【資料】東京駅周辺整備調査1988の内、赤レンガ駅舎をめぐる調査研究(1987)

【資料】東京駅周辺整備調査1988の内、
赤レンガ駅舎をめぐる調査研究(1987)


東京駅調査研究報告1988(資料その1)
東京駅と丸の内の建築と景観
-時代の流れを追って-
伊達美徳(1987年10月) 

1.三菱ガ原から一丁ロンドンへ

 東京駅を中心に丸ノ内の経緯を追うならば、その近代の出発点は1877年(明治10)に明治天皇が京都から江戸城に移り、皇居となった時点となろう。この時から丸ノ内地区は江戸と決別して日本の近代化都市へと歩み始めた。
 1888年(明治21)に東京市区改正条例が発布されて、丸ノ内地区は商業術区として位置づけられ、中央停車場の位置も決まり、2年後の明治23年に三菱社に一帯の土地が払下げされた。三菱はこのとき既に、ロンドンのロンバードストリートのような街づくりをするというマスタープランをいだいており、今日の都心形成の基本はこの時に定まったといえよう。
 1894年(明治7)に、三菱ガ原の南に接する位置に東京府庁舎ができ、1899年(明治12)には記念すべき三菱一号館が完成した。草ぼうぽうの野原は南から北に向かって順に開発が進められ、1911年(明治44)に、いわゆる一丁ロンドンが出現した。

2.中央停車場・東京駅の誕生

 一方、東京駅は1890年(明治23)に計画は決定していたが、日清・日露両戦争で財政事情が許さず伸び伸びになって、辰野金音がその設計に着手したのは1906年(明治39))であった。この年に辰野の代表作である日本銀行本店が竣工している。
 1911年(大正3)12月にようやくにして東京駅は開業となり、わが国の中央駅として出発をしたのであった。その中央釈としての役割を負うために、この駅舎は駅としての交通機能が果せればよいとする建築であるわけにはいかなかった。
 当時の鉄道員裁の後藤新平からも、できるだけ大きくという指示がでたり、その意匠も日本近代化のシンボルたらんとする意気込みをもって、いわゆる辰野式ルネサンス様式となったのである。
 しかし駅舎であることは基本であるので、プランは単純きわまるものであり、4か所の通り抜けできる巨大なゲートである。この単純さと巨大さの故に、その後70年以上を存続し得て来たのであろう。

3.近代日本の都市景観形成

 東京駅はその華麗さをもって世間一般からは歓迎されて登場をした。オープニングは第1次世界大戦の好景気のなかで一大イベントであった。
 しかし、専門家の間では必ずしも評価が高いとは言えない論調漁網が、当時の出版物に見られる。機能的な点では、停車場そのものの位置への都市計画的な疑問、出口と入口が南北に分断されているプラン、当時の繁華街である京橋・日本橋の側(今の八重洲側)に出入りロがないという2重の不便さを指摘されている。また意匠的には、辰野も悩んだとみられるが、その余りにも長大さをバランスよく納めることに果たして成功しているかについて異論があった。
 だが、これをもって東京駅が価値を滅ずるとするものではない。いつの世でも話題作を素直にほめる専門家は少ないものであることは、最近の新宿都庁舎の例に見るごとくである。
 当時の丸ノ内は、南の一丁ロンドンの他はまだ野原であり、そこに立つというより横たわる東京駅は確かに異様な光景であったに違いない。だが、あえて江戸の旧市街に背を向けても皇居に向かい合う姿勢をとることに、近代化のシンボルとしての意義があったのである。
 駅前から皇居に至る行幸道路と呼ばれたプールバールは、東京市区改正道路の一等一類20間幅の2倍、40間の幅員を持つ特別な広さである。この道路の堀端に海上ビル(大正6)、郵舶ビル(大正12)がゲートをつくれは、その道の両エンドに位置する国家的象徴たる機能を持つ空間と合せて、ここに明治日本の近代化の都市景観ができあがっていった。

4.関東大震災と丸ノ内の発展

 1923年(大正12)の関東大震災が丸ノ内の本格的発展に力を貸したことになる。東京駅も丸ノ内のオフィスビルの多くも無事であった。アメリカ技術をとりいれた竣工直後の丸ビルは大被害を受けて2年後にやっと復旧完成、そして四十間通路も内掘をこえての開通して、丸ノ内は近代日本から現代日本に足をふみいれた。
 それまでの東京の都心であった日本橋や銀座から移転してくる企業も数多くなり、1928年(昭和3)には、中央郵便局が完成して情報中心牲を高める。日本橋から銀座へ、そして日比谷から丸ノ内へと右まわりに都心は動いて、日本のビジネスセンターとして名も実も形もそなわって、三菱の意図したロンバード街を超える近代的街づくりは成功した。
 丸ビルとならんで駅前の景観を整える新丸ビルも着工するのだが、時代は暗く展開して、
戦争により基礎工事でストップさせられ、そのまま防火用水になって戦後になるのであっ
た。

5.姿の変わった東京駅

 太平洋戦争は1945年(昭和20)に丸ノ内にも空襲こよる大被害をもたらした。東京駅は屋根が焼けて抜けて落ち、無残な鉄骨をさらしたのであった。
 だが、場所が場所だけに、戦後の復旧は大急ぎになされなければならない。東京駅の丸の内駅舎の修復は1947年にでき上がったが、南北にあった丸いドームは中央と同様の寄棟形になり、ドームとドームを結ぶ3階建の部分は上部一層を削って2階建になった。
 屋根の鉄骨は木造に、銅板ふきはスレートに替わった。焼けたインテリア装飾は復元すべくもないが、その巨大なスペースだけは残った。
 しかしながら、3階を2階にしても屋根が変っても、その後の今日まで40年間もなんとかしのいで来ることができた程に、後藤新平の巨大スペースは先見の明あるものであった。
 逆鋭的にいえば、東京駅の建築としての戦後の不幸は、この応急的復旧に耐えた姿のままに生き長らえてきたことにあるのかもしれない。

6.丸ノ内美観論争

 戦後の丸ノ内は、またもや日本のビジネスセンターとしての活気をとりもどして発展していくが、技術革新が新しいオフィス時代の到来を告げる。
 1966年に東京海上ビルの超高層建築への建て替え計画がもちあがり、これを機に建築行政側と建築業界側との間に一大問題が発生した。一般に「丸ノ内美観論争」といわれるものである。
 旧市街地建築物法と旧建築基準法による31メートル軒高のスカイラインと、明治日本の近代化の象徴である様式建築とが、丸ノ内地区の特色ある都市景観を形成していた。
 その景観は、この建て替えによって大きく崩れることを意味するものであり、政治、行政、業界、建築家、文化人を含めて一大論争となった。
 行政と政治の側は、丸ノ内の景観を現在の形による方向に求めて、美観地区条例で対処しようとした。この美観派の声は、今いうところの保存という次元ではなく、皇居という特別な環境を中心とする周辺の都市景観形成として、ボリューム論、高さ論であった。そこには政治的な意図が働く面もあって、いかにも保守派の論という様相を呈した。
 これに対して建築界は、高度成長の故にのる超高層建築への開発指向もあって、都市形成のダイナミズムこそ時代の要請であるとして、美の表現と建築デザインの自由を唱えて抵抗したのであった。一種の文化論であるが、保守派への反発と超高層建築に単純にあこがれる建築家の本能が働いていたとも見られる。
 この頃、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルの保存問題が大きな話題であったが、丸ノ内では建築の保存を正面切って言う声は出なかった。当時の建築学会の機関紙には「丸ノ内には保存すべき建築は無い」とまで言切っている建築評論家のレポートもある。

7.超高層建築時代へ

 こうした論争と行政の動きの結果は、現在に見る様に軒高100メートルの東京海上ビルが建ち、その後、日本郵船、三菱銀行、第一銀行等の建築が建て替えられ、建築界の主張が通ったかにも見える。だが、妥協の産物となった、というところが実状であろう.
 こうした結果のもたらしたものが、現在の丸ノ内の景観である。その評価が定まるには未だ時間が必要であろうが、この事件が引金になって近代日本を代表する名建築のいくつかが消えたことは、少なくとも確実なことである。

8.東京駅再生への動き

 1977年に国鉄は、東京駅の丸ノ内側と八重洲側一帯の所有地を再開発することを発表し、明確な案が示されてはいなかったが、美濃部東京都知事がこれを応援する。更に1981年には国鉄の案として、超高層ビル構想がだされた。国鉄財政再建のための策のひとつである。
 だが、時代は低成長になり、改めて身の回りや地域の歴史を見直す一般的風潮が主流を占めるようになり、赤煉瓦の駅舎を残せという保存再生鎗が新聞を脹わせる。たとえば、歴史学者の稲垣栄三氏は、東京駅の行方に保存か改築かの二者択一でなく、第三の道をさぐることを提唱する。
 東京駅への識者・一般ともその意見は実に多様である。
 その姿にみるように既に東京駅の使命は終わったので完全に改築して有効な土地利用を図るべきとするもの、建築当初の姿・形に復元することこそ文化の時代の今こそあるべき対応であるとするもの、外観は当初の姿にして内部は機能的に改築するというもの、近代日本の歴史を身をもって体験して来た東京駅の今の姿こそ残すべきとする見方等、百家争鳴である。
 今、改めて都市景観が総合的に問われる時代になって、東京駅の駅としての機能牲、東京都心の拠点としての立地牲、国民的な中央停車場としての象徴牲、丸ノ内の都心景観の方向牲等を見極める必要があろう。


東京駅調査研究報告1988(資料その2)
「66丸の内美観論争」の経緯
 1966年に東京海上ビルを超高層で建て替える計画が発表され、これを契機に政界、財界、文化人、建築家、建設業界、そして行政など入り乱れて、どちらが超高層反対派でどちらが賛成派か分からない美観論争となった。結果は100mまでなら超高層でも良いという暗黙の了解が水面下でなされて、法的な裏づけはないけれど丸の内は以後その状況が続く。
(2006年補:2005年の丸ビル建替えでこの暗黙協定が破られたようだ)

●66美観論争前夜
1963.7.16 建築基準法改正で、高さ制限を撤廃して容積地制を導入
1964.       東京海上火災が三菱地所に新社屋を高層ビルとして設計を依頼するが、地所は高層化に協力せず。
1965.1.  東京海上が前川国男建築設計事務所に新社屋設計を依頼
1965.8.  東京海上が東京都に設計の骨子を説明
       10.    東京都が建設省へ高度制限の条例制定を打珍
       10.中旬 建設省住宅局長と都市局長が諸方面の意向を打診したが持論出ず
       12.14 建設大臣の招請で「丸の内景観対策懇談会」設置、16名出席、大勢は高度制限の条例に反対、このころまでに東京海上は「高層ビルからの皇居見下し問題」について、宮内庁から問題なしとの回答をえている。

●66美観論争前期
東京海上の超高層ビル計画発表(一般的に知られるようになって)から
確認申請却下 (の前)まで
「ビルの高さ論」から「美観論」へ、対立構図は「超高層建設促進:東京海上」対「超高層反対:三菱地所+東京都」から、一般市民を巻き込む展開となる。
1966.9.  前川事務所が都に近日中に確認申請をする意思表示
 9.12「美観地区」条例構想が突然報道、建設省も知らず
 9.16 建設省建築審議会に都市景観小委員会を改正.
 9.17 東京都が建設省に条例案を通告、建設省前田次官は都副知事に提出延期を要請すれども都は断る
 9.19 東京都は20日に予定した条例案の都議会上程を急拠撤回
 9.20 東京海上が確認申請提出の意向を表明
 10.5  東京海上が千代田区に確認申請を提出するが、都より区へ「受付けないよう」指示があり、持ち帰り
 10.6  東京海上確認申請を受付拒否は不穏当と区独自の判断により千代田区が受付
 10.8   千代田区が申請書を東京都建築指導部へ回送
 10.13 建築センター構造審査会に設計図書が提出される
 10.14 東京都が都市計画事議会の部会である土地利用計画調査特別委員会を急拠招集.
 10.31 東京都が土地利用委に、確認申請前に知事の認可が必要であるとする条例修正案を提出
 10.31 日本建築家協会が要望書を発表
 11.5 建築学会が要望書と意見書を提出。このころから建築関係者の間で、強硬な規制強化に対する懸念を言う活発な動きが起こる。建築・都市計画関係のジャーナリズムで、本来都市づくりとしてこの問題をどう考えるべきかの議論も起こる。「丸の内の美観論」として一般ジャーナリズムにも載りはじめる。東京都は条例案の議会提出を12月も2月も見送った。その後、都知事選挙が近づき、論争はなりをひそめた格好となる。
1967.3.27 日本建築家会が「丸の内地区マスタープランを発表」(超高層林立の模型)

●66美観論争中期
ー申請却下処分から処分取消し裁定まで
「高さ論」、「美観論」、「建築敷地の法解釈論争」、「東京都官僚」対「革新都知事」
1967.4.15 東京都が敷地設定を理由に東京海上の申請を却下。美観条例の決着つかぬまま突然の処分。この日、革新の美濃部都知事が誕生。
  6.5  東京海上が都建築審査会に処分取消しの審査請求提出
  6.8(16)建築5(4)団体が声明書。
  6.20 都建築審査会が東京海上の審査請求を受理
  6.21 建設省建築審議会都市景観委員会で美観地区を一律にビルの高さだけで規制するべきでないとの意見をまとめる
  7.15 東京都が建築審査会の2委員が不適任であるとして「回避」を申し入れ
  7.26 都建築審査会は都の上申書を取上げず。当初1ヶ月程度で決着見込みは大きくずれこみそう。磯村英一ら「都政研究懇談会」有志が意見書。広く国民都民の声を聞き、都心のありかたについての方針にもとづいて裁定を.
  8.22 都建築審査会が都の解釈には無理があるとの結論をまとめる。この間、委員の欠席・辞表提出等により審議ができず、裁決がのびのびになり、委負の任期ぎれがせまる.
  8.26 都知事から現委員による決着をとの要請があり、この日の審議会で都の確認申請却下処分の取消しを求める裁決が行われた.再審査請求ををだすか裁定を受入れるか都の内部は割れて調整がつかず
 10.12 東京海上が建築確認事務手続きを進めるよう都知事に陳情。東京都は再審査請求をせず、裁決に従う方針を決める.この後、(審査会で、都は、敷地の問題のほかは申請内容疑義はないないと説明しているので)事務手続きを進め、建没大臣の認可を得て確認が下りると見られたが、、

●66美観論争後期
再び建築確認事務が始まり確認が下りるまで
都から国へ舞台が移動、「政府主導の美観規制」論争へ
「皇居見おろし反対」政治家の登場で、東京都の規制に反対の立場であった
国が「皇居関連美観論争」推進派に転換。
1967.10.21  東京都が東京海上の構造認定申請書を建設省へ送付.
 10.25 西村建設大臣が東京海上の構造認定は慎重に検討したいと談話を発表
 11.6   佐藤栄作首相が都知事と会見の際に「超高層ビルは困る」と語る
 11.8   佐藤首相が建設計画中止の措置を検討するよう指示
 11.9  佐藤首相が「お掘ばたに建てることは控えてほしい」と訪問した東京海上会長と社長に述べる。社長はOKせず。
  11.10 西村建設大臣が記者会見で「皇居前のような国民的視野で考えなければならない場所は、政府が最終判断をくだすべき。特別美観地区として立法措置を考えたい」
 11.13 政府自民党が通常国会で「特別美観地区」立法措置を講ずる意向を表明
    13 建設審議会が「建築基準法改正のための答申」とあわせて「都市景観についての基本的な考え方に関する建議」をまとめた。
 11.20 建築3会が「政治介入」排除で申合わせ
 11.25 内閣改造で建設大臣は保利茂氏に
 12.1  「政治権力の介入の排除」について建築3会意見書。建築界有志意見書文化人有志声明書。
 12.13 建築審議会が「都市景観こついての基本的な考え方に関する建議」を建設省に提出(特別立法に反対の意見)
 12.19 衆議院予算委員会で委員(社)の質問に、佐藤首相が「美観地区の超高層ビルは好ましくない」、保利建設大臣は「建築審議会の答申を検討して改正を国会に提出したい」と答える
 12.26 天皇が東京都知事から都政の報告を受けた際に超高層ビルについて「迷惑でない」と語る
1968. 2.13  建設省が建築基準法改正案要綱を発表
1968.3頃?   東京海上ビルは当初計画の32階高さ127mを25階100mに変更して決着(水面下の政治決着か)。このあと「美観条例」も制定されず、「美観論争」も立消え。都心環境や都市景観がどうあるべきか、どうするべきかという本質的な議論に展開しないまま、ビルの建替えラッシュが始まった。
1974.3    東京海上ビルが完成

●主な参考資料
 国際建築1966.12 「都条例問題の究明」村松貞次郎
 建築年報1968「丸の内地区建築親制問題と都市景観」川上秀光、奥平耕造
 1967年内、朝日新聞、関連記事
 建築知識1984.1「美観地区指定1号となった東京・丸の内」飯塚正三


東京駅調査研究報告1988(資料その3)
リファレンス 『1977東京駅保存論争』
‐なぜ今、77論争か‐ 
伊達美徳(1987年10月)
1.77年論争の発端

 1977年3月16日、国鉄高木総裁が美濃部都知事に、東京駅の全面建て替えの意思表示と、高層ビル建設に伴う許認可への協力要請を行い、丸の内の体系的な再開発を図っていくことで、両者の意見が一致した。
 この報道の直後から、建て替えの是非、特に「赤レンガ」の取り壊しか保存かをめぐる論争が起り、一般新聞紙上でそれらが度々報道された。また、秋頃までに建築関係の各雑誌で特集等でとりあげられた.
 当時、国鉄側の建て替えやむなしの理由のいろいろは、機能上手狭になった、駅舎の老朽化、東北新幹線の増設、八重洲・丸の内の連絡通路の強化、「赤レンガ」は現状では保存するだけの芸術的歴史的価値がない、等であった。

2.論争その後

 建て替えの事実上の最緊急課題と言われていた「東北新幹線」の後退もあってか、建て替え構想も対外的には消えていった.3月から11月ごろまで続きた新聞雑誌の報道もなくなっていった。
 その後10年、「赤レンガ」は取壊されないまま、東京駅では大規模な改良が続けられてきている。そして、ちょうど10後の1987年春の建設省の発表を契機として、再び大きな論議がおきはじめた.

3.なぜ今「77論争」か

 丸の内、東京駅をめぐっては、景観上の問題など何かと話題になることがたぴたぴあった。そのなかで東京釈(及びその周辺)の将来のあり方と「赤レンガ」の取扱いを中心に大きな論議を呼んだという点で、今の状況とよくにている.
 従って、既に10年前に今と同じような議論がなされていたことを認識し、それらを復習し整理することは、今後の議論を有効に進めるための端緒として重要である。さらに、今提起されている問題を再び一時的なものに終わらせないためにも、既になされた議論を10年たった今、適切に再評価しておく必要があると考える。

4.ジャーナルに登場した「77東京駅開発・保存論争」一各界の意見

・資料A<日経アーキテクチェア77年8月8日号特集「東京駅(丸の内本屋)赤レンガが物語る栄光と悲劇」一東京駅再生をこう考える
・資料B<新建築77年10月号長谷川尭「保存についてちかごろまた考えること」
・資料C<新建築77年9月号特集「東京駅を考えよう」

4-1.稲垣栄三(東京大学教授・建築史学)<A>
      …建て替えは蔀市の個性失う;見出せ、建築の価態再生法・・・
・手狭ま、機能が果たせなくなったという理由で取り壊すのは納得できない。
・東京駅は現代建築の持たない古典的な壁面構成や装飾を伝え、東京の玄関として大き  な役割を果たしてきた。建て替えは都市の個性を失わせる。
・将来的に要求される機能の付加は広大な敷地全体の中で解決し、同時に明治大正建築  の遺産を継承すべきだ。
・我が国の建築家も今まで欠けていた、古い建築のカチを再生する手法の定着に知恵をしぽるべきだ.
4-2.角本良平(元国鉄、交通評論家)
    …駅とは何かの考察を深めよ.再生実現は100年先の問題…
・保存にしても建て替えにしても、そもそも駅とは何かという本質的な考察が必要だ。東京駅のような中央駅の場合、乗降客を適切にさばく横能だけを十分備えた駅であることを考えるべきだ.
・いずれの方法をとるかは乗降客がどの程度増えるかにかかるが、防災安全牲の観点か ら決めるべきだ・いずれにしても大事業であり、早くて10年先の問題として腰をすえてえて取組むべきだ。
4-3.武藤清(東京大学名誉教授・建築構造学)<A>
        …耐力、安全牲調査などを椅まえた建て替え議論を…
・原形のまま残っていないので、そのまま保存するのはうなずけない。近代的デザインと技術を駆使した立派な駅を作ったほうが良いのでは…。ありきたりのステーションビルでは困るが。
・建て替えを議論するには、まず建物の耐力、安全性を総合的に調査し、その結果を踏まえて検討すべきだ.
4-4.黒川紀章(黒川紀章建築・都市設計事務所長)<A>
     …硬直的な保存論には疑問も;財団作りなど具体策必要
・なるべく保存したほうがいい。東京駅はいろんな意味で人々の記憶の中に生きておりその記憶性が他と比べて非常に大きいことは、保存を考える上で無視できない。
・保存とはすぐれて創造的行為である。保存といっても、文化財のような完全保存から外壁保存などを経て最少限の記録保存に至るまで、色々な方法がある。あまり硬直して考えると、「保存」がかえって定着しない。
・本当に保存が必要なら保存財団でも作って、建物所有者に協力するなど具体策を講じないとかけ声倒れにおわる。市民レベルで保存を考えている米国の例にもっと学ぶべきだ。
4-5.長谷川尭(武蔵野美術大学助教授 建築評論家)<B>
・赤レンガの駅の基本的性格は「皇居駅」であった。
・東京駅が、鉄道線持と皇居を凱旋道路で結ぶ軸線上に配置された都市デザイン的施設であり、皇居の空間と駅舎とは切り離すことのできない一対の都市意匠として構想され実現されたものであることを抜きに議論することはできない。
・視点が駅舎の側にひきつけられすぎた論が多いようだ。
・時代が変わり、社会的価値体系が変わったといって、かつての時代が真剣に取組んだ建築や都市的スケールの空間の定着を破壊してよいということはない。(もしそうならソビエト政府はクレムリン宮を破壊すべきだし、‥)
・私達も、皇居と東京駅をむすぶワン・ペアの都市空間をどうすべきかについて、時間をかけて討議しなけれはならない。
・できるものなら東京駅は残したい。駅舎の老朽化については、徹底した改修補強を決意すれば、現代建築として新たに更生させることもそれはど難しい課題ではない。
・問題は、決断とそれを支える金の手配に尽きるだろう。
4-6.一般からの投稿意見<C>(新建築5月号で「東京駅を考えよう」と登校を呼びかけたのに対して20点の応募あり)
・解体派(6点)、保存派(12点)、中間派(2点)
4-7.国鉄の見解ー国鉄の基本的考えと姿勢一岡部達郎・国鉄建設医局長に聞く<A>
4-7-1.全面的建て替え構想を打出した理由、狙い
・手狭になり、利用客に不便になっているので(ラッシュ時の混雑、長距離前売り切符売場がない、出口を間建った場合の不便さなど)、一新して良好なサービスが提供できる駅にしたい。
・丸の内本屋は乗降客1万2千人を想定した設計で、もはや限界。
・東北新幹線のため3本のホームが必要で、丸の内側の線増も必要。
・以上から、「全面的建て替えしかない」というのが、基本的考えだ.
4-7-2.丸の内本屋を保存すべきだという声にたいして
・原型をとどめていないので、国鉄としてはそのまま保存する価値があるのどうか疑問に思っている。
・建築の専門家や一般の人々にも異論はあるだろうから、保存する価値があるかどうか、仮にそうだとすれば将来計画とどう調和させるか、各界の専門家、国民各層の意見を十分意見をきいていきたい。近くそのための委員会を発足させたい。
4-8.磯村英一<77年4月13日読売3面「東京駅周辺を守れ」>
・都と国鉄の勝手な再開発許すな…
・東京駅は、他の一般の駅と建って、日本のシンボル的存在だ。都民だけでなく、多くの国民が東京駅を通ることで、日本=東京を意識してきたことが、被害を受けながらも維持されてきた支えとなっている。交通のためだけのものではない。
・“日本のひろば”である東京駅と周辺の空間が、国鉄と東京都の財政危機対策を背景として方向づけられるのは、日本のために不幸である。
4-9.外国人新聞記者<77年4月21日読売社会面>
・明治のにおいなぜ消すの?:大改造プランの東京駅:
・外人記者団が猛追及:美濃部さんタジタジ…
4-10.小金井市長<77年5月1日読売都民版>
・東京駅移しちゃおう:ソックリ小金井公国へ:
・大音楽堂や美術館に:金がかかりすぎるのが難点ですが…
・小金井市長が「壊すなら、是非都内での保存を」と、国鉄と都に働きかけ予定
4-11.デービッド・ハウエルズ<77年5月11日読売文化欄>
・東京駅・丸の内を守ろう
・威厳と緑の空間:再開発は八重洲の二の舞・・・
・近代悲劇の見本、八重洲側 ・由緒ある血筋の東京駅
・三菱の高層化が招くもの  ・リバプールストリート駅も危機に
・建築家がなぜ反対しない?
4-12.文化庁<77年5月29日読売社会面>
・古典ビル解体「待った」:文化庁が保存調査会…
・東京駅の問題をきっかけとして文化庁は「近代建築保存対策調査・研究会」を設け、これまで文化財行政の枠外にあったものの保存対策をすすめることになった。登録文化財制度の新設も考えられている。
4-13.朝日新聞コラム<77年6月21日朝日1面(天声人語)>
・復元論にも、はやりの超近代化建築にも疑念がある。
・国鉄は、建築家や利用者と議論を重ねて、第三の道をさぐるべきだ。
4-14。稲垣栄三「東京駅再生の論理」<77年4月21日朝日新聞文化欄>
①古くなったから建て替えるという主張は必ずしも納得できるものではない。
 ・本当に「機能が果せなくなった」のかどうか
 ・仮に機能上有効性を失ったとしても直ちに取壊して建て替えることに結びつくか。
②駅本屋の果たす役割は、大量の旅客を適切にさばく(内部の横能性)だけでなく、都市の玄関としての性格(外観上の特性)をもち、これらを切り離すことはできない。
・赤レンガの東京駅もそういう意図でたてられた。旅客をさばく機能は地下通路に委ねた。
③東京駅は巨大なゲートでありつづけるものだ。
・駅本屋は3つの口を開いているだけで、実際的な役割は巨大なゲートである。
・この機能の単純さの故に生きのぴてきたといえる。
・東京釈に今後さらに複雑な役割が課せられるとしても、大量の旅客を飲み込みはきだ すゲートとしての役割は依然として主要な任務である。今の東京釈はそれに十分耐えられるだけでなく、これ以上堂々とした玄関を望むことはできない。
④欧米で過去の遺産を現代都市に生かす試みが盛んにおこなわれている。
・古い建築の機能牲が失われたとき、取壊すのでなく、生活から隔離して文化財として保存するのでもなく、今の都市機能の中での古い建物のもつ多面的な意義を見出だし、それを今後の都市機能の中に積極的に活かそうという考えに基づいている。そこには、機能的な建築が都市を無性格無表情にしたことの反省、建て替えの繰返しが都市の歴史の積層牲を失わせることへの危機感がこめられている.
・形骸だけの保存でなく、もつ意味を探り、現代生活のなかに位置づける努力を伴う点で、歴史的遺産の正しい継承であり、遺産に対する現代の対応のしかたとして、今後どの国でも採用される普遍性を持つ。
・現実の要求の前に直ちに古いものの取壊しを考えるのは、最も安易で拙劣な方法で、都市の歴史への配慮を欠いた軽率な行為といわなくてはならない.
⑤都市の論理で保全せよ.
・将来東京駅に要請される複雑で影大な機能は広大な敷地全体の中で解決されるべきだ。
・戦前の駅には、都市の特色を考慮した愛すべき建物がいくつかあった。
・いまは新幹線の画一的駅舎のように、そうした配慮は見られない。
・駅はその都市のなかにとけこむべき公共建築の一つなのだ。
・国鉄は自己の論理だけでなく、ある部分では都市の論理に従わなければならない。

5.77論争のまとめ

5-1.建替を擁護する意見
 建て替えの理由は、「現状では機能面、安全面で無理が生じており、駅として第一義に考えるべき十分な槻能牲と安全性を将来にわたって確保していくには、建て替え不可欠である」という点につきる。
 そのほか、これに付加する理由として、現在の形にしろ、創建時に復元するにしろ、様々な無理をしてまで保存する価値があるのかという疑問を呈するものがある。また、それならば、新しい東京の個性となるような超近代的建物に一新したはうがよいとの意見もある。
 一方、構想自体について、拙速をさけ、丸の内本屋の取扱いを含めて、時間をかけての慎重な検討を要する問題である、という点で一致している。

5-2.保存を擁護する意見
 国鉄の全面建て替え構想に、丸の内本屋の保存の観点から共通してなげかけられる疑問は、「古くなった、現状に合わなくなったといって、すぐ取壊しに結びつけていいのか」という点である.
 また、古い建築物を何らかの形で保存、あるいは再生利用する意義の中で、特に東京駅の場合特筆すべき点として、非常に多くの人々に長年親しまれてきたことによる、愛着性、シンボル牲、記憶性といったものの重要さが、共通して指摘されている。この点は、建て替えを擁護する意見のなかにも多く指摘されている。
 一方、建築学上の、あるいは芸術的な価値の評価については、現在の形、創建当時の形、あるいは創建のいきさつなどについて、様々に意見がわかれ、どのように保存するかは、時間をかけて十分検討する必要あり、という点でのみ一致する.
 また、建て替えの理由となっている機能面安全面については、やろうと思えば古い建物でも補強などの対処の方法はある、と指摘されている。また、広い駅全体で対処の方法を考えるべきだ(今までもそうしてきた)、との意見もある。
 ただし、一般論として、保存再生への所有者の理解、費用負担などの問題があって実現しないことが多いこと、また、古いものを現代都市に生かす実践がすすんでいる欧米と違ってって、一般市民や行政の理解・関心も低く、「保存」ということの難しい実感ものべられている。
 また、「保存」という行為について、文化財のような硬直的な概念でなく、大規模な改装、部分保存など、「古いものを現代に再生して活かす」というように広くとらえ、またそうとらえるべきだ、とするものが、ほとんどを占めている。

6.そして87年の今、10年後のコメント

6-1.機能と安全牲を理由にする「建て替え」だからといって、壊してよいことにはならないという「保存」、諸説わかれる赤レンガの評価など、今も10年前も同じ。
 落ちのない無駄のない議論、検討をするために、復習は有効だ。

6-2.建て替え派保存派を問わず、多くが「これから時間をかけて各方面の専門家や一般市民の声を良く聞き、供重な十分な検討をすべき」と指摘し、また報道によれば、東京都も国鉄も文化庁もそのような委員会を発足させる予定とあったが、その後検討がすすんだ形跡はなく、今、議論のレベルとしては10年前と同じところにたっている。
 この点は、これからの検討において、大いに教訓とすべきである

6-3.全面建て替えが必要な機能上不都合な点があげられていたのに対し、結果として、少なくともこの10年は建て替えないで対処可能であった。しかも、かなり大掛りな改良工事が続けられている。
 国鉄としてかなり苦労をして安全牲、利便牲を保ってきたのであろうが、管理保守側に苦労が多いことが、利用者の快適牲の低下につながるとは思えない。他の比較的新しいターミナル駅と校べて、ラッシュ時の混雑やわかりにくさ等、ましな方だ。
 また、現代の機能に合うように建て替えたとして、管理保守の苦労がなくなるはずはない。それがどれほど減り、それに対する利用者の快適度がどれほど向上するのか、そしてそれが何年後まで続くのか、改めてこの10年間を振返ってみて、将来をみきわめることの難しさを実感する.
 かつての創建時の様な帝国主義勃興の中で、世の批判をものともせずに巨大な無駄を押通せる時代ではない今、めまぐるしく情勢が変化する価値観の多様な時代に、いつの将来まで耐えうるものがつくれるか、今あるものをどれだけ捨て去るに値するか、判断は非常に難しい。
 10年前の(国鉄の)状況認識こ照らして、その後の(東京駅の)状況の変化を分析しておくことも、将来像をとらえるうえで役にたつ。

6-4.文化遺産を現代に活かすことの重要性や、欧米での試みの実態、日本の現状などが、当時東京駅問題にからめて既に多く指摘されていたが、10年たって全般的には状況ははとんど変わっていないことを、改めて認識した。

6-5.ただし、つぎのような点で多少変化が見られるように思う。即ち、一般市民のなかでは認識が高まってきていて、記念的建築物の保存に関しても市民運動の一分野を担うようになってきている。
 その一方で、特に東京では国際化等のの社会状況をとらえて経済効率性がより追及されるようになり、保存に値すると思われる建築物等の建て替えを急ごうとして、その扱いに行政や企業のあいだでは神経をいらだたせる様子も見られる。
 「国際化」だからといって新しくつくりなおすことだけが良いのではなく、東京の丸ノ内が国際的役割を担へばこそ、わが街を過去から将来にわたって誇るべき歴史的な重みのある環境をもっていることを人々に示すことが、その価値を高めることになるのではないか。
 ウォール街がシティーが、その歴史のある空間を保ちながらも決して世界の金融センターを脱落しないことに見るように、これは丸ノ内と東京駅を考える上での重要な視点である。


東京駅調査研究報告1988(資料その4)
東京駅丸ノ内本屋(赤煉瓦駅舎)再生論理構築のために
(1987.12.22東京駅再開発計画第4回委員会のためのメモ)
伊達美徳

1.これまでの論点

 次の委旦会の大きなテーマとしては、丸ノ内本屋の再生の問題がある。これに関してこれまでの経緯では、既に中間報告において「その取扱いについて十分に検討を行う」としているが、委員会あるいは懇談会における討議を踏まえて考えると、基本的な態度は概論的に次のようになろう。これらを受けて今後の展開をする段階にきている。
1-1.歴史的建築として
 意匠的、株能的あるいは構造的に現在の建築のままであるわけにはいかないにしても、“赤煉瓦の建築”をなんらかの形で歴史的建築として再生する。
1-2.鉄道駅舎として
 例えば、南北の動線をとれないプラン等の駅舎としての問題を解決して、現代の鉄道駅として概能的な施設に再生する必要がある。

2.今後の展開へ向けて

 この様な状況を受けて今後の展開すべき課題は、第1は歴史的建築の再生とは、保存あるいは保全するという命題としてとらえ、駅舎機能の改善及び向上という第2の命題と合せて、駅再開発という基本的命題の中で調和的な解決を図ることである。
 第2の駅機能に関する命題による課題の解決へのアプローチは、ハードウェア的な側面が比較的強いが、第1の歴史的建築再生のそれにはソフトウェア的な問題性が高い。
 ここで、第2の命題による課題解決への調和点を見出だすために、まず第1の命題の歴史的建築の再生の論理を構築する必要があると考える。

3.歴史的建築の再生の論理を構築するために

 丸ノ内本屋を歴史的建築として再生するには、その建築の持つ意義を多面的に評価を行う必要がある。
 この評価方法はマニュアルとなっているものがあるわけではないので、その評価軸、評価基準、評価方法等の設定についての作業を行う必要がある。
 その評価が再生の方向と方策とを示唆するものとなるはずであり、これ等の総合として再生の論理が構築される.

3-1.評価軸の設定について
3-1-1.物理的な施役としての評価一耐震、防災、機能等
3-1-2.歴史的な建築としての評価一建築史、文化史、都市史等
3-1-3.社会的な資産としての評価一都市史、都市景観、社会経済史等

3-2.評価基準の設定と評価の方法について
3-2-1.物理的診断一耐震診断、機能的診断等
3-2-2.内外の事例一歴史的建築の保全・再生の政策、類似事例、論理等
3-2-3.各界の意見一事門家(建築、文化、社会経済、都市、保存、景観等)
       業界人(ジャ-ナル、建設業、建築家等)、有識者、保存運動等

4.論理構築にあたって想定されるいくつかの論点

4-1.保全と保存について
 丸ノ内本屋が歴史的建築であるとして、これを広い意味での文化財としてとして“保存する”という概念を大前提にして再生する場合と、今後も駅舎としての機能を果たすべき建築として“保全する”という概念で再生する場合とで、自ずから再生の方向に違いが出ると思われる。

4-2.復元の概念について
 歴史的遺産の復元(復原)に関しては、どの時点に復元(復原)するかについて一般に論のあるところで、本件の場合は械能的修復は当然としても、創建時形態(1914~1945年)復元論とともに現在時形態(1947~)維持論もあると思われる。

4-3.地域景観としての再生の論理について
 丸ノ内地域あるいは皇居周辺地域としての景観形成の歴史的過程を踏まえて、現在の景観の構造の中で丸ノ内本屋のもつ意味をとらえることが要求されると思われる。しかし、あまり間口を広げすぎるのも委員会としては難があろう。

4-4.技術的問題について
 保全・再生の行方には、全面的改築復元から部分詳細部復元までいろいろな段階がありうる中で、建築物の構造的な耐力珍斬によって大きな差が出ると思われる。

<別記>保全・再生手法の比較検討について

 歴史的建築の保全・再生のこれまでの事例からみて、いくつかの手法がある。論理によっていずれかの組合わせによる方法を選ぶことになろう。

1.残存の程度による分類
A.全面解体
 耐力的あるいは施工上の問題から、現在の建築の再利用が難しい場合は、全面的に解体することになろうが、この時に保全計画との関係で再建築する駅舎に何を再生し何を再利用できるかの判定が必要である。
B.一都残存
 構造耐力的あるいは施工上の問題をクリアーして、現在の建築の一都又は全部が再利用が可能ならば、これをどこまで残存させて再生利用するかについて、新しい駅舎機能との関係で判定が必要である。

2.再生形態による分類
A.外観再生案
 外観全体保全+内観一部再生+新規内部横能
B.ファサード保全案(その1)
 西側正面外観保全+内観一部再生+低層新建物
C.ファサード保全案(その2)
 西側正面外観保全+内観一部再生+高層新建物
D.イメージ的再生案
 現意匠のイメージを継承する新デザインの建物あるいはディテール保全

3.再生位置による分類
 原則として現在の位置において保全再生することとするが、場合によっては移動もあるかもしれないので、その可能性を検討する必要がある。
A.現在位置案
B.平面的移動案
 駅前広場等周辺施設の再検討の方向によっては、平面的に駅舎の位置を移動する可能性もあるが、このときは改めて再建再生等することになる。
C.立体的移動案
 駅前広場等周辺施政の再検討によっては、立体的に駅舎の位置を移動する可能性もあるが、このときは例えは人工地盤の上において改めて復元再生等することになる。


資料解説
 本論は1987年当時、国土・運輸・建設の3省庁が設置した「東京駅周辺地区再開発調査委員会」のための作業班としての伊達の調査研究レポート(研究協力者は越野圭子氏)の一部である。
 その当時、歴史的な景観や建築物の保全についてどのように考えようとしていたかについて資料の一部である。
 これをここに公開した2006年2月現在、東京駅は当初形態に復原する方向で2011年ごろ完成にむけて修改築事業が進められている模様である。
 私は1988年調査報告書を出して以後はタッチしていないので、当時の調査結果は「現地で形態保全する」とした赤煉瓦の保全方針について、その後にどのような検討と調査を経て「当初形態復元」を採用したのか知らない。(伊達美徳)
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