札幌・中島公園菖蒲池変遷史〈戦前編〉


目次:

※長文を読むのが面倒な人は、本文は全部とばして図をご覧いただければ、概ね内容がつかめると思います。さらに画像1枚に要約すると、下図のとおりです :-)

菖蒲池の形状比較 明治22年/大正7年/昭和6年
菖蒲池の形状比較 明治22年/大正7年/昭和6年

はじめに

札幌市を代表する、あるいは北海道内の都市公園を代表するとも言える中島公園。ここにある池は、最初から現在のような形の池ではありませんでした。というより、元々自然の池としては存在していない、人工の池でした。現在「菖蒲池」と呼ばれるこの池は、日本の近代化の要請にこたえるかたちで、工業発展や産業振興と密接に関連しながら、徐々に発達していきました。

本稿は中島公園の菖蒲池にスポットを当て、特に池の形状を中心として成り立ちや時代ごとの変遷を辿ります。あくまでも池が中心であり、中島公園史全体や関連する札幌市史については簡単に触れるにとどめます。

資料その他の都合により、本稿は〈戦前編〉とし、第二次大戦前までの状況を概説します。〈戦後編〉もいずれ執筆したいと思います。

1. 菖蒲池前史:治水工事と貯木場造成

宝暦年間(1751-63)から、飛騨屋武川久兵衛(三代目)による石狩山伐採事業がはじまります。その際、木材は豊平川からフシコサツホロ川(伏籠川→伏古川。豊平川と石狩川を繋ぐ河川)を経て石狩川へ筏で流しました。

一方、江戸期末期から明治初期にかけて、大友堀(慶応2年、明治3年再度造成)、寺尾堀(明治3年)、吉田堀(明治3年)が開削され、生活用水、物資輸送、灌漑など多岐にわたって札幌の基本軸となる創成川の原型が創出されます。明治4年には大友堀を改修し、大通東1~2丁目あたりへの開拓使工場の設置促進をはかります(図1)。この工場の一つに、木挽場がありました。しかし、本願寺以南は、まだ未開の原野が広がっていました(図2)。

明治4-5年拡大 北海道札幌之図明治6年拡大
図1:「明治四年及五年札幌市街之図」部分拡大
まだ池は存在しない。
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図2:「北海道札幌之図」(明治6年5月)部分拡大
本願寺と豊平川の間に、鴨々川などの河川が見える。しかしまだ池は存在しない。
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blog記事に掲載されている当該地図(オリジナル)
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ところで、札幌の治水は豊平川の洪水との戦いでもありました。札幌の市街地は豊平川扇状地の上に形成され、鴨々川をはじめとする豊平川の分流は氾濫を繰り返しました。明治6年4月15日~17日にかけては、雪解け水で鴨々川水門や市内の橋が流出、堤防も決壊しました。また同じく明治6年11月19日~20にかけても、豊平橋や鴨々川水門が流出しました。この明治6年11月水害を受けて、開拓使により豊平川の水防工事が計画されました(図3)。
 
明治6年豊平川概測図
図3:「豊平川水防工事図(明治6年11月20日)」部分拡大
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図4:「豊平川概測図(明治6年12月)」
部分拡大
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図3には鴨々川と豊平川の水門・新川開鑿などの位置と並んで、中央部に「木囲池」が記されています。元々豊平川と接続していた鴨々川は、この改修により創成川へと付け替えられました。その直後、12月に描かれた「豊平川概測図」(図4)では、既に「留池」(=「木囲池」)が水を湛えた姿で描かれ、また鴨々川と木囲池のを繋ぐ水路も描かれています。豊平川の各所には水門が設けられ、線形が修正されています。

その後も開拓使は、鴨々川の改修と市内の川の整備を続けます。明治7年7月には創成川が竣工しました。また同じ頃、豊平川から鴨々川への分岐口には大水門を設け、更に2ヶ所の水門を設けて「木囲池」、即ち貯木場を開削し、豊平川で水運してきた木材を一旦貯めておき、ここから開拓使の木挽場へ運搬するようにしました。豊平川と鴨々川の合流口に水門があり、そこに水門番屋を設置し、鴨々川の水を図の下方から貯木場へ流しています。

この貯木場は、鈴木元右衛門という人物が請け負ったため、「元右衛門堀」とも呼ばれました。ほぼ正方形の2つの池があり、その間の中央に水路を通しています。当初は二池間に橋はありませんでしたが、翌明治7年7月に橋がかけられました〔大蔵省編 1885:790〕。ここに挙げた図3・図4の他にも、「札幌郡西部図」(明治6年11月、北海道立図書館所蔵)に小さくではありますが長方形の池が見えるのが、図面においては管見の限り最も初期の貯木場の記載です。『開拓使事業報告』によれば、「鴨々木置場水入水吐堀」の新設を明治5年5月起工6年4月竣工と、また「鴨々木囲水抜川堀割」の浚疎を明治6年9月起工同年11月竣工と見えます〔大蔵省編 1885:852〕。従って貯木場の設置そのものは、当初から開拓使の札幌経営策の一環として予定されており、明治6年11月水害を受けて改めて池と水路を作りなおした結果、11月から12月にかけて完成したものと本稿では考えます。

2. 中島遊園地の誕生:学田用地から博覧会用地へ

この頃から、貯木場のある鴨々川と豊平川に囲まれた地域を「鴨々中島」あるいは「水門中島」と呼んでいたようです。そして、鴨々川西方に設定された山鼻屯田の給与地に、この水門中島も含まれることとなりました。明治15年11月、山鼻小学校の属地として、土地が肥沃な鴨々川西岸及び水門中島を学田として下げ渡され、これを学校経営に充てることになりました。ところが、その後明治17年に調査した所、水門中島に無許可での開墾地があることが判明しました。

一方で、札幌には博覧会など大規模な集会を開くのに適した場所がないという悩みがありました。大通りでの開催は明治11年の農業仮博覧会、14年の連合米繭共進会、そして17年の北海道物産共進会がありました。また、水門中島を公園地にして欲しいという要望も明治16年に出され、こうした機運の高まりを受けて、明治19年の北海道庁設置後、本格的な中島遊園地造成が着手されました。同年12月には、それまで山鼻村の所属だった水門中島が札幌区に編入され、名実ともに札幌区によって中島遊園地が造成・管理されることとなりました。

造成の際には、洪水対策、樹木の伐採、博覧会などに使用する恒久的な建物の設置に加えて、元右衛門堀の改修も行われました。その結果、図4及び図5に示すような、中島遊園地の姿が誕生しました。

札幌市街之図明治22年拡大 札幌市街之図明治24年拡大
図5:「札幌市街之図」(明治22年)部分拡大
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できます。
図6:「札幌市街全図」(明治24年)部分拡大
図をクリックすると、北海道立図書館デジタル
ライブラリーの当該地図(オリジナル)を閲覧でき
ます。

図5(明治22年)と図6(明治24年)では、中島遊園地に関しては殆ど変わっていません。四角の池2面の周囲を広く整地し、その南に物産陳列場(図では「共進会場」と表記)と競馬場があります。池の間には道があり、道の中央に二つの池を繋ぐ短い流路があり、そこに橋がかかっています。

物産陳列場は、明治20年7月25日に新築されました。それにあわせて北海道物産共進会が開催され、以後明治24年まで様々な共進会や品評会が開かれます。この間、北海道庁は北海道物産共進会を北海道殖民大博覧会として開催したいと農商務省に訴えますが、実現しませんでした。

明治25年には、8月1日から30日まで北海道物産共進会が開催されました。その時の場内配置図が図7、図8です。

北海道物産共進会場内配置之図明治25年 北海道案内明治25年
図7:「北海道物産共進会場内配置之図」(明治25年)
図の右下が北
国会図書館近代デジタルライブラリー所蔵
図8:「北海道案内」(明治25年)
図の右上が北
国会図書館近代デジタルライブラリー所蔵

この時の共進会は物産陳列場を主会場(第一館)とし、第二館、第三館、器械舎、家禽舎、牛馬舎、水族室などを配置した大きなものでした。池に注目すると、この時から南側の池(図7の上の池、図8の左の池)に島を作り、休憩所を設けている点が変化しています。この休憩所は、大中亭による営業でした。大中亭は明治21年から池端で料亭を始め、また釣り堀も営業していました。また、この共進会での正門は2つの池の間、北西側でした。池を両手に入場し、エントランスから主会場へ向かうという構成そのものが、2つの池の存在を強く意識して考えられたものと言えます。

また、池の間の道については、道自体はそのままありますが、池を繋ぐ流路と橋の位置が、やや南側(メイン会場寄り)に移動されています。

こうして中島遊園地で博覧会等を行うことが定着し、明治期を通じて共進会や各種品評会などが行われました。
 
札幌市街之図明治32年拡大 北海道物産共進会明治39年サムネイル
図9:「札幌市街之図」(明治32年)部分拡大
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図10:「北海道物産共進会全景」(明治39年)
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図9は、明治32年の様子です。地図中に「中島遊園地」と明記され、岡田花園や水天宮、遥拝場などの位置も示されています。西側の池の中央にある島も描かれています。2つの池の間にある橋も、中央ではなくやや南寄りにあることが明瞭です。
図10は、明治39年に行われた北海道物産共進会の様子を描いた絵葉書です。北東側上空から見た絵で、これまでと殆ど変わらず四角い二つの池とその間の道が確認できます。

3. 中島公園への進化:池の拡張

大正期にも、中島遊園地は博覧会場として活躍します。その為の整備は、明治末期から始まっていました。
明治40年10月、円山公園、大通公園とともに中島公園の設置計画が示されます。この計画には従来の池の拡張や新たな池の新設など、池に関する改修計画も盛り込まれていました。この基本方針に従い、中島遊園地は明治43年以降「中島公園」と称され、整備されていきます。

この整備作業が1つの完成形をみたのが、大正7年に開催された「開道五十年北海道博覧会」(以下「五十年博」と略記)です。この為に道庁は、大正3年から様々な準備をはじめ、東京や大阪の博覧会を参考にしながら、中島公園を第一会場、北1西4に第二会場、小樽に第三会場を計画します。

開道五十年北海道博覧会会場案内図大正7年 開道五十年記念北海道博覧会道順案内 開道五十年北海道博覧会(殖民公報第103号)
図11:「開道五十年北海道博覧会会場案内図」
(大正7年)部分拡大
図をクリックすると、北大北方資料データ
ベースの当該地図(オリジナル)を閲覧でき
ます。
図12:「開道五十年記念北海道博覧会第一会場之図道順案内」(大正7年)
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図13:「開道五十年記念北海道博覧会第一会場」
(大正7年)
『殖民公報』第103号に掲載
札幌全区地番明細連絡図明治45年拡大  
図14:「第一会場迎賓館」『北海道博覧会写真帖 
開道五十年記念』(大正7年)
国会図書館近代デジタルライブラリー所蔵
図15:「札幌全区地番明細連絡図」
(明治45年)部分拡大
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図11~図13が五十年博の中島公園です。博覧会の会場規模が広がっているのが分かります。正門の位置も変化して池の北角に面した位置になりました。主会場へ池沿いに歩くアプローチラインが今回も設定され、博覧会の会場計画に池が重要視されていたことがわかります。なお、この博覧会に合わせて、札幌駅から中島公園まで路面電車が新設されました。

池について見ると、大きく三点の変化があります。

一点目は、これまでは2つの四角い池だったのが、1つの大きな池(以下本文では「大池」と称します)につながったことです。間の道は殆ど取り払い、北よりの一部分を残して島としました。この島へは南東岸から木橋(名誉橋、迎賓橋とも)を架け、迎賓館(ライオン食堂)を建てました(図14)。橋の取り付き口の前には音楽堂が設けられ、これに併せて円形の広場を設けたため、池の南東岸も一部円形に埋めたてられました。なお、地図で迎賓館の北東側にある◎は噴水です。

二点目は、池の北角(鴨々川への流出口)を少し広げ、真四角から少し変化をつけたことです。広げた場所には小さな島も設けました。これによって自然の池のような風景を創出しました。

三点目は、従来の池の西側に、もう一つ小さな池(以下、本文では「小池」と称します)を作ったことです。明治40年の計画に含まれていたものです。周囲には梅林や池を掘った残土による築山があり、演芸場や府県その他企業の特設館、休憩所などを配していました。

ただし『開道五十年記念北海道博覧会事務報告』には、工事内容に池の造成に関する事項が見られません。従ってこの博覧会以前に、明治末から大正初期にかけての整備で、既に上記のような造成がなされていたのではないかと考えられます。その事を裏付けてるのが、明治45年の「札幌全区地番明細連絡図」です(図15)。

図15を見ると、図11~13にかなり近い形で大池が形成され、西側に小池が新設されているのが分かります。この小池は、図15では西で鴨々川に、南で大池と鴨々川を繋ぐ流路に接続しています。五十年博での状況を確認すると、図11、12では南側を演芸場で遮られて描かれているのに対し図13では演芸館の床下を抜けて流路まで接続しています。この点に関してはどちらとも取れません(図11、12では省略されただけかもしれませんし、逆に図13が予定図で実際は図11、12の状況になったかもしれません)。西側の接続については途中で行き止まりになっており、新たに北側へ鴨々川と接続しそうな流路が作られています。また大池についても、北側拡張部分の形が若干異なります。半島のように突き出た部分は、明治45年(図15)から大正7年(図11~13)の間に広げられたと考えられます。

次に中島公園で大きな博覧会が開催されたのは、大正15年8月の「国産振興博覧会」(以下「振興博」と略記)でした。その時の会場配置図が図16です。

国産振興博覧会場配置図大正15年彩色
図16:「国産振興博覧会場配置図」(大正15年) 
水面(水色)及び橋(茶色)を筆者彩色
図16は他の図と合わせるためにわざと天地を逆にしています。
会場そのものに正門の移動(大池の東角)やメイン会場の軸角度変更など幾つかの変更点が見られますが、ここでは池に着目すると、次の二点の変化があります。

一点目は、大池南角が拡張されたことです。五十年博(図10、11)と比べると、長方形をずらして付けたような形で湖面が追加されています。拡張部分の左右(東西)には、築山が設置されていますが、おそらく拡張のために出た土を盛ったのでしょう。またこの拡張にあわせて、南側の鴨々川と接続する流路が直線に整理されました。

二点目は、小池に若干の変更が加えられたことです。小池北側の流路が削除され、南側の流路も入江のような痕跡のみとなりました。北側流路の削除は小池の形を整えるため、南側流路の短縮は大池拡張および売店位置設定(大池と小池の間にある通路のような線は、売店ゾーンを示しています)に伴うものとも考えられます。なお、この小池西側・南側については、次の図17でも触れます。

五十年博で見られる大池北側の拡張と小池新設、振興博で見られる大池南側の拡張と小池改修。この時点でようやく、現在の菖蒲池の輪郭が浮かび上がって来ました。

振興博に「国産」という言葉が明記されていたことからも想像ができるように、時局の緊張が高まる中、自国の産業奨励・顕彰を目的とした博覧会はその後も度々行われます。

昭和6年に行われた「国産振興北海道拓殖博覧会」(以下「拓殖博」と略記)でも、中島公園が第一会場として利用されました(図17)。

国産振興北海道拓殖博覧会昭和6年
図17:「国産振興北海道拓殖博覧会」(昭和6年)
水面・暗渠(水色)を筆者彩色
図17を見ると、振興博(図16)との会場全体に関する大きな違いは、二軸構成の会場平面計画が三軸構成になったことです。出展数が増え、会場全体の構成が複雑化していることによります。

池についてですが、大池の変化は少ないです。僅かに、南側の湖畔が若干丸みを帯びて拡張されています。また、池中央の島に至る橋が、従来と反対の北西側に架けられるようになりました。実は、これまでは島にある建物を迎賓館として使っていたのですが、この時の迎賓館は、別に大池南側の大きな築山から湖に突き出す形で建てたのです。また従来の橋の陸側取り付き位置には、金閣寺の形を模した京都館が建てられました。こうした経緯から、島への橋を北西側に架け直したのでしょう。南側湖畔の形状の変化も、迎賓館の眺望にあわせた変更と考えられます。

一方小池についてですが、南東角から、大池と鴨々川の接続流路に向けて破線が伸びています。図中にも、また『国産振興北海道拓殖博覧会々誌』にも説明はないのですが、おそらくこれは小池から流路に繋がる暗渠ではないかと思われます。特に記載がないのは、以前から存在していたから改めて記載の必要を認めなかったのだとすると、大正15年の振興博の際にもここは暗渠だったと考えられます。また、小池西側ですが、振興博(図16)では途切れたように絵が書かれていましたが、拓殖博(図17)では鴨々川に接続しています。明治45年の段階では接続しているように描かれていました(図15)。これも南側と同様に、振興博の段階やあるいは大正7年の五十年博の段階でも接続していたのかもしれません。なお検討が必要です。

このほか昭和10年には「北海道工業振興会」が中島公園で開催されましたが、この時には小池の部分は会場範囲には含まれなかったようです。
北海道工業振興会(S10)/北海道工業振興会写真帖(道立)

4. 札幌市の中島公園認識

ここまで、池の形を知るために、多くを博覧会の会場案内図に拠ってきました。ではそれ以外の地図では、中島公園はどう描かれていたのでしょうか。

札幌区、後の札幌市が明治から昭和にかけて毎年刊行した統計書が、札幌市立図書館デジタルライブラリーで公開されています。毎年必ず地図が附されているわけではないのですが、ある限りの地図から中島公園の部分を抜き出して並べてみます。

1.明治44年
札幌区全図-札幌区統計一班明治44
2.大正2年
札幌区全図-札幌区統計一班大正2
3.大正4年
札幌区全図-札幌区統計一班大正4
4.大正6年
札幌区全図-札幌区統計一班大正6
5.大正7年
札幌区分図-札幌区統計一班大正7
6.大正8年
札幌区之図-札幌区統計一班大正8
7.大正9年
札幌区之図-札幌区統計一班大正9
8.大正10年
札幌区之図-札幌区統計一班大正10
9.大正12年札幌区之図-札幌区統計一班大正12 10.大正13年
札幌区之図-札幌区統計一班大正13
11.大正14年
札幌市地図-札幌市統計一班大正14
12.大正15(昭和元)年
札幌区之図-札幌区統計一班大正15昭和元
13.昭和2年
札幌区之図-札幌区統計一班昭和2
14.昭和5年
札幌区之図-札幌区統計一班昭和5
 
図18:『札幌区統計一班』及び『札幌市統計一班』収録の地図に見る中島公園

図18の図は、
1. 「札幌区全図」『札幌区統計一班』明治44年 1/2万
2. 「札幌区全図」『札幌区統計一班』大正2年 1/2万
3. 「札幌区全図」『札幌区統計一班』大正4年 1/2万
4. 「札幌区全図」『札幌区統計一班』大正6年 1/2万
5. 「札幌区分図」『札幌区統計一班』大正7年 1/2万
6. 「札幌区之図」『札幌区統計一班』大正8年 1/3万
7. 「札幌区之図」『札幌区統計一班』大正9年 1/3万
8. 「札幌区之図」『札幌区統計一班』大正10年 1/3万
9. 「札幌市之図」『札幌市統計一班』大正12年 1/3万
10. 「札幌市之図」『札幌市統計一班』大正13年 1/3万
11. 「札幌市地図」『札幌市統計一班』大正14年 1/2万
12. 「札幌市之図」『札幌市統計一班』大正15年昭和元年 1/2万
13. 「札幌市之図」『札幌市統計一班』昭和2年 1/2万
14. 「札幌市之図」『札幌市統計一班』昭和5年 1/2万
より。
全て札幌市立図書館デジタルライブラリーで公開されています

いかがでしょうか。一目して分かるのは、必ずしも池の形を正確には反映していないことです。大池については、図18の7~9(大正9~12年)では島が省略されていますし、11(大正14年)以降は池の形自体もおざなりな描き方です。小池については、11(大正14年)以降では殆ど鴨々川の河跡沼のような描かれ方になってしまっています。総じて11以降の地図は、中島公園の池に関しては「いい加減」な表現と言えます。これらの地図はニ万分の一もしくは三万分の1の縮尺なのですが、三万分の1で描かれた6(大正8年)より、二万分の一の14(昭和5年)の方が遥かに雑な形状です。「縮尺精度に起因する不正確さ」とは言えないと思います。それよりも、池の形に関する関心の薄さがあるのではないでしょうか。

では、当時の地図では、中島公園の池は常に不正確な描かれ方をされていたかというと、そうではありません。前述のように博覧会の会場図ではおそらく実態に即した表現だったと思われます。それ以外の事例として、図19と図20を挙げます。

札幌市地番入明細全図1昭和2年-図10図11合成 札幌市都市計画内地番入精細図昭和3-図2図3図6図7合成
図19:「札幌市地番入明細全図」(昭和2年)
図10図11の部分を筆者合成
上記リンクをクリックすると、北大北方資料データベースの当該地図(オリジナル)を閲覧できます。
図20:「札幌市都市計画内地番入精細図」(昭和3年)
図2・図3・図6・図7の部分を筆者合成
上記リンクをクリックすると、札幌市立図書館デジタルライブラリーの当該地図(オリジナル)を閲覧できます。

図20は、池の形や建物の描き方から、明治45年の「札幌全区地番明細連絡図」(図15)の系譜に連なるものと思われます。大正15年の振興博の時点で、既に小池の南側の流路は暗渠化された筈なのに未だ流路が残っているのは、この地図が地番の明細を目的としたものであり池の形状はさほど重要視されていなかったからかもしれません。
図19は、図20よりも池の形が詳細です。公園内の建物の配置や通路も、当時の実態に即していると思われます。

日本国としての地図測量の意味で言えば、国土地理院による旧版の地図を参照するのが良いことは言うまでもありません。本稿では現時点でそこまで調査が及びませんでした。今後の課題としたいと思います。

おわりに

明治6年末の元右衛門堀から昭和戦前期に至るまで、菖蒲池の形状は大きく3段階に変化しました。

一段階目は、明治6年末から明治40年過ぎまでの、元右衛門堀の形状をそのまま生かした二面の四角い池を繋ぐものです。明治25年の北海道物産共進会の時から、中間の橋の位置がやや南方に移動するという変化がありましたが、池の形そのものはこの間変化しませんでした。

二段階目は、明治末から大正中期までの、それまでの二面の池を一面の大きな池につなげると共にその北角を拡張し、加えて新たに小さな池を設置した段階です。これは明治40年の中島公園設置計画に由来する改修でした。

三段階目は、大正後期からの、大池南角の拡張と小池南側流路の暗渠化です。この改修によって、現在見られる菖蒲池の姿が、ようやくおぼろげながら姿を見せ始めました。しかし、現在のような形になるまでには、この後さらに幾度かの改修が必要となります。

一段階目の変化は開拓使工業局の要請にこたえるもの、二段階目と三段階目は市民生活の変化や産業振興という面での近代化の要請にこたえるものと位置づけることができます。日本の近代化と密接に関わる形で発展し続けた菖蒲池は、まさしく近代日本の開拓地としての北海道を象徴する池であると言えるでしょう。

北海道大博覧会(S33)←後編で
「菖蒲池」の名の命名、由来は?←調査中
S33北海道大博覧会後、記念としてS34命名か


主要参考文献

  • n.d. 1932 『国産振興北海道拓殖博覧会々誌』 n.d..
  • 大蔵省編 1885 『開拓使事業報告第二編』 大蔵省.(国会図書館近代デジタルライブラリー)
  • 国産振興博覧会編纂部編 1927 『国産振興博覧会誌』 北海タイムス.
  • 札幌市教育委員会編 1980 『札幌歴史地図〈大正編〉』 札幌市・札幌市教育委員会.
  • 札幌市教育委員会編 1980 『札幌歴史地図〈昭和編〉』 札幌市・札幌市教育委員会.
  • 札幌市教育委員会編 1998 『中島公園』(さっぽろ文庫84) 札幌市.
  • 北海タイムス社編 1958 『北海道大博覧会記念 北海道の観光と産業』 北海タイムス社.
  • 北海道庁編 1918(1989) 『殖民公報』第十三巻 北海道出版企画センター.
  • 北海道庁編 1920 『開道五十年北海道博覧会事務報告』 北海道庁.
  • 山崎長吉 1988 『さっぽろ歴史散歩 中島公園百年:民衆の発掘した歴史の証明』 北海タイムス社.

参考URL



©Sergey Yanapongski / mailto: yanapon9 at gmail dot com
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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