1.合気道とは

内田樹(多田塾甲南合気会師範)

 合気道とは開祖植芝盛平(うえしば・もりへい)先生(1883-1969)によって体系づけれた近代武道です。
 植芝先生は若年のころから柔術、剣術、槍術などの古武道を修行されたのち、武田惣角(たけだ・そうかく)先生に就いて大東流柔術を学ばれました。これら の古武道の技法が合気道の技術的な体系の骨格をなしています。さらに植芝先生は大本教の出口王仁三郎師(1871-1948)に師事し、その宗教思想に深い影響を受け、従来の武術とは異なる、「愛と和合の武道」を標榜する新しい武道の体系を築かれたのです。

 私たち多田塾甲南合気会はその植芝盛平先生に戦後すぐから師事され親しく植芝先生の薫陶を受けられた多田宏先生(1929−)(財団法人合気会師範、イタリア合気会最高師範、九段)の主宰する合気道多田塾の系列道場の一つです。
 多田先生は合気道を始められると同時に中村天風(1876-1968)先生の主宰する天風会にも入会され、天風先生からは心身統一法の哲学と技法を学ばれました。
 ですから合気道多田塾の修業する合気道には、植芝盛平先生の合気道と中村天風先生の心身統一法の両方の思想と技法が流れ込んでいます。

 合気道には試合がありません。
 修行の過程ではいたずらに「強弱勝敗を論じない」というのが合気道の基本的な考え方です。この点で、合気道勝敗や技術の巧拙を競うスポーツとしての近代武道とは違う道を歩みます。
 合気道は目の前にいる敵を相手にする相対的な勝利ではなく、「敵をもたない・敵をつくらない」ための武道的な身体運用の理法と技術に習熟することを修業の目的としています。
 「無敵」とは「あらゆる敵に打ち勝つ」という意味ではなく、「敵」という概念そのものを改鋳することによって、「敵」の及ぼすネガティヴな影響を軽減ないし無化することにある、私はそのように考えています。これはきわめて高く困難な目標であり、そのためには深い内観の力と自他の「インターフェイス」における適切なふるまい方についてのただしい知見が必要です。
 「誰かに勝った」とか「誰かより上手い」というかたちの相対的な満足のうちに停滞することはこの修業においては妨げにしかなりません。試合が行われないこと、また他人の技術を批判することを禁じているのはそのためです。

 ヨーロッパでは合気道はしばしば「動く禅」と呼ばれます。それは合気道が激しい動きを呼吸によって律し、動きながら一種の瞑想状態=トランス状態に入る ことを重要な訓練方法としていることによります。その意味では合気道の稽古は身体的なトレーニングというよりは、ある点では宗教的な行に近いと言えるかも 知れません。
 合気道の体術体系は「形稽古」から構成されています。
 わざをかけるものと、受けをとるものがあらかじめ決まっており、攻守が交代しながら技術と身体を練り上げてゆきます。
 形稽古を模擬的な試合、あるいは振り付けの決まった「殺陣」のようなものと理解している人がいますが、それは型稽古の解釈を誤っています。形稽古のねらいは、理想的・本然的な身体運用法則の発見にあります。
 私たちが「自然な身体運用」だと信じているふだんの身ぶりの過半は(言語と同じく)歴史的・地域的に限定された「民族誌的奇習」に類するものです。「自然に動いている」つもりの人は、しばしばある種の文化的な「身体型」にはめこまれていることを意識していないだけです。
 形稽古の重要な目的の一つはそのような因習的身体運用を意識化・主題化することです。そして、人間にとって生物学的にあるいは類的に自然な身体運用というものがあるとすれば、それはどのような動きであるのかを考究することです。
 ですから、合気道の稽古は筋肉の力や動作のスピードを求めません。因習的・奇習的な身体運用をいくら量的に加速・増量しても、それは自転車に大排気量のエンジンを積み込むようなものです。そのような稽古は長いスパンでは基体を痛めつけることにしかゆきつきません。必要なのは、自転車ではない別の原理で動く乗り物に乗り換えること、身体運用のスキームそのものを書き換えることです。「身体のOSのヴァージョンアップ」というふうに言い換えてもいいかもしれません。
 そういう点では合気道はきわめて「研究的」なものです。
 合気道の道場は「訓練の場」と言うよりはむしろ「研究室・実験室」に似ています。さまざまな技法や術理について「仮説」を立て、それを「実験」し、効果や合理性を「検証」し、「反証事例」が出てきたら、別のより包括的「仮説」を立てる…という自然科学における学術プロセスとほとんど同じことが道場では行われます。稽古そのものは斉一的に行われますが、ひとりひとりの門人がそこで行っ ている「実験」はおそらく全員別のものです。
 多田先生は「道場は楽屋であり、日常生活こそ本舞台である」ということをよく言われます。
 私はこのことばを「道場は仮説の実験の場であり、その仮説の汎用性が実地に問われるのは道場を出てからである」という意味に解釈しています。
 ある意味で道場ではどのような失敗も許されます。実生活では失敗によって大きなものが失われますが、道場ではそんなことはありません。
 道場では真剣で恐ろしげな顔をしている人が、一歩道場を出ると緊張感を失ってしまうというということがときどきあります、その人はおそらく道場というものの意味を勘違いしているのです。道場は愉快な場所です。さまざまな「実験」が許される特権的な場所です(合気道の技のどれかを日常生活の中で試みると警察か救急車が呼ばれることになります)。だからこそ、道場は(機能的な実験室がそうであるように)クリーンで秩序ある空間でなければならないのです。
 どうも合気道について書き出すと長くなってしまうので、そろそろ長広舌は終わりにして、団体のことについて書いておきます。


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