中越山村の四季に驚き愉しむ

中越山村の四季に驚き愉しむ

伊達美徳

 2004年10月に中越大震災が起きた。その次の年200年春から、日本都市計画家協会は復興支援チームをつくって、長岡市小国町法末集落に拠点を構えて、集落の住民たちと一緒になって、復興への道を歩んだ。
 今は集落は落ち着きを取り戻した平和な山村だが、その当時の全くの個人的な驚きの体験の記録の一部である。
法末集落については「ようこそ法末集落へ」を参照のこと


2007年7月の記 
またもや地震がやってきた

・お見舞いに駆けつける
 中越沖地震で、法末集落はまたまた大揺れ、2007年7月16 日午前10 時13 分、またもや
中越地方を襲った大地震。 
 法末集落は2004年10月の中越地震で、一時は全村避難したほど被災し、今は9割は戻って(それでも90人ほど)どうやら落ち着いていたところへ、またもやである。
 わたしは7 月18日から急遽お見舞いに駆けつけた。復旧応援で何ができるとも思えないが、お見舞いを言うぐらいはできそうだと思ったのだ。 

 集落内を見て歩くと、2004年の時のように土地が大きく崩れたところは見あたらないのは、そのときに不安定なところは一応全部落ちたからだろうか。
 出会う人ごとにお見舞いを言う。「この前の地震で揺れに揺れたから今後当分の年月はもうないだろうと思っていたのに、3年でまたとは、この土地への不安が心をよぎるのが悩み」とか、「これから都会からこちらに住み替える人がいるだろうとの期待も、むなしいかもなあ」などの地震直後らしい声とともに、「この前に比べたら今度の地震は幼稚園なみだよ、大丈夫、平気だよ」とか、「この前は柏崎の人に助けてもらったから、今度は何か恩返しをしなくっちゃね」との、元気な声も聞いたのが嬉しかった。

 米を作っている棚田に行くと、田んぼは何も被害はないが、すぐそばの墓地の墓石や石仏は、それぞれ勝手な方向に倒れているのは、この前のときと同じだ。小さい石仏だけは起こしたが、大きな石塔は手におえない。
 田んぼは地震とは無関係に、稲に負けず草が一面に生えてきているので、草取りをした。

・被害はこの前と比べると僅少だが
 愛宕社に行ってみると、祠が土台から外れて斜め後ろに30cmほど動き、中の石地蔵が倒れ、境内の狛犬は大丈夫だったが、方位案内板の周りの石の腰掛けがテンでな方向に倒れている。石段を登った狛犬のあたりから祠の斜め後ろに向けて、土地に亀裂が入っている。この前は石段は崩れ、狛犬は倒れ、祠は1メートルも移動したそうだから、それと比べると今度
はたいしたことはないのだろう。
 愛宕社近くの忠魂碑はまた倒れて、ここにも土地におおきな亀裂が入っている。尾根筋から割れて崩壊するのが、ここの地形地質の特徴なのだろう。

 新活動拠点にする空き家の大橋正典邸に行って見ると、母屋は外から見て特に被害はないが、母屋と蔵と結ぶ渡り廊下の蔵側の上部接続部がはずれて傾いている。
 母屋の中は、棚のものなどは飛散していないが、奥座敷の脇床(わきどこ)の壁仕上げの大半が落ちて、残った仕上げが二つの白雲みたいだ。他の家でも塗り壁が落ちたとの話は聞いたので、揺れについていきにくい仕上げなのだろう。

 20日午前は、活動拠点としている大橋芳弘邸・通称「へんなかカフェ」のすぐ上にある法末神社の清掃を、集落の人たちに加わって手伝った。その鳥居は、この前の地震でばらばらになって崩壊したのを、ついこの間新しい石材で再建したばかりだったが、今度はしゃんと立っている。
 20日午後から仲間の大熊、長瀬、大和田、須永、土肥が、21日には佐々木(山の暮らし財団)が駆けつけてきた。 

・柏崎支援のジャガイモ堀り
 21日午前中は、去年に蕎麦を植えた大橋隆幸さんの畑でジャガイモ堀り。これは宮田が30日から予定している、柏崎で「龍ヶ崎コロッケ」を配る支援活動の手配のひとつである。宮田からこの支援を聞いた隆幸さんが、それならまだ畑にあるジャガイモを寄付しようと言ってくださったので、龍ヶ崎コロッケ部隊にわたすべく急遽用意することにしたのだ。これで法末から柏崎への支援となる。

 大量のジャガイモは総量200kgくらいか、カフェ2階はおジャガさまが占領した。泥んこになってごろごろ堀り出し、よたよたカフェへの運搬、ざぶざぶ水洗い(知らなかったが本当は洗わないほうが日持ちがよいのだ)、こんなに手間がかかるものなのに、帰りに寄った市場で見ると1袋6~7個でたったの150円!、なんだあまりに安すぎるぞって、消費者ではなく生産者として感じたのは初めての経験だった。

・神社の祠を曳き家をする
 21日午後は、愛宕神社の修復である。23 日が愛宕神社の祭礼だからだ。集落の人たちにわれわれも加わり総勢10数人、地元の大工棟梁の里美屋さんの指揮のもとにみんなで力をあわせて曳家して、斜め後ろに30センチほど(この前は反対方向に1メートル)移動した祠を元の位置に戻す作業である。

 5~6坪程度の小さな祠だから簡単と思って、はじめは適当に土台に板を挟んでエイヤッ、みんなで押し曳きしたが、どっこいびくともしない。作戦やり直しとて、今度はたくさんの道具を用意して再挑戦。
 まず、壇の上から床にばったりと寝ていらっしゃるご本尊様の石地蔵を持ち上げて外に出すことにした。これがとんでもなく重くて、下手に持ち上げるとお首が折れそうだし、もしも足の上にでも落としたら一大事とヒヤヒヤ苦労する。

 祠をジャッキで持ち上げ、あちこちに厚板を差し込んで、その上に土台との間にコロとなるパイプを入れ、ジャッキをはずす。祠にぐるりと帯状布を巻きつけて、これと曳くほうの向かいにある櫻の幹とチェーンブロックを横向きにして結びつけた。

 チェーンブロックをガラガラと引くのにあわせて、押す側にまわったおおぜいがいっせいにエンヤコラと押す。何度か右や左に修正作業を繰り返して、土台を整えて収まるところに収まり、また重い重い石地蔵を元の壇の上に戻して立ててようやく完了。
 3時間余の作業だった。このあとは愛宕荘でみんなで慰労会。
 曳家は、昔は普通にどこでもやっていたが、今では珍しくなってしまった。それを自分がやるとは貴重な経験をした。なんでも自分たちでやってしまう集落の人たちの技術と意欲と、決して若くないのにその体力に脱帽である。 

 法末滞在中に、毎日1,2回は小さな余震がやってきた。
 美味しくて高く売れるコシヒカリができるし、モリアオガエルの生息地のあるような、自然環境も良く人情も厚い豊かな村だが、被災しなくとも超高齢山村はどうなっていくのかなあ、と、思いつつ戻ってきた。(20070725)


2008年11月の記 
法末の3年・身体で受け止める四季

伊達美徳

・この3年の間に
 中越の山村・法末(ほっすぇ)の集落に通いだしてから3年目が終った。
 初めて行ったのが、中越震災の次の年の秋だったが、まだ、震災の傷跡が深く見えていた。今はもうほとんど見えないが、実はよく見ればまだあるのだ。
 でも、集落の人々は少しくらい傾いた家でもあまり拘泥しないで、それなりに手を入れて普通に暮らしている。2007年に中越沖地震でまた揺さぶられたが、な~に、この前(中越地震のこと)に比べりゃ幼稚園なみよって、笑い飛ばしてもいた。専門家が見ればちょっと危ない感じでも、なーに100年もこれで暮らしてきたんだよ、と笑い飛ばす。

 (NPO)日本都市計画家協会が立ち上げた事業として、中越震災復興を手伝おうというボランティア活動で、20名ほどのメンバーが参加して、この集落に毎週通うことが始まったのが、2005年の秋のことだった。
 その費用はといえば、初めは(NPO)日本都市計画家協会の財源を入れ、今は地元の長岡市、助成財団、政府省庁などからの助成金や事業委託費をとってきて充てている。
 わたしは不熱心なボランティアで、平均して月に1日半くらいしか行かないのだが、中心メンバーは毎週末に集落に泊り込んでいる。
 それにしても、毎週通っている仲間にも交通費実費程度だけの支給だから、人件費は完全に持ち出しである。いつもはプロとして都市計画関係の仕事で食っているのだから、よくやる、すごい心意気であると思う。

 もちろん勝手に通いだしたのではなく、行政と相談して支援要請が出ている多数の地区からこの集落を選定したのである。
 地元の人にとっては、市に支援策を頼んでの上でことだが、善意とはいえ、東京あたりからやってくるこいつらは何者だと、思われたのは当然のことだろう。でも、平日は東京で仕事をし、大雪でも毎週末に通って泊まっていると、さすがに次第に信用を得てきた。
 支援策といっても、震災復旧の力仕事ができるわけはない。限界集落のコミュニティーの維持・継続策を、村人と一緒になって手伝うことに尽きる。

 例えば、うまい棚田米や特産の農産物を東京などで売る、消えそうになっている伝統行事に参加して盛り立てる、憩いの場となる足湯を村人と一緒につくる、伝統民家を調査して耐震対策を助言する、草花で集落を美しくする、東京から子どもや知人を連れて行って集落を見せる、などなどである。
 そして、棚田で米を作る手伝いと称して伝統農法をやってみたり、畑で蕎麦を収穫してそばうちパーティを開いてみたり、お茶会をやって村人を招待したりなどの遊びもある。もっとも米作りも蕎麦つくりも、自分たちは何の知識もないので、地元の方たちに教えてもらう一方である。今年の米は豊作で、教え甲斐のある生徒だと思う。
                   参照→中越の美しい山村・法末集落の四季アルバム

・民家を手に入れて
 2007年末から、一軒の民家を手に入れて、そこを拠点にした。それまでは市の施設を利用させてもらっていたのだが、仲間の一人が空き家となっていた伝統民家を買ったのである。
 茅葺屋根に鉄板をかぶせ、2階増築など改装しているが、100年近く前の建物だ。
 見たところでは立派な材木で頑丈そうだが、実は中越震災以来の空き家となっていて、中越沖震災でも傷み、柱は傾き、壁はあちこち落ち、床も一部が抜けているのだった。
 応急的に構造や設備の修理をして、ここで毎週末は誰かが自炊で暮らしている。ときには仲間の知人たちもやってくる。わたしも春と秋に知人たちを連れて行って、農作業をてつだってもらい、ここを足場に周辺地域に小さな旅もした。

 初めて泊まったのは2007年暮であったが、寒いのなんの、その次の今年の正月に雪下ろしに行ったときは、電気毛布を持っていった。
 多いときは4メートル、少なくても1メートルは積もる豪雪地帯である。屋根の雪を下ろさないと家が傾く。屋根から落ちた雪を掻き出し掘り出して捨てないと、雪の壁が家に襲いかかる。 
 だから、11月末には、家の外周の窓やガラス戸には板を外から取り付けるのだ。冬は昼でも暗い生活である。雪国育ちでないわたしは、閉所恐怖症気味でもあって、これにはちょっと参ってしまう。夜中に火事になっても蹴破って出られないだろう。

 部屋の中の塗り壁のあちこちは、震災で落ちたままのところがある。上塗りが落ちて、下塗りや木舞が見えている床の間の壁に、まるでアートのように白い上塗り壁が残っているところもある。これは補修しても、震災の記念として保存したい。仲間にそういうのだが、意外に受け入れられない。

 基礎から束がずれたか根太が折れたか、床がブカブカするところもある。そんなところに石油ストーブを置いておくと、歩くたびに振動で地震弁がはたらいて火が消える。
 昔は板の間だったところに畳を敷いてあったが、畳の下から囲炉裏が出てきた。さっそくに囲炉裏(このあたりでは「へんなか」という)の復活である。
 仲間の誰もが囲炉裏の生活をしたことはないが、それらしく炭火をおこし、鍋を自在鍵から吊るして、みんなで囲むと、いかにも映画の中の懐かしいような風景となる。干物を焼いたり、鍋料理をここで囲むと、何でも美味いし、酒も進む。

 この集落のあちこちの家を訪ねて上がらせてもらったが、畳敷きの居間と、その奥のデイと呼ぶ奥の間とは真壁の漆塗りの柱梁と白壁が美しく、天井も高くて立派なのである。
 ところが、食事する部屋や台所は、どの家でも設備の改善や内装の修理修繕改造が行われているのだが、その内装がいわゆる新建材、それもプリント合板である。あまりにも座敷との落差が大きくて、なんだか不思議である。

 わたしたちの拠点とする民家もまさにそうである。囲炉裏の部屋の内装のプリント合板を一部はいだら、真っ黒になった壁と天井が出てきた。
 昔々、囲炉裏からの煙にいぶされてそうなっているのだ。その煙は居屋根裏に昇り、葺いてある茅にこびりついてその耐久力を増す作用となる。サスを組んだ堂々たる空間の屋根裏は、どこの家でも煤で真っ黒だ。
 設備の近代化といえば、ほとんどの家が“お尻洗いシャワー付き便器”である。優秀なセールスマンが村中に売り歩いたのだろう。


・四季を見る感じる  →法末集落四季定点観測写真
 初めて行った紅葉の晩秋、続いて豪雪3メートルの厳冬、やがて花が咲き誇り山菜が美味い春から初夏、そして吹く風の木陰でセミの声を聞きながら昼寝が気持ちよい夏、この 3年間は生まれ故郷の神社の杜を出てほぼ半世紀ぶりといおうか、しっかりと四季を見て体で感じている。

 そしてその四季は見て感じるだけでなく、棚田の米作りや畑の蕎麦つくりの激しい農作業で、季節を身体で受け止め、この時期は何をするべきか頭でも考えるのであった。
 それは自分の動きだけでなく、村人たちの動きが四季に応じていることも、田畑に見える。滞在していると、地元の人たちからいつも野菜をいただくのだが、それが当然に季節の変化を味覚で受け止めることになる。
 拠点の家の庭先には、花が咲けば、山菜も出てくる。ネマガリタケ、フキノトウ、モウソウチクタケノコ、ウド、ミョウガ、ムカゴ(ヤマイモの実)などが採れ、この秋はアマンダレという食用キノコを庭でも棚田のそばでも見つけた。
 四季に応じて多様に咲いてくる花の名はよく知らないが、ミズバショウ、ツツジ、ムクゲ、キキョウくらいはわたしでも分かる。まだ花は見ていないがユキワリソウも玄関の庭先にある。

 それらは植えたわけでもないから、まさにこの地の豊かな天の恵みである。
 この恵みの豊かさを特に感じるのは、冬のあまりの陰気さと引き換えだからである。積もる深い雪の中の暗い部屋、何もするべきことがない。そう、だから昔々の冬は 、小千谷縮織をやっていたのだし、ちょっと昔は出かせぎに行ったのだ。
 今は雪も遊びの資源になる時代だが、ここには都会人を喜ばせるようなスキー場はない。でも、なにもない棚田の上に積もる雪だけの山野で、リフトもないところでスキーをやったら気持ちよさそうだ。わたしはもう無理だが、。
 昨冬に東京から子どもグループがやってきたが、その子等の喜んだことよ、わざわざ道でないところを転げまわり雪まみれになって進んでいくのだ。
 そのときは大人たちも、子どもがいなくなって絶えていた雪の中の行事「とりぼいら」を復活させた。雪洞を作って明かりをともして中で餅を焼いて食べ、歌をうたいつつ集落の中を拍子木を打ちながら回るなど、参加した子どもも大喜びだった。
 四季の行事は、小正月には稲と竹で作った高い塔を燃やす「賽の神」、お盆には「盆踊り」、春夏にはささやかに氏神様の祭礼、春の初めと稲刈り前には村人総出の「道普請」など、果たしていつまで続くか、わたしたちも楽しんでいつまで参加できるか、どちらも楽観は許さないが、今は四季を全身で感じて楽しんでいる。(081115)


2009年5月の記 
中越山村4回目の春に想う
伊達 美徳

1.雪国山村の春はブナが萌える
 中越山村の法末集落に春が来た。この冬は特に雪が少なくて、とうとう屋根から雪下ろしをすることもなかった。
 いつもなら、ふもとから雪が融けるのを追いかけるように山菜が出てくるのだが、今年はいっぺんに木の芽も山菜も出てきて、採取も忙しいと村人は言っている。
 ブナの林に行って見た。今はちょうど若葉がいっぱいに萌え盛る時である。春のそよ風に萌黄色の炎が陽に輝く。
 ブナ林の中にじっと座っていると、次から次へと小鳥たちがやってきて、さえずり交わすので、けっこう賑やかである。通り過ぎるだけでは静寂と思いがちだが、風にそよぐ葉ずれのささやきとともに、実は森には森の賑わいがある。
 処々にヤブツバキが濃い緑の葉の中に赤い花をいくつも咲かせ、コブシが白い花で春の装いをしている。

2.古老の話を聞いておきたい
 今年も棚田で米つくりをやろうと、仲間と畦直しをしてきた。2004年の中越地震のときに棚田の畦の法面が一部崩れたが、そのままにこれまで稲作をやってきたが、そこを治すことにしたのだ。
 段々になっている棚田だから、上の田の畦土が2mくらい下の田に崩れ落ちているのだが、その土を下から上の田に持ち上げるのである。けっこう重労働である。
 隣の棚田では、村の長老である90歳のS平さんが、ひとりで畦直しをしている。元気なものである。聞けば、田んぼのちょっと低くなっているところを土を入れるのと、そのあたりの畦を高くしているとのこと。
 米つくりの指導をして下さっているTさんもやってきて、隣の仕事をよく見習え、90歳のS平さんに負けるな、なんてハッパをかけられる。
 S平さんと一緒に休憩して、いろいろと昔話を聞く。日中戦争から太平洋戦争へと行ききりで、最後はビルマ戦線で捕虜となって、1942年に戻ってきたときは30半ばだったとのこと。
 S平さんばかりででなく、この村には超高齢者が多くいるのだから、その方たちの話をしっかり聞いて採集しておきたいと思う。今のうちに聞いておかないと、話す側も聞くこちら側も能力が衰える。さてどうしようか。

3.土地の形が変っていく
 わたしは雪国育ちでないので珍しいことばかりだったが、3年余も通っていると色々と分かってくる。冬の雪がすごいだけに春の明るさが引き立つのだ。いっせいに芽吹く今の明るさはどうだろう。
 ふもとの町や都会に出た人たちも、こんなときに一時帰郷して山に入るのは、そんな春のすばらしさが身に沁みているからだろう。もっとも、このところ大雪はめったになくなってしまったが、。
 村の地形・景観は時代とともに変ってきているのが、このあたりの山村の特徴である。地形が変るとは、小さな地崩れが常に起きているような地質の地なのだ。中越地震のような大きな地崩れが時々起こって大きな景観変化がおきる。大小の地崩れのたびに、棚田が増えたり減ったりしているらしい。
 だから実に複雑な地形であるのに、そこに棚田をつくると水を引かねばならないから、その水路も複雑になる。尾根に近い集落だから大きな谷はないのだが、あちこちに人がやっと通れるほどの大きさの素掘りの農用水専用のトンネルがある。そばには水流の見えない棚田でも、その横にそのトンネルが見えていることがある。どこかに互いにつながっているらしい。
 地震でそのトンネルが崩れると、棚田として使えなくなることが起きる。その系統の水路に頼ってきた棚田の一群が耕作放棄地となる。村を離れてしまった人の田も耕作放棄地となる。そこは自然の山に戻ろうとしているし、すでに戻ったところもある。
 かつて19世紀末には400人近く住んでいて、営々と何百年かにわたって変わる地形を棚田に生かしたり生産林として使い続けてきたこの山村も、いまや100人を切るありさまだ。人口減少社会に入った日本でここでもさらに減少になるから、楽観を許さない。
 そのような人と自然のかかわりの歴史を記録すると、何かが分かるような気がする。例えば人間がどう土地利用をしてきたか、それは今のような機械力のない時代には、まさに自然と折り合いをつけながら、今流の言葉ならば環境に配慮しながら生きてきた歴史であろう。土地利用と植生の変化をたどれば、環境問題への何かの視点が発見できそうに思うのである。

4.車のない頃の昔の道はどこに
 昔の道はどこも人の歩く道、あるいは馬か牛の歩く道だったが、今はどこの道も自動車の入る道となった。自動車の入らない道は自然消滅の運命をたどる。
 法末集落から最も近い隣の集落は、峠の東の小千谷市の若栃集落である。歴史的には当然そことの交流が最も多かったのだ。かつては小千谷縮をこの法末集落でもつく手いたことが記録にある。
 だが、今では自動車交通が便利になった小国との交流が多く、また市街地のある小千谷との交流が多いのは、当然の成り行きである。
 法末集落に公共交通でアクセスするには、長岡駅から小国車庫行きのバスで1時間、そこから法末まで6キロは歩くかタクシー、もうひとつは小千谷駅から若栃集落までバスで30分、そこから法末まで2キロを歩く。
 わたしはこの若栃から歩くルートが好きで何回も往復したが、そこも自動車の通る道となっているから、昔の人はもっと近道をしたはずと思っていた。案の定、聞いて見たらそうであった。
 最近、その昔の道を復活しようと、林を切り開いたのであった。名づけて「嫁入り街道」で、かつて若栃から法末に嫁入りしてくる人が多く、この道を通ったそうである。ロマッチクなものである。 

5.独自の地域文化を伝える
 こうやって消え去るもの、復活するものなどあり、だからこそこの山村の地誌、歴史、人物史を記録してみたいと思うのである。
 複雑に変化する自然地形とそこに降る豪雪のなかで、人々はどうそこで文化を築いて生きてきたのか、興味は尽きないのである。もう絶えたか絶えそうな芸能や行事も記録しておきたい。
 法末の西の小国町側の麓にある太郎丸集落の春の祭に、はじめて寄ってきた。
 この太郎丸の真福寺には、江戸後期の放浪の高僧・木喰上人(もくじきしょうにん)の木彫像が4体あって、一昨年に訪問してそのうち3体を見せていただいた。見ているとこちらが微笑みたくなる微笑仏の梨の木観音像と、門の両脇に構えるどこかユーモラスな仁王尊像である。
 ここで見た木喰仏に魅せられて、更に柏崎市の十王堂を訪ねて、ここでは閻魔様の像を拝観した。そしてこの春には、山梨県身延町にある木喰上人の生家にある5体の五智如来増を見にいってきた。
 その太郎丸の真福寺のそばにある神社の仮設舞台で、住民たちによる手踊りや村芝居と、郷土芸能の巫女爺人形踊りが、お祭に演じられている。
 巫女爺(みこじい)人形踊りは、このあたりの各地の集落にもある芸能らしい。巫女姿の等身大で立つ少女の人形と、座り込んだ年寄り人形を、それぞれ二人の使い手が扱って、地域の民謡に合わせて踊らせるのであった。中学生にも扱わせて、芸能の継承をしているのだった。
 素朴きわまる芸能であるが、この日の神社の境内には、神に芸を奉納する形式に則って、社殿に相対して架設舞台が作られており、境内や拝殿に陣取った大勢の住民たちが子供連れで楽しんでいる。
 舞台に登場するのは、地元の人々、学校生徒たちらしく、芸の最中に声がかかったり、おひねりがどんどんと投げ込まれている。ヤキトリや綿アメなど定番の屋台もでていて、子供が妙に多いのは、都市から子連れで帰郷した世代が大勢いるからだろう。
 わたしは田舎町の神社の生まれなので、少年時の思い出の中にあったなつかしい祭の風景であった。

6.2地域居住の先進地か
 その前の晩、法末のTさんの家で、山菜料理を肴に宴会をした。Tさんは遠く茨城県で働いていて、もうその家には住んでいないのだが、別荘として使っている。
 今は季節に応じて、勤め先や居住地の山歩き趣味の仲間たちと夫婦連れで一緒にやってきて、山歩きと共に山の手入れなどをボランティアでやっている。この地を去っても、そうやってたびたび訪れることで、山村を維持する模索をしているのだという。
 たしかに、ほかにも小千谷や長岡の町に住んでいて、通勤農業をしているもと住民あるいはその跡取りの人たちもいる。集落に住んでいても、いまやほとんど車で近くの田畑に通っているのだから、それが少し遠くなったとて、たいしたことはない。泊まる必要あるときは、元の家に泊まればよい。完全なる定住でなくても山村は維持できることを、現実が示している。
 中越震災でにわかに有名になった山古志にもいってみたが、震災前と比べて格段に道路がよくなったから、通勤農業がさらにやりやすくなっているようだ。定住か通勤かとなやむのではなく、半定住・半通勤の生活も可能になったと、私は震災復興の行く末を見たのであった。
 2地域居住なる政策を政府が出しているが、それはどうも都会のものを田舎のあきやにもすませるようにして、農村の維持をしようということらしい。
 だが、わたしにはそれはちょっと違うような気がする。そうではなくて農山村の者を都会にも住むような施策がいると思うのである。
 若いうちは農山村暮らしの時間がが多くて、歳をとるにつれて都市での暮らしが多くなるような2地域居住政策であるべきだ。安心して老後を展望しながら農山村で暮らすことができるのが、まずは採るべき政策の本筋のように思う。だれもが2地域居住で売る時代となったら、その逆の、つまり現在推し進めようとする施策もよいであろうと思うのである。
 中越山村に4回目の若葉の萌える春を眺めて、田植えの準備をしつつ思うのであった。(090504)

2009年7月の記 
中越山村の夏
伊達美徳

●棚田で草取り
 中越の山村・法末の棚田は今、稲が盛んに葉を伸ばしつつある。5月末に田植え、6月始めに法面の草取り、7月半ばに田の草取りをした。
 弱い除草剤を入れたのだが、3段の棚田のうちの上の田の南3分の1くらいの範囲には、稲の葉の下に水草が緑のじゅうたんのように生えている。
 久しぶりにまた四つんばいの草取りだ。朝6時から、地下足袋を履き、長ズボン、長袖、ベトコンハット、そして防虫網をかぶって完全武装して、ずぶりと泥田に入る。
 茶色の泥水がひんやりと気持ちがよい。
 腰をまげたままで腕を伸ばして草取りすると、腰に負担がかかって腰痛となる。そこで手足4本全部使って、四つんばいになってしまうのだ。そしてまず右手を上げて、残り3本手脚に体重を均等にば らまき、右手のとどく範囲の水草取りをする。抜いては丸めて泥の中に深く押し込むか、畦に投げる。次は左手で同じことをやる。 
 左右が終われば次に進むのだが、これが容易ではない。
 泥の中に脚が吸い込まれていて、引きあげようとしてもなかなかに抵抗が強いのである。
 ヘンに力を加えるとぐらりと体勢を崩して、悪くするとしりもちをつく。そうなると、立ちあがるために手を着き、足を延ばすと、もう全身泥まみれにな ってしまう。
 そうならないように、慎重に片足を引き抜いて一歩進める。次に残りの脚を引き抜いて進め、また四つんばいの繰り返しである。
 時々腰を伸ばして突っ立って、辺りを眺めていると、ウグイスとホトトギスが鳴く。
 そうやって暫く立ったままでいると、足元まわりに泥がきっちりと回り込んで安定するらしく、次の一歩の引き抜きが更に容易でなくなるのであった。     
 それにしても毎年思うのだが、農薬の効き目はあらたかなものである。稲だけに利かないで他の水草を根絶やしにする農薬、その中で育った稲という水草から採れた米を、わたしたちはこんなに沢山に長い間に食っていても、本当に大丈夫なんだろうか。
 虫除け完全武装していても、小さなブヨがどこかからはいって腕やら顔やらを咬むらしく痒くなる。泥だらけの手で不自由なしぐさで掻いていると、だんだんとシャツが泥だらけ、防虫網は泥で前が見えなくなる。そのうちにバサッとベトコンハットごと防虫網も泥田に落ちて、眼鏡も一緒に泥の中に、、、もう降参である。

●家が消える、自然に還る
 法末集落から2kmほど東に下ると、若栃集落がある。ここまで小千谷駅前からバス便があるので、わたしはちょくちょくこのバス利用する。若栃と法末の間は歩くのである。
 この若栃と法末は、昔の歩いている時代は、尾根道を伝ってよく行き来があった。その道を嫁入街道というように、相互に婚姻関係があったのだ。
 自動車の時代になって、舗装道路ができて嫁入街道も廃れていたが、最近になって地元に人たちがまた切り開いて復活した。6月にはその道を歩いて法末から若栃まで下った。 杉木立があったりして、昔に道らしい雰囲気のところもあった。
 若栃集落には、一軒だけ茅葺民家がある。堂々たるプロポーションのよい形なのだが、茅の屋根はかなり疲れてきていて、いつまでこれがあるだろうかと、通るたびに気になる。
 その若栃と法末の間に芹窪集落がある。棚田と養鯉池のある小さい集落である。あちこちに、もとは家があったらしい空き地があって、集落が消えていく過程が目に見える。
 なかに大きな廃屋となった民家があり、通るたびにそれがだんだんと崩壊していく様子が気になっていた。というよりも、実は興味を持って人工物が自然に還る様を見ていたという のが正直なところである。
 2009年7月10日、その廃屋が消えていた。すっかりきれいに取り払われて、跡地には草が生え、一部は畑になっていた。
 ここでも人間の営為は、何世代も何十年にもわたって行なわれていただろうに、家屋がなくなるとそこになにがあったかさえも分からなくなる。
 たまたまそこに廃屋があったことを知っていたわたしでさえ、あまりに自然なる風景になっていて、場所を間違えたかと思ったくらいだ。
 茅葺屋根を葺く作業を去年やったが、これは将に自然の材料をたくみに使いこなして作る人工物である。
 考えようによってはこれが自然に還るのは、自然の側からは当たり前のことである。
 しかし、それを作った人間にとっては当たり前でないと思われていたのだが、人間が減少する時代ならば、人間にとっても当たりまえのこと になりつつある。(090714)


Comments