鷹栖町の歴史、民俗、文化をどう継承していくのかという点に絞って質問いたします。
まず町長にご質問いたします。
鷹栖は1893年、明治25年2月4日に開村、以来123年間にわたり、川と闘い、雪と闘いながら、延々と大地を耕し、開村時68戸182人だったものが3100余世帯、7100余人という今日の繁栄を勝ち取ってきました。
いち早く上川の大地に根を下ろした町という自負や、先人の努力を顕彰する気持ちもあったのでしょう、町史編纂事業は近隣市町村と見比べても大いに誇れるものがありました。
1914年、大正3年の村史を嚆矢として、1973年、昭和53年からはほぼ10年ごとに町史を拡充追補してきた実績があります。
しかし、1992年、平成3年の町史第2巻を最後に今日まで24年間、その後継が途絶えているのはなんとも残念な限りです。
開基100年をめどに郷土史を編纂して一段落という町村も多いことは承知していますが、一方にはほぼ10年ごとに町史を発行し続ける下川町や、ほぼ20年ごとに追補を発行する本別町など、郷土の歴史を大切にする自治体も決して少なくはありません。
東神楽町でも本年4月、20年ぶりとなる町史の第4巻が発刊されています。
町史発刊では先輩格といえる鷹栖町としては当然町史第3巻の発刊が期待されるわけで
すが、どう対応なさるおつもりか、お聞かせください。
時間が経てば経つほど、記憶は薄れ資料は散逸するものです。
まして、わが町の町史編纂事業は一部町内有志の方々の尽力によるところが非常に大きい。
その方々も高齢化していますが、意志を引き継ぐべき次の世代がうまく育っているとも思えません。しかしまた郷土の歴史や民俗、文化に関心を持つ人がわが町には特に少ないということにもならないだろうと考えます。
町史編纂室を設けたり、条例または規則で編纂委員会を設置するところもあるぐらいですが、そういう積極的な展開は無理だとしても、町の主導的な関与が必要とされる時がきているのではないでしょうか。町長はこの状況をどのように把握され、どのように判断されるか、お答えください。
次に教育長にご質問いたします。
町が育み、抱えてきた文化の中には記憶として定着させていくべきものがある一方、古い衣食住のありようなど、生きた型で残していけるものもあります。
日本の博物館は一般に収納、展示を主な業務としてきましたが、欧米ではもっと積極的に社会教育全般の普及に関わっていると聞きます。
最近では、生涯教育への関心や地方文化の再発見でわが国の博物館業務も見直されようとしていますが、鷹栖町も郷土資料館をそのように活用していけないでしょうか。
今は人知れず苔むしている石碑を発見するツアーとか、わら細工の講習、凧揚げ・竹馬・パッチなどの競技会など、やろうと思えばやれることは無限にあります。
町の関与で生き生きと活動する博物館に活性化させていただきたいものと思います。お考えはいかがでしょうか。
町の事業、こと文化に関しても事業のハードな部分、たとえば建物を建てるとか、機器を導入するといったところは成果が目に見えますし、評価もしやすい。
一方、ソフトの部分、特に民俗学とか博物学に関わるようなところでは、なかなか成果は見えず、価値観の異なる人には、その意義を説明してもなかなか理解が得られません。
しかしいったん失ってからでは、もう取り返しがつきません。
今ではまだ昭和の記憶、戦前の記憶がかすかながら残っています。
古老の聞き取りなどを録音、録画してそういう記憶を残すことも考えていただきたい。
また広報紙などもすでにデジタル化が終わっているのですから、ぜひネット上で公開し、町外の方々にも鷹栖町を知っていただけるようにしたらいかがでしょうか。
お考えをお尋ねして私の質問を終わります。