中越震災から10年・復興の山村はこれから

中越震災から10年・復興の山村はこれから     

伊達美徳

●美味い米の飯を食っている日々

 わたしは美食ではない。むしろ食には恬淡としているほうだ。食い物や飲み物で好き嫌いは無いし、その方面の名物名店にはほとんど無関心である。
 一昨年のこと、眼の手術で4日間入院したら、病院食が口に合わないので困った。特に米の飯が不味い。毎度飯を残すので、看護師が体調を聞きにきた。食事担当の栄養士がやってきた。おかずは毎食変るから不味くても食うが、米をもっとうまいものを選べと言うと、保険医療で食費上限があるのでできないという。飯をパンに代えてもらった。
 そこで気が付いた。自宅で食っている米の飯はかなり美味いものなのだ。その米は新潟県の長岡市にある山村の棚田で収穫、毎月送ってくるコシヒカリである。新潟には旧魚沼郡地域の有名なブランド米「魚沼産コシヒカリ」があるが、わたしのコシヒカリは、そのすぐ隣接地域の産である。美味いはずだ。

・私が食べている米の飯のふるさと風景

・新潟県長岡市小国町法末集落の位置

小国町法末



●中越山村で起きた震災への自力復旧

 その山村は長岡市小国町法末という集落である。2004年10月、中越大地震で53戸119人の集落全世帯が避難する被害に遭った。森林と棚田と伝統茅葺民家とが織りなす日本の山村の原風景そのままだが、山林は崩れ、田畑は割れ、家屋は傾き、道路は壊れた。

・2004年10月中越地震で崩壊した法末集落内の県道

中越震災というと山古志村ばかり有名だが、実はこのあたり一帯はどこの山村も崩壊したのだ。だが、復旧、復興への取り組みはそれぞれ違っていた。
 この法末集落では、行政支援を待たずにすぐさま住民たちが自力復旧にとりかかった。集落が生きる基盤の棚田の修復が最も急務で、来年に米の作付けできるかどうか大きな心配だった。年によっては4mも積もる豪雪がやってくる前に、土に埋もれ崩れた棚田や農道を修復したい。
 ここで威力を発揮したのは集落の営農組合が持つ土木重機であり、それを操る住民たちである。被災地域のほとんどの農地が行政による復旧工事を待って1年の休耕した中で、法末集落では自力復旧で3分の2の棚田が作付けをしたこの集落では、なんでも自力でやってしまう。
 集落に住む大工が傾いた民家群を片端から修繕していった。動き傾いた鎮守の社殿も鳥居も崩れた参道階段も、みんなが力を合わせて治してしまった。あとでやれば行政から助成金が出たものを、取り損ねたことも多い。日常でも道普請の日にはみんなで道路補修をする。今は金属板がかぶさっているが、茅葺屋根の葺き替えもそうだった。

●美しい棚田は積み重なる人工の極致

 わたしがその法末集落の米を毎食に食べるようになったのは、震災の翌年2005年から所属NPOによる震災復興支援で通うようになったのが縁である。それから10年間、集落復興支援のつもりで営農組合から買っている。
 その美味い米の棚田は、山地ばかりの集落の地形を等高線に沿ってきめ細かく水平面を切り刻んで、まるで沢山の曲線定規が積み重なっているようだ。
 どこでも棚田は古来から美しい風景として愛でられるが、実はその陰には大変な技術と労働とがあることを、法末集落に通うようになって知った。
 水田だから、複雑な傾斜した地形のなかの棚田の一枚一枚のすべてに、水が文字通り水平に行き渡る必要がある。谷ばかりか尾根にも棚田はある。実はその棚田群を結ぶ地下水路が、山中にはりめぐらされているのだ。人がようやく入れるほどの手掘りトンネルを、何世代にもわたって網目のように掘り進めていき、その先に棚田を開発してきたのである。

・棚田と集落の風景



 棚田はもともと自然の斜面地形だから、棚を崩して元の姿へと常に揺り戻し作用が働く。毎年のように棚田のあちこちが崩れ、水路が土砂で埋まる。これを農作業や豪雪がない季節を狙って毎年修復する。その目に見えない技術と労力の歴史的な不断の積み重なりが、今の棚田風景である。
 その人間の作業が積み重なった棚田に、地震は大規模に自然への揺り戻しをもたらした。修復できない棚田や水路は放棄された。地震は集落に住む人を減少させたから、放棄棚田はさらに増えた。その一方では、崩壊した傾斜山地をなだらかにする復旧作業で、棚田が震災前よりも増えたところもある。

●自然に戻っていく棚田の運命

 棚田景観は、人工の極致でありながら、自然的な美しさをもつのはなぜだろうか。前近代に開発した棚田は、人手の鋤鍬による水平面づくりだから、自然地形との折り合いの曲線である。自然地形を人間の手がなぞっている。そこが美しいのだ。
 だが、近現代に開発され、あるいは震災復旧による棚田は、土木重機の活躍によるから、自然には存在しない直線によって構成される。その方が工事をしやすいし、できた棚田も耕作機械の運行に適している。
 そうやって鑑賞に堪える棚田風景は消えつつあり、棚田も米つくり工場としての容貌を供えつつある。だがその棚田米つくり工場は、この先いつまで存続するか怪しい。農業政策は集約大規模化に向かっており、棚田のような非効率的な小規模の米つくり工場を淘汰するのだ。放棄棚田は更に増えるだろう。
 棚田が減ると洪水が増えるという論があるが、それは現地を見るとちがうと思う。放棄棚田はみるみる草原に、雑木林に、森林に戻っている。保水力は減少しない。雨量が多い日本の自然は、植生のない裸地を許さないのだ。

・耕作放棄された棚田はすぐに自然の緑の覆われる

●山村には緩やかな撤退策を

 中越大震災から10年が経った。法末集落の震災時の高齢化率は69%だったが、10年経てば人々は確実に10歳を重ねて今は73%である。人口は震災時の6割に減って71人となったが、その間に4世帯の新規参入があり、2人の幼児の声が聞こえるのが明るいニュースだ。大戦争が終わった20世紀半ば頃、この集落には今の10倍もの住人が居たとは信じられない。多くの棚田が開発されたはずだ。
 人口が減るのは、高度成長期には都市に流出したが、今は超高齢者が多い運命だ。一方では豪雪の暮らしに疲れて、街に移る高齢者たちもいる。街に移っても集落に通い農業をする人たちもいるから、実体的にはそのまま人口減ったのではない。通い農業は、いわば緩やかな撤退が進む現象である。
 日本列島全体で人口減少の時代に、過疎山村はその最前線になっている。地震災害が急激な撤退へと背中を押したが、日常に急激な変化をされては農業も除雪も道普請も困る。
 中山間地の振興政策はいろいろあるが、撤退政策を聞いたことがない。だが、現地を見ると、撤退への社会的あるいは政策的な支援こそ必要だと、この10年に考え続けたのだった。
 実は今は、緩やかな撤退政策こそが必要だろうと、わたしは思う。それは政治も行政もわかっていても、言えないでいるだけだ。どこの中山間地でも人口減少が進むのは、実はそこの住民たちこそがわかっていて、自主的な撤退を進めているからだ。自主だけでは色々な無理なことを克服しなけらばならないだろうが、そこに政策が必要だと思う・

●中越山村にも核毒が降るかもしれない

 この10年間に、日本各地で震災が続いた。主なものだけでも2007年能登半島と中越沖があり、法末集落はまたもや被災した。そして2008年岩手・宮城内陸、2011年東日本大震災とあった。
 わたしは昨年の秋、2011年の福島原発事故による核毒被災地域の飯館、浪江、南相馬市小高地区、双葉、大熊、富岡、楢葉など巡ってきた。原発被災集落には、どこもかしこも転がり積み上がる無数の真っ黒な核毒ゴミ袋群がある。それさえなければ、のどかな風景と眺めつつ、ハッと気がついて愕然とした。今稔りの秋なのに、黄金の稲穂の広がりがどこにも見えないのだ。

・震災から3年半経った飯館村は、普通なら一面に黄金の稲穂の時期に、この有様

 法末集落では農地をすぐさま復旧したのに、福島では3年後になって何も収穫がない。実は法末集落は柏崎・刈羽原発から直線距離20kmに位置している。中越沖地震で柏崎・刈羽原発は火災を起こした。
 この福島核毒による無残な風景は、法末集落でも起きる可能性があるのだ。目前の風景の中に見えない稲穂の波を想像して、おののいたのだった。(2015・06・21)

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