背水之陣2(背水の陣/絶対に用いてはならない戦術) 2013-07-14 Sun 16:44

【背水之陣】 背水之陣2(背水の陣/絶対に用いてはならない戦術)

「背水の陣」を効果的に用いて大勝利をおさめたのは、漢の総司令官 韓信将軍 である。

 漢の功臣の中でも、三傑
(サンケツ)といえば、

①参謀の張良(チョウリョウ)
②漢の民生家であり、戦時には後方でいっさいの補給を担当した蕭何(ショウカ)
③総司令官の韓信(カンシン)

 のことである。

「漢の三傑」と呼ばれるが、中国史上最もすぐれた三人であることに異論はないだろう。

 そのうちの一人、韓信将軍は、②の蕭何に国士無双と呼ばせたほどの天才である。が、この作戦を用いた時期は、まだそこまで人々に認められていたわけではなかった。むしろこの「背水の陣」こそが、彼の華々しいデビューと言うべきであろう。

  この韓信将軍、軍事の面においてはその天才を発揮するが、どういうわけか政治感覚の面で欠けるところがあり、それが彼の弱点でもあり魅力でもある。数々の 功績を残しながら、最後には強欲な劉邦や呂后に殺されてしまう。しかも本人だけではなく「三族皆殺し」という酷い刑罰であった。
 最期に「狡兎(コウト)死して良狗(リョウク)亨(に)られ、高鳥(コウチョウ)尽きて、良弓(リョウキュウ)蔵(かく)し、敵國破(やぶ)れて、謀臣亡(ほろ)ぶ」と悟ったが遅かった。
『狡兔死、良狗亨、高鳥盡、良弓藏、敵國破、謀臣亡』

 さて、そのまだ無名に近かった韓信将軍が、魏を陥落させた後、趙に向かった。趙王歇(アツ)の軍勢は三十万の大軍、宰相は成安君陳餘(セイアンクン・チンヨ=陳余)。対する韓信の兵力はたったの三万。その差は歴然としている。

 しかも、韓信の軍は、これから千五百メートル級の太行山脈の合間を越えなくてはならない。また、その途中は岩石のそそりたつ険阻な山道ばかりで、「井陘口」(セイケイコウ)という、馬車を並べて走ることも出来ないような狭い谷間を通らざるをえない。これは致命的である。なぜか。それは、次の広武君李左車(コウブクン・リサシャ)の言葉を聞けば分かる。

 趙の軍師である李左車が、陳余に進言した。
  「井陘の道は、車は二列に並ぶことができず、騎兵も列をつくれません。行軍は数百里の長さとなり、輜重(シチョウ:軍隊が必要とする兵器・食糧など)は、 はるか後方に遅れるでしょう。私に三万の騎兵を与えてください。そうすれば間道より抜けて敵の後尾を襲います。さすれば敵は進退きわまり、飢え疲れて死んでしまいます。十日以内に韓信と張耳の首を取ってご覧に入れまする」

 このとおりやられてしまうと、どうしようもない。しかし、韓信は敵地に忍ばせてあった間諜から情報を得ていた。広武君李左車の進言は容れられなかった。儒家の出身で実戦のわからない陳余に退けられたのである。
 「わしは詐(いつわ)りがきらいじゃ。あくまで正道でまいろう」
 儒者でええかっこしいの陳余は言った。

 「しめた!」とばかりに、韓信は安心して井陘口を通ることができた。
 ようやく山脈の中心部を突破して、東の大平原が見えてきた時、韓信は諸将を幕下に集めて策をさずけた。
 まず、二千の兵を山ぞいに進ませ、趙の防壁(前線のとりで)の見えるところにひそませた。兵には二千本の赤旗(漢軍のしるし)を持たせておく。
 まだ夜明け前であったが、本隊の兵にかんたんな食事をさせ、
 「今日は、趙軍を打ち破ってから朝飯にしよう!」
 と言った。
 これを聞いて、他の将軍たちはあきれてしまった。これから、あの大軍にこの小部隊でたちむかうというのに「朝飯前に敵を破るだと?」ほらを吹くのもいいかげんにしろ。と誰も韓信の言葉を本気にしなかった。

 韓信は「朝飯前・・・」の演説の後、主力の軍を進ませ、川を背にして陣を布(し)いた。これが夜明け前。
 この様子を見た、敵の将軍たちは大笑い。水を前にし、山を背にするのが布陣の基本である。「韓信は兵法の初歩も知らない」とあざ笑ったのであった。

 一方、韓信は感心にも自ら先頭に立ち、大将旗を高だかと掲げ、手兵をひきいて趙の大軍の正面に打って出た。

  趙の方では、兵力に圧倒的な差がある上に、敵の大将は素人だとバカにしている。なめきっているから、「ひともみにもみつぶしてくれよう」とばかり、とりで の入口を開いて、どっと大軍を繰り出した。大将が自ら先頭に立つなど前代未聞、手柄はいつ取る?今でしょ! と城を空にして全将兵が大将首をめがけて突撃した。

 韓信は引いた。わざと逃げたのである。これも作戦のうちだから本当は強いのだ。ついに主力の線まで下がる。主力軍の兵たちは、後ろが川だから、これ以上一歩もひくことができない。必死に踏み留まって抵抗する。

 その時、山中の伏兵が、趙のとりでが空になったのを見て、どっと防壁を突き破り、壁上の趙の旗をなぎ倒し、いっせいに漢の印である赤旗を立てめぐらせた。二千本の赤旗がひらめいて揺れる。

 必死に抵抗する漢軍にてこずっていた趙の兵たちは、趙のとりでに赤旗がひらめいているのを見て絶望した。
 「あれー!趙は負けてしまった。お城はすでに漢に占領されてしまったぞ!趙王はすでに虜になってしまったんだ」
 と、趙軍は浮き足だし、乱れに乱れて、皆遁走(トンソウ)してしまった。

 こうして韓信は、趙王を捕え、趙の宰相陳余は乱戦の中で戦死した。ただし、韓信は趙王の一族である広武君は殺すなと命じて、千金の懸賞をかけて生け捕りにした。
「敗軍の将はもって、勇をいうべからず」(臣聞敗軍之將,不可以言勇,亡國之大夫,不可以圖存)

 一日の戦いが終わって、諸将が続々と韓信の幕舎に集まってきた。

 諸将は聞いた、
 「兵法には、山稜を右背に控え、川沢を左前にして陣す-とありますが、大将軍は、我らに川を背にして陣を張らせて『明日は、趙を破ってから朝飯にしよう』と申された。我らはみな、ふしぎな戦術よ、と腑に落ちず、心中不服でござった。しかるに今日の大勝、これは何と申す戦術でござりまするか」

 韓信、答えて曰く
 「これも兵法にあるのじゃよ。-これを死地に陥(おと)してのち生き、これを亡地に置きてのち存す- とな。わしは新参の大将にて、子飼いの将兵もおらず、市井(シセイ)の民を駆り出して戦わすようなものじゃ。さればこそ、わざと将兵を死地に置いて、人びとそれぞれの才覚に任せて戦わすほかなかったのじゃ。もし万全の策をとっておれば、皆とっくに逃げておったであろうよ」

 種明かしは、韓信が答えたとおりである。
 だが、間違ってはいけない。
 「死に物狂いになったから勝った」のではない。
 「背水の陣」は、烏合の衆がちりちりバラバラにならないようにするための一つの方策であり、戦術のうちのほんの一部なのである。
 韓信としては、別働隊が奇策(赤旗をはりめぐらせる)をやり遂げるまで、少しの間(兵士にしてみれば長い戦闘だが)持ちこたえてくれればよかったのである。また、敵に「侮(あなど)りの心」を生じさせる作戦でもあったのだ。
  「必死になって闘う」というのは、作戦のうちのほんの小さな一要素であり、この一要素だけを頼りにして全軍の運命をかけるということは絶対にありえないこ とだ。だからその場面だけを見て、本当の策戦をしらなかった人々は韓信をあざ笑ったのであった。「兵法の基本も知らない」と。

 けれども、本当に兵法を深く理解しているのは韓信の方だった。他の人々は「兵法」をマニュアルとして、表面だけなぞるやり方で勉強をしていたのに対し、韓信は兵法を深く読みこみ、その真髄を理解していたからこそ、応用問題が解けたのである。

 テキストの表面だけサラーッと拾い上げ、形だけ真似をするやり方だと、「生兵法は大怪我のもと」どころか、時としては「致命傷」となる。

 韓信は、いくつかの条件が重なって、しかたなく「背水の陣」を布いた。しかもそれを「致命傷」にしない、有効な策を縦横無尽にめぐらせて、その効果を最大限に引き出した。

 韓信以外の人が、「背水の陣」を布くのは感心しないし、ただのやけくそ戦法で玉砕するのみ。絶対に用いてはいけない戦術です。

 →「敗軍の将は兵を語らず???」
 →背水之陣(背水の陣/絶対に用いてはならない戦術)(その1)

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