演劇のアポトージス 第四章《ハエを呑み込む口が、ハエの口に呑み込まれるにはどうすればいい》

演劇のアポトージス 第四章
《ハエを呑み込む口が、ハエの口に呑み込まれるにはどうすればいい》

豊島重之(モレキュラー演出家)

故郷山形寒河江の桑園で、樹上から糸をひいて墜ちる死蚕の群れを見仰ぎつつ(「桑の木から微かに音をひきながら無数に死んだ蚕が降っている」————『毒虫飼育』)、同時代の遊撃手として、廃都の朽ちた一画で青菜を刻みつづけた詩人黒田喜夫=KKは、ある詩行にこう書き/欠きつける。
 ————十月は生まれて死につつある
   おれは死から生まれつつある(------)
 ————朝の終りの路ばたで売られる黄色い麺をひとりで食っている
   ねぎのスープに浮かぶ一匹の十月の蠅を呑みこんでいる
   このときおれは闘いにみちる(------)

札幌の写真家露口啓二の北海道写真300点による八戸市美での大規模展示を終えて、はや二ヶ月。その300点を一挙集成した『ICANOF図録2009=露口啓二写真集』もほぼ全国各地に発送を済ませて、ようやく一息ついたある日、露口さんからお便りがあった。『BBB展』アーティストトークで同席した身体表現論の及川廣信さんとの間で交わされたその交信には、市美でのトークでも話題にのぼった「写真家の身体性」から「写真それ自体の身体性」へと瞠目すべき展開がなされていて、それはモレキュラー『マウスト』御茶ノ水公演を目前に控えた私にとってもきわめて重要なエレメントにほかならず、おふたりの交信にほんの一滴の片信を紛れ込ませたいと思ったのである。

ことの発端は、市美での写真展示を観た及川さんが「驚くべきことに露口さんの写真は〈動いている〉」と帰京後、露口さんに発信、それに少なからず驚いた露口さんが率直な疑問とともに呼応したことに始まる。写真が〈動いている〉とはどういうことなのか、被写体がブレているということなのか、あるいは写真を見ること自体がブレているということなのか、そもそもどんな写真も動いているのか、それとも自分の写真にだけいえることなのか、と。
それに対する及川さんの応答はさらに驚くべきものであった。「改めてICANOF刊行の露口写真集を見返してみたが、やはりどのページの写真も〈動いている〉」と。おそらく撮影者としての露口さん固有の身体性から必然的にもたらされた結実ではないだろうかと。そして露口さんならではの撮影所作と不可分な〈時間性としての身体〉を想定せざるをえないと。

そこで露口さんは及川さんに、自らの撮影所作に関して真情あふるる返信をしたためる。
 ————「地名」は、4×5サイズの大判カメラを三脚付きで使用しています。したがってこれは人差し指と中指で支えたレリーズを親指で押すという動作になります。カメラは常に水平で、見下ろしたり見上げたりということはまったくありません。「オホーツク/シモキタ」も同様です。
 「ミズノチズ」は中判カメラを使用しており、すべて手持ち、普通に親指人差し指及び手のひらでカメラを支え、人差し指でシャッターを切ります。アングルは普通に立った状態が多く、たまに覗き込む姿勢にもなります。ひたすら歩行しながら眺め覗くという感じでしょうか。つまり、ごく普通の写真撮影のスタイルです。
 「ON- 沙流川」は、4×5サイズの大判カメラを使用していますが、三脚は使用しません。沢の中に分け入ってしゃがみ込み、膝や腹でカメラを抱え込むように支えあるいは地面に置いて、レリーズでシャッターを押します。このときファインダーは、簡単にピントをあわせた後は閉じられたままで、目での確認はしません。ついつい視覚が優先してしまいますが、できるかぎり耳や皮膚や、身体全体で対象を捉えることができればと思ってやっております。

ほかならぬ及川さんのことである。この露口さんの返信に「我が意をえたり」と思われたにちがいない。もはや「写真家の身体性」から「写真それ自体の身体性」へと問題の核心が転轍されていることが、次のような及川さんの往信から窺いしれるのではないだろうか。
 ————今朝も露口さんの写真集を拝見しましたが、やはりどのページの写真もみな動いていますね。驚くべきことです。露口さんのおっしゃるように普通の目で見ると動いてないのでしょう。でも写真の側から自分の耳や皮膚と身体から内観すると、確実に露口さんの写真の対象は動いて見えるのです。撮る側と、撮られた写真を見る側とは丁度、逆になっているようです。これも驚きです。私がそのように見れるようになったのには、それなりの方法と訓練が要りました。からだの内部の細密な関係です。それと同じように露口さんは撮影者として対象の奥に潜むものをさぐるため、相当の訓練をなさってきたのだろうとお察しします。

ここで私たちもまた虚を衝(つ)かれないわけにはいかない。なぜなら人は写真を見るとき、写真とそれを見る者との一対一対応、いわば鏡像的な関係に囚われてしまいがちだからである。いうまでもなく、すべての鏡はなにがしか歪んでおり、完璧な鏡面などこの世に存在しない。(にもかかわらず私自身は「絶対鏡面としての写真」をユメみているのだが。)そして肝腎なのは、歪んでいるとは〈動いている〉ことにほかならず、いいかえれば写真には、その写真を撮った行為が孕まれていることを意味する。
このことを及川さんは、写真を介して撮る側と見る側が正対するトポロジカルな「鏡像異性体」とみなしている。そればかりか、露口さんが両の掌(てのひら=カイラル・キラル)でカメラを支える上下・前後・左右方向からの絶妙な複合所作に注目している。喪や祈願の挙措にも似た合掌の「非対称の接面」を、分子生物学的には三次元的な「対掌(たいしょう)性=カイラリティ・キラリティ」というが、その接面の間隙にあったカメラという器物が、あたかも写真という紙片となってフッと揮発したかのようなのだ。
かつて及川さんにお聞きした忘れられない一節を露口さんにもお伝えしたい。なに、よく知られた禅問答の公案のひとつ・ふたつ。拍手、つまり非対称の合掌面から発せられる音=ONは、右掌から、それとも左掌から、そのどちらから発せられたオンなのか。そのうえ露口さんの写真的視覚を「聴覚映像」へと、いいかえればベンヤミンの語る「群衆的身体のイメージ空間」へと転ずるモレキュラーな「揮発性=ヴォラティリティの事態」だとすれば、「隻手(せきしゅ)の声」とは何か。こんどの『マウスト』公演の起動面もまたそこにある。

「外から内へいっぴきの/奇怪な鳥となって抜けだす」と黒田喜夫=KKは書く。それを「獣の棲み家であるような不思議な穴」だと、同時代の詩と思想に拮抗する「反詩的な抜け道」だと、吉増剛造は語る。その両者を踏まえて鵜飼哲『黒田喜夫の動物誌』(『応答する力』所収)は、もっと遠くまで射程を展開する。と私はいう。
だとすると、言表(=被発話態)の主体はどれで、言表行為(=発話行為)の主体はどれなのか。少なくとも文脈上、三者のあとに追記された「私」は発話(=私はいう)の主体(=主語)ではあっても、なおその外部に想定される、むろん必ずしも外部とは限らず、当の被発話態の伏在層に織り込まれた、発話行為の主体たりえない。谷川雁「東京へいくな/ふるさとを創れ」やサルトル「飢えた子らに詩・文学は無力か」に対して、酷薄なまでに明晰な異論たる〈飢餓の思想〉を紡ぐ黒田はもとより、吉増・鵜飼にも担われた〈闘争のエチカ〉ともいうべき歴史意識の刻苦こそが、発話行為の主体たりうるだろう。それが「このときおれは闘いにみちる」に翻転しているのは多言を要すまい。

このことに注意を促したのは「すべてのクレタ島人は嘘つきだと、あるクレタ島人がいった」というエピメニデスのパラドクスを持ち出したフーコー『外の思考』であった。フーコー以前にバンヴェニストもいたし、語り口はちがえど先頃逝ったレヴィ=ストロースもいたはずだが、この私にはフーコーが先にやってきた。「すべてのクレタ島人は嘘つきだ」という発話が成り立つためには、それを発話しうるのはクレタ島人以外でなくてはならない。仮に「と、あるクレタ島人がいった」という言表が真なら、その前段「すべてのクレタ島人は嘘つきだ」は偽りの言表となってしまい、この「すべてのクレタ島人は嘘つきだと、あるクレタ島人がいった」という全文が、真偽を問えないどころか、いわば決定不能の事態に陥ってしまう。それは、この発話=言表が無意味かつ無益なレトリックとして廃棄されていい、ということを意味しない。むしろ私たちが「決定不能の裂け目=cleft」にたえず危急的に直面こそすれ、けっしてその危急を回避してはならないと告知しているのである。

及川さんの身体観に引き返そう。それは徹頭徹尾、内観としての身体であり、ドゥルーズのベーコン論を念頭におけば「フォルムならぬフィギュール」としての身体であり、あるいは『シネマ・1・2』でいえば「運動イメージならぬ時間イメージ」としての身体である。
 ————背面の仙骨の8つの窪みに易経の八卦の仕組みが籠められていて、それがひとつは背骨を遡って掌と指に通じているのです。易者が筮竹を掌と指で回してその人のその時の時間的な運勢を判断するのと同じことです。もうひとつの道は背骨ではなく体の中心を通って目の奥の「視床」にまで達している。そしてここは外側から内側を見る〈内観〉の場所だと思っています。その時には外部を見る必要はなくなっています。(----)
しかしこれらは足の裏に左右されます。右の足の裏の中心部は肝臓と結びついて周囲の霊気を取り込む作用をし、エネルギーを人間化し“魂”を形成します。左の足の裏の中心部は心臓と結びついてそれが肝臓から霊気が廻ってくれば、こころが精神となり、右足から左足へと踏み込みが伝達された場合は対象の奥の真実を探る心理状態になります。

「外から内へ抜けだす、いっぴきの奇怪な鳥」であることを失念しないなら、ことさら易経や魂や霊気や深層心理に過剰反応する必要はない。また、視床下部=sub-thalamusの海馬=hippo-campus・扁桃体=almond/amygdalaに脳科学的な定説はあれ、前頭葉に直結する視床・松果体はいまだ解明されていないのは及川さんも先刻承知である。子規や黒田のように「みることのベッド」であるほかない横臥の身体。かつてモレキュラーはそれを試みたことがあるが、むしろ『マウスト』では「きくことのベッド=聴床」に足のウラをめり込ませる、8の字状=クラインポット状に沈み込ませる。「復唱する口」との接面に落下する身体、直下型の「口状の身体」となって。及川さんによれば、その足ウラの運動イメージは仙骨を貫いて掌と6本指、なかんづく鼻翼の時間イメージに変換される。
 ————もうひとつ、五本の指ですが、そこには6つの経絡の先端があり、外へ向かうものが3本(親指、中指、小指の内側)、内へ向かうものが3本(人指し指、薬指、小指の外側)です。足の6つの経絡も手とは違いますが同様です。目と鼻翼と、耳と肩と背中とは密接な関係があります。目から耳へ、という露口さんの写真行為に目の覚める思いがしました。

私たちもまた、そろそろ目が覚めてもいいころではないか。手も足も指は5本ではなく、6本あるのだということに。小指の内側が背面を通して足ウラの内縁から耳翼/聴くことへと旋回し、小指の外側が丹田を通して足ウラの外縁から鼻翼/観ることへと捻転する。カメラのボディを撮影寸前の状態におくとき、小指をどう作動し、足ウラのどこに自重がかかっているか。そのことは意識としては問われる必要はない。なにせシャッターを切る挙措が待たれているのだから。しかし鼻翼は、そして耳翼はどうだろう。及川さんの問いは「写真の鼻翼とはなにか」という新たな問いを生起させはしまいか。
あらためて「外から内へ」。
「外の外」は「内の内」にほかならない、そう思ったのは19世紀モダニスト=コロニアリストのみならず、20世紀後半のポストモダニストでもあった。ことの是非はともかく、そういう問題意識が、少なくともモレキュラー『マウスト』公演を触発した、矢野静明論稿にはあったにちがいない。

2009.11.21 当日配布リーフレット所収
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