曾我廼家喜劇の系譜

曾我廼家喜劇に関する年譜
明治 2年(1869年)  4月26日大松福松(曾我廼家十郎)伊勢松坂に生まれる。
明治10年(1877年)  9月6日和田久一(曾我廼家五郎)泉州堺県に生まれる。
明治25年(1892年)  久一(五郎)、歌舞伎俳優中村珊瑚郎(三代目歌六の弟子)の弟子になる。
明治26年(1893年)  中村珊之助(五郎)の芝居名で浪花座にて初舞台。
明治36年(1903年)  10月頃、中村珊之助(五郎)は大阪北の福井座で中村時代と出会う。
               この頃千日前改良座で鶴屋団十郎の俄が当たりをとっていた。
               11月珊之助(五郎)と中村時代(十郎)はそれぞれ、前後亭右、左と名乗り「新喜劇」の看板で一座を結成。
               摂州伊丹郷町の有岡座、尼崎の桜井座、堺宿院の卯の日座で興行するが失敗。
明治37年(1904年)  1月和歌山丸の内の弁天座で「滑稽勧進帳 芸妓総出演」で当たりを取る。
                            2月11日仕打ち豊島利一の手により浪花座で曾我廼家五郎(珊之助)、十郎(時代)と改名して、兄弟劇を旗揚げ。  
明治39年(1906年)  4月新富座開場記念公演として、兄弟劇初東上。
               この時五郎は観客全員に葉書を配り、感想や批評を送ってもらっていた。(アンケートの始まり?)
大正 2年(1913年)  五郎単身欧州旅行に行く。
大正 3年(1914年)  洋行帰りの五郎は十郎と袂を分かつ。平民劇団と改称する。
大正 4年(1915年)  3月曾我廼家五郎劇と改称。
大正14年(1925年)  2月曾我廼家十郎逝去。享年57歳。
昭和 3年(1928年)  9月道頓堀角座で松竹家庭劇旗揚げ。
昭和 6年(1931年)  1月南座6月中座で曾我廼家五郎創立三十年記念興行を行う。
昭和 7年(1932年)  5月道頓堀浪花座で第二次家庭劇結成。
昭和 8年(1933年)  4月喜劇劇団「笑いの王国」浅草常盤座で旗揚げ。
昭和12年(1937年)  4月三十六歌仙をもじって、曾我廼家五郎三十六快笑を選定する。
昭和22年(1947年)  12月歌舞伎座似て曾我廼家五郎最後の公演。
昭和23年(1948年)  9月喉頭がん手術後、無声役者として中座の舞台に立つ。
               11月曾我廼家五郎逝去。享年71歳。
               12月二代目渋谷天外、曾我廼家十吾、藤山寛美等で松竹新喜劇結成。
昭和32年(1957年)  8月十吾主宰の松竹家庭劇誕生。
昭和41年(1966年)  11月松竹新喜劇無休連続公演244ヶ月がスタート。
昭和49年(1974年)  6月曾我廼家玉太呂松竹新喜劇に入団。
昭和51年(1976年)  6月曾我廼家八十吉松竹新喜劇に入団。
昭和56年(1981年)  6月曾我廼家寛太郎松竹新喜劇に入団。
昭和62年(1987年)  3月松竹新喜劇無休連続公演244ヶ月で終止符。
平成 2年(1990年)  5月藤山寛美逝去。享年60歳。
平成 3年(1991年)  3月三代目渋谷天外、曾我廼家文童、酒井光子、高田次郎、小島慶四郎等で新生松竹新喜劇旗揚げ。
平成 9年(1997年)  12月中座にて、上田浩寛、曾我廼家玉太呂、曾我廼家八十吉等で第一回公演大阪人情喜劇の会結成。
 
 
上方喜劇の祖 曾我廼家五郎1 877~1948 喜劇俳優・作者。 本名 和田久一。 筆名 一堺漁人。 紋 揚げ羽蝶。
 明治10年堺市に生まれ(岸和田稲葉町生まれの説有)、6歳で代言人(現在の弁護士)の父と死別し、祖父が住職をしている浄因寺で小坊主として育つ。14歳で小料理屋をしている母親と暮らすが、西横堀の煙草屋へでっち奉公に出される。奉公先の御寮さんが芝居見物好きの影響で、16歳の時に歌舞伎役者中村珊瑚郎の内弟子になり、1年後浪花座で中村珊之助となり初舞台。
明治36年に大阪北の福井座で中村時代と出会い、千日前改良座の鶴屋団十郎の俄を見て、珊之助、時代はそれぞれ、前後亭右、左と名乗って「新喜劇」として伊丹の有岡座、尼崎の桜井座、堺宿院の卯の日座で一座を笑わせる芝居創立の為に結成するが、不評。
翌37年正月に和歌山の弁天座で「滑稽勧進帳 芸妓総出演」で当たりを取り、お囃子方の黒門のお米さんの紹介で、豊島利一さんの手で2月11日の紀元節の日に曾我廼家五郎、十郎と改名して浪花座で旗揚げ。丁度日露開戦の日となり、翌々日の13日から、日露戦争を題材にした「無筆の号外」が大当たりをとり、関西で大成功し、明治39年4月新富座の柿落とし公演で東京へ初進出。喜劇団の嚆矢となる。
  既成の歌舞伎・新派に伍して喜劇という一つのジャンルを確立した。執筆した脚本は1000種を越える。
 
曾我廼家五郎の所縁
  生 家  浄因寺 堺市錦之町東2丁目2番地4  072(233)3060
            母の生家で、小坊主として過ごす。現住職幻中滉学さんは五郎さんに子供の頃に頭を撫でられたりしたという。

  墓 碑  天竜院 大阪市天王寺区城南町2丁目   06(6762)3422
              五郎さん・十郎さんの連墓。それぞれの家紋が入ったお墓。

  顕彰碑  四天王寺 大阪市天王寺区四天王寺1丁目11番18号 06(6771)0066
              曾我廼家五郎の墓。緑色した大きな墓。       

  資 料  ワッハ上方演芸資料館  浄因寺  堺市博物館  大阪市歴史博物館  池田文庫  松竹株式会社

曾我廼家五郎三十六快笑(五郎自身が名作を選定)
「ハッピリー」 「瓢の酒」 「良心」 「久公と熊公」 「牛」 「匙加減」 「涙の捨て場」 「ガード下の朝」 「壺坂」 「最合船」 「寶の拍手」 「吾妻草子」 「香椎の馬方」 「珍説・幽燈」 「天下の侠客」 「維新前後」 「若女房」 「へちまの花」 「五兵衛と六兵衛」 「一番坂」 「山の兄弟」 「雪の夜の街」 「春雨の夕」 「桐の木」 「宿り木」 「はりこの寅」 「笑いを忘れた人々」 「漢州・楽土の夢」 「葉桜」 「心の渦巻」 「一目惚」 「親心子心」 「湯の街」 「帆影」 「命の安売」 「情の雪解」
 
思ひ出と御願い  曾我廼家五郎 (昭和6年3月中座での創立三十年記念興行の番付より)
 明治三十六年十二月、柄にもない古英雄の名にあやかりまして、曾我廼家兄弟と名乗りを挙げ・・・など申し上げると花々しゆう御座ゐますが、ほんお小さな劇場で産声挙げて生まれました。
 同三十七年二月、日露の風雲急を告げ、名にし負ふ道頓堀も芝居どころの騒ぎでなく、火の消へた様な淋しい中へ小さな松明を振り翳し檜舞台の浪花座へ御目見得いたした身の光栄、三十年前の芝居道は格式家柄難しい其中へ貧乏曽我の破れ鎧、身丈けも合わぬなりふりをドッとお笑ひ下さいまして今日迄も御見捨てなく御育て下さいました御高恩今更ながら改めて厚く御礼申上ます。
 顧れば永ゐ年月過ぎ越し方の思ひ出は、幾多の険しい山路を、或は転げて疵つき立っては倒れ、倒れては起き、駄作ながらも、七百余種に余る狂言を御笑覧に供して今日に及びました。静に過去を振り向きますと幾多の思出、涙の種やら笑ひの種やら実地に喜劇も可成り沢山演じて参りました。
 大正三年外遊いたしまして外国の喜劇を見て、つくづく喜劇の難しさを知って帰朝後、喜劇曾我廼家の看板を取りはづして平民劇団と名乗って御目通り見事に失敗、又叱られて元の曾我廼家に逆戻り、それでも純喜劇と名乗る程の勇気もなく「五郎劇」なんて鼠色の変な劇名を無理からつけて今日迄、それやこれやよ思出を辿って居りますと限りが御座ゐませんが御蔭を持ちまして皆様方の御引立により三十年の記念興行を大阪随一の中劇場で開演させて頂きます身の光栄、一座の面目厚く厚く御礼申上ます。
 尚将来幾十幾百の険しい階段を例の通り汗を流し重荷を背負ふて昇って行きます笑ひの山、杖と磁石は何れも様を力草何卒御指導御引立の程、併せて御願ひ申上ます。

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