5. 三月九日 ウェルカミング・パーティ

早朝,明るいレナの話し声で目覚めた。彼女はインターネットを用いて,東京の自宅にいる妹と喋っていたのであった。妹は高校生で,姉に甘えながら育ってきた少女なのだという。ピアノやヴァイオリンを弾きこなす姉同様,芸術的な感性に恵まれたようで,彼女が描いたというレナの似顔絵を見せてもらうと,それはアメリカン・コミックのような快活な魅力に満ちていた。絵やデザインが好きな彼女は建築家を目指しているとのことである。

レナと連れだって街へ出かけ,朝食を見繕う。コロンバス・サークル駅とホテルの中間地点辺りまで足を延ばし,隣り合って出ていた二つの屋台でそれぞれ売られている,マフィンと野菜ジュースを朝食にすることにした。

一方の屋台ではドーナッツやチョコレート・コロネのほか,スクランブル・エッグにチーズ,七面鳥のベーコンを丸いパンにはさんだマフィンを売っていた。マフィンは二人で一つを買うと丁度よい量であり,零れそうなチーズもパンもコショウたっぷりのベーコンも温かく美味である。仕事に出かけると思しき若い女性や中年の男性が,同様にパンを買い求めていった。もう一方の屋台では,野菜ジュースが売られていた。マンゴー,セロリ,イチゴ,ホウレンソウ,レモン,バナナ,……。種々の果物や野菜を混ぜ合わせる組み合わせによって,三十近いジュースのメニューが掲げられていた。その場で果実を絞って作られるジュースは非常に濃厚で,量も大人二人が満足するくらいだが,マフィンもジュースも極めて安価で,二人分で五百円もしない。野菜が手に入りにくい状況でこのジュースはオアシスの滴にも似ていた。私たちはこのマフィンと野菜ジュースの組み合わせを気に入り,のちも通うこととなる。隣り合ったマフィン屋とジュース屋は,兄弟経営かなにかだったのだろうか。

朝食を済ませたところで,歯を磨く。私が日本から持ってきた歯ブラシの隣には,レナの巨大な歯ブラシが置かれていた。彼女は歯ブラシがホテルに備えられているものだと思い,歯ブラシを持ってこなかったのである。しかし,いざホテルに到着してみると当てが外れてしまっていたので,現地のファーマシイ(ドラッグストア)で買い求めたのだが,それはまるで靴磨き用のブラシのように大きかった。一歩部屋を出ると,ホテルの廊下には甘ったるいにおいが漂っていた。各部屋のシャワー・ルームに備え付けられているボディクリームの匂いである。さて,自室のある三階からロビーのある一階へと降りようとしたのだが,このホテルのエレベーターはどうにも聞き分けが悪く,”下”ボタンを押したはずがなんと十八階まで上昇してしまい,何食わぬ風を装って,乗り合わせた宿泊客と軽く挨拶を交わし,再び降りる羽目になった。朝方のエレベーターは非常に混んでいることがあり,我々は,宿泊している三階からロビーのある一階までの移動に,時折こっそりと非常階段を使うこともあった。

ロビーで落ち合うと,一行は連れ立ってホテルを発ち,地下鉄でコロンビア大学へと向かった。この街は,朝晩は寒く,昼は暑い。また,非常に乾燥していた。洗濯物が乾きやすいのはよいのだが,この日は”水商人”田屋からせっかく買った水をホテルに忘れ,悲惨な目に遭った。

午前中は,前日も訪れたノースウェスト・コーナー内の,生物化学や脳神経科学の研究室を見学した。それぞれの研究室では,分子間相互作用において生じる引力の測定や,運動中のマウスの神経細胞の興奮の測定が行われていた。新しく建ったばかりの研究棟で,様々な研究室が他の古い建物から続々と引っ越してきているとのことだった。この棟では学融合,学際性を理念に掲げており,物理や化学や生物,コンピューター・サイエンスなど様々な学問が融合し,新しい学問領域を拓いていこうとしているそうだ。こうした理念自体は日本でも,とりわけ東大でも盛んに唱えられていたが,コロンビア大ではその何歩も先を行く,より実践的な取り組みがなされていた。研究内容の異なる複数の研究チームで実験機器や休憩スペースを共有する仕組みを作り,自然に研究交流が生まれるような工夫がされていたのである。しかし,このノースウェスト・コーナーを建ててしまったところで,コロンビア大学のメインであるモーニングサイド・キャンパスの敷地はいっぱいになってしまい,次の建物からは,北方にある医学部キャンパスに建てられるらしい。

昼は,現地に勤務する二人の日本人研究員とプログラムメンバーらで,構内のバイキングに行った。中途,売店があったので,飲み物をホテルに忘れた私は,干からびる前に飲料水を買い求めることができた。売店のブースには,水のほかにピンク色や黄緑色,紫色の”ビタミン・ウォーター”も並んでいた。それまでにも,道端で朝方ジョギングをしている人が,しばしばこのボトルを持っているのが見うけられた。ここで私も一つ飲んでみようかと思ったのだが,血相を変えたレナに止められてしまった。彼女はボストンに滞在していた折,やはりその鮮やかな色合いに惹かれてビタミン・ウォーターを飲んでみたところ,二杯目は遠慮したい味だったのだそうだ。

バイキングではピザパンと豆サラダをトレイに乗せ,会計を済ませてテーブルに着いた。日本の学食に近い形態である。二人の研究員は生物学の研究をしているとのことで,レナや小松が所属する生物情報科学科に興味を惹かれたようだった。生物情報科学科はまだ解説数年の若い学科であり,コンピューター・サイエンスを用いて複雑な生命現象を解析しようとする先鋭的な学問を進めている。二人の研究員は,自分たちもそのような研究をしたかったのだと言った。けれど,彼らが学生であった当時,日本,東大では生物情報科学はまだ黎明期であり,系統だって勉強,研究することが出来なかったためにアメリカに渡られたのだという。

二人はまた,アメリカの研究環境についても話して下さった。研究に関わる雑用,即ち実験器具の洗浄や試薬の管理調製,実験室の清掃といった作業,また手順の決まった実験は全て専門の業者や技術員が行ってくれるとのことだった。日本では通例,研究室の維持管理は研究員や学生が行っている。うすうす耳にしてはいたが,これらのシステムの違いは良くも悪くも,研究現場に立っている者たちが持つ,研究に対する価値観へ,少なからぬ影響を与えるのだろう。

「ところで,皆さんは自炊をしていますか。」

曽の質問で,唐突に,話題は食べ物のことに移る。どうやらこちらの食事に馴染めていないらしい。前日,全員で朝食を共にした時も,その前,到着直後に初めて全員で夕食をとった時も,大きなパンや,日本とは味付けの違う料理に苦労している様子がうかがえた。

「そうだね,基本的には自炊だな。でも,こっちの住宅には魚焼き機なんかついていないから,ほんとの日本食は難しいね。」

そう答えると,若い研究員は少しだけ寂しそうに首をひねった。

食堂を後にし,広い通路沿いに歩いていくと,コロンビア大学の研究棟と見まがうばかりにごく自然に,バーナード・カレッジがあった。このカレッジは,コロンビア大学の敷地内にある提携校で,コロンビア大学第十代学長の言を発端として一八八九年に創設された,全米最難関の女子大学だそうだ。本当は別の日にこちらも見学したいと思っていたのだが,大学休暇のせいかなしのつぶてで,叶わなかった。

法学図書館の方角へと戻り,チャペルの横を通り,シェーマ―ホルンと名付けられた建物へ向かう。レンガ色と白を基調とした,可愛らしい,少し古典的なペンションのような佇まいだ。十四時から訪問することになっている,”生態・進化・環境生物学”の研究室群が,この中にあるはずだった。

十階でエレベーターを降り,細い通路を抜けてから一階分階段を上がる。白と緑を基調とした壁や,ガラス張りの明るい部屋。他の建物にも共通する開放的な作りだ。そのうちの一つのドアを開けると,壮年の,ほっそりとした,飾り気のないジーンズ姿の女性研究者が現れた。霊長類学者のマリナ・コーズ先生である。彼女がにっこりと笑うと,白く整った歯が見えた。まっすぐな灰色の目をした,気品ある面長の素晴らしい美人だった。

小ぢんまりとしたコーズ先生のオフィスの中央にはデスクがあり,それを差し挟んで我々は長いこと話をしていた。壁際には本棚があり,学術書がひしめいていた。反対側の壁にはコーズ先生の研究現場であるケニアの地図が貼られていた。残りの壁はそれぞれ窓と出入り口で,窓からはキャンパスの学生寮が見えた。本棚には,幼い姉弟の写真が飾られている。それはコーズ先生の二人の子供で,今はもう大学生と高校生になっているのだそうだ。コロンビア大学の一年生になった姉は父親と同じ物理を専攻していて,弟はピアノが素晴らしくうまいのよ,とコーズ先生は笑っていらっしゃった。

コーズ先生はケニアでブルーモンキーの社会性を研究しつつ,生態系の保全活動をなさっている。ブルーモンキーは,お馴染みのニホンザル(アメリカではスノーモンキーという美しい名で呼ばれていた。ニホンザルはヒトを除く霊長類の中で最も北にすむサルである。)と同じオナガザル科のサルであるが,彼らはお互いを顔で見分け,親子や兄弟,友人,ライバルといった社会的役割を記憶し,複雑な社会関係を結んでいる。霊長類の社会性は,それ自体興味深いのみならず,人類の社会性の起源を考えるうえでも重要なテーマである。私は,私と同じ研究室でテナガザルの社会性を研究している,博士課程の学生に言及した。彼はテナガザルのラブ・ソングを歌うことができる,と,拙い英語で私が言うと,コーズ先生は目を丸くして,おかしそうに笑って下さった。

さらに彼女は,ブルーモンキーの行動を観察するために滞在するケニアの環境についても話して下さった。近年の都市開発,農地開発のために森林が切り開かれ,霊長類が居住地を追われている,と彼女は顔を曇らせた。彼女はケニアで,現地の土地開発者に向けて環境保護のためのレクチャーを行うこともあるのだという。また,ケニアの人々の助力を得,行動を共にしながら研究を進めるうち,彼女は彼らが,コーズ先生の研究グループのアメリカ人よりも視覚や聴覚に優れ,さらに方向感覚や記憶力にも優れていることを見出したそうだ。これは,人類文化の歴史的変遷について論理的に考察したジャレ・ド・ダイアモンドの名著”銃・病原菌・鉄”にて述べられている,ニューギニア人の能力にも似た洞察であり,非常に興味深かった。

親切で気さくなコーズ先生との対話は大変濃密で貴重な機会だったが,それだけに,こちらに,英語を正しく理解し表現する能力が不十分なのが非常にもどかしかった。

我々,生物や化学を専攻するメンバーが個人行動をとっている間,物理学科のメンバー五人は,コロンビア大の物理学科の学部生の授業に参加したり,研究者らの講演を聞いたりしていたようだ。

夜はディナー・パーティだった。前日にウエムラ先生が用意して下さったスケジュール表によると,パーティ料理は”素晴らしい日本食レストラン”から用意されると書かれていたので,我々は期待に胸を膨らませていた。固い繊維の絨毯が敷かれた教室には,五十人余りの研究員や学生,教員が集まってきた。握り寿司に巻き寿司,焼き鳥,唐揚げ,そしてまるで南国の花畑のように鮮やかなサラダ。さまざまなご馳走が所狭しと並べられており,我々は舌鼓を打った。驚いたことに,現地の人も箸を器用に使って寿司を食べている。ところで,並んだ料理に混ざり,”soba”と書かれた不思議な容器があり,皆の注目を集めていた。その中には黄色く脂ぎった液体が入っていたが,テーブルには当の”蕎麦”の影も形もなかったのである。

ともあれ,マックス・プランク研究所からやってきたドイツ人,アルコールが一滴も飲めないロシア人など,ここにも多様な出身の人が集まっていることが分かった。ロシア人の学生は,のちに自らの居室を案内してくれた。学際性を重んじる学風とはいえど,彼が他分野の専門書を読んでいると,時に他のメンバーから面白くなさそうな目で見られることもあるのだという。研究室メンバーには中国出身者が多いのだそうで,共用の居室には中国語の本も散見された。パーティが盛り上がった頃,東大から短期訪問していた大学院生が短いスピーチをしたのち,我々のグループの荒川が,ヨーヨーのパフォーマンスをすることになっていた。荒川は,黒目がちな,人懐っこい物理学科の学生だったが,ハワイですばる望遠鏡を用いて行う天文物理学の研究に加わり,意欲的に成果を上げていた。荒川は,軽快な女性ボーカルの音楽に乗りながら,単振動や角運動量保存則,力学的エネルギー保存則といった,物理学者がにやりとするような機知に富んだ解説を交えつつ,ヨーヨーにその解説に対応するような動きをさせるよう,その都度曲芸のようにヨーヨーを操りながらダイナミックに踊ってみせた。誰もが息をのみ,この若い東洋人を凝視していた。我々も身動きだにせず,彼に見入っていた。鵜川は真剣な面持ちで荒川の動きを撮影していた。

大盛況のうちにパフォーマンスが終わると,いよいよ,パーティのメイン・ディッシュが明かされることとなった。そして,先ほど皆が頭をひねった,”soba”と書かれた液体の正体も。テーブルの上に置かれていた,南国の花々のように華やかなサラダ。平たい容器の中に飾られた,色とりどりの野菜。その下には……蕎麦があったのである。一人の研究員が訳知り顔で,黄色い汁を”サラダ蕎麦”に掛けると,巧みな箸使いでそれを皿に取り,嬉しそうに食べ始めた。これがメイン・ディッシュだったようだ。あっけにとられるメンバーらをよそに,命知らずの五所女史がそれに倣う。彼女はいつでも勇敢で,ユーモアに富み,好奇心にあふれていた。私たちも恐る恐る試してみると,やはりそれは見たままに生野菜の乗った蕎麦と,油ベースのソースを混ぜた不思議な味であった。どうやら,スパゲッティの装いを取り入れたきわめて斬新な創作料理のようだ。とはいえ,料理は概ねおいしく,メンバーたちは海苔巻や唐揚げなどを幾つも持ち帰って翌日の朝食にすることにした。

帰りがけ,ファーマシイ(ドラッグストア)に立ち寄った。ここでは,そろいの青い服を着た従業員が始終お喋りをしながら働いており,食料品,化粧品,薬品やちょっとした日用品が売られていた。興味深かったのはとりわけ化粧品である。ここアメリカでは様々な肌の色の人がいる。日本のように,多くの住民が似通った肌の色をしているわけではない。ゆえに白粉も様々な色が取りそろえられていた。ごく淡いベージュから,濃い褐色まで。特に肌の色の濃い人たちは,目元や頬に塗るアイラインやアイシャドウ,頬紅が淡い色だと目立たず,使える色に制約があるせいか,その分爪を鮮やかな色に塗っている人が多かった。時折男性もマニキュアを塗っていた。ファーマシイの棚にも,蛍光ピンクやペンキのような水色,枝豆のような黄緑色など,個性的な色合いのマニキュアが並んでいた。

また,アジア料理が人気らしく,食料品の棚にはタイやインドのインスタントカレーが数多く売られていた。キリスト教の復活祭が近かったので,復活を司るとされるうさぎや卵の形をしたチョコレートやちょっとしたおもちゃも並べられていた。ファーマシイを出ると,レナと私は,ホテルに近い青果店でバナナをひと房買い求め,小腹がすいた時のための備えとした。バナナは日本で見るものよりもずっと長く,ゆうに三十センチはあるのではないかと思われた。

就寝時,枕元を見ると,今朝がたチップとして枕元に置いた一ドル硬貨がまだ残っていた。枕元の明かりに照らされたコインは,自由の女神が彫刻され,つやつやと金色に光っている。ルーム・サービスをしてくれるメイドたちは,チップとして紙幣は受け取ってくれるが,貨幣は持って行ってくれないようだった。紙幣より貨幣の方が,見た目は数段よいように思うのだが。枕元のコインというモチーフは,欧米の伝承に登場する妖精を思わせた。

その後,朝の九時頃ホテルの廊下にいると,ベッドを整えてくれる妖精,もとい,ヒスパニック系のずんぐりした中年女性が,シーツを乗せたワゴンを押しながら,部屋の掃除をして回っているのに出くわす事があった。どうやら,この国では幾つかの職業とルーツには関係があるらしいことも判ってきた。けれど彼女らはいつも陽気に,”よい一日を!”と声をかけてくれるのである。