東京街並み探検 新宿の戦後

伊達美徳


・新宿歌舞伎町誕生60年

 新宿の歌舞伎町を久しぶりに訪ねた。コマ劇場を閉鎖すると、その壁に大きく書いている。52年間のご愛顧をありがとうございましたとあるから、1956年に開館したの であったか。わたしが東京来た一年前だ。
 さらに、街にバナーがたくさんぶら下がっていて、「歌舞伎町誕生60周年」と書いてある。ということは1948年に歌舞伎町は誕生したのであるか。

 歌舞伎町は埋立地ではないから、新しく生まれたのではなく、角筈の地名を歌舞伎町と変えたのが60年前ということである。
 歌舞伎町といえば、都市計画の専門家の世界では、これを作ったのは石川栄耀となっている。当時の東京都で戦災復興都市計画を指揮していた人である。歌舞伎町と名づけたのも彼といわれている。

 私の書棚に、古本屋で買った「歌舞伎町」という1955年発行のかなり色あせた本がある。新宿第一復興土地区画整理組合の発刊で、著者は鈴木喜兵衛とある。
 読んでみると、鈴木はこの地区の大土地権利者(借地)で、食品加工業を広く営み、町内会長を勤めていた人とある。どうやらこの人がリーダーとなって、戦災で丸焼けとなった角筈とよばれていたこの地区を復興させた張本人であるらしい。

 石川栄耀が東京都の建設局長という責任者として、また繁華街復興におおいに興味を持っていた土木技術者として、鈴木の相談相手であり指導者として深く関わっていたのである。石川もこの本に序文を寄せており、歌舞伎町と名づけたのは自分だと書いている。

 都市開発事業については全国各地で行われていて、その事業史が出版されていることは多いが、この鈴木が書いた新宿歌舞伎町開発事業史とも言うべき本は、戦後まだ日の浅い時代のことで、制度も整っていない占領下の政策の中にあって、鈴木の意気込みや先進性が良く見えてかなり興味深いものがある。
 なによりも市民の立場で真正面から街づくりに取り組んだ真摯な姿勢が、今の時代に読むものに迫ってくる。


・鈴木喜兵衛の先進性とその苦闘

 戦災復興土地区画整理事業のほとんどが公共団体施行であった中で、歌舞伎町は民間による組合施行であったことに、いまの市民主導によるまちづくりの原型を見ることができる。
 鈴木が先頭に立って権利調整をして、法的に土地区画整理事業に入ったときは事実上は換地が決まっていたという。 制度を石川がもちこんで、後から追いかけたと言ってよいだろう。

 戦後初期であり、戦後統制化にあっただけに、民と官との対立による苦労が、鈴木が資料として載せている各種の陳情書でよく分かる。その中には後に制度化されたことも、たくさんある。
 鈴木と石川の繁華街つくりは、苦労の末に成功して、今の歌舞伎町の繁栄(二人が望んだ方向では必ずしもないが)になっているが、鈴木は事業の途中から排除されて、結局は不遇のうちに終ったらしいのが気の毒である。

 戦争直後の経済統制政策に翻弄されて、鈴木の理想とする事業構想がどんどんと後退させられるし、なんとか誘致した起爆剤となる博覧会は大赤字となって、鈴木は私財を投じて借財の返済をするも、事業から遠ざかるを得なかったようである。
 このあたりの苦労話は「歌舞伎町」にはごく控えめにしか書いていないところに、鈴木の人柄がしのばれる。 この本のほかには鈴木のことは知らないが、誰か研究者ががいるのだろうか。

 歌舞伎町のネーミングのいわれは、事業計画として歌舞伎の常打劇場の建設が、中村吉右衛門などの俳優や後援者によるスポンサーの構成も、そしてその名も「菊座」と決まっていたからだそうだ。
 ところが、建設の直前になって、突然に政府から映画館や劇場のような有閑的な大規模建築物禁止の統制令が出されて、計画はおじゃんになったそうだ。 その政策の背後には占領軍がいて、なんとも打開できなかった。

 小山内薫による新劇の自由劇場も決っていたのに、同様な運命で雲散霧消した。戦後の物資不足の異常の時代のことである。 
 すでに基礎工事に入っていた映画館だけは建設できて、「地球座」と名づけたのは、これまた石川であった。

 商店街を耐火共同建築で街並みとして作っていったことは、その後の防火建築帯から防災建築街区、そして市街地再開発事業へと続く日本のまちづくりの先進であった。
 鈴木たちの偉いところは、都市は土地だけで成り立つのではなく、その利用の仕方いかんに強く関わるとしていることである。
 土地区画整理事業の多くは、土地のみを扱ってこと終わりとしてのに対して、鈴木たちはその上に建てる建物に力を入れたのであった。それは一方では、時代の不遇さによる掣肘を受けやすいリスクも伴った。

 それでもその後の歌舞伎町といえば、鈴木たちが行った街づくりのほんの一部なのに、あの「芸能広場」を囲む一帯が象徴となったことに、その輝かしい未来を見る鈴木と石川の眼に敬意を表さざるを得ない。
 さて、鈴木の復興計画に掲げた商業まちづくりのコンセプトは、「道義的繁華街」であった。今の怪しげな暴力団もいるような性風俗街を、彼はどう見るだろうか。


・闇市の成れの果て思い出横丁
 歌舞伎町が戦後復興のある種の模範的な繁華街復興を爛熟的に遂げたのと対照的に、今も戦争直後の闇市的景観を保っている街もある。
 思い出横丁とゴールデン街である。

 JR新宿駅西口のすぐ北にある一角は、半世紀も前の学生時代にも覗いたこともあるが、いまもほとんどそのままの雰囲気である。
 狭くてごちゃごちゃした闇市崩れの飲み屋街で、安い飯も食わせるから昼間から人が多い。

 太平洋戦争敗戦直後のドサクサ時代に、新宿駅あたりはこのような感じの闇市の町があちことにあり、東口地区では尾津組と和田組、西口地区では安田組というテキ屋が仕切っていたそうである。
 その西口の和田組のやっていた民衆市場が今の思い出横丁であるという。

 私が学生時代は、もっと南の駅前よりにもあったが、次第にビル化した。東西を結ぶ狭くて低い地下道も健在である。わたしもたまに安い飯を食いによることもある。

・地上げの迫るゴールデン街

 ゴールデン街は、個人的にはほとんど知らないが、文士や有名人が出入りする飲み屋街として、有名である。こちらは青線街(売春防止法施行前の非合法売春街)であったという。
 狭い路地に立ち並ぶ木造の飲み屋街は、思い出横丁と違って、昼は静かなものである。隣の花園神社とあいまって、どこか都市の裏側の臭いがする。

 しかしだんだんと地上げが迫っているらしく、ところどころに駐車場がぽっかりと空いている。周りからビル化が徐々に迫っている。
 航空写真を見ていて気がついたのだが、ゴールデン街は鈴木喜兵衛たちが悪戦苦闘して作った歌舞伎町の街づくり区域のすぐ東に接しているのである。
 あちらはそのおかげで、良かれ悪しかれ現代の都心として繁栄し、こちらはそこから外れたために戦争直後の面影を今に引きずっているのである。
 どちらも今の時代には面白い街であるが、その評価は複雑であるところに都市の面白さがある 


・未来都市にも怪奇超高層建築

 新宿といえば、淀橋浄水場跡の開発が、闇市と対照的な未来都市として開発されて、最先端の超高層街となった。
 四角や三角の筒や板が立ち並ぶどこか優等生的な景観は、もうひとつ面白みにかけていたのだが、最近ついにちょっと怪しげな超高層がたった。

 デザインスクールらしいが、その立ち上がるビルの包帯巻き姿はミイラ男か、その足元にうずくまる卵状建物は蛇の鱗模様に彩られてなかなかに怪奇趣味、もしくは玉と棒のとりあわせで艶笑趣味か、 なんにせよ闇市伝統の新宿らしくなってきたものである。
 みれば大建築家・丹下健三の子息の設計であった。
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