「 三寒四温 」
2015・3・21
今日は立春、そろそろ水ぬるむ季節となってきたが、
気温がめまぐるしく上下して上着を着たり脱いだりの調整が毎日必要である。
花粉の多さにまいっているのか、気温の変化に順応出来ないのか、
はたまた年齢的な変調なのか、2月の初めから体調がいまいちスッキリせず、元気が出ない。
日ごろはあまり体調を崩す事は少ない方だが、アレルギーが出たり、花粉に反応したり、
喘息になったりと、最悪の体調のまま3月も半ばを過ぎてしまった。
仕事は休めないので、主人に応援を頼みながらこなしているが、元気が出ない。
春先は何かと行事も多く、活発に動いて片付けたいのだが、
65才を迎える今年は「気をつけなさい」という合図なのだろうか、パキパキと動けない毎日となっている。
世間では、チュニジアで博物館の襲撃が起こり、3人の日本人を含む21人が犠牲となった。
無差別のテロ行為は、これからも起こる可能性が高い。
悲しい出来事である。
地下鉄のサリン事件も、早いもので20年を迎えた。
他の事件に比べ、とりわけサリン事件は私自身が「もしかしてそこに居たかも」と思う出来事だっただけに、感慨深い。
霞ヶ関や築地で、沢山の犠牲者を出したあの事件は、人の運命の危うさを思い知る事件であった。
1週間前のあの時刻に、私は所用で地下鉄築地駅にいた。
初めて訪れる駅であったが、先方に指定され、同時刻に出向いていた。
当初、指定の日時は20日のあの時刻であったが、先方の都合で1週間前倒しとなり、13日に変更された幸いにして事件に巻き込まれる事もなく、今も元気でいられる。
ほん少しの偶然と幸運が、人生に於いていかに大切であるかという経験も持ちながら、
人との繋がりを持ち続けていきたいと、願っている。
「東日本大震災から4年」
2015・3・11 https://comon-h.com/
平成23年(2011)、3月11日、午後2時46分、最大震度7、規模はマグニチュード9.0、震源地は三陸沖、津波の最大波高9.3m以上の大震災が、突然やってきた。
高層ビルはあめのように曲がってゆれ、歩道は波打っていた。ガスの安全装置は作動しロック。我が家はエレベーターも自動でとまってしまった。
我が家は10階、普段の揺れでも大きく感じるが、あの日の揺れは段々と大きくなり経験の無いゆれであった。テレビは落ち、冷蔵庫の扉は全て開いてしまった。
本棚で雪崩が起こり、キッチンでは軽い乾物や重ねていた空容器が散乱していた。幸い食器棚は引き戸式だったので、中で混乱していたが飛び出してはこなかった。
当時は母がまだ一階上に暮らしていたので、すぐ息子に様子を見に行かせ、母の安全も確認できた。しばらく待ち主人に安否の確認を入れる。
そこから手分けをして、ハウスのガス栓のロックを解除に行き、様子を見たりする。けが人も出なかったので、ひとまず日常にもどったが、前日にストック用のトイレットペーパーとティッシュを買っておいたことが、大変助かった。物流が止まり、買いだめが始まっていた。
被害の全容が次第に明らかになると共に、この災害の抱える深刻な事態が次々見えだし、心を痛める毎日であった。コンビニから食料が消えていた。
当日は夕方から、ハウスの住人さんから次々と生存連絡が入るが、電車が止まり帰れない人もいた。テレビで動いている交通を確認し、会社に留まれるなら残るよう指示しながら、帰りのルートを
教えてゆく。一番に回復した交通機関は、都電だった。
夕食の支度は出来ず、対応に追われる。道も渋滞し主人の会社のほうのルートカーが進まず、夜中まで戻れなかった。全員が帰社するのを待って、帰宅したのは夜中の3時半であった。
住人さんの中には、宮城県出身の人もいる。前年秋に福島県大熊町に結婚して転勤して行った卒業生がいる。弟嫁の祖母は気仙沼にいる。様々なことで、心配の種は尽きなかった。
何より原発の爆発で、大熊町にいたはずの子と連絡が取れず心配であったが、1ヶ月半経った時に連絡がとれた。妊婦になっていた彼女を家族が総出で避難所から連れ出し、静岡の実家まで
送り届けたそうである。今では生まれて可愛い顔を写メールで見られる。
復興はまだまだ道の途中である。安倍首相は復興予算を再度5年延ばすと話したが、福島はどうなるのだろうか。