3話:土地区画整理事業は今も有効か

第3話
土地区画整理事業は
いまも有効なまちづくり手法か

はじめてから半世紀近く経つ都市計画事業
広大な事業区域を次第に他の事業区域に切り売り
いまや最後の道路づくりのみがのこった

1.ワンマン道路

 横浜の南西部の戸塚の西を通る「ワンマン道路」というあだ名がついている道路がある。
 1953年に国道1号のバイパス路線としてできたのだが、その名のいわれは当時の総理大臣の吉田茂が鶴の一声で作らせたからという。
 大磯に住んでいた吉田は、東京と往復するのに当時の幹線道路国道1号と国鉄東海道線の交差する戸塚踏切で、しょっちゅう待たされるのに業を煮やした結果という。当時、吉田は新聞とラジオ時代のマスコミから嫌われて、独善的なワンマンと言われていた。今のワンマンカーの使われ方ではない。
 ワンマン道路という名は忘れられつつあるが、この道路は1959年に横浜新道として強化され、モータリゼイション時代の国道1号バイパスとして、今は大きな役割を果たしている。
 1950年代と言えば、自動車は一般に普及していない時代だから政治家の独善といわれたが、今となれば吉田には先見の明があったといえよう。
 そのバイパス道路の整備の原因となった通称「戸塚大踏切」は、今も戸塚駅にすぐ北に健在で、さらに多くなった車をさらに多くなった列車がしょっちゅう止めている。
 だがこの踏切も、ワンマン道路から半世紀を越えて、ようやく鉄道と立体交差の新道路を国道1号に平行して工事中なので、数年のうちに解消することになる。
 実はその新道路を作ることを決めたのは、1962年の土地区画整理事業の都市計画決定であり、半世紀近く経ってようやくここに来たという長い長い都市計画の歴史がある。しかも、この土地区画整理事業の区域の広さは、当初の3分の1にも縮んだのである。
 なぜこれほどにも時間が必要だったのか、なぜ区域が縮んだのか、都市計画の視点から考えてみたい。

2.戸塚宿の東海道筋の大踏切

 今は横浜市内となっている戸塚は、江戸時代は東海道の戸塚宿であった。1609年に設置したというから歴史も古い。江戸と小田原両方から約40キロの地点で、当時はこれくらいは1日行程だったから栄えたという。
 旧東海道筋は柏尾川の左岸を北から来て、広重の浮世絵にもある吉田大橋で柏尾川を渡ると、眼の前の丘陵を回りこんで大きく南にカーブしてから戸塚宿の中心部へとゆるい坂を上る。道は歩く人のためのものであり、坂はできるだけないほうがよいのであった。
 1887年、鉄道は柏尾川の右岸を北から丘陵の谷間を直行してはいってきて、旧東海道筋を横切って駅となり、柏尾川を渡っていく。新橋から国府津まで開通した東海道線の戸塚駅が戸塚宿の近くにできて陸路の要衝度は増したが、まだ踏切で十分であった。
 1930年代に入ると、戸塚から大船にかけての柏尾川の沖積平地に、近代工業の工場が多く進出してくる。これは東京横浜の大市場を背後に持つこと、柏尾川の水を工業用水とすること、農村地帯の中で労働力を得やすいこと、横須賀や本郷の海軍工廠との関係などの立地条件があった。それらは現在はソフトウェア関係の研究所や工場となりつつある。


 そして戦後の人口増加は、大都市郊外の住宅地化を促進し、戸塚駅の駅勢圏にはニュータウンやスプロールやらで丘陵や田畑をつぶして新住民が急増してきた。
 戸塚駅の乗降客は横浜駅についで市内で2番目の多さであるし、戦災もなかったから計画的な復興もなく、駅前には田んぼの畦道がそのまま路地になった小さな個人商店が密集する商店街が繁盛する。
 駅のすぐ北にある国道1号と東海道線との踏切は、人よりも車のほうが多くなり、混雑は増すばかりである。東海道は人の歩く道ではなくて車の道となった。国道拡幅しても踏切が交通のネックとなった。
 横浜市の出した「戸塚の本・戸塚ふるさと白書」(1989)には、「昭和20年代後半、当時の戸塚大踏切は、遮断機の下りている時間が1日10時間、遮断は229回にも及びました」とある。これはワンマン道路ができる前のことだろうが、1953年にワンマン道路ができてかなり渋滞は解消したはずだ。
 それでもなお1962年に、国道1号と鉄道との踏切解消のために立体交差の新設道路(柏尾戸塚線)をつくるとして、戸塚駅前地区土地区画整理事業を都市計画決定する。
 この事業は、踏切解消ばかりでなく戸塚駅前広場の整備もあり、駅前商店街と周辺住宅地を合わせて計22ヘクタールの広大な区域を、一体的に都市整備することになっていた。
 現在人口27万人の戸塚区の中心部は、このあと半世紀近くもの間40年以上にわたって、4階建て以上の鉄筋コンクリート建築は禁止の区域として生きることになるとは、だれが想像したであろう。
 1962年といえば、戦後復興からようやく一息ついで、1963年には全国総合開発計画が決まり、新産業都市の指定、名神高速道路開通などあって、そろそろ高度成長に入ろうかとしていた時代であるが、それほど先行きが見えていたわけではない。
 横浜で市が直接に行う土地区画整理事業は、都心部や鶴見等の戦災地区、都心の接収跡地などで、戦災復興関係の土地区画整理事業で整備をしていた。郊外部の市街地を大規模に改造するタイプの土地区画整理事業は、この戸塚がはじめてである。この後に新横浜駅前や五日市場駅前、金沢八景駅前が計画決定される。
 土地区画整理法は1954年にできたが、土地区画整理事業の手法は戦前から都市整備の歴史を持っており、耕地整理法の準用による関東大震災復興や、1946年特別都市計画法による太平洋戦争で空襲を受けた都市の戦災復興などで、土地区画整理事業は大々的に活用されてきた実績がある。
 1956年度には土地区画整理事業に道路特別会計補助を適用することで、この手法による街路事業促進の方向が決まったといえよう。

3.土地区画整理事業による大踏切の解消

 この戸塚駅前地区土地区画整理事業には、性格の異なる2つの目的を背負っていたようだ。
 ひとつは戸塚駅の直近地区の駅前広場整備と密集市街地改善である。国道の南側で駅の東西の地区は、商住混合の零細木造建築の密集市街地であって、関係権利者も数多く、土地の区画を整理するだけに手法では権利調整は困難であることは、その後に証明される。
 一方、国道の踏切解消のための新設道路計画(柏尾戸塚線)は、生活環境の改善が特に必要とは見えない既成住宅街の中を多くの住宅地をつぶして通り抜けるだけであり、こちらの関係権利者には区画整理の必要性が納得しにくいものであったろうと思われる。
 これら事業内容も地区の性格も異なる二つものを、同時にひとつの都市計画で定めたのは、どのような理由があったのだろうか。
 二つの事業区域に分離することを、当初からあるいは早期に視野に入れていたのであろうか。もしそうだとしても、国道から南の東西駅前地区では、あまりに密集しすぎていて、土地区画整理事業が適切な事業手法とは思えない。
 国道の北側の地区に関しても、新設道路(柏尾戸塚線)の占める割合が広く、これも土地区画整理事業として適切だろうかとも思われるのである。その当時にどのように考えていたのだろうか。
 全国的に見ても都市計画決定してから10年以上も事業未着手地区が2005年度において224地区あり、このうち1961~65年が33箇所であると国土交通省の資料にある(「都市問題の変遷と市街地整備施策のこれまでの取組」国土交通省2006年度?)。5年区分の他の年代と比べてその面積が圧倒的に多く全体の約半分を占めている。この年代は施行区域を広く定めることが流行したのだろう。
 1964年度の横浜市都市計画局の発行した「事業概要」には、すでに横浜市は具体的な執行体勢を整えたが、一部地元権利者の強硬な反対で、実質的に事業が不可能となっている旨が報告されている。
 その反対の理由がなにかはわたしには分からないが、2年たらずで合意形成の壁にぶつかっている。もっとも、どんな都市計画事業も簡単に合意形成することはないが、行政の公式報告に載っているくらいだから、かなり強硬なものであったのだろう。
 これ以後の「事業概要」報告で戸塚について土地区画整理事業という言葉はしばらく登場せず、市街地再開発事ばかりとなっている。「新しい観点から都市改造事業を行うべく協議を重ねて」、1973年2月、駅周辺再開発は駅を中心とする約9ヘクタールの地域を、土地区画整理事業から転換して市街地再開発事業とする方向が決まるのである。
 この段階で当初の土地区画整理事業の区域は15.8ヘクタールとなり、市街地再開発事業と土地区画整理事業に分ける方針となった。
 つまり都市計画意決定10年目にして当初の二つの大目標であった、駅前広場とその周辺の密集市街地改造と、踏切解消の新設道路(柏尾戸塚線)づくりとで、それぞれ手法が別になることになったのである。
 2000年度報告にようやく「沿道区画整理型街路事業」となって再登場する。

●横浜市戸塚駅前土地区画整理事業区域の変遷(図2参照)
1962年3月・戸塚駅前地区土地区画整理事業:21.8ha(図2のABCDEFGH)
1982年4月・戸塚駅東口地区第1種市街地再開発事業:1.8ha(図2のE)
同 戸塚駅前地区土地区画整理事業計画区域縮小→20.0ha(図2のABCDFGH)
1994年10月・戸塚駅西口地区第2種市街地再開発事業:4.3ha (図2のG)
同 戸塚駅前地区土地区画整理事業計画区域縮小→15.7ha(図2のABCDFH)
2002年12月・戸塚駅前地区中央土地区画整理事業計画決定:6.8ha(図2のA)
2008年9月・戸塚駅前中央地区地区計画:9.6ha(図2のABから線路敷を除外した部分)
2009年1月・戸塚駅西口第3地区地区計画:3.8ha(図2のH)
同 戸塚駅前地区土地区画整理事業計画区域縮小→6.8ha(図2のA)

4.紆余曲折47年間の土地区画整理事業
 なぜ駅前広場や商店街関係の地区が、土地区画整理事業では遂行できなくなったのであろうか。それは当局としては当初から予想していたことだったのだろうか。
 簡単に言えば、国道の南部の商業系密集市街地と、国道の北の住宅系市街地とでは、かなり権利者の意識も違うだろうし、なによりも事業の性格が異なるである。
 戸塚駅とその周辺の事業前の航空写真を見てもわかるが、国道の北の地区は、国道1号に替わる幹線街路の柏尾戸塚線を作るのだが、その道路はその周りの住民にとっては何のメリットもないといってよい。むしろ通過交通による害のほうが多い。
 これに対して国道の南の商業系の地区は、駅前広場や街路が整備されると商業的なポテンシャルは上昇するという期待も生じるのである。
 これらがひとつに土地区画整理事業に乗ることは考えにくい。推測だが、大きな反対派国道の北地区から出たのではないだろうか。南の地区も当然に反対が出たであろうが、それは商業系の生活再建への不安であろう。
 紆余曲折の末に、1982年4月に戸塚駅東口地区第1種市街地再開発事業の都市計画(1.8ヘクタール)を決定して、この地区が先行して事業に入り、 1990年に事業完了した。
 1994年10月に、西口第2種市街地再開発事業4.3ヘクタールの都市計画決定をして、東西合わせて6.1ヘクタールが市街地再開発事業として土地区画整理事業区域から外れたことになる。
 残った土地区画整理事業の区域は、3つに分断されてしまったので、それぞれ順次段階的に事業化への検討が進められた。
 2000年度の横浜市都市整備局の「事業概要」報告に、「JR大踏み切り解消のため柏尾戸塚線とその沿道を区画整理で一体的に整備する沿道区画整理型街路事業を行うこととして事業化に取り組み」とある。
 これは2002年度事業概要では、「柏尾戸塚線とその周辺地区の整備は区画整理事業で」となり、土地区画整理事業と書いていないところが微妙である。一時は沿道区画整理型街路事業にしようとしたのだろう。
 こうして結論となった土地区画整理事業の区域取りを見ると、それは沿道区画整理型街路事業としては正解だったと思われるが、土地区画整理事業に戻ったのは地元へのそれまでの話とか、国庫補助採択の条件とか、所管の縄張りとか、それなりの理由があったのだろう。横浜市の担当当局としては、街路事業にしてしまいたかったのが内実だろうと、わたしは推測する。
 2002年12月、国道1号に並行する新設街路(柏尾戸塚線)を骨とする戸塚駅前中央土地区画整理事業の事業計画を6.8ヘクタールの広さで事業決定し、2014年度完成を目指して動き出した。
 その区域は、国道の南側の東口市街地再開発事業からもれた一部の街区を含むが、主に国道の北の地区であり、寺院墓地や学校跡地の再開発代替地を除外し、柏尾戸塚線(幅員20~28.5m、延長約600m)の街路の広さにわずかに沿道の住宅地を含む範囲である。なお、この範囲には地区計画を定めた。
 こうしてついに二つめの目的の幹線街路事業(柏尾戸塚線)を主とする土地区画整理事業は、都市計画決定から40年目にして事業化に踏み出したのである(図3)。

 

5.土地区画整理事業からの除外地区

 ここまでで土地区画整理事業の都市計画決定している残りの区域は、約9ヘクタールとなったが、5地区に分かれている。これらをどうするのか。
 2009年1月の横浜市都市計画審議会に、土地区画整理事業の変更案(区域一部除外案)が出された。ようするに残る地区はすべて土地区画整理事業区域から除外してしまうという案であり、都市計画審議会は原案通りに可決したのである。
 こうして、当初の22ヘクタールの土地区画整理事業区域は、ついには6.8ヘクタールと3分の1以下に縮小された。上に述べたように、当時の高揚する時代における都市整備への意気込みではあったろうが、その区域設定が事業手法からして広すぎたといってよいであろう。
 ここで最終的に除外した区域を検討してみると、わたしから見ればその一部には除外することに問題を含んでいるのであった。5箇所の除外区域をひとつひとつ見ていこう。このうち2地区には、地区計画を定めて今後の保全と整備の方向を決めた上での「計画的除外」であるが、3地区は一般規制の地域地区指定だけとする「単純除外」である。

(1)矢部地区について(図2のB)
 この矢部地区(図のB)については、学校跡地をこの駅前整備事業用の住宅代替地として用意した区域である。現状においては良好な住宅地となっており、すでに保全型の地区計画をかけているので、土地区画整理事業区域から除外することについては妥当であると考える。

(2)西口第3地区について(図2のH)
 南部の西口第3地区については、他の土地区画整理事業区域から西口再開発区域をはさんで分断されており、単独に事業を行わなければならない状況になっている。
 都市計画審議会に出された案は、商店街整備と周辺外周道路整備に主眼を置いた誘導型地区計画を定めて、土地区画整理事業区域から除外するとするものである。
 これまでに土地区画整理事業も難しい、再開発も難しいと、地域関係者によるまちづくりへ検討を進めたそうであるが、結局は事業手法よりも計画手法としての誘導地区計画にとしたことは、やむをえないであろうと考える。
 しかし、現地を見ると、西口再開発事業との間の道路は高架となるらしく、この地区と再開発地区との取り合いがどうなるのか見えにくい。人や車の動線については、西口地区再開発事業において十分に配慮することが変更の前提条件となる。

(3)善了寺地区について(図2のC)
 この地区については、地区計画等のなんらのまちづくり策もなく一般規制の都市計画のみとして、土地区画整理事業区域から除外する案となっている。しかし、現地の現状土地利用が 寺院と墓地であり、しかもここだけが丘陵地形となっているという特殊性から、単純除外も納得できるものである。

(4)戸塚駅地区について(図2のF))
 戸塚駅はすでに改良が終わっているので、単純除外は納得できる。

(5)東口再開発隣接地区について(図2のD、図4)
 東口再開発地区と柏尾川に挟まれるこの地区は、現状が駐車場等となっている大規模敷地(市関係の公的団体の公社所有)と、それに隣接する戸建の住宅地の区域である。
 ここを善了寺地区と同様になんらの街づくり誘導策もなく一般規制の市街地として土地区画整理事業区域から単純除外したことについては、現地の状況を見ると適切ではな

い。
 その現況土地利用は、必ずしも立地や環境として有効とは見えない。
 特に駐車場の大規模土地所有者が、市の関連団体であればなおさらのこと、街づくりへのお手本として立派な地区計画をかけるべきである。
 住宅地側はさらにそれに続く地区が狭小道路、行き止まり道路、非接道住宅など、改善が必要な環境である。
 大規模駐車場の土地利用と、隣接区域の改善を含めたあるいは隣接地の今後の改善に配慮した地区計画 (例えば、住宅地と現駐車場敷地はそれぞれ別の土地利用、地区施設としては現駐車場と住宅地との間にある建築基準法43条但し書き道路から柏尾川沿いに区画道路:下の航空写真参照)を定めた上で、土地区画整理事業区域から除外する のが筋というものである。
 細かいことは分からないから事業制度からの推測になるが、この地区も他の区域と同様に多年にわたって都市計画事業による制限を受けていながら、前面に 隣接の市街地再開発事業による都市計画道路整備によって反射的に利用価値の増進の利益を享受し、今回の土地区画整理事業区域から除外で減歩もなくなり、しかも一般規制のみとなる単純除外では、他地区と比べて不公平と思われるが、どうか。

6.東海道筋の両側町に戻るか国道1号

 こうして戸塚大踏切はなくなることになるが、新しい道路(柏尾戸塚線)は旧東海道のように丘陵をよけて曲ったりはしない。吉田大橋からまっすぐに進み、寺院と墓地のある二つの丘陵の横腹を削って巨大な垂直がけ地を作り、多くの住宅地をどかしながら、鉄道の下にトンネルでもぐって、また地上に出て国道に合流して戻ってくる。
 この新道路(柏尾戸塚線)と旧東海道の国道1号と比べると、なるほど人の歩く道と車の走る道の違いが如実に現れている。歩く道は地形や土地利用と密接に連携するが、車の道は地形地物に関係なくまっしぐらに山を伐り地にもぐるのである。
 計画図を見ていていくつか疑問なことがある。ここに書いた疑問などは、いずれもわたし個人の現地を見たところでの感想に過ぎない。これらの検討を経た上で、土地区画整理事業を計画するための国土交通省の出している通達、設計標準、運用指針などにしたがって、ここまで来たに違いないと推測する。ただ、そのような検討過程を知る方法が今のところみつからないのである。

(1)なぜ新設道路か
 なぜ、現国道を拡幅して鉄道のアンダーパスをいれることをしなかったのだろうか。
 吉田大橋からの大きなカーブを解消したかったのだろうか。道路の専門家としてはそうしたいかもしれないが、それほどの問題だろうか。
 戸塚の街から眺めることができていた善了寺と清源寺の丘陵部斜面は、この新設道路(柏尾戸塚線)が直進するために削られて、巨大土木工事の円柱の列が立つ絶壁となって、その樹林の緑地は失われた。新設道路の植栽はそれを代償するものなるのだろうか。

(2)なぜ土地区画整理事業か
 なぜ、新設道路(柏尾戸塚線)を当該用地買収による街路事業にしなかったのだろうか。
 土地区画整理事業としても、新設道路に面した戸建住宅地には増進効果は少ないか、かえって環境が悪くなって減価するかもしれない。
この際に共同住宅でも建てるならば効果はあるが、一部は可能かもしれないが多くは狭い宅地であって、土地の共同化でもしないと無理だろう。
 区画道路を付け直しているが、よく見ると、一部を除いてそのほとんどは今のままでも特に問題はなく、必ずしも付け替えは必要ではないとも見える。
 区画整理の手法上でなにか必要があるのだろうか。現に国道に面する宅地は、土地区画整理事業によっても何も変わらないのである。
 単なる街路事業ではなくて、土地区画整理事業としたのだから何か秘策があるのだろう、そのお手並みを楽しみにしている。

3)なぜトンネル上が公園か


 新設道路(柏尾戸塚線)のアンダーパスになる部分には蓋をして、公園とする計画であるようだ。
 公園ができることはよいのだが、ここまで道路をドラスティックにいれるのなら、いっそのことこの部分は立体道路として、沿道宅地とあわせて総合的にプランニングしたほうがよかろうとも思うのである。地区に関係のない幹線道路の線形のとらわれないまちづくりができるはずである。
 その逆に、蓋となる部分は、地上権設定をして現況の住宅地のままとすると、地域社会の揺り動かし方が少なくて済むだろう。
 あるいは駅東口や西口の再開発事業が地下鉄の上に建物を建てたように、道路の上も含めて総合的に街区の再編成をして、そこに公的なアフォーダブル住宅を建設してはどうか。
 大都市では高度成長期から多くの郊外住宅地が開発されてきて、いまや高齢社会になってその生活の不便さから都心への住み替えが始まっている。
 戸塚の背後にはそのような計画団地スプロール住宅地が広がっている。
 この戸塚駅のそばにそのような住み替えに対応する住宅、私の主義としては賃貸借型の共同住宅を設けるのである。
 それは土地区画整理事業による移転を余儀なくされる人たちへの対応にもなるはずだ。

(4)なぜ踏切をやめるのか
 国道1号は、江戸時代から20世紀初め頃までは、東海道宿場町として歩いて楽しい両側町であったのが、その後の自動車交通量の増大に伴って道幅が広げられて道の両側は関係なくなってしまった。
 これに替わる新設道路(柏尾戸塚線)ができた暁には、国道1号の自動車交通量は激減するはずである。それならば、昔の道幅に戻して歩いて楽しい両側町にしてはどうか。土地の交換文合ができる土地区画整理事業だからこそ、それができるはずである。
 ところで大踏切はどうなるのか。推測するに、踏み切りは閉鎖して、その上空に切られた国道をつなぐ歩行者専用橋をかけるのだろう。それは新設道路の二つの公園を結ぶところもそうなのだろう。
 今は多少は待つにしても平面で通っているのが、道が整備されたら階段かエレベーターかエスカレーターか、いずにしてもわざわざ登ってまた降りるようになるのである。
自動車はトンネルですいすいと行けるようになるのに、歩行者は逆に面倒になる、これは不公平というものである。
 バリアフリーとかノーマライゼイション社会とか言っている今の時代に、これはあきらかに反している。
 踏切がいけない理由はどこにもないように思うのだ。人が通るだけで今より狭くてもよいから、国道の踏切を残してはどうか。
 ネットで調べたら、区画整理をやって踏切を新設した例もあったから、お役所としては前例があるからできるだろう。

7.土地区画整理事業は今も有効な手法か

 1962年に戸塚駅前地区土地区画整理事業の都市計画の決定をして以来、この地区は40年以上にわたって、4階建て以上禁止、鉄筋コンクリート禁止、地下室禁止の状況ですごしてきた。
 それは、良い悪いも戸塚の街を特徴付けてきた。 近年まで存在した西口地区の狭い路地の下町的親しみの商店街は、まさに1962年の都市計画が維持してきたものである。都市計画は混沌さえも意図せず計画する。
 戸塚区をひとつの都市と見て人口27万人といえば、小田原よりも茅ヶ崎よりも大きく、福島や徳島など県庁所在地並みである。その都心部が低層木造密集市街地のままに21世紀を迎えたことは、もしかしてそれなりに意義のあることだったかもしれないとさえ思う。
 つまり19世紀型の街から20世紀型の街に移行することなく、21世紀にふさわしい街をつくることができるかもしれないと思うのだが、現実は20世紀に計画した20世紀 理念ともいえる発展開発型の街が今になってようやくでき上がりつつある。
 それを21世紀型つまり超高齢社会・人口減少社会におけるコンパクトタウンの核として調整して着地させるのが、今後の戸塚のまちづくりの大課題であろう。
 長年の建築制限の枷が外れたからとて、敷地ごとに勝手な土地利用と勝手なデザインのビルが立ち並ぶ街になるおそれのほうが強いのである。私が言うところの「名ばかりマンション」が立ち並ぶ街にならないように願っている。
「土地区画整理事業はまちづくりの母」、これは土地区画整理事業関係者の合言葉のようだ。たしかに田畑の耕地整理から始まった市街地を総合的に整備する手法で、関東大震災にも戦災にも阪神淡路震災などの復興事業や、人口増加時代のニュータウンづくりにその力を発揮した。
 しかし、郊外ニュータウンづくりは一段落しており、今ではその仕かかりのまま頓挫している郊外の土地区画整理事業が数多くあるという。
 既成市街地では、沿道区画整理型街路事業として街路事業のための添え物的に行うとか、駅裏の田畑を市街地にする手法、あるいは工場等の大規模跡地の基盤整備に利用されているようである。
 この跡地整備に土地区画整理事業を使うのが、なぜかよく分からない。都市における複雑で多数の財産権利移動に、公正さを保つために法的バックアップがあるのだが、実態的には権利者が一人か少数なのに法的バックアップによる土地区画整理事業が本当に必要なのだろうか。
 つまり、戦災や震災のような災害復興は別として、問題をはらむ密集市街地のような既成市街地の整備においては、ほとんど土地区画整理事業は力を発揮していない状況にある。
 戸塚駅前土地区画整理事業にみるように、主要な既成市街地整備は市街地再開発事業に変更して区域から除外し、最終的には当初の3分の1の区域にして、実態的には沿道区画整理型街路事業となった。要するに街路事業である。
 長い47年に及ぶ歴史があてこうなったのだろうが、もしも今の時期に、この新設街路(柏尾戸塚線)を都市計画決定するとしたら、世の反響はどうだろうか。
 戸塚駅前土地区画整理事業の47年は、都市改造型の土地区画整理事業の後退の歴史といってもよいかもしれない。都市改造は確実に市街地再開発事業へと移行しつつあるといってよいだろう。
 そこには土地区画整理事業が土地のみを対象として、街並みづくりを2の次としてきたことが基本的な課題としてあると思うのである。 土地を使うのに本当に必要な建物を造らないのである。
 景観も、地方都市の多くの駅裏地区に見るように、土地区画整理事業でできた市街地の風景で、なかなかそれなりのものを見つけることは難しい。
 都市の中では大規模跡地に適用するという、どうも土地区画整理事業の本質的な使いかたでない事業ばかりが目立つのだが、土地区画整理事業の時代は終わったのだろうか、 それともまだ新たな展開があるのだろうか。
 土地区画整理事業の都市計画決定してから半世紀近く、その間に一部は他の仕組みで実現はしたものの、ようやく着地点が見えてきた都市計画事業であるが、あの西口の活気ある下町商店街が継続したのは、実はその都市計画の故であったのだから、その間に2世代も時代が流れたのであるとすれば、都市計画とは社会に対して何を計画するものなのだろうかと、改めて考えさせられている。

8.戸塚区画整理事業変更の都計審での扱い

 この戸塚駅前地区土地区画整理事業の区域変更に関する都市計画案は、2009年1月19日の横浜都計審に付議されたのであった。横浜市の都市計画審議会の公募による市民委員となって、わが登場2回目の審議会である。
 審議の議案資料が手元に着いたのが1月12日、議題は8つもある。資料を読んで分からないことを2回にわたって市役所に聞きに行って、延べ10人に話を聞き、縦覧図書を全部見て、 関係調査報告書にも目を通し、現地も全部見てきて、忙しいこの1週間だった。
 その結果、8つのうち2つの原案に関してその扱いに疑問が残ったので、審議会でしゃべるのに間違わないように紙に書いて出席した。
 そのひとつが、上の東口再開発隣接地区(図2のD)は単純除外でなく地区計画等を定めてから除外するべきと する修正意見であった。
 わたしは事務局に質問したのでも釈明を求めたのでもなく、審議会で審議してほしくて唱えたのだ。すでに市側の考えをわたしは聞いたうえでの意見だから、事務局の答弁は要らないのである。
 しかし、事務局がこれがよいのだと一方的にしゃべっただけで(ということは、単に事務局と呼んでいるが、実は都市計画審議会の事務局ではなく、都市計画決定権者を代理する事務局なのだろう)、審議会の委員はこのわが異論の当否を何の審議もしないで、他の委員の他のことについての発言の後でいきなり採決に入った。
 委員会で審議しての上なら、わたしも特に議案に反対する必要もないだろうと思っていたのだが、いきなり採決になったので異論を唱えたゆきがかり上でやむを得ず反対に手を上げざるを得なかった。わたし一人であった。
 しゃべったことは議事録には残るから、それでよしとするしかないであろう。
 他の委員の方々に聞いてみたいのだが、なぜ審議してもらえなかったのだろうか、わが意見は審議に値しない内容だったのか、それとも言っていることが理解できなかったのだろうか。

9.意見書への対応はこれでよいのか

 もうひとつ戸塚とは別の議案で、こちらのほうが先の議事だったが、これはまさに道路そのものの事業である。
 高速道路がらみで、すでに昔に都市計画決定した都市計画道路について、事業の進捗に伴って一部改良する変更議案である。
 その変更案そのものは既に検定している計画の改良なので、それに反対する理由はないのだが、その手続き過程で公聴会や縦覧で出された意見に対して、都市計画決定権者(横浜市長)の見解の書きっぷりが疑問なのである。
 読んでいくと、なんだかよくわからないのである。要するに簡単すぎて、具体性を欠くのである。環境問題はアセス評価書で大丈夫となっているとか、事業者が大丈夫といっているとか、他の資料や他の伝聞よる書きかたで、どうも曖昧模糊としている。
 これについても、事前に担当者を訪ねて、その内容を具体的に教えてもらって分かったのであった。その上で、意見書への市長見解はわたしでも分かるように、もっと具体的に書いてもらいたいと、ここのこれが分からなかったと数多くの訂正追加場所もそれぞれ指摘して、わたしは内容に言及できる能力はないので、ここにこんなことを書き足して直してくれと、修正提案を意見として審議会に出した。
 このわが意見も、審議会の委員の方々に諮るつもりで述べたのだが、事務局が「これでよいのだ」みたいな釈明か答弁をのべてしまった。しかも、意見書は参考資料だからと強調して、文句つけるな、みたいな言い方もあった。
 その後に別の委員の別の発言をはさんで、会長はすぐに採決に入ってしまった。わたしはあわてた。わたしの意見はどうなるのか。
 行き掛かり上で仕方なく原案に反対せざるを得なかった。わたしひとりだけ反対であった。
 審議して、今後は意見書の記述に留意するように、はいわかりました、とでも言ってくれると、反対する理由はなかったのに…。
 こうして暖簾に腕押しひとり相撲の感を免れない審議会であった。どうして審議の対象にならないのだろうか、不思議である。わたしは何かとんでもないことを言ったのだろうか。
 多分、提案の仕方がこれまでの審議会の運営方法と違っていたので、提案とみなされずに質問とみなされたのだろう。そう思うことにする。 次から気をつけよう。
 審議会で気になったのは、もしかしたら委員のほとんどが議題となる全ての現場を見ていないのかもしれないということだった。都市計画は現場を見ないと絶対に分からないものであることは、わが長い街づくり人生経験からの真理となっている。

 注:本稿は、2009年1月19日の横浜市都市計画審議会に、この都市計画変更に関する議題がでたので、事前、事後に調べて感じたことを書いた。横浜市行政情報センターや戸塚図書館での資料だけでは不足で、自分でも気になっているところが多い。(090127)