬ人に託される以外にない。

(9)
[*15] ここに列挙された名前たちは、二年も経たぬうちに前線から消え失せた。けれども、97年にサイバーパンク演劇の徴候が八戸にあったことは、ほかの誰かによって「その後熟」を担われるはずである。

(10)
[*16] 港千尋『記憶』参照。自室やアトリエの極端なミニチュアを細部まで徹底して複製する、ある匿名的な作家を記述するに際し、港はスウィフトの「小人国=リリパット」を援用して、こう名付けた。
[*17] 本稿(2)の詩篇とともに吉増剛造『「雪の島」あるいは「エミリーの幽霊」』(集英社刊)所収。
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