京の名刹 法然院の謎

方丈の建築と襖絵の出自を探る

まちもり散人
(2015年2月20日掲載、2016年8月「はじめに」を追加掲載)



目   次

はじめに

1.法然院公式サイトの方丈に関する紹介文が不自然だ

2.上皇のお姫様の御殿を探して江戸初期の御所に分け入る

3.八百姫御殿古絵図面と現代法然院方丈平面図を比較

4.「桐ニ竹図」は330年前は違う姿でお姫様の部屋に

5.法然院方丈の襖絵画家は狩野光信ではなくて時信か

6.襖絵画家を狩野光信から孝信に変更する動きについて


法然院方丈 上の間 襖絵と障壁画


1.法然院公式サイトの方丈に関する紹介文が不自然だ

 京都の鹿ケ谷に「法然院」という由緒あるお寺がある。美しい風景の寺だ。鎌倉時代の初めに、浄土宗開祖の法然上人がここで修業したことにちなんで、1680年に念仏道場建立をはじめたと伝える。

 法然院の方丈は、江戸時代の京都御所の御殿を移築した建物と伝えられ、そこには重要文化財指定の襖絵「桐ニ竹図」があることで有名である。作者は狩野光信とされている。

 2015年3月7日にBSフジTVで「法然院と知恩院」なる番組の放送があったのを、懐かしく観た。
 わたしは1960年に、法然院方丈を訪ねたことがある。大学の卒業研究は、『遺構による近世公家住宅の研究』であり、その夏に京都のあちこちの寺院にて、京都御所から移築されたと伝える建物を測量調査した。そのひとつに法然院の方丈もあった。
 このときの調査で、法然院方丈の建物は、後西天皇(1638~85年、在位1654~63年)が上皇となって2度目の仙洞御所である1675年延宝度造営の後西院御所の八百姫御殿を移築したものと特定できたのであった。

 ところが、そのTV放送では、ナレーションがこう語った。

1680年、忍徴が寺院造営に着手しました。まずは浄土宗の信仰対象、阿弥陀如来を祀るための本堂を完成させます。そして伏見城にあった御殿を移し、方丈にしました。

方丈の外観は素朴なたたずまいですが、中に入ると絢爛たる障壁画が迎えてくれます。織田信長や豊臣秀吉に重用された狩野永徳の子、光信の筆とされる作品。華やかな輝きが桃山時代の息吹を感じさせてくれる名作。

 法然院の方丈は「伏見城にあった御殿を移し」てきたものという。伏見城とはその名のごとく伏見桃山時代に建設されたものである。江戸時代よりも前である。
 おやおや、これではわたしの研究成果の江戸時代1675年建設の建物とは異なるのである。困ったことになった。
 そこで研究論文をほこりを払って取り出して読み返し、ついでにあれこれ調べてみることにした。

 まずは法然院のインタネット公式サイトを見ると、方丈について次のように記している。

1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである。狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている。

 ここにある「もと伏見にあった」の伏見とは、TV放送に言う伏見城のことであろう。
 御西天皇は江戸時代の人であり、1638年に生まれて1685年に没している。だから「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]」の記述だと、天皇も皇女も誕生以前に御殿があったことになる。
 この矛盾をどう考えるか。1595年にできた伏見城にあった建物を、後の「後西天皇の皇女の御殿」を造営するときに移築してきた、そして1687年に法然院に更に移建したと考えるのか。

 当時は天皇の代替わりごとに、江戸幕府が天皇と上皇のそれぞれの御所を新たに建てなおしていた。後西院御所もまさにそれである。そしてそれまでの御所建築が不要になるからあちこちに移築していた。だからわたしの研究は今も使われているそれらの建物を調べることだったのだ。
 幕府が新御所のしかも皇女の御殿造営に古材を使うことは考えられないから、伏見城から移築はありえないだろう。

 ここで伏見城のことを調べてみる。
 法然院サイトにある1595年の伏見城の建物とすれば、1596年に完成した指月伏見城のことになる。この城は豊臣秀吉が隠居後の住まいとするために建設したのだが、完成直後に慶長伏見地震で倒壊した。
 そこで新伏見城を北東に1キロほど離れた木幡山に新たに築いて1597年に完成、秀吉は翌年にその城内で没した。

 指月伏見城は地震倒壊したが火災は起きなかったようで、木幡山伏見城に移築再利用した建物があったと伝わる。後の法然院方丈となる御殿はそのひとつということになる。
 秀吉の死後は德川家康率いる東軍と、石田光成が率いる西軍との東西国内戦争となり、1600年8月、東軍が木幡山伏見城を攻めて炎上落城した。しかし、後の法然院方丈となる御殿は、このときも幸運にも焼け残ったことになる。

 翌年から德川家康が伏見城の再建をはじめ1602年に完成した。德川家康はここを本拠とした。その後、秀忠、家光による修築などあったが、1623年以後は廃城となり、多くの建物は破却や移築された。
 その記録があり遺構も現存する。例えば天守は京都の二条城に、他には福山城、淀城、諸寺院等に移築された。そのひとつに、地震も火災も破却も奇跡的に逃れて生き残った、後に法然院方丈となる建物があったことになる。

 だが、法然院に移築された建物は「後西天皇の皇女の御殿」だから、伏見城からいったん皇女御殿に移築され、それから1687年に方丈に移築されなければならない。
 その伏見城から京都御所に移築された年については、法然院サイトに書いてないし、いつであるか不明である。
 しかし、わたしの研究で分かったように、後西院御所は1675年造営だから、伏見城からの移築されたとすれば、この前後だろうといえるかもしれない。

 ところが実は、このときの後西院御所は、2度目の造営なのであった。後西天皇は1653年に退位して上皇になる。この時に新築した後西院御所に姫君御殿もできた。これが伏見城から移築した御殿かもしれないことになる。
 だが10年後に御所は火災焼失し、1675年新造営されたのだ。法然院があくまで伏見城の遺構であった皇女御殿の移築であるとするなら、このときも焼け残って、それをまた1687年に法然院に移築したことになる。

 つまり、伏見では地震に耐えて木幡山に移築、そこで戦火に耐え、破却にも耐えて京都御所に移築、そこでも火災に耐えて、法然院に再々移築したのは、創建から92年後であった。
奇跡の建物である。本当だろうか。

 ところで、方丈にある重要文化財の襖絵作者である狩野光信のことを調べてみた。
 狩野光信は1565年に生まれ、1608年に没している。「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]」にある1595年には30歳である。伏見城で障壁画を描いて、その中に後に法然院方丈となる御殿もあったのだろう。

 一方、わたしが調査して判明した1675年造営の後西院御所にあった姫君の御殿であるなら、このとき光信はこの世にいないから、襖絵を描きようがない。
 新御殿に古家を持ってくるはずがないし、古襖だけを持ってきて入れるはずは更にない。この襖絵は光信ではなく他の画家の作に違いない

 こうして、襖絵が光信作ならば、方丈は伏見城から京都御所を経て法然院に来た説に矛盾はしないが、その92年にわたる数奇な生き残り方が眉唾である。
 そしてわたしの説だと光信作ではないことになってしまう。

これは面白くなってきた。まとめて年表にする。
1565年 狩野光信出生
1596年 指月伏見城完成
1597年 地震倒壊により木幡山伏見城完成
1600年 木幡山伏見城が落城炎上
1608年 狩野光信没
1638年 後西天皇出生
1653年 後西院御所造営
1673年 後西院御所火災により再建
1687年 後西院御所姫宮御殿を法然院方丈に移築

 これが「京の名刹法然院の謎」物語の始まりである。わたしはこの謎解きに挑もうとしているのだ。

〇法然院の方丈は、本当に伏見城から持ってきたのか、

〇本当に御西院皇女の御殿を移築してきたものか。

〇襖絵は本当に狩野光信作なのか。

 わたしの研究で、この法然院方丈となった姫宮御殿の設計図を発見し、1675年に新築されたことを突き止めたのである。だから伏見城からの移築ではない。
 新築だからその時に襖絵も描かれたが、狩野光信は1608年に死んでいるから、光信の絵ではない。

◎では法然院方丈の出自は何か、襖絵画家は誰か。


2.上皇のお姫様の御殿を探して江戸初期の御所に分け入る

で、法然院の方丈について登場する人物、建物、襖絵についての謎を、どうかんがえようか。

 ここからは建築史を勉強している(正確には、いた)わたしの研究論文によって話を進める。と偉そうにいっても、実は研究室の教授、助手、先輩たちの手とり足とり指導の結果であるし、ここに書くための素人にわか勉強もあること白状しておく。

 天皇家のお姫様なんて、江戸時代はどこに住んでいたのか、公家住宅の歴史を研究しているのだから、皇女の御殿のありかを探ることから始める。

 後西天皇(1638~85年、在位1654~63年)には、わかっているだけで第十六皇女、第十皇子までもいたそうだ。女御との間には1男1女、その女御から1654年に生まれた第一皇女は八百姫と言い、誠子内親王とも清浄観院宮ともよばれた。1686年に没した。この八百姫というお姫様に狙いをつけよう。

 法然院方丈の前身が、後西天皇の皇女八百姫の御殿なら、どんなに早くても、彼女が生れた1654年以後に建ったはずで、法然院サイトにある1595年は無理である。
 そしてその御殿が法然院に移築されたとすれば、当然のことながら、それが不要になったからだろう。つまり、いつか分からないが八百姫が御所から出ていったか、あるいは没した1686年以後のことだろう。

 後西天皇が退位した1653年に八百姫はまだ9歳だから、その御殿は天皇の住む内裏のなかではなくて、退位後に上皇となって住む仙洞御所にあっただろう。その後西院御所の中を探そう。
 後西院御所は、退位の1663年に内裏の南側に建てられた(寛永度造営)が、10年後の1673年に焼失した。またすぐに1675年に再建され(延宝度造営)たが、その10年後の1685年に後西院が没した。

 そしてこの延宝度の後西院御所は取り壊され、各所寺院に移築されたことが各寺伝や学者によって既に分かっている。例えば京都山科の勧修寺とか、さらにそこから移築された伏見の大善寺などである。
 このときに八百姫の御殿も法然院に移築したと推測して、その延宝度後西院御所の中に、八百姫の御殿があるかどうか探すことにする。

 宮内庁書陵部には、当時の頻繁な火災で何回も建て替えられた御所の設計図を数多く所蔵している。そのなかに後西院御所の延宝度の図面(指図、1674年)もある。
 皇女の御殿は「姫宮御殿」と指図には記されるので、それをこの図の中に探すと、あった。 姫宮の名は書いてないが、女御御殿に接しているので、内親王のうちで女御の唯一の娘である八百姫の御殿と考えてよいだろう。

 その平面図を写したものが下図である。元の図は1間を4分に縮尺(1/150)して書いている。木造建築だから基本は1間(ここでは6尺5寸、約2m)をベースにしているから規模は分かる。

 この姫宮御殿が法然院の方丈に移築されたのなら、平面的に類似しているに違いない。法然院方丈の現況平面図はこの図である。これは1960年夏の実測調査をもとに、わたしがトレーシングペーパーに鉛筆で描いた懐かしい図面である。

 部屋にはすべて畳が敷いてあるから、広さの見当がつくだろう。周りはぐるりと板張りの落縁が巡っている。上の間には壁に絵が描かれた床の間と違い棚があり、ここと次の間の襖には絵が描かれ、狩野光信作と伝える。金泊の地だから描かれた頃はまばゆかっただろう。

 さてこの二つの図のどこが類似しているか。
 ねらいはどちらの図面でも、最も中心的な部屋のあたりの間取りである。中心的とは床の間があり違い棚があり、襖や壁に絵が描かれているあたりだ。移築の時に必要な間取りに変えることは多いが、格式を重んずる部屋のあたりは移築の時もあまり変えないで建てるものである。

 よーく睨んで、それを読み解く作業をこれからやるのだ。
 実は八百姫はこの御殿で没していたことが分かった。古図の中に「女御御殿方取抜」と註をつけたもの(「新院御所 院女御御指図)があり、薨去の後に女御御殿が姫宮御殿も含めて取り壊されたことを示している。
 その時期は分からないが、薨去の1686年からそう遠くない時期であるだろうし、それが法然院へ移築されたなら、法然院の公式サイトにある1687年が符合する。

 頭がこんがらかってきたので、年代順に整理する。
1595年 後西天皇の皇女の御殿が建った(法然院サイト)
1608年 狩野光信没
1638年 後西天皇誕生
1654年 後西天皇即位、第一皇女八百姫誕生
1663年 後西天皇退位して後西院上皇に   後西院御所を造営して姫宮御所も建設
1673年 後西院御所が焼失
1675年 後西院御所を再建造営して姫宮御所も再建
1685年 後西院上皇没
1686年 八百姫没
1687年 後西天皇の皇女の御殿を法然院の方丈として移築(法然院サイト)


3.八百姫御殿古絵図面と現代法然院方丈平面図を比較

 この1674年の姫宮御殿の設計図(指図)平面図と、現存の法然院方丈の平面図(1960年にわたしが実測して作った)とを比較してみよう。
 はたして似ているところがあるだろうか、どのように移築して現在のようになったのか。全く似ていなければ前提条件から崩れてしまう。
 現代の法然院方丈(以下「方丈」という)の中心部は上の間であり、10畳の広さに床の間と違い棚があって、襖や床棚の壁には絵が描かれている。実に立派な作りである。

 襖を隔ててその隣は10畳の次の間があり、ここにも襖絵がある。
 延宝度の姫宮御殿(以下「御殿」という)の指図に、「姫御殿 四間 六間」と記入のあるあたりが、10畳の間であり、床の間と違い棚があるから、ここが八百姫の部屋であろう。
 現代の方丈の上の間と同じである。隣には、現代の次の間に相当する10畳の部屋もある。その両側には広縁があって、これも現代の方丈と同じである。
 このあたりにちがいない。近づいてきたぞ。

 方丈と御殿の両方の平面図の中心部を白抜きにして示し、柱位置に記号を付けた。
 この白抜きの部分の方丈と御殿とは、ほとんどぴったりと符合する。つまり、方丈は御殿の南北についていた差出と西側(床の間裏)の広縁を取り払ったものである。

(上は姫宮御殿指図、下は現代の法然院方丈の平面図 白抜き部分が符合する)

 実測の時に発見して確かめたことだが、現在の方丈の畳縁外側の落縁の柱には、かつて指出の木材が差し込んであったことを示す穴の跡に埋め木がたくさんある。つまり移築前は、畳縁よりも外に建物がくっついていたことを示している。

 上の間と次の間の柱位置は、御殿のそれとほとんど一致するのだが、実は2本だけ異なる位置にある柱がある。方丈のD柱と御殿のE柱、そしてS柱と御殿のT柱である。普通に考えると同じ位置にあるはずだ。
 方丈では、D柱はC柱から1間、F柱から1.5間の位置に立っている。ところが、御殿ではこれに相当するE柱が、C柱から1.25間、F柱からも1.25間の位置にある。すなわちCとFのちょうど中間にある。

 御殿のT柱についても、方丈ではR柱方向に御殿よりも0.25間(約50センチ)ずれて、Sの位置に立っている。
 つまり方丈のDとSの2本の柱は、御殿の設計図のそれぞれEとTの位置から次の間の方向へ0.25間ずれて立っているのだ。

(分りやすく表現するために上の二つの図面を重ねてGIFアニメーションにした。
下図をクリックすると赤矢印の柱が移動していることがわかる)

 これはどういうことだろうか。移築にあたって、なにかの理由で0.25間だけC柱側、R柱側に寄せたのか。どんな理由だろうか。
 あるいは、御殿が設計変更してこうなったのか。
 例えば、この御殿の主となる八百姫は当時20歳、その前に居た寛文度造営の姫宮御殿が焼けて、新しく建てなおすのだから、当事者としてなにか注文つけたかもしれない。
 『前の御殿は畳の線と柱の位置がずれていて、なんだか気持ちわるかったのよ、今度はちゃんとしてたもれ』なんて。
 いやいや、移築してきたのは実は御殿じゃなくて別の建物だったかもしれないとの、疑惑も湧き出るだろうなあ。

 では現地で見ればなにか分るかもしれない。そこで現地実測調査(1960年)の時の観察や写真が役に立ってくる。
 思い出せばあの夏、研究チームは京都の旅館に泊まって、毎日あちこちのお寺に出かけて、御所から移築されたという建物を実測したものだった。祇園祭の山鉾行列もその時初めて見たなあ、見物客の中に美少女がいたなあ、寺で昼寝したなあ、ああ青春の夏のこと、なんて感傷に浸っていては謎解きが進まない。閑話休題。

 部屋の中の移動した柱のあたりの写真をみよう(下図)。これは実測調査したときに撮った方丈の上の間で、右が床と違い棚があり、左の方には竹の絵の襖があり、更に次の間がある。ここに見えるのは狩野光信作とされる「桐の図」の襖絵である。

 写真の上下に記入したローマ字は、平面図の柱記号であり、各柱はこの位置にあたる。つまり、御殿ではEの位置にあった柱が、方丈ではDの位置にあるのだ。

 ここでこの桐の襖絵にご注意を!、襖絵のEにあたる位置に、縦に線が入っており、その右と左とでは、なんだか絵の濃さも調子も違うことに気が付くのだ。
 右の襖にも何本かの縦線が見えるが、なかでも一番左の線が目立つ。
 襖絵は最初に描いたときからこうだったのか。これは何かを物語っているぞ、謎解きの楽しみが始まった。


4.「桐に竹図」は330年前には違う姿でお姫様の部屋に

 謎解きは佳境に入ろうとしている。
 法然院方丈は、17世紀の後西上皇のお姫様の御殿だったものを移築したものらしい。どちらの平面図も中心部分は酷似しているが、2本だけ柱の位置が、横にずれている。
 そのずれた柱の1本の左右には襖があり、重要文化財となっている「竹ニ桐図」が描いてある。右は桐の図で幅1間半、左は竹の図で巾1間である。

 次のモノクロ画像は、卒業研究の現地実測調査の時に撮った写真と、そのほかの文献をもとにして、上之間の「竹ニ桐図」の全部を合成、修正、切り貼りして、わたしが作った。現在の「桐ニ竹図」の襖はこのように入っているのだ。

 ローマ字の記号は、平面図と同じ位置にふってある。つまり、Dは現在の方丈の柱の位置であり、Eは院御所の姫宮御殿のときの柱の位置である。
 右(D―F間)の2枚の襖の桐の図の内、左の襖のEの位置に縦に明瞭に見える絵の継ぎ目がある。継ぎ目の位置は、左のD柱からから0.25間(約50センチ)であり、移築の前の柱Eの位置にあたる。
 その継ぎ目から左D-E間の絵は、色が濃いし、右とつながりが不自然であることは、素人でもわかる。切り張りとか、描き足した感じである。

 では、上之間の柱Dを、移築前のようにEの位置に戻したら、襖絵はどうなるか復元してみることにした。つまり、御殿から方丈へ移築の時の作業の反対をやるのだ。
 コンピューターの画像の上で、あれこれやっていると結構楽しい。襖絵の偽造画家になっている気分だ。
 D―F間の桐の図の襖は、D柱が0.25間右に寄ってEの位置にきて、その幅は1・25間となり、襖はこれを真半分にした2枚に、画像の上で仕立て直す。

 D―E間の絵を切りとり、残りの幅の襖絵をツギハギして1枚にして、これを縦に真半分に切って、2枚の同幅の襖に分けて貼りつける。
 このときに右の襖の左の方の縦線が、真半分の線と一致することが分かった。つまり移築前の襖はここから左右に2枚だったのだ。

 次は柱Dの左の一間巾の竹の図の襖である。現在はC―D間2枚の襖として入っている。Dの柱をEに移すと1.25間巾に広がる。これを真半分にした竹の図にしなければならない。
 桐の図では、いまある図を切り取ればよかったが、こちらでは今は存在しない絵を復元しなければならない。
 現在の竹の図を観ると、襖の合わせ目の中央に竹がより過ぎて、いかにもせせこましい構図になっている。これは移築の際に、2枚の襖の合わせ目の側をそれぞれ切り取って、狭くなった襖に仕立て直したに違いない。では、まず合わせ目の側を空白にしてみる。

 では、竹の図で切りとられたほう(上の画像の空白部分)は、どんな絵だったのか。
 それは、現在の図からおおよその想像はつく。岩の根元あたりに群生する竹の根元あたりを描けばよいだろう。しかし存在しない絵を復元するのは不可能だ。
 そこをわたしはいつもの「戯造」の手練手管で誤魔化して、一応それらしく偽造したのである。

 こうして「桐ニ竹図」を復元したのだが、まあまあ贔屓目に見れば、現在の方丈の絵柄よりも、この復元贋作襖絵のほうがよろしいようですが、いかがですか。

 まあ、そういうことで、とりあえず、後西天皇の皇女の八百姫が、21歳から36歳で没するまで、眺め暮らしていた襖絵はこうだったのだろうと、法然院方丈上之間襖絵「桐ニ竹図」を330年前の姫宮御殿時代の姿に復元してみた。

 では、現在の法然院方丈襖絵と移築前のオリジナル襖絵(復元図)を並べて、比較して見よう。

現在の法然院方丈上之間「桐に竹図」襖絵


移築前の姫宮御殿時代の「桐ニ竹図」襖絵

(両図とも、インターネットから拾った画像を合成修正して制作した)

5.法然院方丈の襖絵画家は狩野光信ではなくて時信か

 こうやって見てきて、法然院方丈の襖絵には、柱の移動のために仕立て直したことが明瞭に分かった。では襖に移動した跡があるのだから、建物にもそれらしい跡があるはずだと現地調査の時に詳しく観察した。
上之間のD柱が、横に4分の1間(約50センチ)ずれる前のEの位置、つまり桐の図の継ぎ目あたりの敷居、鴨居、内法長押、天井長押などを、上から下までしげしげと観察する。
 あった、見つけた。一番上の天井長押のEの位置に、かつて柱がついていた痕跡があるのだ。天井長押はもとの材を使っているのだ。

 こうして襖と長押に同じ位置(E)に痕跡があるということは、建物と襖絵とは同時に移築してきて、どちらも仕立て直したと考えて間違いない。

 では、方丈の次の間につづく、食い違いになった田の字型の4室はどうなのか(7ページ方丈平面図)。上の間、次の間とくらべて、作り方のレベルが低く、襖絵は墨絵である。御殿の絵図にはこれにぴったりとある場所は見つからない。
 この部分の実測もしたのだが、柱の太さ寸法とその面取寸法が、襖絵のある中心部と同じであった。柱の寸法は、当時の御所建築の基本的となる尺度であり、同じ建物なら同じ寸法であるから、こちらも姫宮御殿の材を使って建てたと考えてよいだろう。

 これで建物と襖絵の出自は、いちおう明確になった。
 延宝度の造営時に、指図から設計変更して柱の位置をずらしたのではなくて、法然院に移築時にずらしたのであった。移築時にずらせてくれたおかげで、建物と襖絵が同時に移築されたと分かり、襖絵の描かれた時点もわかった。
 整理すると、1675年に後西院御所に建てた姫宮御殿を、1685年に後西院が没し、1686年に八百姫が没した後に、法然院の方丈として移築したのである。
 移築の年は、法然院では1687年としている。襖絵もその時に一緒に移築された。

 さて、ここからがいよいよ襖絵の出自の核心部分である。
 この建物と襖とは、1675年に後西院御所を再建したときに建てた姫宮御所であるあるから、襖絵もその時に描かれた。ではその画家は誰なのか。

 法然院に移築された姫宮御殿が建った1675年の仙洞御所の延宝度造営に関する資料に、その造営の助役にあたった岡山池田藩に伝わる文書(「延宝度新院御所造作事諸色入用勘定帳」岡山大学図書館池田文庫蔵)がある。池田家はこの造営の深くかかわっていたのだ。

 その文書の中の「絵筆功代」に、これに携わった絵師として永真、洞雲、右京、内匠という4人の名が記されている。これ以上詳しい記述はない。
 ひとりめの永真とは、狩野安信(1613~1685)で、光信(1565~1608)の甥である。光信は徳川家御用絵師狩野派の家系で狩野宗家の5代目にあたる。永真は光信の子の定信の養子になって、狩野宗家を継いだから、光信から言えば義理の孫にもあたる。
 ふたりめの洞雲とは、狩野益信(1625-1694)で、光信の弟の孝信の孫にあたり、駿河台狩野家を起した人である。
 3人目の右京とは、狩野時信(1642-1678)のことで、狩野安信の子である。
 そして4人目の内匠とは、狩野家の門人筋のひとつである築地小田原町狩野家の狩野秀信で柳雪と称した。

  これらのうちの誰かが姫宮御殿の襖絵を描いたことになる。
 ところが21世紀の現在、この襖絵は狩野光信の作とされている。だが光信は1608年に没したから、この姫宮御殿が最初に建った、つまり襖絵が最初に描かれた1675年には、この世にいない。
 では、光信がこの襖絵の作者でないとすれば、だれか。

 上にあげた4人のうちに、右京と称した狩野時信がいる。実は時信より2代前の狩野光信が右京と称していた。後世になって混同を避けるために、光信を古右京というようになる。
 ということは、この襖絵の作者は右京時信なのだが、それを単に右京と伝えているうちに、右京光信と混同してしまったのかもしれない。
 もちろん推測の域を出ないが、この世にいなかった光信よりも、そのとき62歳であった時信の方が、ここでは矛盾がない。

 ここから先は、障壁画の鑑定のできる専門家に見てもらわないと、わたしにはまったく分らない。これまでこの襖絵が狩野光信作とされてきているのは、専門家が鑑定して、他の光信の作品と同じような筆致があるからだろう。建築史と美術史は別ものらしい。

 襖絵がつぎはぎになった原因は、移築の時に柱位置を移動したからである。それに合わせて仕立て直した襖は、どうも不様になったことは否めない。
 では、なぜ柱を移動したのか、これも推測するしかないが、次の間とそろえたかったのかもしれない。しかし次の間を変えずに、格が上位にある上の間のほうを、襖絵が不様になっても変えたのは、何故だろうか。

 建築技術的にはどうにでもなるから、なにか当時の家相とか禁忌とかがあったのだろうか、それは謎のままである。



 ふたたび法然院公式サイトの歴史のページを覗く。
1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建したものである。狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている。

 この「伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)」とは、後西天皇も皇女もどちらも生まれる前に、その御殿が伏見に建っていたことになる。
 わたしの研究成果は1961年建築学会論文として公表しているから、その成果と異なるこの法然サイトの内容は、それ以後の研究による知見であろう。
 実に興味深く、ぜひとも詳しく知りたいものである。

 なお、この襖絵が光信の作であろうと時信の作であろうと、重要文化財指定になるほどの重要な美術品であることを、わたしは否定するものではない。光信作と伝えてきたことも文化史のひとつである。
 また、当初の襖絵を移築の際にきりばりつぎはぎしたので、今の襖絵は不自然であることをもって、復元するべきと思っているのでもない。つぎはぎから300年以上にもなることも、また重要な文化史である。
 東京駅の赤レンガ駅舎のように、戦争とそこからの復興という歴史的な姿を捨てて、当初形態への復元こそが正しい歴史文化の継承であるとする
現今の文化財感には、わたしには大いに疑問がある。

 ということで、大学時代の昔へ、更に17世紀の京都へとタイムマシーンにのって旅してきたが、また21世紀に戻ってきた。わたしの1960年の卒業研究論文の一部をもとにした古建築探偵エッセイはおしまいである。
 ここでは謎の解明は完全にはできなかったが、実は今ではもう解明されているのかもしれない。それならだれか教えてほしい。

         (ここまでは2015/02/20新規掲載、2015/03/0補綴、2016/08/11「はじめに」追加掲載)

6.襖絵画家を狩野光信から孝信に変更する動きについて(2016/10/14追記)

・狩野孝信説が登場するも矛盾

 2015年から、方丈襖絵の作者を、狩野孝信とする動きがあるので、それに関してここに追記する形でコメントする

 わたしの大昔の卒業研究は、京都御所の遺構と尋ねて、その現状の実測、寺伝による出自、その検証などを行ったのであった。
 その中のひとつに、この秋に特別公開されいる法然院方丈があった。この方丈はいつもは非公開だが、春秋の京都非公開文化財特別公開のひとつとして、公開されることもある。今年の秋は公開らしい。http://www.kobunka.com/tokubetsu/

 特別公開事業の主催者・財団法人京都文化財保存協会のサイトに特別公開の一覧表があり、その法然院方丈にある重要文化財である襖絵について、「狩野孝信筆襖絵」と書いてある。http://www.kobunka.com/topics/pdf/hikoukai_h28aki.pdf

 しかし、この襖絵は、これまでは狩野光信筆とされて来ている。孝信筆も京都の権威ある団体の発表だから、まさか光信を間違って孝信と書いたなんてことはあるまい。
法然院の公式サイトを観ると、「狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)」と記載してあって、以前と変わりがない。

そこで、京都の「財団法人京都文化財保存協会」に問合せをした。ご親切に回答をいただいて、その要旨は次のとおりである。

 法然院方丈の重要文化財の襖絵の作者は、従来は狩野光信筆とされてきたが、近年の研究で狩野孝信の作とする学説が出てきた。
 2015年京都国立博物館「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち」展覧会があり、そこに出展した際に作風から孝信筆との可能性が高いと判断されて孝信筆で展示された。
 そこで京都文化財保存協会は法然院と協議した上で、今回の特別公開においても、狩野孝信筆と表記した。
 狩野孝信筆となった根拠については、当該展覧会に図録の作品解説に記載があり、それによると同時に出展の仁和寺の狩野孝信筆の障壁画と比較したところ、松の全体の構図や細部の描写がこれと酷似していたので孝信筆と判断された。

 さて、この回答の内容は、それなりに理解したが、わたしの疑問が根本的に解決するには、かなり遠いものであった。美術史の門外漢素人には、ますます興味が湧いてくるのである。
 わたしの疑問点は要するに、光信も孝信もこの建物の襖絵を描くのは不可能なのに、なぜ?ということである。
 この建物は1675年にできた後西院御所にあった姫宮御殿を、1687年に移築してきたものであり、その襖絵の画家とする狩野光信(1608年没)も孝信(1618年没)も、その建物ができたときはこの世にいなかったのだ。

 つまり、襖絵の成立時期と、その襖絵のある方丈建築の成立時期が矛盾しているのである。
 では誰の筆なのかについては、わたしたち(当時の東京工大藤岡通夫研究室)の研究では、当時の御所造営の資料から狩野時信(1678年没)であったろうと推定したのである。


・方丈の建築と襖絵は出自が別々かもしれない

 上記の推定は、方丈の襖絵が1675年の上皇御所姫宮御殿造営時に描かれており、方丈への移築時にその襖絵も共に法然院にやってきたという前提である。つまり建築と襖絵は同じ出自であるとしたのだ。
 これだと
とすると光信も孝信もありえないのだが、これを仮に光信あるいは孝信筆が正しいとしたら、どう考えるか思考試験をやってみる。
 そうなると上皇御所姫宮御殿にその襖絵はあったはずはないから、遅くとも孝信が没した1618年までには、御所ではなくて別のところで、描かれていたことになる。つまり矛盾を解決するには、襖絵と建物は出自が別々であるとするしかないのである。

 その別のところとは、どこであろうか。
 法然院がいうように「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建」の意味を、「もと伏見城にあった御殿(1595年(文禄4)建築)の襖絵を移設」と解釈すればどうだろうか。
 これならば、光信も孝信も年代的には可能性はあるだろう。つまり、方丈の建物の出自は後西院姫宮御殿(1675年)であり、襖絵の出自は指月伏見城の御殿(1595年)とするのである。
 その1595年とは指月伏見城であり、完成直後1597年に慶長地震で倒壊してしまい、木幡山伏見城に移転したのであった。

 ということは、この倒壊したときに当該襖絵は無事であって、木幡山に移して再利用され、木幡山城の廃城でまたどこかに再利用、そして1687年に方丈にやってきたのだろうか。

 あるいはまた、1597年伏見城倒壊から1687年方丈移築時まで90年もの間、その襖絵は襖からはがされてた捲り状態で、どこかで誰かに保存されてきていたのかもしれない。
 そして、移築時あるいは移築後に、法然院に寄進されて、今の襖絵のように貼り付けて仕立てたのかもしれない。
 それはいつ、だれが、どのような経緯だろうか。

・更に湧き出る疑問の数々

 このように考えていると、更にいくつもの疑問が出てくる。
 姫宮御殿を法然院方丈に移築してきたときには、それには襖絵があったはずだ。そのオリジナル襖絵は、いったいどこに行ったのだろうか。廃棄したのか。
 御所からの拝領した方丈の襖絵を廃棄することは考えにくいから、どこかに移されたのかもしれない。それはどこなのか。どのような絵だろうか。
 方丈の他の障壁画も同様の経緯をたどっているのだろうか。

 狩野派はスクールだから、画家たちは先人たちの絵を真似て画風を伝えていくので、絵に落款とか署名がないと、本当の筆者を特定するのは難しいものらしい。
 今になって光信から孝信へと変わったようだが、それにしても、長い間(もしかして移築のときから420年も)の伝承による変更を、法然院はよく認めたものである。
 いや、法然院公式サイトの記述が変っていないから、法然院は認めてはいなくて、学者や研究者がそう言っているだけかもしれない。

 美術骨董品としてみるなら、光信も孝信もほぼ同時代の有力な位置にあるから、どちらにしても絵の価値に差はないのだろうか。これがもしも無名の筆者であると分ると、たちまち骨董価値下落、さてどうなるのだろうか。
 わたしの言う時信は、桃山時代の光信や孝信に比べると、時代が江戸時代に下がるから、骨董価値も下がるのだろうか。もしそうなら法然院は認めたくないだろう。

 孝信説をだすとしても、時信説を合理的に否定することができるのだろうか。狩野時信の代表作など多くの作品とも比較研究した人がいるのだろうか。
 あるいはまた、法然院にあるかもしれない方丈に関する古文書類についての研究は進んでいるのだろうか。その上で光信から孝信への変更が出てきたのだろうか。
 どこかに発表された近年の研究論文があるのだろうか。

 わたしは研究者でもなし、まったくの門外漢の素人だから、専門的資料にアクセスできないから、ただただ勝手に面白がっているだけである。

●狩野派系図


●法然院方丈と襖絵に関する年表

1565年 狩野光信出生
1595年 後に後西天皇の皇女御殿となる建物が伏見城に建つ(法然院サイト)
1596年 豊臣秀吉による指月伏見城が完成したが直後に慶長伏見地震で倒壊
1597年 指月伏見城を廃して木幡山伏見城を造営して移転
1600年 德川方東軍が木幡山伏見城を攻めて炎上落城
1602年 德川家康が木幡山伏見城を再建して居城とする
1608年 狩野右京光信没(*法然院では方丈の襖絵を狩野右京光信筆と伝える)
1618年 狩野右近孝信没
1623年 木幡山伏見城が廃城(*建物は破却あるいは諸所に移築)
1638年  後西天皇誕生
1654年 後西天皇即位 後西天皇第一皇女八百姫誕生
1663年 後西天皇退位して後西上皇となる。後西院上皇仙洞御所造営
1673年 後西院仙洞御所が焼失
1675年 後西院上皇仙洞御所延宝度造営、八百姫御殿も新築
1678年 狩野右京時信没
1680年 忍徴が法然院寺院造営にかかる
1685年 後西院上皇没 
1686年 八百姫没(*後西院御所は取壊しあるいは他の諸所に移築)
1687年 法然院に伏見城にあった後西天皇の皇女の御殿を移築(法然院サイト)

・・・・・・・・・・・
1960年  法然院方丈の建築史的調査を東京工業大学藤岡通夫研究室が実施

1961年 日本建築学会に論文「法然院方丈の襖絵について」(平井聖、伊達美徳)を発表、方丈は延宝度造営の後西院御所八百姫御殿の遺構であり、その襖絵も同御殿のものであり絵師を狩野時信と推定

2015年 方丈襖絵を京都国立博物館「桃山時代の狩野派‐永徳の後継者たち」展覧会に出展した際に、これまで狩野光信筆とされてきたが、その作風からして狩野孝信筆との可能性が高いと判断されて、孝信筆として展示

◆元資料

・「法然院方丈について」(平井聖、伊達美徳 1961年建築学会関東支部研究発表梗概集)
http://goo.gl/bhov1y

・「遺構による近世公家住宅の研究」(伊達美徳 1960年度東京工業大学理工学部卒業研究論文)
http://goo.gl/wfxJ2w

◆参考資料

・「法然院公式サイト」 http://www.honen-in.jp/

・ブログ:ノルマ!!法然院 http://sango-kc.blog.eonet.jp/eo/2008/04/post-cbe1.html

・じゅうたのブログ http://ameblo.jp/junta-bo/entry-11668423417.html

・「狩野派絵画史」(武田恒夫 吉川弘文館 1995年)

・「別冊太陽 狩野派決定版」(山下祐二ほか 平凡社 2004年)

・「国宝・重要文化財大全2 絵画下巻)」(毎日新聞社 1999年)

・「延宝三年京都大火―日記史料に見るその状況―」(細谷理恵・浜中邦弘 同志社大学歴史資料館館報第13号


vvアクセスカウンター