Economist13

富の集中は経済成長を阻害するか

2013年11月21日

楡井誠(一橋大学イノベーション研究センター)

(毎日新聞社『エコノミスト』2013年12月23日号記事「富の集中:リスクテイクの報酬は経済成長の種子か徒花か」 著者最終稿)

個人所得と富(資産)の集中化が進んでいる。金融危機後のウォール街などでのオキュパイ運動やニューヨーク市長選では、「富裕層1%対その他99%」というフレーズが、桁外れの報酬を得る金融業のボスたちに対して不信の念を抱く人々の心に訴えた。持てるものと持たざるものを上位1%点で分けているのだが、恣意的なようでいて実は所得分布の特徴をよく反映している。

ピケティ、サエズ、森口らの研究によれば、国民所得のうち上位1%の富裕層に帰属する割合は1970年代から一貫して増大している。米国における上位1%層の所得シェアは、73年の7.74%を起点に累増し、12年には19.34%にまで達した。同様の集中化傾向はイギリスでも認められる。一方日本における戦後最低点は77年の6.77%であり、その後穏やかな増加をたどって08年の9.71%が最近のピークとなっている。同規模の人口をもつ先進国の中ではフランスが日本と似た傾向にあり、83年の6.99%から07年の9.25%に増大している。

上位1%層への所得の集中が強まる一方で、上位層内部の格差も拡大している。上位1%内の分布は、国と時代を超えてパレート分布に従うことが知られている。パレート分布は、その形が測定単位に依存しない「スケールフリー」という面白い性質をもつ分布である。個人所得を石ころに見立てて、大小の石が庭に散らばっている様子を考えてみよう。個人所得の最大値は、中央値の千倍から一万倍のオーダーなので、この庭には数メートルの岩から1ミリの砂粒までが混在している。庭を見渡す回廊から写真を撮れば、いくつかの目立つ岩と普通の小岩、あとは無数の玉石が写るだろう。次に庭の一部をズームアップして撮ると、普通の小岩に多くの玉石、そして無数の砂粒が写るだろう。ところが家に帰って二枚の写真を比べてみると、どちらが庭全体を撮った写真なのか分からない。二枚の写真に写る石の相対的大きさの分布が同じなので、どの距離から庭を見ているのか分からなくなってしまうのだ。

大まかに言って、上位1%層の所得は指数1から3のパレート分布に従う。パレート指数が小さいほど、高所得層内の格差が大きい。その値は70年代から低下傾向にあり、日本では2.8から2.3、米国では2.4から1.6へと減少している。

所得分布のスケールフリー性から、高所得者層の構造を想像することができる。日本で上位1%点にあたる所得は約1300万円である。医者・弁護士や大企業幹部といったところか。その十倍、百倍に到達するのは、IT長者や投資家、創業者や特殊技能者などだろうか。いまあなたが1%レベルを達成し、晴れて年収一千万円クラブに入会できたとしよう。ところが、パレート指数が2であるということは、クラブ会員のうち1%(10の2乗分の1)があなたの10倍の年収を稼いでいることを意味する。奮起したあなたは数年後、年収一億円クラブに入会を許される。しかしそのクラブの1%は、やはりあなたの10倍稼いでいるのである。

このような自己相似性は「その他」99%には当てはまらない。99%層の所得分布は指数関数的に減衰するので、二倍稼げば、自分よりさらに二倍稼いでいる人と出会う確率は大きく減る。上位1%とその他99%では、格差の構造が質的に異なっているのである。

石庭の砂粒のごとき私が千倍もの大きさの岩を見上げて、同じ人間でここまで差がつくのは何か世の中が間違っているのではないかと訝しんでも無理はない。所得が集中していれば課税もまた集中しているわけだが、所得全体の1割を占める1%層にもう少し我慢してもらえれば、多くの困窮する人を救えるのではないか、と考えるのも自然である。同じ水準の平均所得が達成できるのであれば、所得が平等な方が望ましい社会だ、と常識的には考えられる。まして、もしも不平等な所得分配が平均所得を引き下げるような可能性があるのなら、平等か効率かの二者択一から逃れることができるのではないか。多くの研究がそのようなメカニズムを探究してきた。

富の集中が経済成長を阻害する可能性を二つ検討したい。一つは、国内の消費需要に注目するものである。所得分配が平等な経済では中間層が大衆として成立し、大量消費の需要者として現れる。似たような家計が大量に存在することが、似たような財の大量生産を促し、生産技術の規模効果を伴って経済成長を促進する。この構図は、家電・自動車・住宅などの国内最終需要の伸びを起点にデマンド・プル型の成長を果たした60年代の日本など高度成長経済になじみ深いものであり、所得分布の甚だしい国(たとえばフィリピン)が比較的平等な国(たとえば韓国)に比べて国内産業育成に失敗しやすいことを説明する。

確かに国内消費需要の拡大は、高度成長終焉以来日本経済の課題であり続けてきた。また、消費と余暇の平均水準は、生産面の国力を表すGDPよりも直接的に国民の経済厚生を表す指標であり、それを向上させること自体に国民福祉上の意義がある。一方で、いまだ農業国の性格も色濃かった高度成長期と、多数の国民が世界有数の物質的・文化的生活水準を享受する現代の日本とでは、所得分配が消費需要に与えるインパクトの程度は自ずと異なる。また、経済活動がグローバルにわたり、産業がますます多様化する現代では、成長企業は国内外の需要を追求するグローバル企業であり、高付加価値なニッチの移ろいに適応する専門企業である。イノベーションが起こる先端的な需要領域は、同質的な中間層に由来する国内の大量需要であるよりも、国外や差別化された財にある事例が増えている。

所得分配の不平等が経済成長を阻害するもう一つの経路は、新規事業の立ち上げや教育投資などリスクを伴う投資活動を、私的な裁量で意思決定できる個人が減ることである。安定した収入源があることによって、事業立ち上げの原資の蓄積は容易になるし、失敗した場合の保険にもなる。もしも理想的な金融仲介業が存在するならば、見込みのある新規事業には資金が貸し付けられるはずだが、現実には事業見込みや経営者能力を外部から見極めることは容易でないため、貸付は相応の利子率や担保を要求することが多い。経営者個人が自身の能力と事業見込みを見極め、その帰結を自分で引き受けるような分権的システムが、イノベーションをもたらす事業を選別する上で社会的に効率的である。平等な所得分配はこのような体制をもたらす。開発経済における農地解放や教育の普及、マイクロファイナンスを通じた小規模事業の生産性向上が、この経路の代表的な実例である。

しかし、この経路にとって本質的に重要なのは、所得の平等分配そのものよりも、所得階層間の移行しやすさ(モビリティ)である。企業家・イノベーターとして潜在的に有能であるにも関わらず、貧困の罠にとらわれて十分な人的・物的投資をする機会に恵まれず、その才能を活かせないでいる低所得層の存在や、無能であるにも関わらず権益に守られて多くの資源を動員する立場にとどまり、イノベーションの機会を逸失せしめている既得権層の存在が前提となる。ナショナルミニマムが達成された現代の日本では、この経路を是正する政策手段として再分配政策はいささか間接的であり、きめ細やかな金融制度(小規模信用や奨学金制度)や、事業リスクの適切な分担を可能にする資本市場や会社制度の整備の方が直接的であると言える。

結局、富の集中が成長を阻害するという明確な証拠は、今の日本にはない。また四半世紀にわたる富の集中トレンドは、累進課税の緩和によって一定程度説明できそうである。不平等度と経済成長がどのような関係にあるかは、成長の源泉が何であるかに依存する。例えば、発展途上国が工業化によって成長するときは、高生産性産業の導入によって当初は不平等化するが、低生産性産業から高生産性産業に労働力が移動するに従ってやがて平等化する。国の所得水準が上昇するにつれて、不平等がまず拡大してその後縮小するパターンは、クズネッツの逆U字関係として知られている。先進国における70年代以降の成長を、情報化と国際化によって始まった新たな高度産業への移行を源泉としている、とみるのであれば、かつての工業化時代と同様に、現在も新たな逆U字の左側に位置していると考えてみることは可能である。

実際、上位1%のリストの中でひときわ目立つのは、情報化と国際化によって生まれた新しい産業に寄与した個人である。もちろん、グローバリゼーションの進展と金融業の膨張の過程で起きた腐敗の記憶は生々しいし、不当に巨額の報酬を得ている層があるのではないかという嫌疑は追求されるべきだろう。しかし、それら新産業の勃興が経済成長に寄与したことは確かであり、その過程で、果敢にリスクを取って事業を起こした多くの個人の活躍があったこともまた確かに思われる。

ピケティとサエズはそのような見方には慎重な留保を与えつつ、所得データが教えてくれる事実として、20世紀後半における「金利生活者の消失」と「ワーキング・リッチの台頭」を挙げている。すなわち、19世紀から積み上げた資産の上がりによって暮らすことのできた有閑階級は、大恐慌と2度の世界大戦そしてその後の累進税制と相続税によって消失し、代わって、企業家層が自らの努力と才覚によって富裕層に参入してきた、という描像を彼らは与えている。

その描像を、「1%」と「その他」とで質的に異なっている所得分布の構造に重ねあわせてみよう。「その他」を特徴付ける分布の指数的減衰は、中間層の所得過程がたかだか足し算引き算程度のリスクを負ったものでしかないことを示唆する一方、1%層のスケールフリー分布は、所得過程が「倍になるか、半分になるか」というような掛け算のリスクを負っているときに成立する。この世界では、リスクを分散して一定の上がりで生活する金利生活者は、いずれ資産を食いつぶして上位層から脱落する。蓄積した物的・人的資本のうち、一定額ではなく一定割合を、事業なり自分自身なりに再投資し続けることによって、はじめて個人は倍々ゲームに参加し続けることができる。

そのゲームで首尾よく1%層に入っても、そこで待ち受けているのは、分布のどこにあっても倍の資産を持つ人が一定割合いるような、自己相似の世界である。足るを知る者はそのようなゲームにむやみに飛び込みはしないかもしれない。それでも血気盛んな連中は、再投資を繰り返し、事業リスクを取り続け、幸運であれば千倍もの所得を得る。そんな彼/彼女らのアニマル・スピリッツを生かすことによって、社会は経済成長の種子をより多くつかむことができるのではないだろうか。

注)データはカリフォルニア大バークレー校のEmmanuel Saez教授のウェブサイトに公開されている。分析の詳細は Piketty and Saez, Quarterly Journal of Economics, 2003 やMoriguchi and Saez, Review of Economics and Statistics, 2008、またSouma, Fractals, 2001を参照されたい。