万葉集と東アジア  ─ 太陽は東から昇り、文字は西から渡来する


目次

レポート概要
1. 籠(こ)もよ み籠持ち
2. 埼玉県日高市・高麗郷民族資料館
3. 西大寺跡からイスラム陶器=8世紀後半、国内最古-海上交易知る手掛かりに・奈良
4. 福沢諭吉と万葉集
5. 万葉集の子孫たちの恥ずべき行い
   a) 秀吉軍撃退の「北関大捷碑」を旧日本軍は持ち帰り、靖国神社に置いていた
   b) 「朝鮮王朝実録」を返還

   c) 唐・新羅の間にあった歴史的文化財は、略奪され2009年の現在も東京の皇居内にある!

6. むすび
    

[レポート概要]

社会人聴講生として、上代文学講義1 上代文学講義1日本文学講義I (梶川信行先生)を聴講させていただいた.

万葉集は、自分も属する日本人と呼ばれる民族の文字と詩のはじまりであると理解しているので、一般人として、より深く理解したいとの立場で聴講を受けている.

人間社会の発展を見ると、いくつかの側面がある.
  1. 労働と言葉の発達
  2. 交流と交易
  3. 略奪と侵略
また、交流と交易、略奪と侵略の中で、思いや感情、思想を形にあらわす「芸術」のいろいろな形が生まれている.

万葉集は、日本の文字・詩(歌)の始まりで、かつ交流と交易の過程で生まれた文化遺産であると考えられる.

この文化遺産を、いかに理解し継承するか、ここには歴史をいかに理解し、教訓とするかの問題が重なっている.


民族の文字も、詩(歌)の感覚や形式も、万葉集の成立の過程で完成した.

万葉集は、東アジアとの交流・交易の流れの中で生まれた.


ヒトやイネのDNA自体も大きくは西から流れてきている.
朝鮮半島からのルートは、その部分では北からのルートであるが、大きくは東からのルートであるといえる.
南の海からのルートについても、同様に考えることができる.

では、われわれの祖先は、西で開発された技術、石器、土器、青銅器、鉄器、稲作、文字などの先進技術を、ライセンス料を支払わず、無断で使用し自己のものとしただけなのだろうか? 

受けた聴講と、このレポートを書く過程で得た回答は、以下のとおりである.
  1. 文字の採用・改良・発展も、自然や物事に対する受け取り方、その表現である詩(歌)の様式も、交流と交易の中で作り上げられてきた.
  2. 交流と交易の基礎には、労働(生産活動)があった. 人間は労働・生産活動の中で交流・交易を発展させてきた.
  3. 交流・交易の大きな方向は西から東へであった. 具体的には文字の記録と、文化人類学や考古学上の諸事実がかなりの程度明らかにしている.
  4. 交流・交易のルートは、時代と地域により変化する. 
  5. 万葉集の場合、中国文化の影響は、主に書物を通じてのものであった.(梶川信行「東アジアの中の[万葉集」)
  6. 万葉集(詩的感覚、表現形式、文字)と朝鮮半島の国々との関わりは、人間同士の直接的な交流を通してであった.とりわけ百済系の人たちがより重要な役割をはたした(同上)
  7. 交易と交流のルートは、平行して略奪と侵略のルートでもあった.(モンゴル帝国の例. ヨーロッパからエルサレムへの十字軍の例. 日本の台湾、朝鮮半島の植民地化、中国東北部から中国全域への対中15年侵略戦争など)
  8. 万葉集の精神には、略奪と侵略はない. 勤勉な労働と他民族との交流がある. 日本人と呼ばれている民族は、歴史と万葉集を学び、そのすぐれた部分をのばすべきである.
  9. 万葉集には、「勤勉な民衆の文化」と「権力・支配階級の文化」の2側面がある.それは、その時代の社会構造を反映したもので、支配・被支配の階級関係は(伝統と文化)として、現在までも政治・経済・文化に色濃く残っている. 現在に生きるわれわれは、万葉集が持つ、時代を超えた人間の真実の活動の本質を理解し、現在と将来を見る鏡としたい.
なお、上記6には、以下の内容を含んでいる.
  • 文字は、西から、特に朝鮮半島からの渡来系の人々を介して日本に渡来した.
  • 文字(を含む水稲技術、鉄、その他の知識・技術)の渡来は、和(倭)人が受身として、無償で受け容れたと受け取るべきではなく、正当な対価が支払われていたと考えるべきである. 

    根拠: 

    1.縄文以前から日本海沿岸地帯と朝鮮半島との間には、交流があった.

    • 富山県糸魚川で産出するヒスイが、朝鮮半島でも出土している.
    • 隠岐の黒曜石が、アムール川流域を含む沿海州地方の石器時代遺跡に大きな割合で出てくる. ─ 森浩一「古代日本海文化と潟港」─ 文部省科学研究費重点領域研究「地球環境の変動と文明の盛衰 新たな文明のパラダイムを求めて」公開シンポジュウムから) 
    • 韓国におけるヒスイ勾玉の出土は、日本における鉄の出土状況に対するかのように増減している. これは、朝鮮半島から鉄が、日本からはヒスイ勾玉が交易されたことを示す.(寺村光一「日本の翡翠」)

    2.朝鮮半島からの渡来人を和(倭)人側lは、平城京や関東などに積極的に受け容れている. 

    3.上記は、日本と朝鮮半島の間には、物や技術の相互交流があったこと、政治・経済の交流があったことを示している. 文字はその中で「渡来」した.これを、一方的な「渡来」と理解するべきではなく、和(倭)人側にも、それを受け容れるための相互交流の対価を支払っていると理解するべきである.

  • 万葉集に見られる、(現在でもうらやましい)美意識も、和(倭)人が単独に取得し、その結果を渡来した文字で表記したと単純に理解するべきではなく、事物の感じ方、その表現(言葉、リズムなど)様式も、和人と渡来人の積極的な交流の中で、発展してきたものである.

  • 日本の民族も、純水(水素と酸素の化合物・H2O)のように純粋な「日本民族」はありえない. 「日本民族」は「東アジア諸民族との交流の中で生まれてきた国際的な民族」である.

  • その「日本民族」が、自身の国際性を忘れ、「島国の論理」を信奉し、自分の国だけから太陽が昇る(国名も『日本』となってしまった)と考えたとき、(現在もそう考えているようであるが)日本民族は、国際的な尊敬を得る立場を失ってしまった.そして、侵略戦争の道に進み、いまだにその考え方・政治の仕組みから卒業しえていない.

  • 万葉集の成り立ちと意味を学び、その積極的な面(国際性と、芸術性と勤勉な労働)が、先人が残した文化遺産であり、これからのわれわれの指針でもあると理解したい.



1. 籠(こ)もよ み籠持ち



籠毛與  美籠母乳
こもよ   みこもち

布久思毛與 美夫君志持
ふくしもよ   みふくしももち

此岳迩    菜採須児   家告閑    名告紗根
このおかに  なつますこ  いえのらせ  なのらさね

(鶴 久・森山 隆編 万葉集 巻第一 一より)


このヤマトウタの出だしは、日本の歌(詩)の中でも、形からも感性からも美しい.

形からは、(a)最初の4句が、音節数で 3、4、5、6 と、ととのっている.
(b) 第2句の最後の2音節と、第4句の最後の2音節が「もち」で、ととのっている.
(c) 第1句の最後の2音節と、第3句の最後の2音節が「もよ」で、ととのっている.
(d) 第1句から第4句まで、最後から2音節目が「も」で、ととのっている.
(e) 第2句と第4句の第1音節が、「み」で、ととのっている.
(f) 第5句から第8句までの4句は、各5音節、計20音節から成るが、ナ行の音節が7音節(の、に、な、の、な、の、ね)と、3分の1(以上)が「ナ行」でそろえられている.

意味からは、(a)第1句と第2句が対句、第3句と第4句が対句、第1、2句と第3、4句のそれぞれ2つの句の対句が対句と、ととのえられている.
さらに、第5句・第6句の呼びかけ(このおかに、なつますこ)に対して、第7句と第8句が対句となっている.

感性の上からは、おそらく採集経済の中で、若い女性が野で、菜を摘んでいる、その姿を美しいと感じ、その自然な感覚を歌ったものだろう.
その感覚は、自然で、素朴で、ごくあたりまえの感覚であるが、しかも日常生活あるいは労働の生活の中での人間が持つ人間らしい感情 ─ 詩のはじまりだ.

その詩のはじまりを、文字として記録した、それが万葉集なのか?

それは、形の上での単純にすぎる理解ではないだろうか?


詩は、言葉と共にある.

言葉は、社会生活・生産活動と共にある.

生産活動は、近隣社会との交流の中で発達する.

「現在でいう日本」の生産活動、石器・土器・銅器・鉄器・稲作の発展は、東アジアとの交流・交易の中で発達した.

ヒトやイネのDNAは、人間や稲が(広義に)西から、あるいは(狭義に)北から、西から、南から来たことを示している.


すると、現在でいう日本語は、縄文(あるいはそれ以前)から弥生への数千年、数万年の間に広義に西からの、より直接的には海のへだたりの少ない朝鮮半島との交流の中で発達してきた. (しかし、狭義には南からあるいは西との交流の跡も残っている)

この理解(一般の社会人聴講生としての理解で、専門家としての理解ではない)は、以下の理解によるものである.
  • 「現在の『日本人』の祖先は、数万年単位の期間にもおよぶ広義の西からのヒトDNA移動の道と同一の道をたどり、日本に定着した.
  • その過程は、おそらく「食」を得るための戦い・「労働」であり、新しい環境との労働を通じての戦いであったろう.
  • その、あるいはそれまでの過程で、火が獲得され、言葉が開発され、さらに石器・土器、青銅器・鉄器の開発利用が進んだのだろう.
  • 技術の発達と平行して、技術やより強い武器を利用するものが、弱い者たちから食や生産物を奪う略奪の習慣も生まれ、同時に弱い者をも養う人間社会の発達につながっていったのだろう.
  • 漢字は、中国で生まれ、東に流れていった.

漢字が日本にたどり着く以前にも、人間は日本に定着していた.
その時代の人間には、一定の詩的な感情を持ち、音声だけによる歌をもっていたのだろうか?
その歌には、5、7なりのリズムをもっていたのだろうか?
その歌なるジャンルがかなり一般化していて、文字が入ってきたときに、歌の音(音節)にあわせて文字を当てはめたのだろうか?

それが、 
「籠毛與  美籠母乳 (こもよ みこもち)」となったのだろうか?
その音の記録法(文字)が便利だということで、万葉集につながったのだろうか?

それは、一見可能な説明であるように見える.

一般社会人としてのこのレポートの作成者(筆者)には、聴講開始時、それを完全な説明としては、受け容れ難かった.
そして、レポート作成時の今、別のより満足できる解答を見付けたと感じている.

否定された理解: 先住民である和(倭)人が、原初的な歌の蓄積をもっていて、漢字と共に渡来した渡来人の主導で表記した表記法から万葉集が生まれた.

否定された理由: この理解では、
和(倭)人は、文字の導入に関して、対価を支払っていない(努力なしに、文字が導入された). この理解は、単純すぎてどことなく釈然としない. (釈然としないのは、民族的な自尊の問題かもしれない. その問題は個人的な感情の問題であり、歴史の事実とは無関係かもしれない. しかし、釈然としていなかったのは事実である) 

得られた理解できる理解: 文字の導入、万葉集の美的感覚・その音としての表現様式、文字(漢字)の国字化(万葉仮名から漢字かなまじり文へ)は、西との交流、より直接的には朝鮮半島と、そこからの渡来人との交流の過程で実現された. その交流は、西から東への単純な一方交通ではなく、長い期間にわたる人と物の相互交流であり、交流にこそ、その時代の先進技術(水稲技術、鉄器、文字など)の導入・定着・発展の基礎があった. その交流は、人・物・技術の相互交流であり、けっして一方的な単純なものではなかった.

反面、万葉集には、支配階級と被支配階級の階級社会(その社会構造は、21世紀の現在までつづいているのであるが)の構造を厳しく反映している.その関係は、国際関係にも拡大され、平和な交流と平行して略奪と侵略の関係も存在した.

しかし、万葉集には、それらの歴史的な社会構造の反映という性格をも乗り越えた、人間の本質とも結びついた「心と(人間関係をも含めた)物事との関係」「詩のもととなる人間の美意識」「美意識の表現としての形式」など、詩の本質の豊富な体系となっている. それは、詩の教科書であり、歴史の教材でもある. 

万葉集から、日本民族の国際性と、人間性にもとづいた美意識を正統に引き継ぎ、発展させるべきではないだろうか?



(参考) 国立博物館 「日本人はるかな旅」展から

私たち日本人の祖先となる集団が、日本列島へ最初にやって来たのは、今から4~3万年前だったと考えられます。彼らは、お よそ10万年前にアフリカで誕生した新人(ホモ・サピエンス)の直接の子孫でした。日本列島における人類の歴史を見る前に、人類がアフリカで誕生してか ら、新人に進化し、そして世界へ拡散していった、600万年に及ぶ長い歴史を振り返ってみましょう。

シベリアは、かつて「白い静寂の大陸」あるいは「マンモスの大陸」とも呼ばれた地域です。アフリカで誕生した人類が、な ぜ、この酷寒のシベリアをめざしたのでしょうか。人類史の七不思議のひとつであり、今なお確かな理由はわかりません。しかし、2万年以上前の旧石器時代、 技術開発と創意工夫によって寒さに挑戦し、ついには寒さを味方にして、シベリアでマンモスを狩って暮らしていた人々がいたのです。そして、彼らが私たちの 祖先集団の一つであったことが近年の研究で明らかにされています。

およそ6万年前にアフリカを出発し東南アジアにやってきた新人(ホモ・サピエンス)たちは、海水面の低下によって生じた広 大なスンダランド(インドネシアとその周辺を含む亜大陸)を発見しました。彼らは、気候がよく豊かな食物資源に恵まれていたスンダランドで人口をふやし、 次への発展に備えていました。
ある人々は、海を越え、東隣のサフールランド (オーストラリアとニューギニアを含む大陸)へと旅立っていきました。また、陸を踏破し海を越え、何世代もかかって、中国や日本列島にやってきた人々もいたことでしょう。

およそ1万年前の完新世になると、黒潮の分流が対馬海流となって日本海側にも進入し、現在と同じように温暖湿潤なモンスー ン気候が広く日本列島を覆いました。各地に実り多い恵みをもたらす森林が発達した結果、陸海のさまざまな食料資源を活用し、豊かな文化を育む縄文時代人の 生活が始まったのです。
南九州では、豊かな照葉樹林のなかで大集落が発展しましたが(上野原遺跡)、約6500年前の鬼界カルデラの巨大噴火で、南の縄文文化は消滅してしまいま した。青森県では、対馬海流を利用した「海の交易センター」が成立し(三内丸山遺跡)、北海道礼文島には貝アクセサリーの工場が存在していました(船泊遺 跡)。

第5章 そして日本人が生まれた

縄 文人は、四角く立体的な顔で、小柄ながら筋肉質の身体つきをしていました。およそ2300年前に中国や朝鮮半島から渡来してきた弥生人は、長く平坦な顔 で、大柄な身体つきをしていました。彼ら渡来系弥生人は、九州北部から日本列島各地に広がり、縄文人と混血しつつ、本土人の主体を形成しました。彼らと共 に渡来した文化は、在来の縄文文化と融合して、弥生文化を生み出しました。水田稲作技術は、食生活だけでなく、日本人の意識をも変えていくことになりま す。
渡来系弥生人の影響が少なかった北海道と沖縄では、それぞれアイヌと琉球人が縄文人の姿形を色濃く残しながら、独自の文化を築いていきます。その結果、いま、日本列島には、アイヌ・本土人・琉球人という三つの民族集団が住んでいるのです。

(以上 http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/1/index.html から)



2. 埼玉県日高市・高麗郷民族資料館

一人の老人が守っているこじんまりとした民族資料館
JR高麗川駅のタクシーの運転手でさえ、その名前を知らない

裏にまわると、十数メートル下を豊かな水量の高麗川が流れている
高さ数メートルの大きな岩、おそらく数千年前からその場所にあったのだろう

続日本紀』によると、716年霊亀2年)、武蔵国高麗郡が設置された際、
東海道七ヶ国から移された1799人の高句麗人を移したという.


668年新羅に滅ぼされた高句麗からの渡来人を移し置いたもので、
703年には高句麗王族とされる高麗若光に朝廷から王(こきし)姓が下賜されている.
(Wikipedia)


朝鮮半島からの百済系渡来人、文字を伝えた主役たち、共演者として、それを受け容れた和(倭)人たち
彼らが、ともにヤマトウタの感覚と形式をつくり、今に伝えている

文字の伝来は、長い東西交流の1つのできごとなのだろう
ヒトやイネのDNAは、それが西から東へ流れてきていることを示している


日本でも、日は東から上る
しかし、イネ・鉄・文字などの先進技術は西から(北から、西から、南から)伝わってきた

(それは受け容れた側が、無償で、努力なしに、受身で受け容れたことを意味しない
そこには、数千年(あるいは数万年)におよぶ、縄文時代(あるいはそれ以前)からの交流と交易の歴史があったのだ)


高麗川に横たわる1つの大きな岩、
千数百年前には、確かにそこにあったに違いない

今、天の川の下で高麗川の小さな橋から下を見れば
おそらく水の流れる静かな音が聞こえることだろう

その音は、嵐の夜は荒々しくなるのだろうが
概して水は静かに流れている

水は、流れ続ける
不思議なことだ

(2009年7月17日)


日高市は、埼玉県の南西部に位置し、首都50キロ圏内にあります。東西約11.1キロメートル、南北約6キロメートルでほぼ矩形をなし、東は川越市、南東は狭山市、南は飯能市、北は坂戸市・鶴ヶ島市・毛呂山町に接しています。

東部はなだらかな台地で武蔵野の面影が色濃く残る市街地となっています。西部は秩父山地と高麗丘陵で、標高200~300mの丘陵・山岳地帯です。 そして丘陵と台地の間を高麗川が東に流れています。 (日高市のホームページ  http://www.city.hidaka.lg.jp/0902/kurashi/minzoku.html より)



3. 西大寺跡からイスラム陶器=8世紀後半、国内最古-海上交易知る手掛かりに・奈良

2009年07月04日、 読売新聞は「西大寺跡からイスラム陶器=8世紀後半、国内最古-海上交易知る手掛かりに・奈良」と題する記事と、「奈良・西大寺旧境内  海越え、ペルシャの輝き…西大寺にイスラム陶器」と題する解説を掲載した.

奈良市の平城京にあった西大寺旧境内で、西アジアで作られたイスラム陶器の破片19点が出土、市教委が3日発表した。「神護景雲(じんごけいうん)二 年(768年)」の墨書がある木簡とともに見つかり、8世紀後半のものとみられる。国内最古のイスラム陶器で、年代が特定できる例は世界的に珍しい。「海 のシルクロード」と呼ばれる海路で中国を経て運ばれたとみられ、市教委は「アジアの海上交易や文化交流の歴史を知るうえで、貴重な発見」としている。 (全文 下記)


1万数千キロの波濤(はとう)を越え、西アジアから奈良にもたらされた一つの壺(つぼ)。 約1250年前、アジアの東西で繁栄した大国、中国・唐とイスラム帝国を海路で結んだ「海のシルクロード」が、日本までつながっていた確かな証しだ。奈良 市の西大寺旧境内から出土したイスラム陶器の破片は、ペルシャ湾の海の色を思わせるコバルトブルーに輝き、平城京の国際性を映し出す。
 (同)

シルクロードは、中国地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。特にローマ帝国・漢帝国、あるいは大唐帝国の時代の東西交易が念頭に置かれることが多いが、広くは近代大航海時代)以前のユーラシア世界の全域にわたって行われた国際交易を指し、南北の交易路や海上の交易路をも含める。 (Wikipediaから)


シルクロードは、交流と交易の道である.

この道は、また、ヒトのDNAが通った道でもあった.

その道は、時代とともに、消長はあるが、距離・広がりを増して行く.


現在「日本」と呼ばれる地域は、たまたま東が太平洋であり、長い間交流と交易の道の東端であった.

同時に、この地域は、有史以降は、東アジアと海をへだてていることによって、まとまった島国として発展してきた.


この「シルクロード」と呼ばれる「ロード」は、西まわりで東端にまで行こうとの発想で、西の端がさらに西にのび、1495年には「新大陸・アメリカ」にまで達した.

この西に伸びた新しい「ロード」は、南北アメリカ大陸に広がった.

北アメリカでは、先住民の虐殺・土地の取り上げで「合衆国」が生まれた.

中南米でも同様に、虐殺と略奪・在来民族/文化の絶滅化が進められた.

これらの道は、同時に侵略者の言葉をも新しい土地土地に強制した.

北アメリカでは英語と一部にフランス語が、中南米ではポルトガル語とスペイン語が現在まで続いている.


この新しい「道」は、さらに西にのび、1853年には現在の東京にまで達した.

交流と交易の道は、実は武器を持ち、住民を殺傷して財産を奪うことを正義とする者たちの侵略の道でもあったのだが、

その道はついに地球をひとまわりして、かっての「日のいづる国」で完結した.



(参考 記事全文)

奈良・西大寺旧境内
海越え、ペルシャの輝き…西大寺にイスラム陶器

平城京 国際色豊か


 1万数千キロの波濤(はとう)を越え、西アジアから奈良にもたらされた一つの壺(つぼ)。 約1250年前、アジアの東西で繁栄した大国、中国・唐とイスラム帝国を海路で結んだ「海のシルクロード」が、日本までつながっていた確かな証しだ。奈良 市の西大寺旧境内から出土したイスラム陶器の破片は、ペルシャ湾の海の色を思わせるコバルトブルーに輝き、平城京の国際性を映し出す。

 破片を復元すると壺の高さは50センチ以上。谷一尚・岡山市立オリエント美術館長は「陸路のラクダではなく、船で運んだのは明らか。この時代に海上交易が発達したのだろう」と指摘する。

 陶器をはじめとする品々を満載した木造船は、ペルシャ湾岸の交易拠点・シーラーフ(イラン西部)を出港、インド洋などを経て中国沿岸部の揚州に到 達し、積み荷の一部が、日本に運ばれたとみられる。佐々木達夫・金沢大教授(東西文化交流史)は「今回の発見は、アジアの長距離海上貿易が始まった初期の 資料。海のシルクロードの終点の一つが奈良であることを具体的に示す」と評価する。

 中国と日本の往来は遣唐使が知られているが、今回見つかった壺を運んだのは、他国の外交使節や商人だった可能性が ある。東野治之・奈良大教授(古代史)は「この時期、遣唐使の往来は活発ではなかった。朝鮮半島の新羅や中国東北部の渤海(ぼっかい)の人々がもたらした のではないか」と推測する。

 壺には内側にも約0・5ミリの厚さで上薬が塗られており、液体も長期間、保管できた。専門家は、バラで作った香水「バラ水」や香料、ナツメヤシの実といった西方の特産品を収めた容器だったと推定する。

 当時の日本では、異国情緒あふれる陶器そのものが宝物だっただろう。土橋理子・奈良県立橿原考古学研究所主幹は「都人が壺自体の美しさに驚いたことは間違いない」と語る。

正倉院級宝物他にも?称徳天皇が珍重か


イスラム陶器の破片が出土した西大寺旧境内の溝(奈良市西大寺新田町で)=奈良市教委提供

 「西大寺旧境内には“地下の正倉院”があるのではないか」。毎年秋、正倉院展を開いている奈良国立博物館(奈良市)の湯山賢一館長は、正倉院宝物にも匹敵する遺物が、他にも埋もれている可能性を指摘する。

 西大寺は称徳天皇が764年に建立を発願した。父は東大寺を創建した聖武天皇、母は正倉院宝物を献納した光明皇 后。偉大な両親を目指したのか、続日本紀(しょくにほんぎ)によると、称徳天皇は平城宮近くの一等地に約50ヘクタールの敷地を確保し、工事の視察にもし ばしば訪れたという。

 イスラム陶器を称徳天皇に結びつけるのは、渡辺晃宏・奈良文化財研究所室長。「称徳天皇は平城宮内に緑釉(りょくゆう)瓦などを使った宮殿を建てており、異国趣味が強い。鮮やかな陶器も珍重したのではないか」とみる。

 国際色豊かだった平城京。舘野和己・奈良女子大教授(古代史)は「現存する正倉院宝物だけが語られているが、当時はほかの寺院にもシルクロードを通ってもたらされた異国の品々があったはずだ」と語る。

(2009年07月04日  読売新聞)



4. 福沢諭吉と万葉集



シルクロードが地球を一周したことにより、各民族のそれぞれの土地では、どこでも「日は東から昇る」ことになり、その地位は対等となったはずであるが、かっての東の端であった「日本」では、そうではなかった.

世界史の中で、一番最後に「各民族に日は東から昇る」ことに気がつく立場にあった当時の日本は、それに気がついていなかった.

明治の先覚者、死して後も昭和・平成の指導者である福沢諭吉は、
神攻皇后の新羅征討」を侵略戦争積極論の根拠においた.

諭吉のアジア蔑視、
東アジア侵攻の教えを守った日本政府は、明治以降「日清・日露」のおくれて参入した帝国主義戦争の仲間入りをし、対中15年戦争、太平洋戦争に突き進んだ.

日本は、戦後反転して主人を米国に求めたが、お金の神様、アジア蔑視の先生として、2009年の現在でも、諭吉を最高額紙幣の肖像として、国民にあがめさせている.


「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず、幾冊の和親条約は一筐の弾薬に若かず。 大砲弾薬は以って有る道理を主張するの備に非ずして無き道理を造るの器械なり ・・・各国交際の道二つ、滅ぼすとほろぼさるるのみと云いて可なり ・・・我日本の外国交際法は、最後に訴る所を戦争と定め、・・・」(1878年「通俗国権論」福沢諭吉全集 第4巻637頁以下)

「一国の人身を興起して全体を感動せしむるの方便は外戦に若くものなし
 神攻皇后の三韓征伐は千七百年の古に在り、豊太閤の出師も既に三百年を経たれども、人民これをわするること能はず」(同上 639頁以下)

「今 は競争世界で、英国なり、仏国なり、・・・皆吾れ負けまじと、人の隙に付け入らんとするの時節なれば、理非にも何にも構ふことない、少しでも土地を奪へ ば、暖まりこそすれ・・・遠慮に及ばぬ、『さっさ』と取りて暖まるがよい」(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集 第10日巻 711頁)


「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進て其喉笛に喰付くこと緊要・・・北京、是なり」(1882年「喉笛に喰付け」 福沢諭吉全集第8巻 260頁)

「支那国果して自立を得ずして果して諸外国の手に落ちることならば、我日本人にして袖手傍観するの理なし
 我も亦奮起して共に中原に鹿を逐はんのみ」(1882年「兵論」 福沢諭吉全集第5巻 313頁)

「我 日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。 ・・・支那・・・朝鮮・・・此二国・・・其古 風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず、・・・道徳さへ地を払ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し.・・・今より数年を出ずし て亡国と為り、其国土は世界文明諸国の分割に帰す可こと一点の疑あることなし.・・・我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶裕ある可らず、寧ろその 伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従いて処分す可き のみ」(1885年「脱亜論」 福沢諭吉全集第10巻 239頁)

「目につくものは分捕品の外なし.何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚 へて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものならばチャンチャンの着替まで持帰ることこそ願はしけれ.其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器 等も多からんなれば、・・・一儲け・・・. ・・・其老将軍等が、生擒の仲間で幸にまだ存名にてあらんには、・・・之に阿片煙を一服させると忽ち元気を吹 き返しましてにこにこ笑ひ出します、・・・御慰み」(1894年「漫言」福沢諭吉全集第14巻 570頁以下 安川寿之輔「福沢諭吉のアジア認識の軌跡」 262)


下級武士の二男に生まれた諭吉は、門閥制度に将来をみることができず、学問で身を立てるために、西の出口長崎で蘭学を学ぶことで、「学問のすすめ」の第一歩を踏み出した.

諭吉の十五、六歳のころ、夢として「日本一の大金持ちになって思ふさま金を使ふて見やうと思ひます」と兄に答えている.(「福翁自伝」福沢諭吉全集第七巻 16頁)

諭吉は、学問成り、身を立てて後、学校を建て(慶応義塾を創設)、新聞を発行した(時事新報創刊).

そ して、教育と報道で、「アジア蔑視・富国強兵・侵略戦争推進」で、自分の新聞の発行部数を大いに伸ばし、それで金持ちとなり、少年時代の夢を実現した.  (1885年「時事新報は既に東京第一流に居候拠に、今度の事変に就いては一層の看客を増し、中々繁昌に有之、・・・負債も消却いたし居候」福沢一太郎宛 書簡 福沢諭吉全集第17巻 718頁 安川 140)

晩年ますます謙虚となった諭吉は、「政府からの勲章などは御免」といったことがある(1897年8月22日時事新報 福沢諭吉全集第20巻415頁 [福沢が自ら記した雑報記事]と[註]がある)。 清戦争のとき彼が一万円を献金した褒章として、政府が勲章か何か出すらしい」との話に答えたものだ。

このとき、彼が指摘したのは以下のことであった.
  • 維新において、日本人が文明の新知識を得たのは、彼の著訳書によってである.
  • 明治政府の新施設も、彼の著作をもとにしたものが多い.
  • 彼は、政府の影のお師匠様であった(「暗に政府のお師匠様たりしことは、故老の今に忘れざる所なり」(同上)
  • 慶応義塾は、明治政府よりも10年早く創設され、40年間一万人以上の生徒に対して「洋学」の教育をおこなった.
  • その金銭上の貢献は、中学校・師範学校のレベルで計算すると、1年の費用は平均2万5千円になる.
  • これを金で換算すれば、200万円以上となる.
  • 褒賞するというのであれば、この200万円について褒賞してもらい、金銭でその半分の100万円をもらいたい.その分は慶応義塾の資金とする(といって大笑いをする).
下級武士の二男であった諭吉は、学問で身を立て、教育と報道を通じて日清・日露戦争を推し進め、自分の新聞の発行部数を伸ばして金持ちとなり、後の対中15年戦争を準備したのであるが、晩年には自分は「政府の影の師匠だ」といっていたのである.

明治以降の政府は、この師匠の教えをよく守り、台湾・朝鮮半島を植民地化し、中国東北部から北京の喉元に喰らいついた. さらに、太平洋戦争に突入して、国内で300万人、アジアで、2000万人、世界で数千万の人間を殺した戦争に直接、間接に責任がある.

諭吉の偉大さは、死後100年を過ぎてもまだ日本政府のお師匠であり、2009年の現在でも最高額紙幣の肖像として、日本国民の尊敬を受けているところにある.

シルクロードは、交流と交易の道であった.
同時に、それは侵略戦争の道でもあった.

その道を通じて、現在日本人とよばれる民族も生まれ、
その民族の詩、万葉集も生まれ、同時に文字も生まれた.

万葉集は、侵略戦争を賛美してはいない.
万葉集には、人間の美しい部分が反映している.

今後、さらに広がる交流と交易の道では、
万葉集の伝統を伸ばして行くべきではないか?

福沢諭吉について残念なことは、
万葉集について彼は、正しく勉強しなかったことである.




5. 万葉集の子孫たちの恥ずべき行い

   a) 秀吉軍撃退の「北関大捷碑」を旧日本軍は持ち帰り、靖国神社に置いていた


日露戦争時、万葉集の子孫、わが皇軍は朝鮮から北関大捷碑を持ち帰り、靖国神社に置いていた.

この碑は、2004年韓国に返還され、さらに2006年北朝鮮に移送されることとなった.

誇るべきわれわれの明治の先輩たちは、歴史をも変えようとしたのだろうか?

(参考)

Wikipedia 北関大捷碑から

北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)は、文禄・慶長の役の際、朝鮮北部の義勇兵が日本側の加藤清正軍などを撃退したことを記念し、咸鏡道北部(現在の北朝鮮)に建立したとされる石碑である。「咸鏡道義兵大捷碑」とも呼ばれる。
この石碑は日露戦争時、旧日本軍の将校(池田正介少将)が発見して朝鮮半島から日本へ持ち帰ったため、靖国神社の境内に長らく置かれていた。 

報道から 北関大捷碑の北朝鮮へ引き渡し、6月ごろの見込み


   b) 
「朝鮮王朝実録」を返還

日本の植民地支配の時代に入手された「朝鮮王朝実録」が、東大からソウル大学への寄贈の形で、返還されました.

日本の植民地政策は、学術的な研究の裏づけをもって、実行されたと見るべきです.

万葉の子孫たちは、いかに知的、道徳的6に進化してきたのかがわかります.

(参考) 


報道から 
東大所蔵の朝鮮王朝実録、ソウル大に寄贈へ


c) 唐・新羅の間にあった歴史的文化財は、略奪され2009年の現在も東京の皇居内にある!

日露戦争(1904~1905)年の後、旧日本軍が「対中継続的侵略の決意」として、大連近郊より持ち帰った唐時代の文化遺産「鴻臚井(こうろせい)の碑(ひ)」があります.

それは、1300年ほど前に作られた石碑で、その時代のその地方の唐の統治を示す歴史的な記念碑です. おそらく、旧日本軍は、中国の統治を日本が奪うという意思の確認のために、略奪して日本に持ち帰ったものと考えられます.

この碑は、明治天皇に献上され、21世紀の現在でもひそかに他の略奪物と共に、宮中に保管されています. (朝日新聞 2006年5月28日)

日本政府あるいは天皇家は、これらの文化財を含む略奪品を中国へ返還する意思を表明していません.
まさか、永久に返還する意思はないということではないとは思いますが.



(参考) 

報道から 皇居に1世紀眠る「渤海国の石碑」、中国で返還求める声
[asahi.com 2006年05月28日12時22分]



6. むすび

万葉集のもつ、支配階級と被支配階級の関係の側面、この側面は2009年の現在までもつづいている.


この側面は、当時の社会構造を反映したもので、万葉人たちの責任ではない.

しかし、その側面が現在もまだつづいていて、しかもその側面がわれわれ自身を苦しめているとすれば、万葉の心と思想をより理解し、そのいつの時代にも通じる人間的な側面を正しい伝統として受け継ぐべきではないだろうか?