横浜都心戦災復興まちづくりを
どう評価するか
 
伊達美徳
 
 横浜都心に住んで8年目(2010年)、あたりを徘徊するとあちこちに戦災復興事業であった防火建築帯が、表道や裏道にあって街並みを今も構成している。
 横浜は日本の都市の中では力量あるはずだが、東京や大阪の都心部は高層、超高層で埋まっているが、横浜都心の関内関外では主流が4~5階程度のビルで占められているのは、これらの戦後復興の建築が今も健在であるからだ。
 健在といっても、必ずしもその利用が適切になされているわけでもない。
 次第に建て替えがなされてきてはいるが、他の大都市と比べて今も数多く現存する理由はどこにあるのだろうか。
 
●横浜都心の戦災復興建築に関するシンポ
 2010年12月12日、その横浜都心で「関内・関外の戦災復興建築の保全活用を考える」というシンポジウムがあった。
 地元のまちづくり団体、都市計画家や建築家の団体が主催で、パネラーは、戦災復興建築の住人、まちづくり活動家、建築家、大学研究者たちであった。参加者は意外に多くて100人くらい、なかには戦災復興建築の持ち主もいて、会場から持ち主の悩みを発言していた。
 防火建築帯はわたしが社会に出てはじめての仕事だったし、この制度について調べて
レポート本に書いたこともあるので、日ごろ歩いて興味持って歩き外から観ているのだが、現実の状況を調べることはなかった。
 だから、このシンポジウムでの実情報告は実に参考になった。
 防火建築帯は全国で1952年から始まって60年代の法適用が終わるまで建てられて、全国のその間口幅を合計すると約39kmになる。
 そのうち横浜が10kmを占め、都心の防火建築帯の建物は約400棟が建てられ、そのうち約200棟は現存していると報告があった。
 個別的なことで特に気になっていたのは、権利関係がどうなのかということだった。やはり、横浜特有ともいえる複雑なものがあることもわかって、それが今の都心らしからぬ街並みをささえていることも理解したのであった。
 
●なぜ戦災復興建築の保全なのか
 シンポジウムは「保全活用を考える」に重点が置かれていたので、この戦災復興まちづくり事業をどう評価するかという、わたしの中心的興味からはすこしそれていた。
 もちろんそれはそれで有意義な話し合いであるのだが、老朽ボロビルを修繕して使うコンバージョンがエコ時代の主流だと言うだけだと、それは戦災復興のビルばかりではないことになる。
 その後に無数に建ったいわゆる分譲マンションの老朽建物もおなじだし、もしかしたらそちらのほうが権利者が多いだけにもっと問題は大きい。
 横浜都心では防火建築帯が多くあるから、コンバージョンの話は自然にそれが主流になるのは分るが、それが戦災復興の都市計画や建築をどう評価するかということをベースにしないと、横浜都心でのこれからのまちづくりの哲学が抜けるような気がする。
 ここでいう評価とは、建築家がいう建築保存運動によくあるような、昔のものは何でも良いともちあげる評価をするのではなく、空襲と接収という二重に受けた戦争災害から復興するためにあの貧乏な時代に行なった事業を、今の時代から見て冷徹に評価を与えることで、次の時代のまちづくりが見えてくるはずである。
 とうぜん、保全活用だけでない視点も登場する。それが都心再生のマスタープランにつながればよいと考えるのだ。
 
●復旧基盤に復興建築の矛盾
 日本の各都市が1945年にアメリカ軍の空爆と、一部の海岸地域は艦砲射撃をうけて、大きく被災した。終戦後は早期からそれらの都市復興として戦災復興土地区画整理事業が行なわれてきた。
 それまで震災や戦災で燃えるのがあたりまえの都市を、不燃化することがそのころの都市計画の悲願と言ってもよかった。
 しかし、横浜の関内関外を中心とする都心部も他都市と同様であるはずが、主要な地域が占領軍に接収されたために、その返還される1952年まで復興に手をつけることができなかった。
 しかも、接収地域は道路も宅地もなく一体に整地されて、事実上ひとつの更地にされてしまった。そのため戦災復興土地区画整理事業の対象とされずに、横浜での特別な措置として更地を元の道路と宅地に戻す事業が行なわれたのであった。つまり復興ではなくて、復旧事業であった。
 復旧された道路と宅地は、かつての関東大震災後の土地区画整理事業による形である。他の都市が20世紀後半の未来を目指す都市計画を行なう戦災復興土地区画整理事業であったのに対して、横浜都心は20世紀前期の旧に復したのであった。
 空襲の上に接収のために復興の出発が遅れた横浜都心は、一気に20世紀近代都市を目指すべく、その旧基盤のうえに不燃建築群による近代建築の街並み形成を積極的に行なった。
 他都市が戦災復興土地区画整理事業で近代的な道路基盤をつくって、その上に建つ建築物は放任したので主に木造建築が勝手に建物が立ち並んで、不燃とはとてもいえない都市を許したのに対して、横浜都心ではそのまったく逆で、前近代の都市基盤をつくって、その上に不燃の近代的建築を建てたのである。
 このことは、横浜都心のめざましい戦後復興と同時に、その後の高度成長期のメタモルフォーゼ的発展を妨げることになったようだ。建築物の不燃化に手をつけなかった他都市では、その後の高度成長期に新たな高層建築物による都心ができあがっていった。
 この横浜の戦災復興の都市事業の矛盾は、その後どう現れたか、検証する必要がある。
 
●復興へのインセンティブ
 ともあれ、国、県、市の支援策が功を奏してある種の秩序ある街並みが出現した。それが不燃建築促進法による助成策を適用した防火建築帯の造成事業である。
 民間には資金がなく、公共側も補助金予算削減する時代に、不燃建築群による防火建築帯まちづくりの出発は難航した。
 防火建築帯は、道路に面して連続的に3階建て以上の耐火建築を建てる地域を、都市計画審議会の議決を経て建設大臣が定める。その区域内で3階以上もしくは増築予定2階建て耐火建築物を建てる場合は、その基礎と構造主体の建設費の一部を補助金として、地方自治体が建設主に交付することができる法制度であった。
 これに住宅金融公庫の長期低利の多層家屋基礎主要構造部融資(中高層耐火建築物融資)を組み合わせて、民間事業として建設を行ないやすくする仕組みである。
 耐火建築促進法によって、行政の建設資金的助成策ができるようにしたところが、戦後都市復興事業への道となり、高度成長期からは都市再開発事業へとつながっていった。
 
●都市再開発手法のさきがけ
 ところで防災建築帯は共同建築を義務付けるものではなく、実際に個別の敷地に個別の建築も数多くあるのだが、共同建築の数が圧倒的に多いようだ。
 隣り合う複数の宅地を建築敷地として合わせ、この上に構造的に一体化した建築物を建設することを大義名分としているようだが、これがどこから出てきたものだろうか。
 わたしの想像(経験も含めて)だが、防災建築帯を指定するにあたって、行政の担当者あるいは依頼された建築家が地域の構想図面を描くときに、敷地ごとのちまちました建築群を描くのは、欧米の都市にあこがれた時代では当然に抵抗があったのだろう。
 共同化することで大きな建築ができる、合理的な建築計画にしやすい、そう考えたのは無理もない。もちろん、個別に立てるよりもコスト低減になることもある。
 そして横浜市の場合は、制度融資において2以上の共同化の場合は単独の場合よりも割増することとして、共同化の推進を図っている。
 現代の都市再開発法による市街地再開発事業の共同建築は、共同化のソフトな技術の進歩でかなり複雑な立体的権利構成の様相を呈するものが出ているが、防火建築帯の頃の共同化は実にプリミティブなものであった。
 基本は隣り合う敷地の割り方はそのままに、境界線上に間に壁と柱を立てて、建築構造物の共同化で連続建築とすることであった。縦割りの明快な所有区分であるから、4階建てと2階建てがひとつの建築物に混在することも珍しくなかった。その後の防災建築街区造成法による防災建築でもこれはおこなわれた。
 横浜都心での防火建築帯事業でも、個別に建てた建物、敷地割りはそのままに構造体のみの共同化の建物が多いようだが、特徴的なことは下層階はその形式だが、上層階がそれにとらわれずに一体共同化した防火建築帯が多く作られたことである。これが権利関係の立体的重層システムとして、その後の都市再開発手法のさきがけとなった。
 
 
●共同化の推進
 防火建築帯を普及するために横浜市は財団法人建築助成公社から融資する、独自の制度をもうけた。補助と融資だけでは、この貧しい時代では防火建築帯制度の3階建て以上のコンクリートの高価な建物は建てろといわれても、これに対応できるオーナーは稀である。建てても木造2階家がようやくであり、またそれで十分なのである。
 そこで横浜市と協力して神奈川県住宅公社(後の県住宅供給公社)が事業にのりだし、防火建築帯の中に住宅付きの民間ビル建設を請け負って引き渡す方式と、2~3層程度の民間ビルの上層部に公社所有の賃貸共同住宅を乗せて建設する方式を行なうことにした。
 資金助成は前者も後者も公社融資、公庫融資及び補助金で自己負担金が生じるが、面倒な建設事業を県公社が行なうことで事業促進となる。
 公社住宅を乗せる方式は、非助成の2階程度までしか建てる資力のないものでも、助成対象となる3階以上の建築を建てることができることになる。また公社住宅経営規模からは20戸以上とされていたので、敷地規模が小さいところでもある程度の共同化すれば対応できることになる。
 公社住宅並存建築は、下層階が個別所有で個別利用の棟割長屋、上層階が一体所有利用の賃貸共同住宅で、その権利形態が異なるところに特徴がある。
 下層階は縦に個別に割っている土地建物の権利を、上層階では横つながりに一体化して、その土地権利は個別に賃借権あるいは共有設定している。
 このことは単純な土地権利を組み替えて、立体的に複雑化したことになる。土地権利者が単独の場合は公社と2社で単純だが、共同建築となると複雑になる。権利関係を工夫しており、後の区分所有法制定への基礎となった。
 
●共同化の功罪
 この公社と民間との並存形式のものは、1953年度から62年度までの10年間に、50棟、住宅戸数980戸が建った。1955年度から日本住宅公団が同じ方式で事業参入し、10年間に20棟、913戸を建設した。なお、耐火建築助成した防火建築帯は、107棟、建築主は162名であった(「横浜市建築助成公社20年誌」)。
 特に、まだ区分所有の概念も法律もない時代である。自分の土地に別の権利がかぶさるし、物理的にも自分の建物の上に他の建物が乗るのは、地主にとっては抵抗感があるシステムであった。
 そこで、この並存した上層の公社公団住宅は、建設後10年をすぎたら地権者に優先譲渡する約束としたのであった。現在ではその譲渡されたものもあれば、いまだ公社所有のものもあるという。
 さらに土地と建物を共同化するためには、例えば共同階段あるいは共同引き込み設備などのための位置やその所有権などに関して、権利者間での調整が必要となる。単純な棟割長屋にはない複雑な作業が伴った。
 シンポジウムで、これら並存型防火建築帯のうち、約30棟が現存していると報告があった。公社20年誌では、並存でないもの、公社助成対象でないもの、公団事業のものも含めて127棟以上の防火建築帯ができたとあるが、そのうちのどれほどが現存するのか分らないが、現実に街を歩いてみるとかなり多くを見ることができる。
 もちろん建物に防火建築帯と書いてあるのではないが、その規模やデザインがその時代の様相を呈しているから、ほぼそれと分るものである。
 現在数多くの防火建築帯が建て替えもせずに現存するのは、この権利関係の複雑な状況があって建て替えのための権利調整が困難であることもその重要な原因であるだろうと、わたしは推測している。
 また、10年後譲渡がいまだなされないものもあるということは、譲渡のためには譲渡を受ける側の権利整理が必要だが、長年の間に輻輳していて困難なことがあることを示しているのだろう。
 建設当初から時間がたつほど賃貸借の移動や相続などで権利関係は数が増えて、次第に複雑化するのが通常である。
 
●複雑化する権利関係
 現存する共同建築型の防火建築帯の権利関係の実態はよく分らないなかで、シンポジウムでは実際の居住者が、プライバシー侵害にならない範囲で、権利関係の実情の一部を見せてくれた。
 1棟に8名の土地権利者がいて、下層2階までは各個の棟割長屋形式、そのうえに2層の公社住宅が乗っていてこれはひとつの権利で共同賃貸住宅が、共用廊下と共同階段で横につながっている。
 これが建設当初の姿であるが、現在はこれを各権利者がその棟割の上部を優先譲渡を受けて所有する形態になっている。原則は明快に縦割りだが、実際は上部は横廊下による共同住宅だから、1階から4階まで縦つながりで独立して使えるものではない。

 特に共同階段は共有しなければならないし、その部分の権利を各権利者間で調整すると、上層階の一部に縦割りから左右にはみだし引っ込みが起きている。あるいは利用勝手からの権利売買もあったのかもしれないが、単純な縦割りにはなっていない。当初よりも権利関係は複雑化していることが分る。
 他の同様の並存ビルがどうなっているかは、一部を別の資料でも推測できる。その後の再開発建築にみられるような極端に複雑な権利構成ではないようだが、単純でもない。
 並存型防火建築帯の70棟のうち30棟が残っているとの報告であったが、これを多いと見るか少ないと見るか。6割近くが消えたのは建て替えをしたからだろうが、それらは権利関係が単純だったのだろうか。あるいは立地条件が建て替えに恵まれていたのだろうか。
 
●都市不燃化と都市更新の矛盾
 横浜都心における防火建築帯の事業の意義とそのもたらしたものを考えてみる。
 第1は、戦後の都市の計画的復興として、基盤整備だけでなく建築物までもコントロールして、都市の不燃化によって仕事と暮らしの場を形成したことは、高い評価を与えることができる。戦後復興が出遅れた横浜都心が急速に再生した基盤を築いたのであった。
 接収返還地の土地区画の復旧による戦前型の基盤整備は、必ずしもその後の都市づくりに適切とはいえなかったが、それにもかかわらず都心部の土地利用の効率化が進んだことは、この制度のおかげであったともいえよう。

 これだけ広い地域を防火建築帯として指定するには、それなりのマスタープランとつくっているにちがいない。横浜市建築助成公社20年誌の26ページに、羽衣町付近防火建築帯模型の写真が載っているから、報告書が存在するだろうと思って、横浜市の関係すると思われるところに当たったが、わからないままである。
 しかし、その20世紀中期に最前衛と言われた硬い近代建築群は、その後の高度成長期に建て替えの足かせとなり、20世紀後期から21世紀型の高度利用・高度情報型の都市には適さないために、横浜駅前やMM21地区などの大規模跡地利用型の新開発地区に都心のヘゲモニーをしだいに奪われていくこととなった。
 都心としてのリニューアルを遅らせた原因のひとつに、共同化によって権利が複雑化したことがあるだろうと、わたしは考えている。弁三ビルに始まるとされる建築物の立体的権利複合システムは、後に区分所有法を生み、都市再開発法による市街地再開発事業で複雑な権利関係をひとつの建築物におさめる技術へと進歩した。

 問題は、それが都市の零細な土地の権利を更に細分化して、建築物の更新による都市更新を妨げる方向に働きつつあることである。典型的な例がこの防火建築帯であり、これは全国的な老朽区分所有共同住宅(いわゆるマンション)の問題につながっている。そこのところを反面教師としないままでも困るのだ。
 
●都心居住政策の先駆とその後退
 第2は、積極的に住宅を都心に持ち込む政策を高く評価したい。横浜都心がビジネス都心としてのヘゲモニーを低下させても、そこに住民がいるということは街を生き続けさせて来ている。
 今、都市計画では都心居住が主流論となっているが、横浜都心ではすでに戦災復興で計画的にそれをおこなったのであった。
 しかし、その居住の住戸や環境の改善を必ずしも適切に行なってきていない。空き家となった住宅が多い防火建築帯を、都心居住の場として再生することが急務である。
 特に建設当時の神奈川県住宅公社の後継の県住宅供給公社が、住宅事業から撤退しようとして、その所有する住宅管理を怠っているのではないか、それが都心の衰退をまねくのではないかと、わたしは危惧する。
 人口減少社会を迎えて都心居住の重要性が言われるいまこそ、公社は防火建築帯にもつ住宅を再生整備する役割がある。
 実際に老朽化した公社住宅並存防火建築帯の建て替え事業を行なってきた実績(例:長者町4丁目で食品量販店付き公社賃貸住宅)を持ちながら、撤退しようとするのは明らかに政策的に間違っている。
 公社は民間の住宅事業者に任せる方向にする姿勢である。最近の実例は長者町2丁目での建て替えであるが、民間事業者が並存型防火建築帯を取り壊した後に、高層の分譲区分所有型共同住宅(いわゆるマンション)を建設している。
 わたしはこの区分所有型共同住宅は、居住システムとして実に危険なものとして反対論を唱えているのだ。(参照→街なかで暮す
 なぜ都心に賃貸借型の共同住宅を建てる役割が終わったので、公社を解散しようとするのか、日本の居住政策を理解できない。公社が負債を負っていることと、居住政策の重要性とは別の次元のことである。
 早い話が、公的都心居住政策が終わったのなら、なぜ寿町ドヤ街のような劣悪な事実上の住宅群がはびこるのであろうか。
 横浜都心のまちづくりに深く関わってきた知見を深く持っている公社は、その撤退方針をぜひ考え直してもらいたいものである。
 
●復興にかけた人々は誰だったのか
 第3は、まちづくりへの住民参加がこのときから始まったことは、意義が深いものがある。
 住民参加のまちづくりという言葉が言われるようになって、30年くらいだろうか。だが、防火建築帯の時代こそが住民参加まちづくりの最盛期であったのだ。なにしろ自分の財産を持ち寄って、補助金では足りない分を身銭を切る借金をするリスクを背負って、街並みをつくりあげていったのである。
 他都市ではせいぜい駅前道路とか、商店街の街区に限られる事業であった。個別にバラバラと勝手に建築しても良いのに、なぜ、協力し合い共同して一体的な秩序ある街並みを、こんなにも広い範囲で作っていったのだろうか。その時代の人々の意気込みを高く評価したい。
 高度成長以後の都市再開発の多くが、デベロッパー任せで住民は一銭も負担しなくても開発ができるという方式となって、都市更新は拠点的にはすすむが全体としては頽廃をもたらしたのと比べて、時代も若かったが人々も若かった。
 各地にはこれを契機にまちづくりのリー段が登場したに違いない。それは誰でどのような活動をしたのだろうか。
 住民だけではなく、県、市、公社等の行政マンや、建築家、商業診断士たちの努力もあったはずだ。防火建築帯指定のための調査と計画は、だれが行なったのだろうか。そして実施のための権利調整や建築計画立案は、誰なのだろうか。
 これを契機として、まちづくりコンサルタントという職能確立に向うのである(
このことはかつて書いたことがある)。横浜ではだれが出てきたのだろう。
 どうも建築家たちの建築への評価となると、明治大正洋風建築とか、有名建築家の設計とか、大きな公共施設ばかりに高い評価を与えて、防火建築帯のようないわば市井の建築家が市井の日常の施設として設計した建築には見向きもしない傾向があるように見える。
 まだ日本の疲弊している頃、まちづくりに賭けた人々の努力に頭が下がる思いがする。なんらかの記録をしておいてから、取り壊すものは取り壊すし、残すものは残す策を講じるのが、その時代の努力への礼儀であろう。
 
●復興建築群の保全と都市景観の継承 
 第4は、意図したかどうかは分りにくいが、ある一定の秩序ある都市景観が形成されたことを評価することができよう。
 公社20年誌に「建設省のアドバイスにより、ハンブルグ市の復興計画を参考にして」とあるが、そのどこを参考にしたのか書いてない。わたしはハンブルグに行ったことはあるが復興計画を知らない。
 いずれにしてもヨーロッパの旧市街地におけるような、街区を囲む一定の高さの建築群が、道路沿いには壁面とスカイラインをそろえて立ち並ぶ街並みを形成することを意図したのであろう。
 それは一方では、開発意欲のまだない時代に、ある程度の高度利用による開発を無理にでもさせようとして建築物の最低高さを決めて、それ以下を規制し、それ以上を誘導する仕組みをつくれば、結局は最低高さで街並みができざるを得ない。その結果として秩序あるように見える街となったとも言えるのである。
 その後、横浜市は都市デザインでは一流の都市として有名になるが、この復興建築のもたらした街並みをどう評価しているのだろうか。
 戦前に建った建物を歴史的建築物として保全する方策を出しているが、戦後復興に官民共同して力をいれてつくりあげたこの街並みの保全は、視野にあるだろうか。
 わたしは保存原理主義者の建築家が言うように古いものは何でも保存せよとは言わないが、消え行く戦災復興建築群をなんの評価もしないで忘れてしまうことはしてほしくない。
 時代を記念する建築として民有のままで保全活用するならば、それは不動産市場の中では負け組みとなってしまうことは、現に防火建築帯では家賃が安いという話がシンポで出てきたことで分る。安いから保全されるという論は、積極的な保全でないから、危ういものである。
 現物を保全するならば、きちんと評価を与えて、公的な措置を行なうべきである。
 街並みデザインとしての評価を与えるならば、現在の道路と建物の関係を生かした街並み計画をもとにして、地区計画地区なり景観地区を定める必要があるだろう。
 日本の戦災復興建築に関しては、学会でも研究も進んでいないらしいが、忘れているうちに消滅しているにちがいない。もっとも有名な戦災復興建築は、東京駅丸の内赤煉瓦駅舎であるが、これは全体が取り壊しにはならなかったが、戦災前の姿に復原することで、もっとも肝心な戦災復興の姿が消滅した。これは戦災復興建築への評価を真正面からしないままに、復原こそが修復の王道だとする保存帝国主義がまかり通った結果である。
(101215、101218)
 
 
●参考資料
・「関内・関外の戦災復興建築の保全活用を考える」(2010.12.12シンポジウム資料)
・「横浜市防火建築帯造成状況図」(横浜市1958、横浜市立図書館蔵)
・「共同建築・市街地改造の実例1,2」(日本住宅公団、日本建築家協会1964)
・「横浜市建築助成公社20年史」(横浜市建築助成公社 1973)
・「神奈川県住宅供給公社 40年史」(神奈川県住宅供給公社 1992)
・「横浜市接収の歩み」(横浜市 1997)
・「横浜市史Ⅱ資料編7戦災復興と都市計画] (横浜市2000)
・「復興計画」(越沢明 中公新書)
・「都市横濱の半世紀」(高村直助 有隣新書2006有隣堂)
・「日本の都市再開発史」全国市街地再開発協会
・「SD別冊No11横浜都市計画の実践的手法」(1978鹿島出版会)
・「港町横浜の都市形成史」(1981横浜市企画調整局)
・「自治的地域空間の構造化-自治体横浜からのレポート」(SD7110号1971鹿島出版会)
・「横浜 都市計画の実践的手法」(SD別冊No11 1978鹿島出版会)
・「都市デザイン横浜 その発想と展開」(SD別冊No22 1992鹿島出版会)
・「魅力あるまちへ・都市デザイン白書1989+1983」(1983横浜市都市計画局)
・「横浜の都市づくりー開港から21世紀へ」(1982横浜市企画調整局)
・「横浜の街づくり」(1991横浜市都市計画局)
・「伝統と未来が共存する街づくりー横浜」(Esplanade53 2000 INAX)
・「日本の都市環境デザイン1」(2003建築資料研究社)
・「横浜市の中心部の活力再生と都市デザイン」(国吉直行 2006.5 日建設計第221回都市経営フォーラム講演記録)
・「横浜関内地区その歴史的形成過程とデザイン再生モデルの研究」(2006 日本都市計画家協会横浜支部」
・「横浜関内関外地区防火帯建築群の再生スタディブック」(2009 アーバンデザイン研究体)