レジュメ‎ > ‎

科学革命の構造 解説

 

トマス・クーン(1922-1996)『科学革命の構造』1962

 

ハーバード大で物理学を専攻。科学史の授業を担当した時から徐々に科学史の研究にシフトする。アレクサンドル・コイレとアーサー・O・ラヴジョイの両者から影響を受け、アリストテレスの体系(コペルニクス以前の世界理解)の合理性と内部での完結性に注目し、現在の「科学知識」の常識から当時の世界観は理解できないことを見出す。ここから、体系だった合理的なアリストテレスの世界観のなかで、コペルニクスがどのようにして地動説を提唱するに至ったのかをまとめる(『コペルニクス革命』)。それを敷衍し、科学はある体系だった命題群・実験方法の型に沿いながらその体系をより精密に構成していく通常科学の時代と、それらが疑問に付され、新しい型へと移行する異常科学の時代が存在するという「科学革命」の見方を打ち出す。これは、従来科学に付されていた客観的真理への接近・知識の累積的追加・科学の命題の中立性といったものを疑問に付すことになった。その後は量子力学の成立史の研究に没頭。一度離婚するが、あまりに研究生活中心になりすぎたためという俗説がある。アカデミシャンの人生。

 

Scientific Revolutionコペルニクスに始まり、ニュートンの『プリンキピア』に至る、中世の天動説的宇宙観(やそれに基づく世界観)から近代の地動説的宇宙観(と自然の中に数学的法則のみを求めていく科学の方向性)への移行。科学史の用語。

scientific revolutionsクーンの科学革命。パラダイム(専門母型)の移行を指す。規範となる実験や方法論の見直し、それに伴う科学の体系の変更。大規模なものから小規模なものまで、断続的に起こる。科学哲学の用語。

 

コイレは『ガリレオ研究』などを通して、当時の世界観やガリレオの周囲の人間関係を明らかにしていくことで、客観的真理というよりむしろ思想に負うところの多い科学革命SRの性格を示した。ラヴジョイは『存在の大いなる連鎖』でプラトン-アリストテレス体系の合理的理解、当時の状況に照らしてみればその世界観はつじつまが合っており、決して不合理で野蛮な世界認識ではなかったこと(本質的には現在の世界観に劣るものではない)ことを示した。これらの研究から、科学の発展を客観や合理性に求めることはできないと考える。

通常科学と異常科学の区別。パラダイムは研究者集団の行動様式・方法論・実験方法や解釈の仕方の総体。これらを教科書で学び、トレーニングすることで、そこで提示されるパズル解きの過程がパラダイムをさらに精緻にしていく。パラダイムの精緻化と同時に生じる矛盾に対して、全く異なる枠組みがいくつか提起され、通常科学のパラダイムの正当性が揺らぐ。そして、異なる方法論をもとにした新たな探求に移行する。これは以前のパラダイムと通約不可能であり、一部の命題の変更や付加でもその全体の概念枠組みを変更する(クワインの影響)

ウィーン学団の論理実証主義やポパーの反証可能性にもとづく科学観への批判。

1965のポパー派との論争は有名。ここで、パラダイムの概念の多義性(具体的な模範実験の総体を指すこともあれば、世界観といった含みもある)が批判され、クーンはパラダイムの概念を撤回し専門母型disciplinary matrixに変更する。通常科学の場合、反証可能性はそのパラダイム内で解決されるべき(精緻化にかかわる)パズル解きの課題として理解される。異常科学では異なるパラダイムの優越性の根拠として理解される。ポパーの論は異常科学の面を重視しすぎているという批判。通常科学の特性が科学という方法論を特徴づけている。

学問の科学化・大衆化の視点。パラダイムの社会科学への応用(特に経済学史の研究)も多い。
 

イアン・ハッキングによる『科学革命の構造』イントロダクション

 

真に偉大な本というのはめったに存在しない。本書はその稀有な一冊である。読めばわかる。

このイントロダクションは飛ばしてほしい。半世紀前にこの本がどのようにして現れたのか知りたくなったら、戻ってくればいい。今日この本がどのように評価されているのか信用できる意見が聞きたくなったら、戻ってくればいい。

以下に書かれていることはこの本の導入であって、クーンや彼のライフワークについては触れていない。クーンはたいていこの本を『構造』と呼ぶか、くだけたところではシンプルに「この本」と呼んでいる。私は彼の用法に従う。『本質的緊張』は『構造』の前後に書かれた哲学的(つまり非歴史学的)論文を集めたもので、『構造』へのコメントやその論点を展開した一連の著作とみてよい。併読を薦める。

これは『構造』のイントロダクションなので『本質的緊張』以降についての議論はしていない。ただし、クーンは対話でよく次のように言っていた。黒体および不連続性、これはマックス・プランクが19世紀の終わりに打ち立てた最初の量子革命の研究であるが、この研究は『構造』の中心となるテーマの適例である、と。

『構造』は名著である。読み方はいくらでもあるしたくさんの使い方ができる。このイントロダクションは可能なたくさんの読み方のうちのたった一つにすぎない。この本はクーンの人生の中で、その仕事の中で、最高の出来栄えである。トマス・サミュエル・クーンの仕事の優れた短いイントロダクションは、オンラインの「スタンフォード エンサイクロペディア フィロソフィー」にある。クーンの人生と思想を最後に回想したものとしては、1995年に行われたインタビューを見るとよい。クーンの仕事についての本で、クーンが一番高く評価していたのはパウル・ホイニンゲン=ヒューン『科学革命の再構築』である。クーンの公にした著作のリストは『「構造」以後の道』を参照のこと。

以下のことは十分に言われたわけではないから改めて注意しておく。すべての偉大な本に同じく、本書は情熱の仕事であり、ものごとをただしく位置づけようとする熱意に貫かれている。このことは1ページ目の控えめな最初の一文からも明らかである。「歴史を、逸話や年代記のための場所以上のものだと見なすのなら、私たちが今でもどっぷりつかっている科学のイメージを決定的に転換することが歴史にはできるはずである。」クーンは科学についての私たちの理解、すなわち、科学とは良かれ悪しかれ、人類がこの地球を征服することを可能にしてきた営みであるという理解から抜け出そうとした。彼は、やり遂げた。

 

1962

この版は『構造』50周年を記念したものである。1962年ははるか昔のことになった。科学自体も根本的に変わってしまった。かつて、科学の女王は物理学であった。クーンは物理学者として訓練を受けた。物理学をよく理解している人はほとんどいなかったが、誰もが物理学がどこで行われているかは知っていた。冷戦は進行中だった。だから誰もが「核」について知っていた。アメリカの小学生たちは机の下に隠れる練習をしていた。少なくとも年に一回は町に空襲警報が鳴り響き、皆はシェルターに入った。これ見よがしにシェルターに入らないことで核兵器に反対した人は逮捕されるかもしれなかったし、そうなることもあった。1962年9月にボブ・ディランが「はげしい雨がふる」をはじめて披露した時、誰もが死の灰について連想した。1962年の10月にはキューバ危機が起こり、1945年以来、世界は核戦争にもっとも近づいた。物理学とその危険についてすべての人が考えていた。

冷戦はついに集結し、物理学はもはやそこでは行われない。1962年の別の出来事は、フランシス・クリックとジェームズ・ワトソンがDNAの分子生物学で、マックス・プルートとジョン・ケントレウがヘモグロビンの分子生物学で、ノーベル賞を受賞したことであった。これは変革の前触れだった。今やバイオテクノロジーの天下である。クーンは彼のモデルに、物理学と物理学史とを選んだ。あなたはこの本を読んだ後に、クーンが物理学について述べていることが、今のバイオテクノロジーの世界でどの程度妥当するかを決めなければならない。情報科学の世界でも、コンピューターが実際の科学で何の役割を果たして来たかについても、考えなければならない。実験でさえかつてのものとは異なっており、かつての実験はコンピューターシミュレーションにかなりの程度置き換わっている。そして誰もが知ってのとおり、コンピューターはコミュニケーションを変えてしまった。1962年には、科学の結果は会合で、特別なセミナーで、プレプリントで、専門ジャーナルに掲載される論文で、公開された。今日では、最初に公開されるのは電子アーカイブ上である。

2012年と1962年の間には、しかしさらに別の根本的な違いがある。これは本書の中心部分である基礎物理学に関わる。1962年には宇宙観の対立があった。静的状態かビッグバンか、宇宙とその起源についての二つの完全に異なる見方があった。1965年、宇宙のバックグラウンドの放射線の思いがけない発見以降、ビッグバンだけが通常科学で探求される際立った問題である。1962年には高エネルギー物理学は断片的な知識が際限なく集められているように思われた。これはカオスから規則を生み出す標準モデルと呼ばれている。それを重力とどのように調和させるのかはうまくいっていないとしても、これはその予測としては信じられないくらい精確である。おそらく基礎物理学のさらに別の革命は存在しないだろうが、しかし確実に、たくさんの驚くべき発見があるだろう。

したがって、『構造』はおそらく(絶対にそうだとは言わないが)、科学者が現在行っている科学よりも科学史のかつての時代とよりかかわりが深いだろう。

だが、この本は歴史書だろうか、哲学書だろうか。1968年にクーンはレクチャーでこう主張している。「私はあなた方の前に、訓練を受けた科学の歴史家として立っています。…私はアメリカ哲学学会ではなく、アメリカ歴史学学会の一員です。」しかし彼が自身の過去を振り返るとき、彼は自分自身をむしろ、いつでも第一に哲学的関心を持ってきた者として紹介している。『構造』が科学史家たちのコミュニティに直ちに巨大な衝撃をもたらしたのだとしても、より息の長い影響はおそらく科学哲学に及ぼされてきたのであり、そして確かに社会の文化にも及ぼされてきた。以上の背景のもとにこのイントロダクションは書かれている。

 

革命

私たちはまず、「革命」を政治の言葉として考える。例えば、アメリカ革命、フランス革命、ロシア革命。どれも転覆であり、新しい秩序が始まる。革命のこの含みを科学の領域に拡大した最初の思想家はイマヌエル・カントだったかもしれない。彼は二つの偉大な知識の革命を、彼の一番の大著である純粋理性批判(これもまた偉大な本である。『構造』と違って冗長ではあるが)の第二版でとりあげた。そこで、彼は大げさな調子で二つの革命的な出来事について語っている。一つ目は、バビロニアやエジプトのほとんど技術に近い数学的実践が、ギリシャにおいて前提からの証明に変化したことである。二つ目は、実験的方法と研究室の出現であり、彼がガリレオに端を発するとしている一連の出来事である。彼は、二つの長い段落の中で革命という言葉を何度も用いている。

私たちはカントを純粋培養の学者だと考えるが、彼が混乱の時代を生きたことに注意しよう。何か強力なものがヨーロッパ中を駆け巡ることを誰もが感じたし、確かにフランス革命はその二年後に起きた。カントこそ科学革命の概念を定めたのである。哲学者としては気が利いているしまた大目に見ることができるが、カントは註で正直に、歴史的正確さに注意を払う立場には立っていないと告白している。

科学とその歴史について考察したクーンの最初の著書は『構造』ではなく『コペルニクス革命』である。科学革命という発想はすでに周囲にかなりあふれていた。第二次世界大戦後には17世紀の科学革命について大量の本が書かれた。そこでは、フランシス・ベーコンが預言者であり、ガリレオが灯台であり、そしてニュートンは太陽であった。

まず注意しておきたいのは(これは『構造』を一見して直ちに明らかというわけではないが)、クーンは17世紀の科学革命について語っているわけではないということである。それはクーンが提示している構造をもった数々の革命とは全く異なる出来事であった。たしかに『構造』出版直後、クーンは「第二の科学革命」があると述べていた。それは19世紀初頭に起きたもので、すべての新しい分野が数学化されたというものである。熱、光、電気、磁気の分野がパラダイムを手に入れ、混乱した現象の一群全体が突如として理解され始めた。これは、私たちが産業革命と呼ぶものと並行して、手を携えていた。それは疑いの余地なく、私たちが今生活している近代的科学技術社会の幕開けであった。しかし、第一の科学革命と同じように、第二の科学革命も『構造』で述べられている構造を示すのである。

第二に注意しておきたいのは、クーンに続く世代は(17世紀の科学革命の発展として書かれていた)物理学における根本的な革命の中で成長したということである。アインシュタインの特殊・一般相対性理論は私たちが想像できるよりももっと困惑に満ちた出来事だった。相対性は、その初めから、物理学の純粋に検証可能な帰結よりも人文科学や芸術にはるかに悪影響をおよぼした。たしかに、エディントンによる相対性理論の天文学的予測の有名な検証があった。しかし相対性が物理学の諸分野を統合したのはその後のことであった。

そして量子革命があった。これもまた二段階の出来事だった。マックス・プランクが1900年頃に量子を導入し、そして、ハイゼンベルクの不確定性原理で完成をみる1926-27年の完全な量子論となった。相対性と量子の物理学は、合わさって、古典的科学だけではなく基礎形而上学をも乗り越えた。カントはニュートンの絶対空間と一様の因果律の原理は思考のアプリオリな原理であり、人間がそこで生きる世界をどのように認識するのかを必然的に条件づけるものだ[つまりニュートン力学は認識の前提である]、と教えていた。物理学はカントが完全に間違っていることを証明した。原因と結果はちっとも自明ではなかったし、決定不可能性は現実の根本にあった。革命は科学の時代を地ならしした。

クーン以前、カール・ポパー(1902-94)が科学哲学で一番影響力を持っていた――つまり、科学者たちに広く読まれ、かなりの程度信じられていた。ポパーは第二の量子革命の世代だった。この革命は、彼に科学が推測と反駁で進歩することを教えた。これは彼の著書の題名にもなっている。ポパーが主張したのは科学史に基づかない教訓的な方法論だった。第一に我々は、検証可能な厳しい推測を行う。そして必然的に、推測が不完全であることが分かる。それらは反駁され、その事実に適合する新しい推測がなされるにちがいない。仮説は、それらが歪曲できない場合のみ「科学的」とみなすことができる。このような科学的探求のビジョンは20世紀の巨大な転回の前には考えられなかったであろう。

クーンが革命を強調するのはポパーの反駁の次の段階とみなせる。クーンとポパーの学説の関係を彼自身が論じたものは、『発見の論理か探求の心理学か』である。両者とも物理学をすべての科学の原型と見なしており、相対性と量子化のあとに両者の思想は形作られた。今日、科学は異なった様相を呈している。2009年にダーウィンの『種の起原(自然選択の方法による種の起源)』の150周年が鳴り物入りで祝われた。私はほとんどは傍観者だと思うが、どの本も、すべての時代の科学的仕事で最も革命的なのは何かと問われればそれは当然『種の起源』だと答えかねないもてはやし方であった。だから、ダーウィンの革命が『構造』で一度も言及されないことには驚かされる。自然選択は171-72ページで重要な仕方で登場するが、それは科学の発達のアナロジーとして使われるのみである。いまや生命科学が物理学からトップの座を奪っており、私たちはクーンのテンプレートがダーウィンの革命にどの程度適合するのかについて問わなければならない。

最後に思うところを述べる。最近の「革命」という言葉の使用はクーンが意図したものとはぜんぜん違っている。これはクーンへの非難でも、一般公衆への非難でもない。読者はクーンを注意深く、彼がじっさいは何を言っているのかに注意して読むべきだ、ということである。今や「革命」はかなりのホメ言葉だ。どんな新しい冷蔵庫も、どんな衝撃的な新作映画も、それが革命的であることを宣伝する。この言葉がかつて血なまぐさい意味でつかわれたことを思い出すのは難しい。アメリカのメディアでは(アメリカ独立革命のことはほとんど忘れ去られており)、この言葉には称賛よりも嫌悪が先行したのである。すなわち、「革命的」とは共産主義者のことだった。最近の革命が薄っぺらいものばかりなのは残念なことだが、これがクーンの理解を少し難しくしているのは事実である。

 

通常科学とパズル解き

クーンの発想は極めてショッキングだった。彼の言うところでは、通常科学は、現在の知見の場に残されているいくつかのパズルを解くだけだというのである。パズル解きは私たちにクロスワードパズル、ジグソーパズル、数独を思い起こさせる。それらは、ひとが大事な仕事をしていないときの暇つぶしの方法である。通常科学とはそういうものなのだろうか?

科学に携わる多くの読者はかなりショックを受けたが、それが彼らのいつもの仕事のやり方であることを認めるようになった。研究課題は真に新しいものを目指してはいない。35ページの一節がクーンの言わんとするところを要約している。「私たちがまさに直面する通常の課題の最も目を引く特徴は、それらが理論面または現象面での全面的な新しさを生み出すことをほとんど意図していないことである」。クーンの述べるところでは、科学雑誌を見てみると、次にあげる研究課題の三つのタイプが見いだせる。(1)重要な事実を決定するもの、(2)事実を理論に適合させるもの、(3)理論の精緻化、である。もう少し説明すれば、

(1)  理論は、ある量もしくは現象をうまく説明できないままにして、定性的にのみ何が予想されるかを示す。そこで、測定や他の方法によって、事実をより正確に決定する。

(2)  知られている観察が理論とうまく一致しない。何がおかしいのか?理論を修正するか、実験データが歪められていることを示す。

(3)  理論は強固な数学的形式を持っているかもしれないが、その帰結がまだ理解されていないものがある。クーンは理論の含みを明らかにすることを精緻化と名付けている。たいていは数学的な分析による。

実際に仕事をしている多くの科学者は、彼らの仕事はクーンの法則を支持するということには同意したが、まだ全くその通りだとは思えなかった。一つの理由は、クーンが(ポパーや多くの先行者と同じく)科学の第一の仕事は理論的なものだと考えていたからである。彼は理論を高く評価しており、実験についてもいいセンスを持っていたにもかかわらず、それには二次的な重要性しか与えなかった。1980年代以来、強調点は根本的に移っており、歴史家も社会学者も哲学者も実験科学を重視するようになっている。ピーター・ガリソンが述べたように、並行して、概ね独立した三つの研究の伝統がある。理論的なもの、実験的なもの、器具に関するものである。それぞれは他の二つにとって本質的だが、それらはかなりの程度独立している。それぞれにはそれぞれの研究の伝統がある。実験手法、もしくは研究に使われる器具の革新の重要さはクーンの理論的立場からはすっかりみすごされている。しかし、通常科学はたくさんの革新に満ちており、それらは単に理論的なものではないだけなのである。そして、技術や医療を求める一般公衆にとっては、科学的に尊敬される革新はたいてい全然理論的なものではない。これが、クーンの説明に感じられる違和感の原因である。

クーンの通常科学の概念に完全に当てはまる疑問の余地のない最近の有名な出来事としては、科学雑誌で一番広く話題になっている高エネルギー物理学である、ヒッグス粒子の研究がある。この研究には信じられないくらいの傑出した資金と才能とが投入されている。そのすべては現代物理学が教えるところの、まさに物質の存在に本質的な役割を果たす、しかしまだ突き止められていない粒子を確証することに費やされるのである。膨大なパズル、数学から技術までの調整、そのすべての道のりが解決されなければならなかった。ある意味で、理論どころか現象への過程においてさえ新しいものはなにひとつ予期されていない。クーンが正しかったのだ。通常科学が目指すのは新奇なことではない。そうではなく、新しいことはすでに把握された理論を確証するところで現れ得る。ヒッグス粒子を導き出すための十分な状況がついに整ったとき、高エネルギー物理学のまったく新しい展開が幕をあげるだろうということこそが、望まれているのだ。

通常科学をパズル解きとして特徴づけたことで、クーンは通常科学を重要なものではないと考えたように見なされている。ところが反対に、クーンは通常科学の活動は極めて重要であり、科学活動のほとんどは通常科学と考えていたのである。今やクーンの革命の考え方に懐疑的となっている科学者たちも、クーンの通常科学の記述には大きな敬意を払っている。

 

パラダイム

この概念には特別な注意が必要である。それには二つの理由がある。第一に、クーンは独力でパラダイムと言う言葉のありようを変えてしまったので、『構造』を初めて読む読者は、クーンが1962年に用いたときとはこの言葉の含意がかなり変わっていることに気づくのである。第二に、クーン自身が彼の補注ではっきり述べているが、「共有された範例としてのパラダイムはこの本の中心的要素であり、現在私がこの本の最も新しく、かつ最も理解されていない側面だと思っている」。クーンは同じページで、客観世界を代理できるものとしての見本、と言っている。この補注のすぐ後に書かれたエッセイでは、クーン自身が「この言葉をコントロールできなくなってしまった」と認めている。その後、彼は「パラダイム」という言葉を使うのをやめてしまった。しかし、出版から半世紀がたち、大量の馬鹿げた使い方がおさまったあとに『構造』を読む私たちは、幸いにもこの言葉を適切なありかたに戻してやることができよう。

『構造』が出版されてすぐ、読者は「パラダイム」があまりに多くの使い方をされていることに困惑した。よく言及されるがほとんど読まれていない論文でマスターマンは、クーンが「パラダイム」を21もの異なった意味で使っていると指摘した。これと同じような批判が相次ぎ、クーンは「パラダイム」の用法を分類することにした。その分類が『パラダイム再考』の論文で述べられている。彼はこの言葉の基本的な二つの使い方を次のように呼んで区別した。一つは広い意味で、一つは狭い意味で、である。狭い意味について彼の述べるところでは、「もちろんそれは、標準的な例、というもので、そもそも「パラダイム」という言葉を選んだ理由でもある」。ところがクーンが言うには、読者はたいていは彼が意図したよりももっと広い意味でこの言葉を使ったのである。彼は続けて、「私は「パラダイム」をその本来の使い方に戻すことはほとんどできないということが分かった。哲学的にだけ、きちんと使うことができる」という。1974年にはそうだったのかもしれないが、半世紀後なら、私たちは1962年の本来の使い方に戻ることができる。私は広義にしろ狭義にしろ、「パラダイム」の最初の意味を再現することにしよう。

今日「パラダイム」という言葉は「パラダイム・シフト」と一緒になって、恥ずかしいくらいどこにでも出てくる。クーンがこれを使ったとき、ほとんどの人はこの言葉に出会っていなかった。しかし、あっというまに流行語になった。時のファッションで耳目を集める『ニューヨーカー』はこの言葉をギャグにまで切り下げてしまった。マンハッタンのいかしたパーティーで、胸とお尻の大きなギャル嬢は、禿かかったかつてのスターにこう言ったのである、「びっくりだわ、ガストンさん。あなたが業界で「パラダイム」を使った初めての人だなんて!」(ニューヨーカー1974年12月号)。今日、このいまいましい言葉から逃れるのはかなり大変だが、これこそ1970年の時点でさえクーンがこの言葉はコントロールできないと書いた原因なのである。

さて、話を戻そう。Paradeigmaというギリシャ語はアリストテレスの議論の理論、特に『修辞学』と呼ばれた著作の中で大きな役割を果たしていた。この著作は、明言する必要のほとんどない多くの信念を共有する二種類の人々、演説者と聴講者との実践的な議論について述べたものである。英語に訳されたときパラダイムという言葉のもともとの意味はたいてい「用例」のかわりだが、アリストテレスはむしろ「範例」、最高の、いちばん模範的な例という意味を込めていた。アリストテレスは、議論には二つのタイプがあると考えていた。第一のタイプは本質的に演繹的なものだが、たくさんの暗黙の前提を伴う。もう一つは本質的に類推的なものである。

この第二の基本的な議論のタイプでは、いくらか論争的である。ここにアリストテレスの例を挙げるが、多くの読者はこの例をアリストテレスの時代の都市国家から今日の国民国家へと簡単にアップデートできるだろう。アテネは近隣のテーベと戦争するべきか?否、テーベが近隣のフォキスと戦争するのは悪いことではないか。アテネの聴衆は同意しただろう。これがパラダイムである。論争においてこの状況はまさに類推である。なぜなら、我らアテネがテーベと戦争することも悪いことになるだろうから。

一般に、何か論争になっている。一方が、聴衆のほとんど全員が同意するであろうことを例(パラダイム)として比較し、主張する。示されるのは、論争になっていることも「ちょうどこのよう」であるということだ。

アリストテレスのラテン語訳では、Paradeigmaexemplumであった。これは中世とルネッサンスの議論の理論の中で同じ役割を果たした。しかし、レトリックからは切り離されたが、パラダイムという言葉は現代のヨーロッパにも保存された。標準的なモデルが踏まえられている、模倣されている、といったかなり限定された状況でパラダイムという言葉は使われていた。子供たちが学校でラテン語を習うとき、彼らは格変化を(たとえばloveI love, thou lovest, he/she/it lovesとか、amo, amas,amatとか)唱えさせられる。これがパラダイムであった。それはまさに、動詞を同じように変化させるためのモデルである。英語ではパラダイムはそれ以上のものではなかったが、ドイツ語ではもっと一般的だったようである。1930年代に影響力の大きかった哲学者集団であるウィーン学団のモーリッツ・シュリックやオットー・ノイラートといったメンバーたちは、彼らの哲学の著作でこのドイツ語を気軽に使っていた。クーンはおそらくこのことは知らなかっただろうが、ウィーン学団とアメリカに亡命してきたドイツ系言語哲学者の哲学こそ、彼自身の言葉を使うなら、彼を「知的に乳離れさせた」科学の哲学だった。『構造』が書き進められていた10年の間、一部の英国の分析哲学者たちがこの言葉を広めていた。これは、深遠なるウィーン人ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが1930年代のあいだケンブリッジ大学の彼の講義で頻繁にこの言葉を使うようになっていたからでもあった。彼のケンブリッジの教室では、彼の息のかかった人々が取りつかれたように議論していた。この言葉は彼の『哲学探究』にいくつかみられる。『哲学探究』の中でパラダイムという言葉が最初に使われるところでは「私たちの文法のパラダイム」と書かれている。ただし、ウィトゲンシュタインの「文法」という概念は通常の用法とはかなりかけ離れている。のちに彼はこれを「言語ゲーム」との関係で使っている。これは彼が文化全体の一部とした、もともとは漠然としたドイツ語である。

クーンが最初にウィトゲンシュタインを読んだのはいつなのか私は知らないが、最初はハーバードで、後にバークレーで、ウィトゲンシュタインに心酔した情熱的で独創的な思想家であるスタンレー・カヴェルと彼はよく話していた。彼らの研究生活のちょうどこういうときに、彼らは知的な態度や問題を共有する上で重要な影響を与え合った。そして二人の議論から、パラダイムという概念は不完全ながら生まれてきたのに違いない。

同じころ、何人かのイギリスの哲学者たちが、幸運にも短命に終わった「パラダイム-ケース議論」を、私の見たところ1957年に発明した。これはかなり論じられた。なぜなら、それが様々な種類の哲学的懐疑論に対抗する新しくて一般的な議論のように思われたからである。例えば、あなたは私たちが自由意思を欠いていると主張することはできない。私たちは既存のパラダイムからこの表現を学んだのだから、自由意思は存在しているのである。まさにこのようなときにクーンは『構造』を書いており、専門家の間ではパラダイムという言葉はかなりよく使われていた。

この言葉はつかまえられるべくそこにあった。そしてクーンはそれをつかまえたのである。

読者はこの言葉は11ページで導入されるのに気づくだろう。これは第二章「通常科学の本質」の最初の段落である。通常科学は、ある科学者共同体によって認められた、第一の科学的達成に基づいている。1974年の「パラダイム再考」で、クーンは再び、パラダイムは『構造』では科学者共同体と密接に結びついて登場していることを強調している。業績は、なすべきことの例として保存される。それは、問うべき問題の種類、成功した応用、そして模範例となる観察と実験である。10ページに、ニュートンその他のような英雄的な研究が達成された例となる、とある。クーンは、研究者たちの小さな共同体においてパターンづけられるより小さい規模の出来事にだんだん興味を移していく。とても大きな科学者共同体(例えば遺伝学、物性(凝縮体)物理学など)がある。しかし、そのような共同体の中でもっと小さいグループがあり、そして最後には、分析は「おそらく100人、ときにはかなり少数の共同体」に対して適用されるべきということになる。それぞれの科学者は自分自身のかかわるべきグループをもっており、グループ固有の研究遂行モデルを持っている。

さらに言えば、パラダイムとなる業績は有名なものだけではない。それらは、

(1)  今まで行っていたことを離れ「支持者の一定の集団を引きつけるほどまだわかっていないことが多い」

(2)  行き詰っておらず「問題を解明するために再結成された研究者の集団」のための多くの未解決問題をもっている

クーンは結論する。「これら二つの特徴をあわせもっている業績こそ、私がこれからパラダイムとして呼ぶことにするものだ。」

法則、理論とその応用、実験やその器具といったものを含む、科学的実践の受け入れられた見本はモデルを提供する。そのモデルは一貫した研究伝統をつくり、科学者共同体を形成する最初の段階の活動となる。ここで引用したわずかなセンテンスが『構造』の基本的なアイデアを形作っている。パラダイムは通常科学を統合し、科学者共同体で実践される通常科学はそのパラダイムの中でやるべきたくさんのことがあるかぎり継続される。通常科学は多くの課題に対し開かれており、そのパラダイムの研究伝統によって認められた法則や機器となどの方法を使って研究を生み出す。12ページの最後には私たちは結論にたどり着く。通常科学はパラダイムによって特徴づけられる。そしてパラダイムはその共同体の仕事の基礎にあるパズルや課題を正当なものとする。すべてはパラダイムで規定された方法が一群の例外に対処できなくなるまではうまくいく。例外によって通常科学は危機に立ち、それは新しい達成が研究を再び方向付け、新しいパラダイムとなるまで続く。これがパラダイム・シフトである(『構造』では、クーンは「パラダイム・チェンジ」と言うことの方が多いことに気づくだろう。しかしシフトの方が好まれたのだ)

このように整理された理解は、『構造』を読み進めるうちにだんだんぼやけてくるだろう。そしてこれこそ重大な問題なのである。自然なアナロジーや類似はほぼ何らかの条項の集まりのなかにもとめられる。パラダイムは単なる達成ではなく、同時に、それをもとにしてこれから行う研究をモデル化する特定の方法である。このことを最初に指摘したのはおそらくマスターマンである。彼女が『構造』のパラダイムという言葉には21通りの使われ方があると指摘した後、私たちはアナロジーとはいったい何なのか再検討しなければならなくなった。どうやって、科学者共同体は過去の達成から実行すべき特定の方法を維持しているのか。「パラダイム再考」でクーンは、「科学の教科書の章末問題はそもそも何のためにあるのか。それらを解く間に学生が学ぶものは何であり得るのか」ということを論じて、この問題にありふれてはいるが新しいやり方で答えている。クーンが言うには、「パラダイム再考」のほとんどはこの予期せぬ疑問に向けられている。なぜならこれこそが、自然なアナロジーがあまりにもいろいろありすぎて過去の達成から研究伝統をはっきり決めることができないという問題に対する彼の主要な答えだからである。注意しておくと、彼は自分が若いころに取り組んだ数学と物理学の教科書を考えており、生物学の教科書のことは考えていない。

学生は、明らかに異なった問題の中に類似性をみてとる力を獲得しなくてはならない。なるほど教科書にはたくさんの事実や技術が乗っている。しかしそれだけでは誰も科学者にすることはできない。学生は観測や理論だけではなく、章末問題によっても導かれる。学生は一群の問題が、違っているように見えるが同じようなテクニックで解けることを学ばなければならない。それらの問題を解くことで、学生はどうやって「正しい」類似を使ったらいいのかを身につける。「学生は、自分の問題がすでに出会っている問題と似ていることを見て取る方法を発見する。ひとたび類似性やアナロジーを見て取れば、あとは操作的な困難が残っているだけである。」

「章末問題」という主題を扱う前に、「パラダイム再考」でクーンはパラダイムという言葉をいろいろな意味に使いすぎてしまったと認めている。そこで彼はこの概念を二つに大別した。一つは広義、もう一つは狭義のものである。狭義の用法は、様々なタイプの模範例である。広義の用法では、まず科学者共同体という概念に焦点を当てている。

1974年の論文で、クーンは1960年代に発達した科学の社会学の仕事が科学者共同体を特定するための優れた経験的ツールとなることができると述べることができた。科学者共同体が「ある」ことは疑いない。問題は、何が同僚を同じ方法論のもとの仕事に結び付けているかである。彼はそう言っているわけではないが、これは社会学の根本的な問題なのだ。規模の大小にかかわらず何らかの一つの集団を特定しようと思えば、政治的、宗教的、倫理的に結びついた集団、10代のサッカークラブ、高齢者に台車でご飯を運ぶボランティア集団などとなる。何がその集団を一つの集団として保っているのだろうか。何によってある集団がセクトに分かれたり、または単にばらばらになったりするのか。この問いに、クーンはパラダイムという用語で答えた。

「いったい何の要素を共有すれば、専門的なコミュニケーションが比較的問題なく特徴づけられることを説明し、専門的な判断が比較的一致することを説明するだろうか。この問いに対して、『科学革命の構造』では「パラダイム」または「パラダイムの一群」と答えている。」これはこの言葉の広義の意味であり、この意味は様々な仕方で研究に参加したり実践したりすることによって形成されている。これらの参加や実践について、クーンは記号による一般化、モデル化、そして規範的実験を強調している。これらすべては『構造』で示唆されてはいるが、完全には発展していない。読者は、『構造』を飛ばして、この発想がどう展開したかを知りたいかもしれない。『構造』では、パラダイムが危機に瀕しているときその共同体自身が解体する度合いが強調されていた。84ページにウォルフガング・パウリの印象的な引用がある。ひとつはハイゼンベルクが行列代数を提案する数か月前、ひとつはその提案の数か月後である。前者で、パウリは物理学はばらばらになっていると感じており、彼自身物理学者をやめてしまおうと思っている。数か月後には、前に進む道が開けた。多くの物理学者が同じように感じた。危機が最高潮に達するとき、パラダイムは挑戦を受け、科学者共同体はばらばらになりつつあったのである。

パラダイムについて、ひとつの根本的な見直しが「パラダイム再考」の脚注にある。『構造』では、通常科学はパラダイムとなる業績とともに始まる。そのような業績が生まれるまでの期間は試行錯誤の前パラダイム期である。たとえば熱、磁気、電気現象についての初期の議論である。その後「第二の科学革命」がそれらの分野にパラダイムの波をもたらした。フランシス・ベーコンは熱について、太陽と腐りかけた肥料とを含めた。このようなものを整序立てることはできない。同意された研究すべき問題もない。理由ははっきりしていて、パラダイムがなかったからである。

「再考」の四番目の脚注でクーンは完全に考えを変えた。クーンによれば、これは「彼が特定の科学分野が生まれる前後を区別するときにパラダイムという言葉を使った」ことの「もっとも有害な」帰結である。そう、確かにベーコンの時代の熱の研究とジュールの時代の熱の研究には違いがある。しかし彼は今や警告する。この違いはパラダイムの有無によって決まるのではない。「パラダイムがなんであろうと、それらは科学者共同体の念頭にあるものであり、いわゆる前パラダイム期の学派も含んでいる。」『構造』における前パラダイム期の役割は通常科学の開始に限定されていない。それは(159ページを最後として)『構造』の中に何度も登場する。これらの記述は、「再考」に基づいて書き直されなければならなかっただろう。読者はこの見直しがよかったのかどうか決めなくてはなるまい。再考したものが、最初のものより必ずしも良いというわけではないのだ。

 

アノマリー

第六節のフルタイトルは「アノマリーと科学的発見の出現」である。第七節のタイトルは「危機と科学的理論の出現」で、これとパラレルになっている。この奇妙な結びつきが、科学に対するクーンの認識を要約している。

通常科学は新奇さを目指さず、今の状態をはっきりさせようとする。それは、予想されていた発見を追認する傾向にある。発見はものごとがうまくいっているときではなくゆきづまったときに現れる。新しいことは予想されたものに反して現れる。つまり、変則事例(アノマリー)として現れるのである。

アノマリーanomalyaは、不道徳amoralや無神論atheismと同じ、「否定」を意味する。nomはギリシャ語の「法」からきている。アノマリーは法的な統制の反対である。より一般には、予想の反対である。ポパーは、すでに述べたように、反証を彼の哲学の中心にすでにおいていた。クーンは、単純な反証と見なせるものはほとんどないのだということを強調した。私たちは、それが存在しないときでさえ、私たちが予想したものを見る傾向にある。アノマリーが、その反対である確立された法則とみなされるのには、ふつう長い時間がかかる。

すべてのアノマリーが重要だと気づかれるわけではない。1827年にロバート・ブラウンは、顕微鏡で観察すると、浮かんでいる花粉が絶え間なくあちこち動いていることに気が付いた。分子運動の理論に組み込まれるまで、この現象は単に何の意味もない例外に過ぎなかった。ひとたびそのように理解されると、この運動は分子説の強力な証拠となったが、それまでは単なる奇妙な現象であった。これは、理論の反証であったが脇に置かれていたたくさんの現象にあてはまる。理論とデータの間にはいつも距離がある。多くの場合、その距離はとても大きい。何が説明されるべきアノマリーであるかを認識すること、そのうち理解されるであろう例外という以上に説明されるべきだと認識すること、これは複雑な歴史的出来事である。それは単純な反証ではないのだ。

 

危機

危機と理論の転換は、両者ともに手をたずさえて起こる。たくさんのアノマリーに対処できなくなる。どんな事例も既存の科学の鍵穴にうまくはまりこまない。しかし、このことはそれ自体では既存の理論を放棄に導くことはないのだとクーンは断言する。「あるパラダイムを棄却する決定は常に同時に別のパラダイムを受け入れる決定である。その決定を導いた判断は、両方のパラダイムと自然とを、また、それぞれのパラダイムどうしを比較することを含んでいる。」次のページではさらに強い記述がなされている。「代わりのパラダイムを同時に立てることなしにあるパラダイムを棄却することは、科学それ自体を拒否することである。」

危機においては、通常と言うよりはむしろ異常な研究の時期がある。そこでは明確さを競い合ったり、何かに取り組もうと意思したり、はっきりとした不満を表明したり、哲学に訴えかけたり、基礎をめぐる議論がなされたりする。その興奮から、新しいアイデアがあらわれ、方法論がうまれ、ついには新しい理論となる。クーンは第四章で科学革命の必要を述べている。アノマリー、危機、そして新しいパラダイムのパターンなしには私たちは泥沼にはまり込んでしまい、新しい理論など手に入れることができないだろうと彼は強調する。クーンに言わせれば、科学には新しいことがなければならない。革命がなければ、科学は退行する。この点についてクーンが正しいかどうか、読者は考えてみたくなるかもしれない。科学の歴史の中でなされた最も重大な新発見は、『構造』の構造に即した革命から生じたのか?おそらく、原題の広告口調ではすべての新しさが「革命的」だろう。『構造』は、新発見がどのようにあらわれるかを説明する正しいテンプレートなのではないか。

 

世界観の転換

ほとんどの人々は、共同体や個人の世界観が時間とともに変化し得るという考えを問題なく受け入れている。多くの人は、ドイツ語のWeltanschauungに由来する「世界観world view」という大げさな表現には不満かもしれない(world viewという言葉自体は完全に英語だけれど)。もちろん、もしパラダイム・シフトが起こり、思考や知識や研究の仕方に革命が起きたら、私たちの生活する世界といったものへの見方は変わるだろう。用心深く言えば、個人の世界の見方は変わるかもしれないが、世界そのものは同じ状態にとどまっているということである。

クーンの言わんとすることはもう少し刺激的である。革命の後、転換の起こった分野の科学者は異なった世界で仕事をする。私たちはさらに用心深く、これも単なる比喩であると言うかもしれない。言葉に忠実になるなら、世界は一つしかなく、かつてもいまも同じ世界である。私たちは未来はより良い世界であってほしいと願うかもしれないが、分析哲学者お得意の厳密な意味では、それは改善された同じ世界である。ヨーロッパからの移民の時代、開拓者たちは、彼らがニューフランス、ニューイングランド、ノバスコシア、ニューギニアなどと名付けた土地に出会った。そしてもちろん、それらはフランスやイングランドやスコットランドとは違うのである。私たちは地理学的、文化的意味で、新世界と旧制界について話す。しかし世界全体について考えるとき、それはただ一つである。そしてもちろん、私が住んでいる世界はオペラの女神たちの世界や偉大なラッパーたちの世界とは違うという意味で、たくさんの世界がある。明らかに、人が異なる世界について語りはじめるとき、誤解が紛れ込む余地がたくさんある。物事のどんな整理にも意味はあるだろう。

第五章「革命と世界観の変換」で、クーンは「やってみるtry-out」し方と私が呼ぶような比喩と取り組んでいる。何を言っているかではなく、いったい何を「私たちが言いたい」のかということである。しかし、クーンが言うことは私が先に挙げた比喩以上のものである。

(1)    「…私たちは、コペルニクスの後天文学者たちは違う世界に生きたのだ、と言いたくなる」

(2)    「…酸素の発見の後、ラヴォアジエは異なる世界で仕事をしたと言わざるを得ない」

(3)    [化学革命]がおこり…データそれ自体が変わったのだ。革命の後に科学者は異なった世界で仕事をするということを言わんとするとき、意味しているのはこういうことである。」

最初の引用でクーンは、「かつてと同じ対象を同じ器具で見ている」にもかかわらず天文学者たちが新しい現象を容易に観察できることに驚きを受けている。第二の引用では彼はこう言う。「ラヴォアジエが異なった仕方で見ていた仮説的に固定された自然、といったものに頼らないなら、私たちはラヴォアジエは異なった世界で仕事をしていたと言いたくなるだろう。」ここで、つまらない批判者が私に言うだろう、私たちは「固定された自然」など必要としない、と。なるほど自然は変化するものである。私が庭仕事をするとして、それらは5分前のものであり、物事は今と全く同じにあるのではない。私はいくばくかの雑草を引き抜いた。しかし、私が庭仕事をしており、またラヴォアジエが断頭台に送られた、同じ一つの世界(なんと異なった世界だろう)があることは、「仮説」ではない。物事がどれだけ混乱しているかを分かってほしい。

三つ目の引用でクーンが説明したことは、そうとるのはまったく的外れというわけではないにしろ、違う世界とは良いデータに支えられより洗練された正確な実験を意味しているのではないということだ。問題となったのは、単に混ざり合うのではなく、化合物を作るための特定の割合で要素が結合するのだというドルトンのテーゼである。長い間、このテーゼは最良の化学分析と両立できなかった。もちろんこの概念は次のように修正されなければいけなかった:もし基質の結合が多かれ少なかれ特定の割合にならないなら、それは化学的プロセスではない。すべてをうまく機能させるためには、化学者は「自然を直線的なものに落とし込まなければならない。」このことはまさに世界を変えるといっていい。私たちは、化学者が扱っている対象は地球が冷えはじめた大昔の間に地球表面に存在したものと同じなのだとも言いたいけれど。

この章を読んでいると、クーンが何に駆り立てられているのかがはっきり伝わってくる。しかし、読み手は彼の思考を表現するにはどんな言葉の形が適切かをきめなければならない。極論すれば、「あなたが自分の言っていることの意味を知っている限りにおいて、あなたのしたいことは何かを言いなさい」ということになる。だがそれは行き過ぎだ。用心深い人は、その分野で革命が起こった後、科学者は世界を違った風に眺め、仕事のやり方を違った風に感じ、新しい方法に影響されるかもしれない、というなら同意するだろう。クーンはそれ以上のことを言いたかった。しかし本の中では彼は「そう言いたい」のだと書くにとどめた。彼は著書では、ラヴォアジエの後科学者は異なった世界で仕事をし、ドルトンの後にさらに別の世界で仕事をした、と直接言うことは決してしなかった。

 

通約不可能性

「異なる世界」については一度も論争は起きなかったが、それと深く関係する問題は嵐のような論争を引き起こした。『構造』が書かれたとき、クーンはバークレー校にいた。スタンレー・カヴェルがクーンの同僚だったことは前に書いたが、偶像破壊者ポール・ファイヤアーベントも同僚だった。彼は、その著書『方法への挑戦』(1975)と、科学研究のあからさまなアナーキズム(「なんでもあり」)でよく知られている。この二人は「通約不可能性」という言葉を議論の俎上にのせた。両者とも両者の論を歓迎しているようだった。少しの間だったが、両者は同じ道を歩んでいた。しかしのちに彼らは別々の道を歩む。それでも、科学革命の前後で、成功した科学的理論が他の理論とどの程度比べられるかについての激しい哲学的論争を帰結したのである。私は、ファイヤアーベントのとげとげしい発言の方が、クーンのそれよりもはるかに論争の火に油を注いだと思う。その一方で、クーンが後々まで取り組んでいた問題をファイヤアーベントは見落としたのである。

おそらく通約不可能性をめぐる論争は論理的経験主義によって準備された舞台でのみ起こり得たのだろう。論理的経験主義は、クーンが『構造』を書いたときの科学哲学の通説だった。それは極度に言語的、すなわち言葉の意味に焦点を当てた一本道の思考という単純なモデルである。私は誰かがこんなに単純なことを主張したのだと言っているわけではないが、しかしこれは論理的経験論の考え方そのものなのである。そこでは、観察可能な物の名は指し示すことで認識されると考えられた。しかしそれでは理論的な物体、例えば誰も指し示せない電子のような物体についてはどうか。論理的経験論の教えるところでは、そのような物体はそれが現れる理論の文脈からのみ意味を持つのである。それゆえ理論における変更は意味の変更を伴わなければならない。それゆえある理論の文脈における電子についての主張は、他の理論の文脈における同じひとつながりの言葉とは異なったものを意味している。もしある理論がその命題は真だと言い、他の理論がそれは偽だと言っても、そこに矛盾は生じない。なぜならその命題は二つの理論でそれぞれ異なったことを表現しており、両者を比べることはできないからである。

この問題は集団の例を使って議論されるのが常であった。この言葉はニュートン力学とアインシュタインの相対性理論のどちらでも重要である。ニュートン力学で誰もが思い出すのはf=maである。アインシュタインで思い出すのはE=mc^2である。しかし後者は古典力学では意味を持たない。それゆえ(と一部の人は主張するのだが)この二つの理論を本当に比べることはできない。そしてそれゆえ(かなり無茶な「それゆえ」ではあるが)理論選択において、ある理論よりも別の理論の方が好ましいという以上の合理的な理由は存在しない。

あるところでは、クーンは科学の合理性そのものを否定することに反対した。その一方で、彼は新たな相対主義の予言者として迎え入れられた。両者は噛み合っていない。これらの問題にクーンは直接言及している。理論はその予測が精確で、無矛盾で、幅広く適用でき、秩序だった首尾一貫した方法で現象を解釈し、新しい現象や現象間の関係を示唆する実り豊かなものであるべきだ。クーンが書き並べるこの五つの価値はすべて、彼が(歴史家は言うに及ばず)科学者共同体の全体と共有しているものだ。これは(科学的)合理性の本質の一端であり、クーンはこの点で「合理主義者」なのである。

私たちは通約不可能性の説に注意深く接しなければならない。高校で生徒はニュートン力学を習う。彼らは大学ではまじめに相対性理論を学ぶ。ロケットはニュートン力学に従って目標に向かう。人々はニュートン力学は相対性理論の特殊な場合だという。そして早いうちからアインシュタインの支持に回った人々はニュートン力学も理解していたのである。それでは通約不可能性とはいったい何なのか。

「客観性、価値判断、理論選択」の最後で、クーンは、彼が常々言ってきたことについて簡潔に述べている。「異なる理論の支持者がお互いに対話できるということには重大な限界がある。」さらに、「個人がある理論から別の理論へとその忠誠を変えることは、選択と言うより転向と言った方が良いことが多い。」当時、理論選択について議論が沸騰した。確かにその議論にかかわったたくさんの人々は、それが科学哲学の第一の課題であると主張し、合理的な理論選択の原理を擁護し分析することを目指したのである。

クーンはまさにその理論選択という考え方を疑問に付した。研究者が取り組む理論を選択することについて語ると、理論選択はたいてい無意味なものになってしまう。大学院生あるいはポスドクになる者は彼らの職業の手法を習得するであろう研究室を選ばなければならない。それはそのとおりだ。しかしそれだからといって、彼らは理論を選ぶわけではないのだ。将来の道を選んでいるのだとしても。

異なる理論の提唱者の間でコミュニケーションに限界があるのだとしても、それは彼らが技術的な問題を比較できないということを意味しない。「研究伝統を維持しようとするひとにとって新しい理論は通約不可能かもしれないが、印象的で確実な結果を提示することは、対立する立場の何人かをこのような結果がどうやって得られたのか発見しなければいけないという気にさせる。」クーンの考えによるのでなければ気づかれなかったであろう別の現象が存在する。巨大な規模の研究、例えば高エネルギー物理学では、細かく見ればそれぞれに立場を異にするたくさんの研究者と一緒に共同作業を行うことがよく必要とされる。どうしてそんなことができるのか。彼らは、かなり異なる二つの言語間の交易でクレオール語が生まれたのと同じように、相互に譲歩しあう領域を生み出すのだ。

クーンはおもいもかけないところで通約不可能性の考え方がつかえることに気が付いた。専門化は人類文明の特徴だが、科学の特徴でもある。17世紀なら私たちは多目的な雑誌を手に入れることができる。その典型はロンドン王立協会のフィロソフィカル・トランザクションである。サイエンスやネイチャーのように、複数の専門にわたる科学雑誌は今も存在している。しかし電子ジャーナルの時代に入る前でさえ、科学雑誌はコンスタントに増え続けてきた。それぞれの雑誌は専門ごとの集団を反映している。クーンはこれは予想できることだと考えた。彼が言うには、科学もダーウィン主義的に進歩する。革命はたいてい種分化のような出来事であり、そこでは一つの種が二つの種に分かれるか、どちらか一つが生き残るかである。しかしどちらもそれ自身の道をたどり、もう片方とは異なる。危機において、もうひとつ新しいパラダイムが生まれるかもしれないのであり、どちらのパラダイムもアノマリーの状態の異なる集団を組み込んで新しい研究方向へと分岐していくことができる。こうして分野に新しい下位区分ができると、どちらも研究の規範とする固有の業績を持ち、それぞれの研究者はお互いに何をやっているのか理解するのがだんだん難しくなっていく。これは深遠な形而上学的指摘ではなく、科学者の研究活動にはおなじみの事実なのである。

二つの種に分化することが交配不可能であることによって決まるように、新しい専門はお互いにある程度は通約不可能である。これが、通約不可能性という概念の内実ある使いかたである。これは、理論選択という疑似問題とは何の関係もない。クーンは彼の晩年の研究を、通約不可能性の原因を専門分化などで説明する試みに費やした。それらは科学で使われる言葉の新しい理論をつくるという観点からのものだった。彼はどこまでも物理学者だったのであり、彼の提案したことはいつも物事を単純でより抽象的な構造に還元しようとする試みだった。当然のことと見なされているが、それは『構造』とはかなり異なった構造である。しかし、それは多様な現象に明瞭な関連を見出そうとする、同じ物理学者の欲求なのだ。この仕事はまだ出版されていない。よく、クーンはウィーン学団の哲学とその追従者たちを乗り越えたと言われ、「ポスト実証主義者」として語られる。しかし彼は実証主義者の前提の多くを追求したのだ。ルドルフ・カルナップの最も有名な著作は『言語の論理的構文論』である。クーンの晩年の仕事は科学の言語の論理的構文論に携わったものと言えるだろう。

 

革命を通した進歩

科学は飛躍や断絶で進歩する。多くの人々にとって、科学的進歩はまさに進歩の縮図である。もし政治や道徳生活もこのように進歩したらどんなにいいことか!科学的知識は累積的であり、以前の水準の上にたって新しい業績を築くものである。

これこそまさにクーンが通常科学として描いたものである。それは疑いなく累積的である。しかし革命はその共同体の中でつぶされるのだ。かつての科学でかなりうまくいっていた多くのことは、新しいパラダイムのもとに新しい課題の集まりが示されると忘れ去られてしまうかもしれない。これは確かに通約不可能性の避けがたい性質である。革命の後に研究されているトピックに根本的な変更があるかもしれない。それゆえ新しい科学はかつてのトピックのすべてを目指しはしない。かつて有用だった多くの概念は変更されたり捨て去られたりするかもしれない。

それではいったい進歩とはなんなのだろうか。私たちはかつて、科学とはその分野における真実へ向かって進歩していくものだと考えていた。クーンは通常科学の概念でそれに挑戦したのではない。彼の分析は、なぜ通常科学があんなにも急速に進歩する社会制度なのかということを自身の用語ではっきり説明した点に独創性がある。しかしながら、革命は通常科学とは別物であり、異なった進歩のし方をするところに本質がある。

革命はその分野を変える。革命は、(クーンによれば)その言葉で私たちがいくつかの自然の見方について語るまさにその言葉さえも変える。多かれ少なかれ、革命は自然の新しい側面へと研究を振り向ける。それゆえクーンはかれ一流のアフォリズムで、革命は破滅的な困難に突き進んでいたかつての世界概念からの進歩であると言った。それはすでに設定されたゴールに向けた進歩ではない。それは、かつてはうまくいったがもはや自身の新しい課題を解決できないものからの進歩なのである。

「からの進歩」は、科学は宇宙の真実を目指しているというありふれた科学観を疑問に付すように見える。ひとつだけ、たったひとつだけ、すべての物事の完全な真実の認識があるという思想は西洋の伝統に深く根ざしている。それは、実証主義の祖であるコントが人間精神の神学的段階と呼んだものから由来する。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一般的な宇宙観では、すべてのことの真実で完全な認識がひとつある。すなわち神こそが知り給う(神は小さな雀の死も知っている)

このイメージは基礎物理学にも移り込んでおり、その研究者たちは、きっと自分たちは無神論者だと自信たっぷりに言うだろうが、発見されるのを待っているひとつの満たされた完璧な自然の認識が存在することを当然のことと思っている。もしそのような認識に意味があると思うなら、それはそれ自身で科学がそこに向かって進歩していく理念を示す。それでは、クーンの「からの」進歩はまったくの見当違いということになるだろう。

クーンはそのような考えを棄却した。彼は『構造』でこう言っている、「なんらかの十分で、客観的で、真実の自然の認識がある、そして科学的業績の適切な評価はその究極的な目標に私たちをどれだけ近づけたかによって決まる。このようなイメージはほんとうにためになるのだろうか?」多くの科学者は、そうだ、ためになるのだと言うだろう。それは自分たちの活動について彼らのもっている基本的なイメージであり、どうしてその研究活動に価値があるのかの理由となっている。クーンはそっけなくこの修辞的な疑問を書きつけるだけだった。これは、クーンの読者が追求する問題である(私自身はクーンとこの疑問を共有している。しかしこの問題は難しく、早まった決着をつけるべきではない)

 

真理

「何らかの十分で客観的で真実な自然の認識がある」ということを本気で受け取ることはできない。このことは、彼が真実を本気にはしていないということを意味するだろうか。決してそうではない。彼が言っているように、『構造』ではベーコンの引用の中以外、真理に一度も言及していない。賢明にも事実を愛し、何らかのものについての真理を決定しようとする人は、真理の理論などとは言わないし、また言おうともしない。だれでも昨今の分析哲学に通じている人は真理の理論がいくつも競合していることを知っているだろう。

正しい言明は世界についての事実と対応するという単純な「対応理論」をクーンは棄却した。堅実な分析哲学者の大半はおそらく同じようにするだろう。明白な循環論法に立つというだけでそうせざるを得ない。その言明について言明するという以外、任意の言明に対応する事実を特定する方法はないのだ。

20世紀の終わりにアメリカの学者を席巻した懐疑論の嵐では、多くの影響力のある知識人がクーンを真理を否定する立場の同盟者として持ち上げた。私が言っているのは、文字の上でも、その意味においても、真理に引用符をつけずには真理ということばを書くことも言及することもできないタイプの思想家のことである。真理などという有害な考えを持つだけでどれほど身の毛がよだつことか、彼らは仄めかす。多くの内省的な科学者は、彼らはクーンが科学について言っていることをかなり評価しているのだが、クーンは真理を否定する人たちを勇気づけたと信じている。

『構造』が科学の社会学的研究を大きく後押ししたのは確かである。それらの仕事の一部は、真理は「社会的に構成」されているという考えを強調し「真理」の否定の立場にはっきり与するものであり、保守的な科学者は真っ向から反対している。クーン自身は自分の仕事がそのように発展することに嫌悪感をあらわにした。

注意すべきは、『構造』に社会学的な部分はないということである。しかし科学者共同体と彼らの活動はその中心において、私たちがみてきたように『構造』が初めから終わりまで扱っているパラダイムに関与している。クーン以前から科学的知識の社会学は存在していた。しかし『構造』の後にそれは大きく発展し、サイエンススタディーズと現在呼ばれているものをもたらした。それはれっきとした一分野であり(もちろんそれ自身の雑誌と社会を持っている)、科学史や科学・技術の哲学についてのいくつかの仕事を含んでいる。しかし観察においても理論においても様々な種類の社会学的アプローチに中心がおかれている。クーン以後の科学についての考察にみられる多くの、おそらくは一番の特徴は、それらが社会学的傾向を持っているということだ。

クーンはこのような発展には反対した。クーンの反対は残念なことだというのが多くの若手の意見である。私たちはこれを父と子の確執のごときつまらない喩えに落とし込んでしまうより、ある分野が成長するときの痛みに伴う不満として描くことにしよう。クーンの素晴らしい遺産のひとつは、私たちが今日知っているサイエンススタディーズなのである。

 

成功

『構造』は統一科学百科事典の第二号第二巻として発表された。初版と第二班は両方ともタイトルが第1ページ、目次が第3ページである。第2ページは百科事典についてのいくつかの紹介である。21人の編集者とアドバイザーの名前が載っている。50年後もよく知られているビッグネームを挙げれば、アルフレッド・タルスキー、バートランド・ラッセル、ジョン・デューイ、ルドルフ・カルナップ、ニールス・ボーア。

この百科事典はオットー・ノイラートとウィーン学団の同僚によってはじめられたプロジェクトの一環であった。ナチズムからの亡命者は、ヨーロッパからシカゴに移った。ノイラートは専門家による多くの短い論文を集めて、少なくとも40巻ほどにすることを思い描いていた。クーンが彼の草稿を送る前には、二巻目も第一論文も出ていなかった。その後、統一科学百科事典は消滅した。今になって振り返ってみると、多くのひとはクーンが『構造』をこの媒体で出版したのはかなり皮肉なことだったと考える。なぜなら、まさに『構造』が、このプロジェクトのもとになっている実証主義の教義のすべてを掘り崩したのだから。私はすでに反対の意見を示しておいた。クーンはウィーン学団やその同時代の人々の前提を受け継いだのであり、その基礎を不滅のものとしたのである。

国際百科事典の以前の論文の印刷部数は専門家の小さなグループのためのものだった。シカゴ大学出版はそれが大きな事件であることが分かっていたのだろうか。1962-63年では919部が、1963-64年では774部が売れた。その翌年にペーパーバックで4825部が売れ、その後はもう調べられない。1971年までに、初版は9万部を売り上げ、補遺をつけた第二版はそれを超えた。出版から25年後、1987年までの発行部数の総計は少なくとも65万部である。

しばらくの間人々はこの本を何かにつけて最も引用された仕事の一つとして語った。聖書とかフロイトとか、その類と同じ誇張の疑いはあるが、この本は成功したといえよう。メディアはミレニアムにかこつけて20世紀の傑作のリストをいろいろつくったが、『構造』はよくリストに載っていた。

もっと大事なことは、この本が「私たちが今も取りつかれている科学のイメージ」をまったく変えてしまったということ。それも、永遠に。

 

An Introductory Essay by Ian Hacking

The Structure of Scientific Revolution, the University of Chicago Press 2012

村山 訳

Comments