自己紹介

オランダの親友の歴史と彼らと日本人の対話を分かち合い、私達の明日の平和を求めて

    改訂 2012年3月30日

星野文則と申します。日本人の建築家で,1988年にオランダに移住しました。

2001年に元蘭領東インドのバックグラウンドを持つオランダ人たちの存在を知ってから、コンタクトを保っています。彼らの多くは、戦争中日本がインドネシアを占領した時期に、市民抑留所や捕虜収容所で悲しい体験をしました。彼らの個人的な話に耳を傾け、私にできる限り彼らの痛みを分かち合う以外には、何をしていいのか何が私にできるのか長い間わかりませんでした。2011年にようやくその答えの一つを見つけ、彼らの話をしながら明日を考えることを狙いとする、このミッションを親友から引き継ぎました。



世界の平和の観点から見ると,日本という国はどんな立場にいると、日本の人々は,そして世界の人々は考えているのでしょうか?

多くの日本の方は,日本は少なくとも他の国にそれほど迷惑をかけるようなことはしていないと考えているのではないでしょうか? 何しろ日本は憲法で他の国を攻めることは禁止されていて,そのための軍隊もないはず。むしろ脅かされているのは日本の方で、北朝鮮へは日本人が何人も拉致され,中国からは尖閣諸島を,韓国からは竹島を脅かされている。そんな不穏な日本の保安を守るために,沖縄本島等に大きな米軍基地がいくつも必要であると公言する政治家も多い。戦争被害といえば,広島長崎では世界で唯一原爆を実戦で使用され,東京その他の都市も大空襲を受け、被害を受けたのはむしろ日本の方であると。戦後世界では,ベトナムや中東やアフリカで紛争があったが,日本はイラクに支援に行った以外は関わっていない。第2次大戦には関わったが,何しろもう70年近くも前のことで,日本のことを恨む人などいないだろうと。

戦後の日本で普通に教育を受けた後,25年前にオランダに移住した僕の意識もその程度でした。でも,オランダには今でも日本を恨んでいる人々がいました。しばらく前の話ですが,昭和天皇がオランダを訪れたとき生卵を投げつけた人々がいました。日本のある首相がオランダに訪れた際に,インドネシアでの戦没者慰霊碑に捧げた花束は、その晩近くの運河に投げ捨てられていました。今でも毎月戦争中の損害賠償を求めて,日本大使館の前で抗議を続けるグループがいるのです。

さて、私達はあの戦争のことはちゃんと知っているのでしょうか? 試してみましょう。あの戦争で日本人が何人命を落としたかご存知ですか?  (僕自身長い間知らずに生きてきました。)

何と3百万人を超えています。二つの原爆で約40万人,各地の都市の空襲で約30万人命を落としましたが,その他に兵士として200万人以上亡くなっている。じゃあ日本近隣のアジアの国はどうでしょう? 戦死者数は,韓国23万人、中国500万人,フィリピン16万人,元蘭領東インド70万人,マレーシア400万人,ビルマ16万人,… 参考資料

これらの国々の敵は日本だったのです。そして攻めて行ったのも日本だったのです。その結果1942年の日本の占領下にあった東アジアの領域はこの地図のようでした。

 

そして終戦後,これらの地域から引き上げてきた日本人の合計は,何と300万人もいたそうです。これだけ広大な地域を日本が武力で制圧し占領して,どんなことが起こっていたのか、ご存知ですか? これらを知ったら,私達にどんな意味があるのでしょうか?



日本が1942年に侵攻した元蘭領東インドに、WimとAdrieは暮らしていて,当時それぞれ6才と26才でした。彼らは約9万人に及ぶオランダ人市民とともに,百以上もあった日本軍の抑留所(ヤップキャンプと呼ばれている)の送られました。食料や医療物資も乏しい生活の中で,Wimの母親は日に日に病んでいきましたが,4人兄弟の長男の彼は母にどんな言葉をかけたでしょう? 自分の時間が残り少なくなっていたことを自覚した母親は,彼にどんな言葉を返したのでしょう? あの時Wimの父親はどこにいたのでしょう? 近くにいた友人のAdrieはどうしたのでしょう? 

1945年8月15日に日本が降伏し、二人とも3年余り続いた悪夢のような抑留生活からは解放されましたが,それで悲劇は終わり、元の生活に戻れたのでしょうか? もう戦争が終わって約70年になりますが,もう問題は済んでいるのでしょうか? 

彼らは日本人との対話を始めました。1995年から2005年までの間に6回日本を訪れ,福岡県の水巻から岩手県の釜石まで廻り地元の人々と特別な忘れられない友情を育てました。 
オランダでも、ここに住む日本人と交流を始め友人となった人々や、やはり抑留経験を持つオランダ人とともに,2000年に日蘭対話の会を始めました。もう11年続き15回も開かれたこの日蘭イ対話の会で、
ヴィムとアドリの個人的なミッションは何度も紹介されましたが,ヴィムは健康を崩し,アドリの今年初めに他界し,彼らのミッションは中座したままになっていました。

photo; Wim's reunion

アドリが2011年2月に亡くなる間際の最後の会話で,私は親友としてこの彼らのミッションを引き継ぐことを提案し、了解を得ました。彼らのメッセージを伝え続ける語り部になろうと考えたのです。対話を通じて、文化や国や歴史の境を越える架け橋を造ってきた彼らの営みを引き継ぐということです。過去を忘れずに,かといってその苦渋に捕われるのではなく 建設的に将来への道を考えるようにしようという彼らもメッセージを伝え続けるのです。国や文化や時代に制限されずに、自立した一人の人間として,人間同士である世界の他の人々と対等につき合い 敬っていこうという勧めです。

具体的には,オランダにいる日本人を相手に,一時帰国した際に日本のいろいろなところで 講演をしたり対話をしたりしています。2012年4月に一時帰国し、ヴィムとアドリの足跡をたどって福島県水巻から岩手県釜石まで訪れました。


この対話の中では,被害者の恨みも,加害者側への罪の追求も,意図的に除外します。それは,負の歴史に向き合う難しさを克服するための知恵です。

『闇は、闇で追い払うことはできない。 光だけがそれを可能にする。 憎しみは憎しみで追い払うことはできない。 愛だけが、それを可能にする。』 キング牧師

負の歴史というだからこそ,ポジティブにで取り扱わないと、どの人にとっても追い払うことはできません。

  • 現代の日本人にとって,先人を罪を聞くことはもちろん認めることすら、とても困難で勇気のいることです。ついつい耳を傾けず避けて通ってしまうのは人間としてありがちなことです。そこに,恨みや罪の追求をぶつけても,さらに殻を閉じさせるだけで前には進みません。その閉ざされた扉を開けないと,対話は始まらないのです。扉を開ける鍵として,人間の素晴らしさの話をします。
  • 被害者にとっては,ひどい経験を思い出したくないのは無理もありません。でも過去と折り合いを付けることは重要で、そうでないといつ何がきっかけでトラウマが始まるか分かりません。そのために話をすることは重要で,それもポジティブに話すことです。恨みつらみをこぼしたい気持ちは当然ですが,それでは恨みの砂地獄の深みにはまってしまいます。前向きな対話のすることが,過去の苦渋や憎しみと折り合いを付ける助けになることがあるのです。
  • 他にもどんな理由であれ今現在苦労をしている方々には,「たとえ人生の最も暗い時でも,自由に生き希望や信念は失わないと彼らも決意できるのだ」という僕の友人のメッセージをお伝えできないかと思います。彼らもかつてそんなところにいたのですから。
  • 第3者にとっても、戦争の不幸の話は敢えて聞きたくはない話題です。でも,避けているうちに忘れられてしまっては,被害者の悲しみは報われないし,他の人がまた同じ過ちを犯す危険が増えるだけなのです。


なぜ70年もたった今になって、わざわざこんなことを始める/続けるのかについては、こちらをご覧ください。


最後に重要なお願いは,この対話は私一人ではできません。僕が親友達の話を聞き,対話をする相手が必要です。そレヲスるためのワークショップに興味や関心があったり,さらに開いてもいいと思う方がいらしたら,(学校でもどんなグループ組織でも構いません)ほかにもこのミッションのためになる助けでもアドバイスがあったり,質問やコメントでもある方がいらっしゃれば,ぜひご一報ください。そうすることで,あなたもこの前向きの対話の輪を広げる貢献をすることができるのです。


出発点となったWimとAdrieと筆者Fumiの友情を記念して、mission WAFと呼ぼうと思います。


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