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多賀城市 末の松山


「〝波越さぬ丘〟は、惨禍を伝える教訓の地!」
次代へ――。史都・多賀城が新たな伝承を語り始めています。






今から約1300年前の724年。

大和朝廷は、陸奧国の政治と軍事の拠点として、現在の多賀城市に「国府多賀城」を設置します。

それは「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、11世紀の中ごろに衰退するまで、東北地方の中心的な役割を果たしてきました。


多賀城には、坂上田村麻呂や万葉歌人である大伴家持らも派遣されてきました。

また、平安時代には、風流を愛する都人が「歌枕の地」として憧れ、地名を詠み込んだ多くの和歌を作っています。


多賀城市八幡地区に「末の松山」という歌枕の地があります。

ここを詠み込んだ歌としては、小倉百人一首の四十二番、清原元輔の「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」(後拾遺集)がよく知られています。

ほかにも、古今和歌集や源氏物語でも歌われ、「末の松山」の名は、多くの歌に残されています。


清原元輔の歌は「約束しましたよね。涙に濡れた着物の袖を絞りながら。末の松山を波が越すことなどあり得ないように、私たちの心も決して変わらない」という意味ですが、他の歌でも、地名とともに「波」という言葉がセットで登場し、「愛の契り」や「固い約束」の比喩として使われています。

どうして「末の松山」と「波」は、一緒に詠まれているのでしょうか。





多賀城駅から歩いて10分ほどの小高い丘「末の松山」




「歌が詠まれる前の869年(貞観11年)、陸奧国で大地震が発生し、多賀城の国府のそばまで大津波が襲ってきました。東日本大震災後〝千年に一度の規模の地震〟として語られるようになった貞観地震のことです」

と話すのは、多賀城市の観光ボランティアガイドの柴田十一夫さん。


「10世紀の初めに書かれた日本三代実録によると、当時の多賀城政庁の建物は地震でつぶれ、政庁のそばにあったまちも津波に飲まれ、1000人以上の人が犠牲になったとあります」

「〝末の松山〟は、標高10mほどの小山です。貞観地震の津波は、この小山の麓まで押し寄せましたが、山を飲み込むことはありませんでした。まちが流されるほどの津波が来たのに、小山は無事だったのです」

「そして、このことが都人に伝わり、〝末の松山〟は、決して波が越すことのない場所、契りや約束を表す言葉として詠まれるようになったのだと言われています」





多賀城市観光ボランティアガイドの柴田十一夫さん





 柴田さんは、震災前から観光ボランティアガイドとして活躍していました。メンバーは28人。

 震災前は、地震や津波のエピソードには、それほど大きく触れることはなかったそうです。

「例えば多賀城政庁は、創建の40年後に大改修が行われたほか、780年に焼き討ちに遭って炎上するなど、4回建て替えられました。貞観地震で倒壊したこともお話ししますが、それは立て替えられた理由の一つとしてお話ししていただけ。〝末の松山〟も恋歌にまつわる解説ばかりでした。だけど、震災後には、やっぱり地震や津波についてお話しすることが多くなりましたね」(柴田さん)


 震災後、柴田さんはメンバーの7人と「震災に学ぶ歴史の会」を立ち上げ、改めて過去の地震や津波被害について、市の防災担当の職員の皆さんの指導を受けながら勉強を始めました。

そして、旅行会社が企画した「多賀城市震災伝承教育プログラム」で、全国から視察に来た自治体や企業関係者など、さまざまな組織の方々のガイドを務め、東日本大震災と過去の惨禍を紹介してきました。

プログラムは昨春に終わりましたが、歴史の会のメンバーは今でも勉強を続けています。


「貞観地震の時も、当時の大和朝廷は〝復興庁〟に相当する機関を設置したんですよ」と柴田さん。

「陸奧国修理府という組織で、当時の清和天皇が設置。国民と夷(えびす※)を区別せず、亡くなった人はすべて棺に納めて埋葬するよう指示したそうです。こんな話も、震災後のガイドではするようになりました」

※朝廷に属さない先住民のこと


柴田さんは「東日本大震災の記憶の風化はもう始まっている」と感じるそうです。

「多賀城市の海岸線は短く、市民は日常、あまり海を意識していません。でも、自然災害は、日本列島にとって、避けられない宿命みたいなもの。いつでも、どこでも起きるリスクがあります。自分だけは大丈夫だと思い込んではダメ。忘れないためにはどうすればいいか。それを真剣に考えるようになりました」




海の方角を指す柴田さん。この日は天童市からいらしたグループをガイドしました






 震災の悲劇を伝えたい。私たちが、そこからどう立ち上がっていったのかを伝えたい。

柴田さんは、震災復興の「語り部」として活動を続けています。


「末の松山」を詠み込んだ歌の多くは恋歌であって、津波への警句だったわけではありません。

 けれども、背景を知れば、その味わいはまた少し違ってきます。


「心変わりしない」ということは「忘れない」ということ。

決して波が越すことのない「末の松山」。恋心が永遠であるように、私たちも、震災の記憶を、永く忘れず、伝えていかなければなりません。

それは、過去から受け継ぎ、次代へと伝えなければいけない私たちの〝約束〟でもあります。

誰もがもう二度と、大切な人を失ってしまうような悲しみに遭うことのないように――。





もうひとつの歌枕の地「沖の井(沖の石)」もすぐ近くです




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