【資料】二人の建築家の戦中戦後・建築家・小町和義氏インタビュー

【資料】二人の建築家の戦中戦後
建築家・小町和義氏インタビュー

聞き手・記録・解説 伊達 美徳 (2008年)

◆この建築家・小町和義氏インタビュー記録は、建築家・山口文象研究の一環として伊達美徳個人が作成するものである。
 小町和義氏は1927年生まれ、いまは八王子で番匠設計を主宰し、和風建築の名手としてつとに有名である。山口文象建築設計事務所に1942年から1949年まで所属しており、戦中と戦争直後の山口文象の動静を最もよく知る人である。
ここに簡単に経歴を書いておく。

 1927年 八王子の宮大工棟梁の家に生まれる。
 1941年 工学院(現・工学院大学)入学する。
 1942年 山口文象建築事務所に入り、建築設計に携わる。
 1949年 山口文象事務所解散、東京建築設計事務所(後に平松建築設計事務所に       改名)に入る。建築運動に関わる。
 1969年 八王子に戻って番匠設計を主宰して現在に至る。

 このインタビューでは山口文象建築設計事務所時代を中心としている。実は小町さんのその後の活動は、戦後日本の建築界における設計や運動の歴史において重要な役割を演じているのだが、それはここでは簡単に触れるのみで、詳細なるお話は別の機会とする。

1.八王子の宮大工棟梁の跡取り息子

◆小町氏へのわたしのインタビューは実は2回目である。もう30年近くも前になるが、「建築家山口文象人と作品」(RIA編著 1982年 相模書房)を編集するときに担当していたので、山口文象事務所時代のことを知りたくて、小町さんにインタビューをしている。
そのときも八王子の番匠設計にうかがったが、事務所の位置は変わったが、小町さんは当時とあまり変わりない様子である。今回は生い立ちから聞くことにした。

伊達…お久しぶりです。ご無沙汰をお詫びいたします。今日はお時間をいただきありがとうございます。今回は小町さんの人生のすべてを聞きしたくて参りました。そうすると1週間くらいはかかりそうですね(笑)。まず生い立ちを伺いたく存じます。

小町…八王子の小町家は、高尾山薬王院のお出入り大工棟梁で、江戸中期くらいから勤めていたようです。高尾山の建築については、冊子「番匠」(1977)に詳しく載せています。弘化4年(1844年)の飯綱権現堂上棟文書があり、「小町若狭源金義」の名が見えます。これは当時は社寺奉行に伺いを立てて棟上げを行ったので、そのときの許可書ですね(「番匠」16ページ)。薬王院の6割は小町棟梁の作で、「番匠」8ページの写真は昭和8年の客殿の棟上げのときのもので、左端の小さな子がぼくで小学校にはいったばかりの7歳、その右が祖父の小三郎で一番の棟梁、その右がぼくの父の宗太郎、ほかは小三郎の弟子の大工さんたちです。

伊達…ほう、大工さんたちもみんな装束と烏帽子をつけるんですね。

小町…そう、ぼくも20年前に高尾山の不動院を設計したときに、装束で参加しましたよ。

伊達…小町さんは棟梁の家の長男で跡継ぎいらっしゃいますよね。

小町…ええ、上の5人が女で、親父はお袋に男ができるまで産めって(笑)、6番目にやっと生まれたのがぼくです。やっと男の子が生まれてうれしくて、ぼくのお七夜のお祝いでみんな酔いつぶれた家に泥棒が入って、新聞に載ったそうです(笑)。ぼくのあとに弟1人と妹2人が生まれました。

伊達…それじゃあ小さいときから大工棟梁になるように育てられましたね。

小町…そう、小さいときから大工道具をおもちゃにして遊んでいましたね。仕事場に彫刻師が来て仕事していたのが面白くて、見ているうちに彫刻師になりたくなりました。この絵(*「番匠」15ページ「飯綱権現堂向拝蝦虹梁下絵図」)のような彫り物ですよ。

伊達…このような図は誰が描くのでしょう。

小町…棟梁や彫り物師が描きますよ。そのころ祖父から、お前は今に関西の伊藤平左衛門(*尾張藩作事方を務めた工匠の棟梁の家柄、和風も洋風建築も手がけた)に弟子入りさせる、といわれた記憶があります。後に伊藤さんは代々有名な棟梁だったと知りました。小学校6年生頃になると家に縛られるのがいやで出たくなってきて、卒業と同時に浅草の彫刻師に弟子入りしようとおもい、そう親に言うととんでもないと大反対されましたね。

伊達…跡取り息子がそれじゃあ困りますねえ(笑い)。

小町…そこでそのころ家から一番近くて建築を教える学校が新宿の工学院(*現・工学院大学)だったので、そこに入りました。ぼくにしてみれば家から離れるチャンスと、ちょっとでも遠いところに行きたかったこともありますね。八王子から汽車通学しました。

伊達…そのころも工学院と言っていましたか。

小町…ぼくの入るちょっと前までは工手学校といっていましたが、ぼくのときは工学院でした。工学院は技術者を育てる学校でした。そこで蔵田周忠さん(*建築家)に教えてもらいましたが、助手が剣持勇さん(*デザイナー)で主にこの人に教えてもらいました。2年間は予科、そのあとの本科は夜学となるのです。だから本科になると昼の勤め口として、自宅で大工仕事をして夜通学するか、どこか東京で就職するかとなります。そこで親戚の人 の友人に山口文象建築設計事務所に紹介してもらいました。

伊達…その頃の建築家山口文象について、小町さんはどのように聞きあるいは思っておられましたか。

小町…工学院の予科では建築についてはまったく教えられませんでした。家では祖父や父は自分で設計し図面を書き、自分で作っていたのを見ていたので、建築家という職名も山口文象という名前もまったく知りませんでした。

2.山口文象家の書生となる

◆山口文象建築設計事務所の創立は1934年とされる。ヨーロッパから帰り着いたのが32年7月末、すぐに日本歯科医学専門学校付属病院の設計に、麹町区富士見町の有島生馬の貸家で、創宇社建築会メンバーであった河裾逸美とともにとりかかった。翌年に目白に自宅を構え、ここに山口蚊象建築設計事務所を開設した。
 丸の内の三菱仲四号館に事務所を構えたのは1936年であった。勘当されて風来坊であった18歳の山口が、丸の内の郵船ビルに中条精一郎を飛び込みで訪ねて、出世の道となる逓信省営繕課を紹介してもらってから16年後であった。
 三菱仲四号館は有楽町駅からは程近いところにあり、赤レンガ造の2階建てのオフィスビルで床と屋根が木造であった。今のような廊下型ではなく階段アクセス型になっており、山口事務所はその玄関を入ってすぐ左にあった。戦後のRIAとなってから2階にも設計室ができたが、これはRIA創立メンバーの三輪正弘氏の父君の政治家三輪寿壮氏の事務所であったものである。
 小町氏は久が原の山口自邸に住み込み、いわば山口文象の内弟子となる。この家は1941年に建てたもので、木太い純和風の民家デザインであった。現・山口邸は当初イメージを保つのは外郭シルエットだけで、内外とも大改装されている。

伊達…山口文象建築設計事務所に入ったのはどんなツテだったのですか。

小町…義兄の坂本一雄さんが東京のある会社の設計部に勤めていて、その友人の榊原博さんが山口事務所で働いているので聞いてみようと紹介してくれました。丸の内の三菱仲四号館にあった事務所に榊原さんを訪ねて行きました。榊原さんの紹介で、その事務所で山口先生に会い、入れてくださいと頼みましたところ、では来なさいとなりました。そのとき「うちにも君のような若い書生が2人居るよ」と話が出て、「それならぼくも書生にしてください」と懇願しました。当時の少年倶楽部という雑誌に、袴をはいて高下駄で歩く書生姿が載っていて、書生にあこがれていました。それで1942年3月から山口家に住み込み書生になりました。

伊達…でも、それではお父上がお怒りでしょう。

小町…もちろん、父親からは勘当同然となりましたね。布団も送ってくれませんでしたが、母がこっそりと送ってくれました。

伊達…そうですよね、母親というものは、。その昔、棟梁の息子の山口先生も18歳で勘当されましたね(笑)。では跡継ぎを弟さんになさることにしたのですか。

小町…どうですかねえ、そのうちに戻ってくると思ったかも知れませんね。とにかく久が原の山口家の今でもある離れに住みこみました。2人の先輩書生は、18歳の今喜多さんと20歳の久保富夫さんで、久保さんは早稲田大学付属高等工学校建築科に通っていました。今喜多さんは建築ではなく、専門学校検定試験を受けるために書生となって勉強していました。その2人のところに16歳のぼくが入り、離れの7畳半に3人で寝泊りしていました。庭側の小さな窓から母屋の2階の先生の書斎の窓が見えて、まだ起きているとか、互いに電灯がついていることを確認しあっていました。

伊達…書生は山口家でどんな仕事をするのですか。

小町…山口家では勝敏さん(*山口文象長男)がその前年に生まれていて、翌年に苑子さん(*山口文象長女)が生まれ、はじめは子守、買い物、喜美子夫人のお出かけのお伴などをしていましたが、少しなれたところで事務所に行くようになりました。朝6時に女中が書生部屋のベルをならすのです。ベルの回数が1回ならならぼく、2回なら今喜多、3回なら久保さんなんです。まず掃除で、サロンから食堂、庭、そのころは西側に長い玄関アプローチがあって延べ段敷石の両側に笹が植えてあったのでそこを掃除するのです。サロンで勢いよくはたきをかけていると、2階から「うるさいッ」と先生の声が落ちてきます。それが終わってから女中部屋で食事をして、丸の内か銀座の事務所に出勤します。
伊達…家では建築は教えてもらえないのですか。

小町…教えてもらいましたよ。夜遅くまで電灯をつけていると、先生がひょいと離れに現れて窓ガラスをたたいて、早く寝なさいとか、図面でも書いているとあがってきてみてくれました。建築史や美術史の本を読むように薦められましたね。そうそう、久保さんが卒業設計で、離れの部屋で夜遅くまで図面を書いていたら、ひょっこりと先生が現れて何をしているかといわれ、その図面を見せました。ところが「こんなものじゃだめだっ」と言うや否や、ビリビリと図面を破いてしまったのです。どけっと製図台の前に座り込んでどんどんスケッチを描き始め、それを久保さんとぼくが清書、インキングして 徹夜もしながら一週間で完成しました。まるで山口文象の卒業設計になってしまいましたね(笑)。気の毒に、久保さんは先生からさんざんに言われて結局建築をやめることになるのです。

伊達…厳しいですねえ。

小町…先生はぼくたち内弟子には大変に厳しかったけれど、その反面でぼくたちのことをやさしく心配してくれていましたね。若い3人のことを気にとめていてくれている手紙が、わたしの手元に残っています。(別添の資料2参照) 

3.戦争中の山口文象事務所

伊達…おはいりになった山口文象建築設計事務所(*1932年創立)は、もう京橋の銀一ビルにありましたか。

小町…多分、ぼくが入る前の年の1941年からでしょう。銀座1丁目の銀座通りのひとつ南の裏通りで、地下鉄の京橋駅の近くで、ビルの2階に事務所はありました。

伊達…では丸の内の三菱仲四号館はどうしていたのですか。

小町…仲四号館は山口先生の書斎で、先生とぼくだけが居ました。先生が奥の部屋に居て、ぼくは給仕部屋みたいのがあってそこに居て、先生のスケッチを清書したり、スケッチなどを京橋の事務所に届けたりしていました。

伊達…その頃の所員はだれだれですか。

小町…浅見静雄、渡刈 雄、角取広司、遠藤正巳、和田富朗、榊原博、矢内弘、吉原幸雄は構造担当、岡田敏雄は建築家の岡田哲郎の弟で画家志望、寺田 弘、久保富夫、山口和男それにぼくです(*別添の資料1参照)。戦後、先生の弟の山口栄一さんが兵隊から戻ってきました。仕事は、光海軍工廠(*山口県光市)などの軍需工場の工員宿舎が圧倒的に多くて、もう忙しくて忙しくて、時には学校を休まなければならないほどでしたね。ぼくは工員宿舎の伏せ図ばかりを書かされましたが、とにかく建築面積が大きくて、幅5厘の平行線 を書くのも大変。大判の製図版の上で端から端まで線を書くのに鉛筆を回しながら引くのだけど、図版にずっと伏せた体勢で描くから、肺病になったのかと思ったくらい胸が痛くなってね。

伊達…図面も大変ですが、できた建物も100メートルもあるような廊下だと、それは空間としてどんなものだったんでしょうね。

小町…できあがった図面を折りたたんで発送するのに量が多くて大変、リヤカーで郵便局に運びました。でも建った建物は一つも見ていません。

伊達…ここに元・光海軍工廠の写真があります。1980年頃にわたしが現地を訪ねて写しましたが、そのときは武田薬品工業の工場となっていました。もう工員宿舎はなくて、玄関近くにあった事務所らしい二つの建物の写真を撮りましたが、これをご覧になっていかがですか。

小町…上のコンクリートの建築は違うだろうけど、こちらの木造2階建てのほうは、なんだかデザインが当時のもののようですね。戦前のものですか。

伊達…見たところでは戦前の感じでした。

小町…この木造の事務所風建築は、山口文象事務所のデザインの可能性はありますね。連窓ではなくてボツボツとした窓のつけ方とプロポーション、庇があまり出てなくて寄棟の形は、なんとなく覚えのあるデザインだなあ。戦後になって設計して有楽町駅前に建った東京都交通局の建物によく似ていますね。これの設計図をぼくが描いた記憶はないけれど、山口事務所作品の可能性がありますね。

伊達…それでは山口文象作品の新発見ですが、なにしろ訪ねたのが30年くらい昔のことなので、今もあるかどうか分かりません。工員宿舎の設計について、山口先生はなにか創造的なデザインされていましたか。

小町…工員宿舎には山口先生はあまり細かいことは言わなかったですね。先生が仲四号館で簡単なスケッチを作り、それをぼくが京橋に運びました。でも住宅については細かく見ていましたね。スケッチに沢山のディテールが書き込まれてね。その頃設計の住宅は、上代たの邸(*日本女子大学長)、五味邸です。五味邸は田園調布にあって設計担当は矢内さん、施主の五味さんは日本放送協会の人でした。

伊達…そう、山口先生はディテールにこる人でしたね。昔、ご一緒して飯田橋の日本歯科医科大学を見に行ったとき、窓周りのディテールの工夫を説明してくださいました。先生は事務所には毎日来ておられましたか。

小町…週の半分くらいしか事務所にこなかったようでしたね。時々ゴルフに行っていましたね。京橋の事務所に来られるときは入り口 の前から靴音高く、ドアを大きな音で閉めてはいってきて、みんな緊張したものです。

伊達…そのころ設計チーフはどなたですか。

小町…角取さんがチーフで、その次が遠藤さんでした。角取さんの図面は几帳面で技術者タイプ、遠藤さんは芸術家タイプで線がソフトで美しかったですね。どちらもぼくは尊敬していましたが、遠藤さんの図面を好きでした。ぼくは朝早く事務所に行って掃除をし、みんなの鉛筆削りもしておいたものです。製図室の隣の部屋には、ラオコーンなどの石膏のトルソーが置いてあり、昼休みはご飯を食べると石膏デッサンをやっていましたよ。矢内さん、遠藤さんとぼくが描き、先生役は絵描き志望だった岡田さんでした。

伊達…先生も描きましたか。山口先生の絵は、デッサンはうまいけど色彩がどうもねと、竹村さん(*竹村新太郎、創宇社建築会メンバー)はおっしゃっていましたが、いかがですか。

小町…山口先生が石膏デッサンすることはなかったね。わたしも竹村さんがそういうのを聞いたことがあるけど、色使いが下手ってことはないと思いますよ。山口文象案が佳作に入った日泰文化会館コンペ(*1943年、1等丹下健三、2等前川國男)のパースは先生が描いたけど、色彩も上手でしたよ。その下書きはぼくが描き、先生がそれをもって仲四号館の自分の部屋に夕方5時頃入り、そのまま徹夜して次の日の11時頃だったか「コマッチャンできたぞー」って出てきて、見ると淡彩で彩色してあって、ななかよいものでしたよ。あのコンペの山口デザインは、丹下案の切妻の形に似ていて、富山の八雲図書館の模型写真に似ているが棟持柱はなくてね、あれよりもよい作品ですね。とってもよい作品だったと思っていますよ。(*小町さんはこのコンペで佳作だったとして、「建築家山口文象人と作品」(1882)にもそのよう記載したが、当時の雑誌「新建築」には佳作として掲載していない。小町さんに確かめたら、記憶違いであるようだ)

4.戦争加担は一切しなかったか

◆山口文象は1970年代は講演や座談会で、建築家の戦争責任を追及する話をよくした。たとえばもっとも追求を激しくしたのは内田祥三が東大総長として学徒出陣を送り出したことに対してであり、そして自分は戦争には一切加担しなかったというのであった。
 しかし軍需工場の設計もあるようだし、日泰文化会館コンペに応募しているし、本当にそうであったのだろうか。当時を一番良く知っている小町さんに私は確かめたかった。 
 なお、1982年と2003年刊行の「建築家山口文象 人と作品」にこのコンペに山口文象は佳作となったと書いたが、当時の雑誌「新建築」にはその記載がないので誤りだったようだ。

伊達…戦争中の山口先生の仕事について、ずっと気になっていることがあるのでお聞きします。1970年代からのことですが、山口文象先生は、「戦争中には自分は戦争に加担する仕事は一切しなかった。ただ、妻の縁戚が海軍中将だったこともあって海軍の軍需工場の仕事を断れずやったが、それでも武器工場の設計はしないで、工員たちが快適に過ごせるように宿舎の設計だけをした」というお話を講演などあちこちでされて、わたしも聞いています。しかし、戦争中の仕事を調べると、富士飛行機とか荏原製作所とか、先ほどの光海軍工廠の事務所とか、工員宿舎と比べると件数は少ないのですが、軍需工場を設計しなかったと言い切るのはどうかと思うのです。日泰文化会館コンペだって、大東亜共栄圏構想への加担ですよ。小町さんは戦中に山口先生のもっともそばにおられたので、そのあたりを確かめたいのです。

小町…少ないけど軍需工場の設計もありますよね。しかしね、工員宿舎だって軍需工場の一部なんだから、十分に戦争に加担した仕事であると、ぼくは思っています。工員宿舎だから戦争加担していないというのは、今のイラク戦争の後方支援だから戦争加担でないというのと同じで、おかしいですよ。

伊達…小町さんがそのようにお考えと聞き、話をしやすくなりました。建築家の戦争責任を追及することは必要だったと思いますが、自分の手がマッサラというには無理があると思うのです。わたしにも師である建築家としての山口文象を貶めるつもりはありませんが、事実は事実としてきちんとしておくべきと思うのです。十分に立派な仕事をした人であっただけに、事実を曲げては不幸なことだと思うのです。

小町…あるとき、建築運動史の勉強の会議で、竹村新太郎さんがそのメンバーだった創宇社建築会のことを話し、山口文象先生は聞き役の側で、ぼくも参加していました。終わってから質疑などになったとき、山口先生の隣にぼくは居たのですが、先生が突然に立ち上がり、「わたしは戦争に加担する仕事はまったくしたことがない、そのことはここに座っている小町君が一番よく知っている」といわれたのです。これにはわたしはちょっと唖然としたね。

伊達…えっ、それって口封じみたいですね(笑)。

小町…そのとおり、あとで廊下で竹村さんからいわれましたよ、「コマッチャン、口封じされたね」、ぼくは「しょうがないですね」って(笑)。まあ、突っ込んで話す機会があれば、「先生それは違いますよ」といってもよかったのですが、命の恩人でもあるし、みんなの前でそこまでできなかったですよ。工員宿舎であっても軍需工場付属の宿舎ですから、これだけ多くやれば戦争加担といわなくてなんだろうと思いますよ。ほかの設計事務所は当時は苦しかったはずですが、山口事務所はこんなにたくさんの仕事をしていたんですよ。本当は、ぼくも含めてざんげするべきと思っています。それをしないどころか、戦争加担一切しなかったと公言するのは、どうもねえ。山口先生は一面では、事情をよく知っているぼくに対して警戒心もあったようですね。だから口止めしたのでしょう。

伊達…この話は、山口先生はNAUの近代日本建築運動史講座で1949年11月14日に東大で講演している記録がありますが、そのときですか。

小町…いや、もっと後のことと思うけど、建築研究団体連絡会が主催する建築運動史講座で、場所は全造船会館でのことだったですね。

伊達…それにしても山口先生にしてさえ、やはり戦中は変節だったのでしょうか。

小町…創宇社時代から若者を引っ張ってきた人ですが、どこか肝心のところで本筋から逃げることがあったようで、そのあたりを竹村さんたちも感じていたようです。でもね、戦争が激しくなってきて、ぼくは予科練に志願したくなって、先生にそういったら激怒されて、「この戦争は負ける、赤紙がきたら仕方ないが、それまではここに居て建築の勉強をしていろ」と諭されました。そのとき一瞬、この人は非国民か?とも思いましたが、その一方でまたわたしは目の前が明るくなったような気がしました。それで今のぼくがあるのですから、先生は命の恩人とも言えます。

伊達…そうですか、戦争に負けると分かっていたのですね。もしかしたら海軍の上層部に親戚がいたからそれで知ったのかもしれませんね。負けるなんてとてもとてもいえない時代の発言ですから、それはすごいですね。内面と仕事で葛藤があったのでしょうね。

5.戦後の山口事務所とその解散

◆山口文象の戦争直後は、貧を極めたようだ。戦中は軍需工場の工員宿舎設計でそれなりに羽振りが良かったのに、戦争が終る直前からは仕事はほとんど無くなった。
 猪熊源一郎からわたしが聞いた話では、生活費の援助もしたし高松近代美術館と久が原教会の仕事を紹介したが、営業がへたくそだったという。
 伝説的には、売り食いで着るものもなくなって最後の礼服モーニングを着ていたとか、谷口吉郎がいくばくかを都合したとかの話がある。
 戦争直後の一般建築界には占領軍の仕事が多くあったし、1947年設立のNAU(新日本建築家集団)は労働組合関係の設計を多くしたから、当初にNAU中央委員をしていた山口はその仕事もできたはずだが、それらを一切手がけなかったのは、どのような考えだったのか。
 開設から15年の1949年2月に、ついに山口文象建築設計事務所を解散するのだが、その動機は経済事情だけではなく所員の左翼的活動で仕事をできなくなったと、私は山口文象から直接に聞いたことがあるが、実情はどうだったか。

伊達…山口家は小海に疎開しましたよね。これで事務所も休業ですか。

小町…1944年ごろからは、さすがに仕事も少なくなりました。戦争が激しくなって、1945年4月から山口家は全員が長野県の小海に疎開しました。そのときに、ぼくは引越し荷物を担いで、何日も続けて山口家と小海とを汽車に乗って往復したものです。小海の疎開先は、小川光三さん(*創宇社建築会メンバー)の知り合いの新津さんという方のところでした。のちに新津家の兄弟が山口文象事務所に入ったこともあります。

伊達…わたしは新津悦さんという方に、RIA時代に一緒だったことがあり、事務をしておられました。

小町…4,5,6月で荷物を運び終えて山口文象事務所は休止状態となり、7月からぼくは八王子に戻って、家の仕事を手伝っていました。先生からは長野のほうで地下工場の仕事があるから待機しておれとのことでしたが、それもないままでした。地下工場ってまさに軍需工場でしょうね。3月10日の東京大空襲のときは山口家は燃えずに済みましたが、京橋の銀一ビルは燃えてしまいました。ところが終戦の2週間前の8月1日に八王子が空襲、小町家も被災してしばらくはトタンで作った小屋で、年末になって大工の親父が作ったバラック暮らしでしたが、その間に祖父と母が空襲のとき逃げ回った過労で連続して他界しました。

伊達…それはお気の毒なことでした。

小町…1945年敗戦の翌月9月には仲四号館が進駐軍に接収され、両事務所ともになくなってしまいました。山口家も小海から久が原に戻りました。ある日のこと、手紙が山口先生から来ました(*11月27日付)。相模湖芸術村の仕事があるから戻って来いとのことで、父親には言いにくかったけどぼくは喜んで46年1月からまた久が原に行きました。しかし、相模湖芸術村の主人公の猪熊弦一郎さんなど画家たちは東京に戻ってきてしまって、芸術村のプロジェクトは立ち消えになったらしく、その件の話は全くでないままになりました。

伊達…その話は、猪熊さんからわたしも聞きました。画家たちの疎開先の藤野町に計画し、山口文象の描いた図面を、神奈川県の当時の内山岩太郎知事に提出して支援を求めたことがあるので、県庁にその図があるはずだとのお話でした。県庁の知り合いに探してもらいましたが見つかりませんでした。猪熊さんは戦後はいろいろと山口先生を支援したようですね。

小町…画家の中西利雄アトリエと早川巍一郎邸、それに高松近代美術館は、猪熊さんの紹介のようです。

伊達…高松近代美術館は、猪熊さんの故郷の高松に建っていましたが、今は建替えられました。30年ほど前に見に行ったことがあります。この原図は珍しく一式そろっていて、RIAに保管されています。

小町…1948年の中ごろからはもうほとんど仕事がなくなったので、田園調布の猪熊さんのアトリエにデッサンを習いに通っていました。昼間は石膏デッサン、夜はモデルさんを描いたりね。猪熊さんのところにいた行木さんという人が医学用の解剖図を描く仕事をしていて、その手伝いをしましたよ。

伊達…猪熊さんのそのデッサン受講料はいくらでしたか。

小町…いや、それが払った覚えがないから、山口先生が出してくれていたのかしら、。

伊達…どうでしょう、山口先生が猪熊さんに生活支援してもらっていたくらいですから、払ってないでしょうねえ。猪熊さんから聞きましたが、仕事のない「文ちゃん」を見かねて紹介したのが、その故郷の高松近代美術館や地元の久が原教会の設計だったそうです。これが戦後の山口文象事務所の仕事らしい仕事でしょう。

小町…そうです。高松はぼくも設計をしましたが、久が原教会は事務所解散の後で、ぼくは設計に関係していません。

伊達…仕事のない中で生活はどうしていたのですか。

小町…給料は遅配、山口家は売り食いのようでした。1947年だったか事務所解散近くの頃、勤め先を求めて土浦亀城さんの大崎のあのモダンデザインの自邸を見たくて飛び込み訪問しました。山口文象事務所のものだが家を見せてほしいというと、見せてくださって歓待されたけど雇ってはくれなかったね(笑)。そこで村田政真さんを紹介されて訪問、土浦さんのつてなので歓待されましたね。進駐軍の仕事をしていてかなり羽振りがよい様子でしたが、どうも雇ってもらう気にはなりませんでした。

伊達…その土浦邸は、今もありますよ。進駐軍の仕事を山口先生がしなかったのは、また軍にかかわることが嫌だったのでしょうね。

小町…戦後すぐの頃だったか山口邸に居た頃、前川國男さんがNHKで話を放送すると聞き、その放送を聴きたいが、山口先生の家のラジオで聞かせてくれと頼みづらく、考えた末に思い出したのが以前に家を設計したNHKに勤めている五味さんで、放送の日に内幸町のNHKに訪ねていったのです。幸いにも五味さんはいらして覚えてくれていて、それならどうぞと中に入れてくれ、ここで待っているようにと言われて廊下の椅子に座っていました。しばらくして隣に男が来て座ったけど、どうも前川さんらしいと思ったが、よく分からない。しばらくして五味さんがその男を呼びに来て、ぼくにも来いといわれてついていったのです。その男はやはり前川さんで、彼は放送室に入り、ぼくはガラスで隔てられたミキサールームに案内されました。座るとガラスの向こうには、前川さんがまっすぐにこちらを向いて座っているんです(笑)。こうして前川さんの放送を1対1の特等席で聴くことができましたね。終わってから「君は誰だね」と聞かれて、山口先生のところにいるもので云々と自己紹介しました。その後に何年もたって前川さんに再会したとき、「君は山口君のところの人だね」と言われました(笑)。

伊達…さすがに覚えていてくださったのですね。戦後に事務所を代々木に移しましたね。

小町…昭和21か22年で、あれは喜美子夫人の実家の千坂邸です。代々木駅から4、5分ほど歩いたところでしたね。ある日、山口先生からもうお前はこの家から出て独立して生活せよといわれて、久が原を出ることになったのです。

伊達…えっ、それは大変ですね、だってその頃は住宅も食べ物も極端に欠乏の時代ですよ、どうするんですか。

小町…そう、戦争直後のあの時代に住むところはないので、代々木の山口事務所の製図版の下で寝泊りしていました。そこに昭和21年の夏ごろだったか遠藤さんが復員してきて、ぼくと一緒に代々木事務所で生活するようになりました。そこでの仕事は、遠藤さんとぼくで東京都交通局の木造2階建ての大きな建物(*有楽町駅前の現・交通会館ビルの前身)、高松近代美術館、立教大学チャペルコンペをやり、二見さんとぼくで中西利雄アトリエ、早川魏一郎アトリエはほとんどぼく一人で設計から現場までやりましたね。その間に遠藤さんは辞めて独立し、そのあとは二見さんも辞めて日建設計に移り(*二見氏は後に日建設計社長)、ぼく一人になりました。そのころはもう何ヶ月も給料は遅配で、ぼくは食い扶持を稼ぐために代々木駅前の道端に小さな手作り机を出して、タバコのライター修理をやっていました。秋葉原でオイル、油芯、発火石などを仕入れてきて、通りがかりの人を相手の商売でね、1日に80円くらいの収入になりましたよ。

伊達…それでどれくらい食っていけるのでしたか。

小町…1日3食をやっとまかなうことができたね、駅前の食堂に通って顔なじみになって、閉店間際に行って残り物をもらったりしてねえ。でも、そのうち90円くらいは稼げるようになって、生活苦の同僚を助けたこともありますよ。代々木には共産党の本部があるので、その関係の人たちも通っていろいろなパンフレットをよくくれましてね、それで次第にそちらの方面に興味がわいていったのです。

伊達…山口文象事務所は1949年はじめに解散したのですね。それについて山口先生の話を聞いたことがあるのですが、そのころ左がかった所員が多くて、ブルジョア住宅の設計とか久が原教会のような宗教建築はけしからんと言うので、仕事ができなくなったのが解散の原因だったそうです。本当にそういうことがありましたか。

小町…いや、そんなことはまったくなかったなあ、だって久が原教会は解散後の先生の仕事ですし、ブルジョア住宅の仕事なんて聞いたことも、けしからんなんて言ったこともないですよ。その少し前には先生と一緒に立教大学のチャペルのコンペを一生懸命にやったくらいですから、宗教建築だからけしからんなんて言い ませんよ。昭和23年頃には給料も半年以上遅配していたので、年の暮頃に二見さんとわたし(浅見さんもいたかどうか)で先生のところに行き、仕事もないし給料のことも含めてこれからどうしたらよいか相談しましたよ。先生も経済的に行き詰まりの状態だったので、これをきっかけに解散の決心がついたのだと思いますね。事務所解散は経済的破綻が原因なのに、所員の左傾化のせいのようにすり替えたり、またそれを公言するのはひどいと思いますね。その左がかった所員はぼくのことのようですが、先生と喧嘩するどころか、先生はもう少しうちにいなさい、どこか就職先を探してやるとおっしゃって、実際に東京建築設計事務所を紹介してくださったのですからね。

伊達…そうだったのですか。山口先生は自称左翼といいながら、平松さんのようにやろうと思えばできたのに、どうして労働組合関係の仕事をしないで事務所の解散し、売り食いするほどの貧乏をしていたのでしょうかねえ。

小町…う~ん、それはねえ、先生は文化人には知人が多かったけれど、労働組合運動の中には知人がいなかったからでしょうかね。

伊達…よく分かりませんが、東京下町の浅草の出だけど、その後に有名建築家となり、山の手に住み丸の内に事務所を構えると、人生観も変わったのでしょうかねえ。それとも戦後の鬱屈状態がそうさせたのでしょうか。

小町…どうでしょうかね。

6.建築家・平松義彦との20年

◆小町さんにとって、山口文象に次いで最も近くにいた建築家は平松義彦であった。
 平松は東京美術学校を出て大林組に入り、創宇社建築会メンバーとなり、戦後に東京建築事務所を開設し、そこに山口文象の紹介で小町さんが入って20年間の師弟関係となる。

伊達…1949年3月に東京建築設計事務所に就職され、これは後に平松建築事務所になり、小町さんはそこを辞めるまで平松さんと20年のお付き合いでしたね。

小町…山口文象事務所解散後に山口先生からよばれてね、東京建築設計事務所の平松さんに頼んだから行きなさいと紹介されました。ここは平松義彦(経営)、今泉善一(設計)、道明栄次(経理)の3人が共同経営者で、みな創宇社建築会メンバーで山口先生に縁のある人たちですね。名目上の社長は木村得三郎といい、平松さんの美校の先輩であり元は大林組設計部長で上司であった人でした。事務所は銀在三越裏の雲鏡ビルにありました。

伊達…東京建築設計事務所での担当はどんな仕事でしたか。

小町…東京設計事務所は後に平松建築設計事務所になるのですが、結局20年平松さんのもとで仕事をしましたね。はじめは千葉あたりの小学校をたくさん設計していましたね。その当時、習志野市長をしていた白鳥儀三郎(*評論家)と平松さんが親しかったので、その関係で小学校を建てる設計でした。その材料は、千葉あたりにたくさんあった元日本軍の兵舎を解体したものでしたね。そこでのぼくの初めての仕事が、映画監督の衣笠貞之助さんの茶室と女優の山田五十鈴さんの舞の稽古場を一緒のところに作ることでした。この頃の2人は監督と女優の関係を超えて、妻子ある衣笠さんと同棲していました。実は数奇屋や茶室の設計はやったことがないのですが、山口文象のところにいたからできるだろうと担当させられました。

伊達…山口先生はその方面は実に詳しい人でしたね。

小町…そう、ドイツでグロピウスにも茶室の写真を見せたとかね。東京建築設計事務所の人たちも初めてのことでした。今のように参考図面もなくて、どうすればよいか分からないので、その方面に強い石間工務店というのがありましてね、そこに工事をさせる前提で、いろいろと図面を見せてもらって設計しました。しかし図面はできても数奇屋の納まりなどは分からないままでしたから、現場でベテラン棟梁の仕事を、覗き込むと怒るので盗み見して勉強しました。棟梁がやってくる朝7時より前に現場にいって、仕口や納まりをスケッチしたりもしましたね。ある朝、はしごの上でスケッチしていると背後に鋭い視線を感じたので振り返ると、そこに棟梁がいて詰問されてしまってね、困ったけど仕方ないので正直に教えを請うと、では家に来いといわれて、以後は親しくなってね、よく家を訪ねて教えてもらいました(笑)。この茶室と舞台はできたのですが、山田五十鈴さんは京都で俳優の加藤嘉さんと 親しくなって東京の衣笠さんの家に来なくなってしまい(笑)、舞の稽古舞台は彼女の娘でその後女優になった瑳峨三智子さんがピアノの稽古場に使っていましたね。

伊達…東京建築設計事務所が平松建築設計事務所に変わったのはどうした事情でしょうか。

小町…東京建築設計事務所は、1950年頃にある仕事がうまく行かなくて借財を負ってたちゆかなくなり、経営陣の今泉、道明、木村の3人と所員4人が辞めて、平松さんひとりが借財を負って池田、彦坂、小町の3人だけスタッフを抱えて事務所を継続したのです。

伊達…平松さんは建築運動に深くかかわり、また左翼系の関係の建築設計をたくさんなさっておられるようですね。

小町…平松さんは1947年設立のNAU(新日本建築家集団)の事務局長をされており、東京建築設計事務所にはNAUの事務局も同居していて、事務局員の平良敬一さんと宮内嘉久さんも一緒にいました。所員とこの2人で計13人、狭かったですね。NAUを通じて労働組合関係にコネクションが強く、全国造船労組会館(千駄ヶ谷)、新日本文学会、八幡製鉄労働組合会館(海老原一郎、池辺陽、今泉善一担当)など、山口文象事務所と違って忙しく設計の仕事をしていました。1950年前後から戦後政治の激動期に入り、日本共産党の幹部の公職追放、朝鮮戦争、公務員レッドパージなどの労働組合や民主的運動への弾圧は、NAUの運動にも大きく影響を与え、幹部の辞退や動揺などで、次第に衰退していきました。東京建築設計事務所はちょうどそのころ縮小解散の時期で、平松もNAU事務局長を辞して、その事務局もよそに移りました。その後1959年に平松建築設計事務所と改名し、平松氏個人の色が濃くなり、代々木病院など民医連の仕事、アカツキ印刷(*共産党機関紙工場)そして党本部など、共産党関係の仕事が多くなってきます。

伊達…政治的に難しいこともあったでしょうね。

小町…共産党と対極にある自民党の大物の河野一郎さんの家の設計をしたことがあります。平松さんの姪が河野謙三さんの夫人で、その縁で謙三さんの家や一郎さんの家を設計し、さらに河野家関係のいくつもの設計をすることになり、ぼくが担当しました。河野一郎さんはさすがに大物で、建築家の技術を買うのであって思想を買うのでないからそれでよいのだと、おおようなものでした。

◆小町さんの平松建築設計事務所時代は、まさに戦後日本の激動期で建築運動も激動したのであった。
 1947年設立のNAU(新日本建築家集団)の事務局が平松事務所にあったし、平松の共産党の仕事とあわせて、小町さんも左翼活動としての戦後建築運動に入り込んだ。
 1952年のNAU活動停止後には、多くの運動体が生まれかつ離合集散する50~60年代の激動の流れがあり、その裏には左翼運動の複雑な動きも絡んでいるようだ。
  「近代日本建築運動史」(松井昭光監修、本多昭一著 2003年 ドメス出版)には小町さんの名も登場する。
 小町さんはその渦中にいながら1969年には平松の下を去って八王子に戻ったのは、いったい何があったのか、そのあたりの詳細な話はまた別の機会に譲ることにした。

7.創宇社建築会の人々

◆小町さんの話のなかに、創宇社建築会のメンバーが山口文象をはじめとして平松義彦、河裾逸美、竹村新太郎、梅田 穣、渡刈 雄、道明栄次、今泉善一、小川光三、海老原一郎、山口栄一、野口 巌など数多く登場する。
 創宇社建築会は1930年に事実上は活動を停止したのだが、この人たちはその後も連帯を持っていたことになる。メンバーたちのその後の人生は実に多彩なものであるようで、それをいつか誰か研究対象にすれば日本建築近代史の厚みが増すはすである。

伊達…1923年に山口文象を中心に設立した創宇社建築会は、1930年に会としての活動は事実上は終りますが、その会員たちはその後どのようになったのか興味を持っています。平松義彦さんについては伺いましたので、次は今泉善一さんのことを教えてください。この方は創宇社建築会の活動の後は戦前の共産党で非合法活動に入り、1937年に党の資金稼ぎの銀行襲撃事件計画犯として逮捕されて服役しますね。特高警察の謀略で、「スパイM」の操作として有名な事件ですね。

小町…東京建築設計事務所では今泉善一さんの下で設計の仕事をしました。実はこの今泉さんには、1943年に丸の内の山口文象事務所を訪ねてきたことがあって、ぼくはそのときに始めて会っています。例の事件で服役して、出てきたばかりの坊主頭でした。ちょうど山口先生が不在で、後日の来訪を約束して帰っていきました。ぼくはその事件のことも今泉さんも、そのときは知りませんでした。遠藤さんに今泉さんという人が来たことをいうと、「あ、善ちゃん、出てきたのか」と、ちょっと変な感じでした。今泉さんは後日に訪ねてきて、山口先生も待っていて応接間で2時間くらい話して帰っていきました。それから何ヶ月かたってから、所員の誰かが今泉さんが前川事務所に入ったよといっているのを聞きました。そうか、今泉さんが来たのは山口文象事務所に雇って欲しかったけど先生は断ったんだと、そのとき分かりました。山口文象事務所の軍需工場関係ばかりの仕事では、受け入れにくかったのでしょうね。しかし前川さんは受け入れた、そこが山口先生と前川さんのふところの違いですね。それは前川さんの出自のよさによる鷹揚さとも関係があるでしょう。当時前川事務所にいた道明さんが、今泉さんを入れるように頼んだようです。今泉さんはデザインも技術も感覚も非常によい人でした。服役中は時間がたっぷりあったので、しっかりと建築の勉強をしたそうです。

伊達…今泉さんは後に㈱日本不燃都市工学研究所を主宰して、1950年代からの日本全国の都市で当時の復興事業であった防火建築帯の設計をしていますね。実はわたしのRIAで始めての仕事がそれで 合ったが故に後に都市計画に転向するのですが、仕事では今泉さんはいわば大先輩にあたります。

小町…そうです、東京建築設計事務所を辞めてから、東大生産技術研究所の池辺陽さんが主宰していた財団法人建設工学研究会に加わり、改組して株式会社不燃建築研究所にしたのです。そこにわたしの弟の治男が入りました。全国各地の駅前や中心商店街に、連続建築として今もありますよ。池辺さんの家と隣り合わせに自宅を一緒に作って住んでいましたね。(*その後に人づてに伺うと、今泉夫人は転居して高齢者施設に暮らしておられるとのこと)

伊達…山口文象事務所の最初の所員だった河裾さんは、小町さんがはいられた1942年にはもういないのですね。

小町…そう、仕事が達者でセンスの良い人と聞いていましたが、いつやめられたのか知りません。

伊達…河裾さんには、わたしはもう30年くらい前に大阪で何度か会いました。我孫子に住んでおられて、医院の仕事が得意で自宅で仕事をしておられ、大阪のRIAが協力していました。角取さんから聞いた話ですが、山口文象事務所の洋風建築は河裾さん、和風建築は角取さんという分担だったそうです。

小町…山口先生の弟の山口栄一さんのパースはうまかったねえ、芸術作品だったね。

伊達…そうそう、わたしもRIAで建築やっていた頃の大昔に描いてもらったことありましたが、いわゆるパース屋のパースじゃないので官庁仕事には向きませんでしたね。でもわたしはあの芸術的なパースを大好きでした。

小町…彼は陸軍中尉で、戦争で中隊を率いて南方のどこの島だったかで戦うんですよ。でもね、やさしい人なんで好んで死ぬことはないって、突撃となると彼の隊はいつも一番最後に出るんですって(笑)、だから彼の隊だけは生還者が多かったそうですよ。東京美術学校の建築の出ですが、絵の勉強で解剖学も習っていたので、戦場のジャングルで盲腸炎になった兵の手術をした話も聞きました。ジャングルを逃げ回って結局は米軍捕虜になるのですが、英語ができるので待遇もよかったとか。横須賀港に帰還したときには、先生の使いでぼくが迎えに行きましたよ。彼はぼくが久が原を出た後の離れに住み、そのうちに猪熊さんの世話で、そのアトリエに絵を描きに来ていた女性と結婚しましたね。

伊達…梅田さんは逓信省で山口文象の同僚でしたが、逓信省を減法騒動でクビになってから東京都に入ったのですね。

小町…そう、彼が戦中の防火改修の仕事をくれたのです。建築関係の課長だったか、結構偉くなって一つの部屋を持っていて、ぼくは仕事の報告などでよく訪ねて行きました。文ちゃんは元気かね、なんて威張っていましたよ。この仕事を一緒にしたのが渡刈さんでした。

伊達…野口巌さんはどうですか。

小町…佐藤秀工務店というのがありますね。それを始めた佐藤秀三という人は白鳳社という設計施工会社の設計にいて腕の立つ人で、独立して佐藤秀工務店を作りました。その白鳳社に野口さんはいて、佐藤秀工務店に移籍するのです。そして最も腕の立つ佐藤秀工務店らしい和風設計を継いでいった人が野口さんです。 

◆今回のインタビューのきっかけは、わたしの知人の建築家・横内啓さんから、小町さんは彼の母方の祖母の弟、つまり大叔父にあたると聞いて、小町さんにまた会いたいと言ったら、インタビューの機会を八王子市内の番匠設計オフィスでセットしてくださったのである。
  第1回 2008年5月17日16時~18時
  第2回 2008年6月19日15時~17時
第1回インタビューには、横内さんとともに坂本一郎さん、相羽満里子さん、鈴木理恵さんが同席し、第2回目はわたし一人で伺った。1942年に小町さんが山口文象と出会うきっかけを作った小町さんの長姉の夫である坂本一雄氏は、坂本一郎さんの父で、横内啓さんの母方の祖父にあたる。小町さんは今81歳、長生きして作品を作りつづける建築家は多いが、小町さんもその一人である。インタビューの前に、日野駅ちかくにある完成間近の薬王寺本堂を見てきた。小町さん最近作である。まさに81歳現役の仕事をみて、わたしもまだまだやるべきことがあるとあらためて思った。
小町さんの作品は、「数寄屋の実践 番匠設計の30年」(1995年9月 建築思潮研究所)に詳しく、そこに自分史も書いておられる。
この記録は、小町さんの手による数回の校正を経ているが(2008年8月11日校了)、文責は筆者の伊達美徳にある。(2008年8月11日 伊達美徳)


資料1.山口文象建築設計事務所 所員動向(開設から解散まで)
     2008年08月04日 小町和義氏作成

資料2.小町さんが書生時代に山口文象からもらった手紙


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