01: オランダの老女の孤独死の原因は旧日本軍だった…:ヘティ・ナーイケンス Hetty Naaijkens

Van de originele toespraak van Hetty Naaijkens in het Nederlands ben ik zo onder de indruk dat ik die naar het Japans heb vertaald zoals beneden na haar toestemming. Deze vertaling werd binnen twee week meer dan 500 keer gelezen.

2014年8月31日
8月15日にロッテルダムで催された旧蘭領東インド(現インドネシア)での第2次世界大戦の追悼式で聞いた、ヘティ・ナーイケンス女史のスピーチを翻訳して紹介します。

彼女は「Buitenkampers/キャンプの外の人々」というドキュメンタリー映画の監督として有名です。(オランダ語ですがここで見ることができます)1942年に日本軍がインンドネシアを占領すると直ぐに、現地にいたオランダ人やその他のヨーロッパ人/白人は日本軍抑留所/キャンプに送りました。彼らとインドネシア人との混血の人々は肌の色が濃く別の扱いを受け、2代前にインドネシア人の祖先がいると証明できれば、キャンプ行きを免れることができ、彼らは「キャンプの外の人々」と呼ばれています。日本軍抑留所での悲劇は免れたものの、彼らが戦争中そして特に戦後直後に遭遇した体験は、少なくとも抑留生活と同じように悲惨だったことはこのスピーチからもうかがえます。彼らも抑留体験者も戦後オランダに移住しましたが、そんな彼らの体験を知る機会はこのドキュメンタリーまでありませんでした。私も2度見て貴重な勉強をすると同時に感銘を受け、感想をブログに書いたことがあります。

蘭印出身の市民や勲章をつけたベテランや彼らの家族の集まった8月15日の
記念式典に私も参加し、このスピーチに聴きいり衝撃を受けました。日本人も知らなければいけない歴史の一節だと考え その日の晩に女史にメールし、日本語に訳してこのブログに載せる許可を受けました。
星野文則


記念式典にご参加の皆さん、


8月15日の蘭印記念式典でスピーチをしないかと依頼を受けた時、私は長く考える必要はありませんでした。子供の頃から、旧蘭領東インドの話を聞き写真を見ながら私は育てられました。私の父は日本軍の襲撃の直後に捕虜となり、3年半捕虜収容所で過ごしました。戦後、自ら書いた物語をいくつも書き 自分の子供たちに朗読し、そんな話の一つ「やりたくはなかった告白の聞き役」で父は次のように語りました。ある日の深夜 父は他の捕虜に起こされ、今にも枯れそうな声で告白の聞き役になってくれないかと彼に頼まれました。父には、この深い病いを患い弱った彼の告白を聞いてやることしか できることはありませんでした。彼は、人生の終わりにもう一度 彼の心にある思いを自由に話し、話し終えたと息を引き取りました。父は彼のまぶたを閉じました。

この話が、まだ子供だった私に強い印象を残したことは、皆さんにもお分かになるでしょう。父の書いた物語には、他にもエキサイティングな少年向けの物語を彷彿させるものもありました。私達がドリーおじさんと呼ぶ 父のいとこのイドール・コックと一緒に、父は戦争の頃のエキサイティングな話をすることができました。二人がいったん話を始めると止まりませんでした。訪問で二人が一緒になると、彼らが何時間もぶっ続けに話し合うのを私は聞きました。ドリーおじさんはいわゆる「キャンプの外の人々」の一人でした。ヨーロッパ人の先祖の他にインドネシア人の先祖もいると示すことができたので、日本軍抑留所に送られず、つまりキャンプの外で過ごしたのです。

ドリーおじさんは、兄弟のラウールと一緒にいろいろなレジスタンス(対日本軍)の活動をしました。彼の母であるクレオフィール・コック貴婦人(旧姓ファン・シュイレンブルク)と彼女の姉妹達もキャンプの外で過ごしましたが、彼女達の状況は悪化しました。息子達のレジスタンス活動を理由に、クレオフィールは生き埋めにされ、彼女の娘達は日本人達に強姦された上で、私の叔父達の目の前で首を刎ねられました。残虐な事件については、もっと後になって私が大人になってから聞きました。

このドリーおじさんはポピー・ラプレおばさんと結婚しました。ポピーのおばさんの一人がコリー・ルクトマンです。彼女はテオ・デゥ・ブラウンと結婚し、ベッツィー、フランス、ディンチェの3人の子供が産まれました。

このデゥ・ブラウンとルクトマンの一家は、旧蘭領東インドを訪れ、ポピーおばさんとドリーおじさんの家によく泊まりにきました。戦争が勃発して彼らも「キャンプの外の人々」になりました。彼らの長女ベッツィーは、16歳の時に日本兵に強姦され身ごもり、女の子をを産みました、

親戚が集まった時に 私のいとこの娘にあたるウィリーからこの話を聞いたのですが、ベッツィーは自分が産んだこの娘を受け入れようとはしなかったそうです。この娘は、いわゆるJINの子供です。JINとは、蘭印出身で日本人の血の入った人々のグループの頭文字です。

私のいとこのウィリーは、親戚のお葬式がある毎にベッツィーと そして明らかに日本人の面影がある彼女の娘さんを見かけたそうです。戦争中に彼女達の身の上に何かがあったということを親戚の中で知らないものはなく、彼らの間でベッツィーは難しい人と思われていました。 

ロッテルダム市のヤン・ポーセリス通りで 死亡して10年になる女性の遺体が彼女の自宅で見つかったという奇妙なニュースが昨年10月にオランダのテレビで放映された時、私のいとこのウィリーはすぐに彼女の叔母にあたるベッツィーのことだと分かりました。ウィリーと彼女の兄弟のショックは並大抵ではありませんでした。彼らも もう何年もベッツィーと連絡がなかったのです。亡くなった女性の本名はなんて言うの? ベッツィー・ブラウン、人々にはベッピー・ブラウンと知られていました。

ベッツィーは、家族にも社会にも彼女の悲劇の話については沈黙を通してきました。自分の戦争体験のトラウマを、自らの娘にも打ち明けることができなかったのです。娘は、産まれた時から一生母親から拒否されてきたと感じていました。母親は自分の悲しみを娘と分かち合うものですが、彼女は自分の番が来ても 自分の娘とそれができなかったのです。彼女が暮らしていたロッテルダムの社会には、この悲しみ、恥ずかしさ、大きなトラウマの居場所はありませんでした。ベッツィーは一人にこもって最後の人生の年月を過ごし、彼女の死に気づく人はいませんでした。2013年11月21日に発見されるまでは。

この話をいとこから聞いた時 私がいかに大きな不意打ちを受けたかは皆さんにも想像がつくでしょう。当初は見ず知らずだと思った亡くなった女性が、実は私の親戚だったのです。ペリタ財団のペーター・バウマンからインドネシア帰りの混血の人々についての話は聞いていたので、この女性も(複雑な過去を背負った)そんな一人だろうとはすぐに想像していました。ペーター・バウマンは、映画「Buitenkampers/キャンプの外の人々」で協力してくれました。彼のおかげでエリー・ロスカムに連絡がつき、彼女をインタビューすることができたのです。多分あなたも、ドキュメンタリーの中の彼女を思い出されるでしょう。

エリーはカメラの前で、8歳の時に日本人に強姦され暴行されたと話しました。彼女がこの話を他の人にするようになるまでには、とても長い時間がかかりましたが、とうとう彼女はその話をカメラの前でしたのです。ドキュメンタリー「Buitenkampers/キャンプの外の人々」の中には、他にも初めて話された話がいくつもあります。それでもこれらの話は、しばしば沈黙に包まれた日本による占領およびその直後のベルシアップ期に現実に起こったことのごく一部でしかないのです。

このドキュメンタリーの反響がとてもポジティブで、この深い沈黙を解くことに実証できる貢献ができたことを、私はとても嬉しく思います。最近「The colour of survival」という英語のタイトルでこのドキュメンタリーをアメリカで公開しました。アメリカには、インドネシアからオランダ経由でアメリカに移住した人も多く、もう4世代にわたる彼らに見せたのです。上映の終わった映画館で泣いている女性に出会いました。彼女はすすり泣きながら、この映画を見て一つの決断をする勇気を見つけたとを話してくれました。とても長い時間が経って初めてのことですが、このDVDを手に彼女の母を探し、彼女と許してあげる決心をしたと。

彼女の母親が彼女にしたことを許そうというのです。彼女の母親は、彼女のことをいつも嫌なやり方で扱い、彼女に対してはいつも意地悪く、彼女をとても冷淡で厳しく育てたと私に話してくれました。映画を見て急にあの頃母親の身の上に何が起こっていたのか理解したと彼女は言うのです。彼女が全く知らなかった歴史がこの映画で明らかになり、彼女の母親がどんな体験をくぐってきたのか理解したのです。確かに彼女の母は、彼女に戦争のことは一切話しませんでした。それが彼女にとってはパズルでしたが、その最後の一片がやっと収まるところに収まったのです。この決断をした後の彼女ほど、人間がほっとした姿を私はまず見たことがありません。 

つまりこういうことです。沈黙するよりも話をする方がいいのです。話をして表現することによって、事件を相対化し ふさわしい場所に置くことができるのです。沈黙すると、あなたは正反対のところにたどり着くのです。3世代にわたるインドネシア出身の混血社会から感謝の反響を見ると、ドキュメンタリーという媒体を利用して 悪名高い「蘭印の沈黙」をとうとう打ち破る道を私は歩んでいるようです。それゆえに、この歴史観からこれから将来もドキュメンタリーを作り続けることを望んでいます。

皆さんにとっても、価値があり意味深い記念式典になりますように。



ヘティ・ナーイケンス  レテル・ヘルムリッヒ(彼女の兄弟でやはり映画作家) 

Hetty Naaijkens - Retel Helmrich



2016年8月17日 加筆
ここのテーマは、戦争中の日本兵による性的暴行と、その70年後の顛末です。

右の写真は、アジア中に最盛期には400もあった慰安所のうち中国にあった一つで 私たちの先祖である日本兵たちが列を作って順番を待っている光景です。

シンプルな質問から始めます。あなたが男性で、もしあなたも当時徴兵され 日本人女性はまずいないアジアのどこかの戦場に送られたとしたら、この列に並んだり地元の女性に手をだしたと思いますか? あなたが女性で、もしあなたの兄弟/父親/息子/男友達も出征したとしたら どうしたと思いますか? 

父は生前はあまり戦争について語りませんでしたが、7年前に亡くなってから彼が書いた資料を見つけ驚きました。22歳で終戦を迎えた父は健康上の理由で徴兵されませんでしたが、それでも国のために命を捨てる覚悟をし またそれを潔い生き方と考えていたのです。尊敬する父さえそう考えるようになった当時の教育と社会を私も通っていたら、同じようにしたという以外には考えられません。そう考えると、もしまだ二十歳前後の若さで兵士として出征したならば この列に並ばないという自信は持てなくなりました。

それまでの私は、あの戦争の歴史やその解釈については 当時の軍部や指導者から現在の政府/政治家/ナショナリストたちまで いつも誰かの批判ばかりしていましたが、自分だけ棚にあげる理不尽に気がつき抜本的な姿勢の修正をすることになりました

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