一/四

一/四(いちばあよん)
豊島重之

 (1)

 カフカ生誕百年に便乗したというわけでもあるまいが、六八/七一「アメリカ」(作/加藤直・演出/佐藤信・10月4日・於八戸長者山)と秘法4番館「かきに赤い花咲くいつかのあの家。」(作・演出/竹内銃一郎・11月5日・於下北沢スズナリ)を観て、それぞれのベースになったカフカの長編「アメリカ」その序章にあたる「火夫」そして「変身」等をザッと読み返してみた。十余年前の感触と全く異なるのは、もはや自分の中で不条理・寓意性・象徴化といった概念が失速し失効しつつあるため、というより法・罪・内面といった超越性あるいは虚構された中心で仕組まれる<囲い込み>に対してどういう構え=切り口が可能なのか、そこに現在的なアポリアを見出しているからに他ならない。というのはこの囲い込みというやつはどんな対立する構えも、それが強靭な構えであればあるほどまるでマクロファージ(貪食細胞)のように自らの内に摂り込み、いつのまにか十重二十重に絶えざる構造化=静態化を成し遂げてしまうからである。つまり不条理とか無意識とか身体=欲動のカオスあるいはオカルティズムといった反構造などは、その最も好餌とする所だと言わなければならない。
 ところで加藤直のほうは日系移民三世や中国系女性(スウ)の伝記を表だったベースにしており、カフカはどんどん後景化され、むしろ問題視さえされていないように見える。が、竹内の「かきに赤い———」との物語戦略上の共通項を洗ってみると、船内に居場所をもたない欠格者ジョージと虫になった兄という、いわば同一性の危機を発出している点は言うまでもなく、ヒゲ・ゾーキン・写真・妹(スウ)といったカフカの問題系に深く響応している事が解る。勿論、両人にとってもヒゲは単に父性を象徴しているのではなく、大文字の父性=中心を求めざるを得ない小文字の父性達=自己の二重体(双数性)に淵源する匿名的な複数性をさしている。「変身」における母の針仕事から二人のヒゲの雑巾刺しの夜なべを捻出した竹内にとってゾーキンが、自己と自己像との奇妙な隔たり=裂け目の自乗増殖(もう一対のヒゲ=写真師が偏執する二人三脚の掛け声も同工異曲だ)の謂とすれば、加藤のゾーキンはもろヒロヒト、むしろ象徴それ自体、つまり何かの象徴ではなく象徴化の思考そのものの終焉を示している。写真については後述するので明言は避けるが、この段では写真もまた、大文字の父=不在の中心として裂け目の自乗増殖つまり同一性(自己・家族・世界)の危機をひとまず救済=隠蔽する〝媒介〟なのだ。
 前述の<囲い込み>がこのような同一性の侵犯と再構築の原理に裏づけられているとすれば、妹=スウが脱家族のみならず脱同一性の力、即ち囲い込み=世界を解放する契機として配されているのに注目したい。この一手にこそアングラ・パラダイム以後という物言いが成立し、演劇の現在という構想が身体をもつにちがいない。もっともカフカの問題系を胚胎したからこそ、かつてアングラと不条理劇とミニマリズムが軌を一にしたのであって、前脈に差延と転倒を感じるのは当然の事である。別役実の原点、少なくともあの陰性のトートロジィ(同義反復)の出自がむしろベケットではなくカフカであるのは、「断食芸人」「最初の苦悩(空中ブランコ乗り)」他多くを材にしている事を差引いても恐らく間違いのない所だ。しかも初期のアリス物などは前述した中心析出機構ばかりか、その全体を相対化するアリス即ち妹=スウの亜型まで登場させている。にも拘らずアングラはともかく、脱同一性・脱物語・脱媒介としての不条理劇・ミニマリズムは充分な追求も展開もされず根づきもしなかったと言うべきであろう。

 (2)

 たとえばカフカの短篇「皇帝の使者」における三つのエソテリック(秘教的)な表象、第一に王のメッセージの内容はあるいは永久に告知されない、第二にこの王宮の仕組みは際限もなく続く、第三に使者は今も我々の許へ走り続けている。ここに〝意味とその母型〟のメタファや法・罪・内面のアレゴリーを見出すことはたやすい。バタイユならば最初の過剰・負債・贈与を見出し、そして過剰の消尽という物語の永遠を見出すだろう。おあつらえむきに王は太陽に擬せられ、使者の胸には太陽の符牒さえ飾られて、文字通り太陽エコノミーだ。勿論、アングラ・パラダイムの問題系もまたこの三項に露呈していると言っても過言ではあるまい。言語・身体・運動の不可能性=時間のメタファしかり、意味=ロゴスによる武装から意味の禁止・猶与・異化=喩・夢・アンチロゴスによる武装しかり、王宮=身体のカオス=迷路のメタファしかり、王宮という亀と使者アキレスとのパラドキシカルな鏡のメタファしかり。
 しかしこれで充分だろうか。もしこの三項が〝生〟のメタファだとして、では〝生〟は何のメタファなのだろうか。そこに夢とかカオスとか不条理を充てるのはトートロジィにすぎまい。それを言うなら私が「皇帝の使者」から抽出したこの三項こそがまさにトートロジィなのであって、どの一項でも解決されれば忽ち全体=世界が一望できるというのさえ転倒した言説であるにちがいない。しかも言語は身体と運動の物語に、身体は言語と運動の物語に、運動は言語と身体の物語にそれぞれ三重のダブルバインド(二重拘束)が自縄自縛的に織り成されている。この禁止と自由つまり可不可原則こそ全ゆる分割・双数化・トートロジィの謂であり、それゆえ同一性への収束は媒介的であらざるを得ない。
 つまりこの三項のどれもが媒介であることはできず、唯一それになりうるのは三項全てを併せもった存在である。これは一体誰なのか。
 言語・身体・運動を共時的に所有する存在、それは<人間>である。<人間>という法、<人間>という物語、<人間>という全体=世界、法と物語についての法と物語、その不可能性としての時間、罪、内面、貨幣、芸術、こういった解読、まなざし、もはやどう言っても構わない、<人間>や<世界>はこのようにして疎外され抽象され発見され、超越し君臨し虚構し、かつ全ゆるトートロジィをアイデンテティに歪形するのである。(拙稿「恐怖論」82・5参照)言い換えれば、意味に代わって不在=喩を媒介的中心として相互補完されるバードスペクティヴ(鳥瞰的)な場、それこそ徹頭徹尾、同一性の原理に支えられた世界の獲得=世界への帰属即ちあの<囲い込み>の復元=再活性化であり、そこにアングラ・パラダイムが結節するとすれば、それ以後の里程標は妹=スウなる第四項をここに点滴し、かつこの場を溶解させる事において他にあるまい。

 (3)

 ちょうど一年前に八戸でやった山崎哲二作一挙上演のパンフに<受苦>と<逆遠近法>をキーとして、あくまでその夏の東北演劇祭を射程とした状況論的な把握に限定されてはいるが、第一世代と第三世代とに挟撃されたアングラ第二世代の身悶えこそが私達の現在や劇の現在を照射するはずだと書いた以上、どうしても竹内統一郎がカフカ「変身」をどう誤読したのかが気になる所ではある。
 写真のマットと思しき矩形の枠がある。明きらかに兄の用意したピンナップ〝毛皮ずくめの貴婦人〟のいた場所だ。「城」で言うなら〝頭部をうなだれた門番(=罰を享けた父・罰の取り消しを息子に強要する父・息子を法へと囲い込む父)〟のいた場所だ。舞台が始まると、そこに貴婦人に替って「かきに赤い」のメロディをへたなヴァイオリンで奏で、〝急ぎ足で遠のく(=変身)〟兄を必死に呼び留める妹が占めている。へたな、という意味はもっとへたであるべきだったという意味だ。三人の下宿人を極度に苛だたせ、兄に妹との接合という絶望的な舞踏を強いるまでに。なぜなら、のちに喉頭結核で夭逝することになるカフカ自身を想起させる兄のヒーヒーという声、つまり全ゆる意味作用を脱色した<音>と交信できるのは妹のヴァイオリンのキーキーという全ゆる物語作用を脱臼させる<音>しかないのだから。ともあれこの序で観客は、これは虫になった兄とそのことで関係が変容する妹との脱家族的な、いわば法とその外との境界線上の物語だなと予兆する。
 結論から先に言えば、この予兆は見事に裏切られる。それは家族揃って写真に収まるラストで、と言ってよいし、また終始この写真の枠内で展開される兄と妹の生真面目で鈍重な相姦図、あるいはまた虫=兄に語らせる「変らないもの、それは変ろうとする意志だ」という生硬な科白、これだけでこの芝居が済んでしまいそうな、そういう生硬さからくると言ってよい。ドゥルーズ/ガタリ(以下D/G)「カフカ」まで持出しながら高取英は、あの森永チョコバー質の一本調子(妹)から一体何を読みとったと言うのだろう(「新劇」83・12)。確かに竹内にとっては妹は母の代行作用としてあるのではなく、また兄と妹との距たりは決して交織しない畸型的な断層に晒されている事も頷ける。しかし恐らくこれまでの竹内ならこの畸型的な断層にこそナンセンスでダイナミックな、パープリンでアナーキーな自爆力を奔騰させてきたのではなかったろうか。それが今作では本当にきれいに自縛され、クサイものにはフタとばかりに(役者、演出一様になぜかテレているとしか思えない)カフカ「変身」そのままに物語の自己完結を成し遂げてしまう。まるで何も始まらなかったと言わんばかりに。物語であることの、物語を閉じることの、閉じようとしてなお裂開してあることの身悶えはここにはない。
 とは言え、竹内は実に巧妙にカフカを引用している。兄=虫の思慕する写真と、官僚的な硬直さとホモ的な偏執癖をもつ三人の下宿人から二人の写真師を導き出す。欠落した〈一〉こそ写真という〈禁止された禁止〉であり、御丁寧にも三脚の一本が役立たずでさえある。しかもこの二人は「城」の〝昔からの助手〟やアリスのハンプティ・ダンプティのように「じぶん」と「てめえ」という名をもち、二人三脚の掛け声へのパラノイアックな戯れ(双数性から複数性をスッとばして無数性へ、再び「へっちゃら・へっちゃら」という双数性へ)の中で自己の二重体を慰撫し続ける。父の対も兄妹の対も複数性と不均衡を奪われている点では等質であり、ついにはこの三つの対は唯一の不均衡である写真を中心に吊りあげて予定調和的な世界の再封鎖という反動的な安定に赴くしかないのはもはや繰返すまでもあるまい。
 付言すれば、例の貴婦人が写真の外に這い出しフィアンセ=娼婦として虫=夫の部屋つまり写真の内部に出入りする。勿論その描写は回避されているが、不用意どころか竹内のパープリン質を露呈した箇所と言える。でなければ彼女は、虫に出くわして両手を腹の上においてしばしポカンとする〝骨張った大女〟つまり女中であるべきだった。急ぎ足で遠のくことが変身=脱エディプス三角形だとしても、このような女中=娼婦=妹(D/G)との接合ぬきでは虫は反構造として、いずれ再三角形化される運命にあるのだ。

 (4)

 加藤直「アメリカ」に登場する写真も、過剰の負性(スケープゴート)から大文字の父性(虚焦点の中心)へ、という点では何ら事情は変わらない。ただし加藤は竹内が終えた地点から始めている、この違いは大きい。竹内にあっては、千人針めいたゾーキン刺しや傷痍軍人めいた写真師の対や、とりわけ家族写真が、不可視の戦場と遠隔性を取り結んでいたが、加藤にあっては、米兵の写真だけを頼りにアメリカへと渡る「船上の花嫁たち」が、可視の戦場との近接性どころか文字通りの婚姻を明示して余りある。その意味では、船長は人身売買のブライダル・プロモーターであり、軍需産業のパシリであろう。であればこそ、カフカ「アメリカ」の主人公カール・ロスマンもまた「失踪者=ロスト・マン」である以上に「命運を担わされた男=ロース・マン」即ち甲板上の花嫁、波瀾万丈の花嫁に等しい。しかも花嫁=写真という可視性のシステムであり、宛先も定かならぬ「消印なき郵便」=脱可視性の離散でもあったとしたら。
 父の位置だけ空白となっている家族写真を演ずる四人と花嫁写真の四人に挟撃された(「お爺ちゃんが死んだ」と発した時、既に潜在的「火夫化願望」をもたされたジョージを含めた)四人の火夫の舫(モヤ)いは、まさに同時に日米へ(米から日へではなく)向かいつつ遡行するという重層的でパラドキシカルな船の運動にある。それはカフカで言えばホテルの各室の自動運動や城へのゴム尺のような径庭(こそが城なのだ)にも似た畸型的な停泊なのであって、そこに鏡や迷路つまり時間のメタファを求めてはならない。
 確かに、写真花嫁にとってのピンちゃんと写真上の不在を埋める事に偏執する写真上の不在それ自身である船長の二人は、写真に撮られたら死ぬ他ない負性としての媒介(つまりは鏡のメタファ)にすぎず、それゆえ迷路的(上へ降り、下へ昇る)にしか往き着けぬ汽罐室の火口という過剰の負性を戴く他はない。言い換えれば船=劇の動因であり、天皇制はじめ全ゆる制度、全ゆる囲い込みの起源でもある火口がジョージを燔犠として中心化され、日帝と米帝のむきだしの去勢恐怖的双数性が一時的解決をみる、即ち写真の表層に深層を見出すが如き世界=虚構の再発見もしくはその相対化といったアングラ・パラダイムを一歩も出ていないことになる。
 むしろ私が加藤の「アメリカ」に見出したいのは、船の動因を火口に求める遠近法ではなく(それは即ち船の運動を隠蔽するものだ)曳航それ自体を明視することであり、同じことだが花嫁写真のヒラヒラを同一性の収奪と考えずに、ピン留めからどんどん遁走するヒラヒラの運動と看做すことであり、なかんづくスウに照準をおくことに他ならない。

 (5)

 オドラデクは逃げ足の速い独身者である。
 家々を敏捷に横断し、家に滞留することはない。即ち独身者でありながら複数性がその身上である。のっけから倒錯者というわけだ。しかも古糸(フロイトでは断じてない)をひきずる一見だらしのないその身なりは、家族の苦笑や失笑を買わないではおかない。だが一旦走り出せばこの糸は、そして彼自身が磁力線となって、〈異–性〉と不義を働きながら、恥じた様子はかけらもない。とともに、しばしば階段・廊下・玄関の一隅に見出すことから、家と外との境界に棲み、無数の一つの入口や出口を好餌とするらしい。勿論彼が玄関を出ていくところやドアをノックするところを見た者は誰もいない。即ち一つの入口や一つの出口というものは彼にはない。多形倒錯者というわけだ。だからと言って、彼をエイリアン(異人)とか異文化としての子供とか周縁的な存在と呼んではならない。そこが一切の喩・罪・去勢と切れた独身者たる所以である。
 オドラデクと言うからには〝踊る木偶〟つまり唐繰り人形か何かを私達は連想しがちである。そう言えば、彼の沈黙は木でできているとカフカも言う。彼の哄笑は枯葉の躁めきだとも言う。勿論、喩、少なくとも隠喩ではなく、不可知不可触不可能な想像の所産でもない。ある日、星形の糸巻きだったし、またティンゲリーになりそこねた廃品機械の部品であった。つまり全体・用途・芸術からコケティッシュなまでに自由で、かつアブジェクティヴな(おぞましい)までに部分なのだ。
 オドラデクは快不快原則はおろか、一切の可不可原則に従属しない。彼がカフカ「家長の心配」に登場する理由だ。家に隣接しつつ家から最も遠隔している。言い換えれば法・罪・内面のドラマの外にあって、しかもむきだしの政治性に直面している。カフカ通によるとその命名の由来は「人に忠告して何かをやめさせる小さな人好きのするもの」であるらしい。半可通の私にすれば、カフカが想いを寄せていた妹オトーラ(のちにナチスの強制収容所で惨殺された三人の妹の一人)と恋人ドーラによる誘発、即ち妹三たす娼婦一の、一にして四、ソリストにしてディ・トリッパー、それが彼である。

 もはや多言を要すまい。
 加藤の描く中国系アメリカ女スウ、文字通り四は、このオドラデクである。その沈黙・哄笑・敏捷・横断、ジョージに忠告して囲い込み(世界への帰属)をやめさせる、小さな(非分割)人好きのする多淫多情な軽業師である。カフカがチェコ生まれのドイツ語をつかうユダヤ人であるように、アメリカ生まれの中国女スウもまた中国語で考え(意識)英語で書こうが(身体)そこにどんな異和も既になく(一切の同一性の廃棄)他の独身者との密通をヒラリとやってのける独身者だ。これが言い過ぎなら、出自の裂け目つまり米中=意識身体の異和それ自体の横断者だと言い換えてもよい。それゆえにこそ法の暴力の芯部と赤裸に肌を接し、一切の幻想・媒介を脱いだ高度の政治性と鼻付き合わせているのだ。逆に言えば、異和を自己変成力として肯定せずに、危機・抑圧・恐怖・分割等の否定的な言辞とみなす媒介的去勢こそが法の骨に肉を着せ、群盲触象の一喜一憂する毎日を我々に約束するのである。
 たぶん加藤にとってアメリカとは、国家でも米帝でもなく、まして1984でもハイパー・シミュレーション社会でもなく、まさにこのような複数のカフカ達やスウ達の横断的な接合体と捉えられている。とすれば、船=劇の終りに(即ち畸型的停泊が解放され、新たな運動が開かれる時に)発せられた「いやあれはアメリカだ」に対する粉川哲夫の「いやむしろ日帝だ」(日本読書新聞83年・9月)は、ぎりぎりのオプティミズムをもって「まさにアメリカだ」と突っ返されなければならない。でなければ在日朝鮮人・被差別部落民・心身障者はもとより、新日帝が捻出する新たな周縁・棄民たちからカフカ/スウへの契機を奪ってしまうことになろう。容赦なくソフトウェア化する囲い込みの中で、スケープゴートになるかオドラデクになるかはまさにぎりぎり紙一重の、それこそ多形倒錯的な軽業を必要とするからである。

 (6)

 再びあの三項に立ちかえろう。もはやエソテリックでも表象でも、即ち背後に何かが隠蔽されているわけでも、そこに法と物語の不可能性(という物語)さえ見出す必要もないのは明らかだ。一(独身者)であると同時に第四項(複数性の身体)であるスウが各項をコケティッシュに横断している現在、景観は一変している。それは万里の長城(カフカ)を中心で俯瞰するバードスペクティヴと、今まさに創られつつあるかのように部分から次の異質な部分へと匍匐(ホフク)するワームスペクティヴ(虫瞰)ほどの異貌だ。
 全ては現在している。刻一刻、生起している。身体と運動のダブルバインドに同一性を贈与する黙せる神託=ロゴスの隠蔽と看做された第一項は、王が使者に囁くその身振りとして(何を囁いたかではなく、でなければ「私はこのように囁く」と囁いたのであり、この耳打ちの身振りこそが王と使者なる双数性を創りだすのであって、その逆ではない)まさに身振りの独身として現前している。この伝で、三項それぞれ言語の運動・身体の運動・運動の運動といった脱物語=脱媒介の一と捉え返される事になる。ジョージにとって「お爺ちゃんは二度死ぬ」(フロイト)のだが、私に言わせれば「三項=船は二度生起する」(デリダ)即ち一度目はパラドキシカルな停止として、二度目はオドラディックな運動として。
 仮にアングラ・パラダイム以前と言う時、第一項における二(双数性)への疎外=分割として主体・他者・法・内面つまり劇が発見され、しかもその発見がいかなる疑問符にも晒されていないレベルを指している。一人芝居も無論同質ではあるが、二人芝居の可能性は、そうではなくて一と一とのワームスペクティヴな横断にある。あの身振りという言語を二へと押しだすのではなく、もうひとつの身振りとのオドラディックな運動における不断の自己変成にある。
 同様に第二項=身体の物語もまた、二からの疎外による第三点析出として身体・関係・法の法・世界つまり劇の場が発見され、しかもその場において劇自体が相対化されるレベルがアングラ・パラダイムに他ならない。ところがこれまで再三述べてきたように、主体/動因の劇や禁止/侵犯の劇がいくら疑問符を雨と浴びようが、この三点でできあがる劇の場・劇の身体は一向に問われず、また問われたとしても、ちょうど三角形の任意の一点を固定さえすれば無限に多様な姿をとりうるように一向に動ぜず、まかりまちがえば場どころか劇とともに現在をも失いかねない。そこにアングラ・パラダイム以後のアポリアが潜んでいるわけだ。

 (7)

 この第二項が身体の運動でありうるのは、第三項における運動の運動との、即ち一と一とのホモ的な横断の限りにおいてである。アングラ以後の現実的なパラダイムに引寄せて言い換えれば、三人芝居の可能性は四人芝居にある。勿論、役者の頭数とは原理的に無関係だ。竹内「かきに赤い」では、父の対・写真師の対・兄と恋人・妹という四の設定が舞台上では兄妹の対・恋人という四に曖昧化されるが、加藤「アメリカ」の場合は、船長と家長風月・ピンと四枚の写真・ジョージと火夫・スウという実に精緻な四人芝居を呈している。即ち、均質で安定した三角形の破れ目としての第四項、この四人目が三人で補完しあう場を不均衡不安定きわまりないものにする。
 さらに言えば第四項=場の開口部を支点に、場=囲い込みを逆<クラインの壷>状に裏返す。つまり四人目は三人の世界からミュージカルに遁走するのみならず、この四人目において三人の世界をトポロジカルに遁走させるのである。一旦、場が恣意化されれば三人各様に一であり得、四人のうち誰もが第四項になり得、そして場はオドラディックな生成と化す。さしあたり私にはここにしか劇と現在の体現はないように思われる。

 (8)

 この稿を書きあげた直後、「海」(84・2)のデリダ「カフカ論」を手にした。基本的に付け加えることは殆どない。ただ四についてほぼ同様の立論を既に彼がしているのを知って、ほんの少し肩から力が抜けたような気がする。というのは、東北の一隅で71年に芝居らしきものを始めて以来、七ひく一とか四ひく一とか一ひく〇とかに拘泥してきた私にとって、今回の「アングラ・パラダイム以後」考という西堂氏の要請と加藤氏の劇中人物スウをひきがねに、どっか力ずくで四をねじあげた感があったからだ。もっとも、既に一般化された二と三はともかく、一は明らかにD/Gに想を得ているわけで、四にしても同時代感覚が縫いこまれた行論上のことだ。私にとって急務は四としての役者の錬成にあるのは言うまでもない。そのためにはデリダの用心深さに対して用心深くある事も必要ではあろう。

(初出:1984年3月刊「共創空間」16号「〈ポスト・アングラ〉を思考する」より/筆者による校正を経て転載)
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