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【映画感想】「君の名は。」 - 口噛み酒の持つ「半身」としての意味(ネタバレ)

2016/09/09 0:38 に Jun Shin が投稿   [ 2017/03/22 21:02 に更新しました ]
 「君の名は。」見てきました。この記事はネタバレありまくりの記事なので、まだ観てない人は絶対に読まないでください。この映画は、後半に訪れる「衝撃的な事実」が最大の山場となっています。それを先にネタバレしてしまうと、さすがにもったいないので、映画を見てからまた、読みにきてくださいね。尚、文中のYouTube動画は、画面の賑やかしの為に挿入されているだけで、特に意味はありませんw

※追記:この記事は、映画を観終わった後すぐ書いています。その後、小説版や「アナザーサイド」「ビジュアルガイドブック」等を読み、また少し考えが変わっていますが、とりあえずこのまま残してあります。

↓以下超ネタバレ

 ここから感想になります。ちょっと長いので、お暇なときにでも。

 この作品の魅力はたくさんあると思うんですが、いくつか挙げるとするならこんなところでしょうか。

・主人公が先祖代々伝わる巫女の美人女子高生という設定。
・その巫女が舞う超絶美麗アニメーション
・「口噛み酒」という、監督の変態性が垣間見える超絶設定。
・しかもあろうことか、それを後で飲みやがる瀧と、飲んだことを知らされてめちゃくちゃ赤くなる三葉。

 この「君の名は。」は、主にこの「口噛み酒」が見どころであり、これを中心としてストーリーが進んでいきます。


 ・・・すいません冗談ですw
 いや、あながち冗談というわけでもないんですけどw
 面白い映画というのは、観ていると「全身の毛が逆立つような感覚」、いわゆる「ゾクゾクっと来た!」感覚に襲われることがあるのですが、この作品では後半、それが何度も襲ってきました。

 最初にそれが訪れたのはもちろん、あの衝撃的なシーンです。三葉と連絡が取れなくなった瀧が、飛騨へと出向き、三葉へ会いに行く…。最初自分は、「あ、奥寺先輩も一緒に行くんだ~。こりゃ、三葉と奥寺先輩が出会ってキャッキャウフフになる展開だな~w 楽しみだなぁ~」とか、気楽に考えていたわけですよ。ところが、まさかの展開! ぞわわわーって来ましたね。そのシーンまでは自分、正直な所、作品に完全に集中できていたとはいい難い状態でしたが、それ以降は完全に我を忘れて作品に見入ってしまいました。もうホント、「や、やられた~」って感じですよね…。
 「二人が本当に出会ったら、すごい楽しい事になるんだろうな。出会いシーン、はよ!ワクワク~!」と思って見ていたら、突然、それは永久に不可能なんだという事実が目の前に突き付けられるわけです。それどころか、二人の間には、距離も、時間も、あまつさえ生死という壁さえもが立ちはだかっていたわけで…。

 犠牲者一覧で三葉の名前を見つけた瞬間なんか、瀧に感情移入しすぎて、ちょっと自分の目の前がぼーっとしたぐらいのショックを受けましたからね…。

 正直な所、「え、なんで二人ともこれまで時差に気づかなかったの?」とは思いました。それに、メールなりLINEなり、直接二人でやり取りする事も普通にできたし、普通に考えればごくごく当たり前の行動として、そうなるはずなんですよね。でも、二人とも、それをしていない…。

 ただ、この部分については、「入れ替わっている間の記憶は曖昧になる」という事で説明されているのかなーとは思います。夢として処理されているわけで、そこにあまり突っ込んでもしょうがないですしね。「二人はそこに気づかなかった」と、それでいいんでしょう。

 そういう割とどうでもいい点よりも、自分が気になった点がいくつかあります。この記事ではその辺について自分なりの解釈をまとめていきます。

■瀧が宮水のご神体に置いて帰った「半身」は何か?

 一つ目は、「宮水のご神体の場所は幽界であり、そこから戻る時は、自分の半身を置いて帰らなくてはならない」という話。通常の「口噛み酒の奉納」の際には、その口噛み酒自体が「半身」の役割を成しているという説明がなされます。
 しかし瀧は後半、そこへ身一つで入り、そのまま出てきているように見えます。では、瀧はどんな「半身」を失ったのか?
 一つ考えられるのは、外に出てすぐに三葉と会えたものの、手に名前を書こうとしてすぐに消えてしまい、その後にその記憶すら消えてしまった件です。画面構成的にもまさに「半分」が消えてしまいました。これが「半身を失う」という事なのかもしれません。
 でも、自分はもう一つ、別の解釈も考えてみました。ご神体の前で口噛み酒を飲んだ瀧は、三葉の生まれた頃から街が壊滅するまでの記憶を走馬灯のように体験します。これは、自分が今いる世界線で既に起こってしまった出来事であり、それまで何度も入れ替わっていた三葉(彗星が落ち、恐らく死亡して、連絡が取れなくなっている)と共有されていた世界線です。自分と世界を共有していた三葉との世界線。それを、「捧げた」結果、その世界線が消えたのです。
 代わりに現れた、「三葉たちが救われる世界線」と、瀧は繋がります。それまでの記憶を三葉も共有していることを考えると、これは既存の世界線から分岐した世界線なのでしょう。

 まぁ、「半身を置いてかえらねばならない」というのはあくまでも神事を成立させるためのただのルールなのかもしれませんけどもw

※追記:この解釈は、小説版を読んだらちょっと変だなーと思うようになりました…w またいずれ追記・編集するかも。

■どうして二人はラストシーンでお互いを認識できたのか?

 いずれにせよ、二人は時がたつにつれてお互いの事を忘れてしまいます。ここで二つ目の気になった点は、「どうして二人は、ラストシーンでお互いの事を認識できたのか」という点です。
 単にお互いの事を忘れただけならば、出会っても思い出せるはずがありません。「愛の力だ」で片づけてしまうには、いくらなんでも重要なシーンです。ここにも何か理由があるはずだ、という前提で考えた方が面白くなります。
 二人は、互いの事を忘れた後も、「ずっと誰かを探している気がする」と感じています。自分はこれは恐らく、ご神体の場所で失われた「半身」に対する感覚なのではないかと思います。記憶がなくなった程度であれば、そもそもそこに違和感を感じたりはしないものですが、半身がなくなったりすれば、それは当然、強烈な違和感として残るはずです。そして、二人が出会った時、「これはなくなった半身だ」と、一瞬で気づけた。顔を覚えているとかではなく、感覚として気づけたのでしょう。
 つまり、二人は、「半身を失うことで、再び出会えた」のだと。そう思うと、よりドラマティックに感じられるんじゃないでしょうか
 はい、ロマンティック妄想が止まらなくてすいません!


■なぜ組紐は、物語中盤で三葉に返されてしまうのか? 返すのはラストシーンでいいのではないか?

 気になる点3つ目は、「組紐」の話です。
捩れて絡まって、時には戻って、また繋がって。「ムスビ」の意味を持つ道具。この物語において、組紐というのは作品そのものの象徴のように語られ、扱われています。
 この組紐は、三葉が、中学生だった瀧に手渡し、それが二人を結びつける道具となっているのですが、物語の後半、二人が「カタワレ時」にご神体の近くで出会った時、瀧から三葉へと返されています。それ自体は「あぁ、3年の時を超えて組紐が戻ってきた(三葉にとっては昨日の出来事だけど)」となるわけですが、なぜ、このタイミングで返されてしまうのか? これを返すべきタイミングは、どっちかというと、ラストシーンであるべきじゃないのか? その方が、「二人を引き合わせる恋の開運グッズ」として、映画グッズも売れるんじゃないか…?(これは蛇足w)
 でも、そんなことに監督が気づかないはずはなく、これは何らかの意図があってこうなっているはずです。どういう理由でそうなっているんでしょう。
 考えてみると、具体的に「半身」としての意味を持ち、それを飲むと三葉と繋がるなどの超常現象を引き起こした「口噛み酒」と違い、組紐自体には何の力もないように描かれているように見えます。だから、組紐を瀧が持っていたからといって、それがラストシーンで二人を引き合わせるきっかけになるという話にしてしまっては、恐らく「つまらない」というか「ありきたり」な感じになると判断したのではないでしょうか。
 であれば、組紐には別の意味合いというか、役割を持たせたくなるのが監督としての心情だと思います。組紐は、物語序盤、瀧と三葉がそれぞれ持っている「同じようなアイテム」という感じで登場します。しかし、後半になると、実はそれらは「同じもの」であり、瀧は3年前にそれを三葉から受け取っていたことが判明します。

 つまり、時系列で考えると、あの組紐は、三葉が持っていたものが、瀧に渡され、そこで三年間大事に持ち続けられていたもの、ということになります。電車の中での「瀧くん、・・・覚えてない?・・・私のこと。」という三葉の言葉の記憶と共に。
 そして二人は、二人の時空が絡み合った「カタワレ時」に出会い、それが三葉に返されます。これが意味するのは、「今度は三葉がそれを、瀧の記憶として持ち続ける番だ」という事なのです。
 だからこそ、その組紐と一緒に、三葉には「すきだ」という言葉だけが伝えられ、残されます(瀧には残されません)。名前も、それが誰なのかも分からない、けど、言葉と組紐は残された……瀧が3年前に受け取ったものと同じものが、今度は三葉に託されます。

 ラストシーン、三葉はもちろん、あの組紐をつけています。組紐は2人に出会いの奇跡を引き起こすアイテムではない、でも、二人の「ムスビ」をずっと象徴し続けるバトンのような道具だったわけですね!
 うーん、ますますロマンティック妄想が止まらなくなってきました!

■宮水神社の神事の意味は?

 4つ目の気になる点は、実は、未だに自分、よくわかっていません。分かってないというか、深読みしすぎてるだけなのかもしれませんが…。それは、宮水神社に伝えられる神事の意味です。
 ラスト付近で、三葉が「宮水の神事も巫女も、全部この時のためのものだったんじゃないか」というようなことを言います。もちろんそういうものなんでしょう。実際、日本で現実に起こった津波災害の時にも、「神社の位置や言い伝えが、津波災害を伝えようとしていた」というような話がニュースやネットで良く言われましたし、そうでなければ物語冒頭から宮水の架空の神事をあれほど印象的に描く理由がありません。
 宮水の巫女は、代々「夢の中で誰かと入れ替わる」能力を持つ、と一葉おばあちゃんは言います。政治家となった父も、回想の中で「(二葉を)救えなかった…!」というシーンがあり、過去に二葉の持つ同じような能力で「救おうとした」結果、失敗した、ということがあったのでしょう。また、冒頭の美しい「宮水の神事」の描写でも、巫女の二人が踊る「舞」は、二つに割れて落ちる彗星を暗示しているのでは、と分析していた人がいました。但し、一葉おばあちゃんの話によれば、「神事の持つ意味は火災で失われてしまった。今では何のためにやっているものなのか分からない」と言います。
 糸守町には過去に隕石が落ち、大災害と共に湖が残ったという言い伝えが残っています。また、ご神体がある山頂にも、恐らく隕石落下跡と見られるクレーター跡がが残っており、この地には、過去に2度、隕石が落下したことがあるのではないかと思われます。
 千年前にその災害に遭った人々の中に、恐らく特殊な能力を持つ巫女がいて、災害から難を逃れることができた、という事があったのかもしれません。そして、その時も「これが起こるのは二度目だ」と(一度目のクレーター跡を見て)理解し、「次に起こる災害の為に、準備をしておかねばならない」と考えた人がいたのかもしれません。
 恐らくそれが、宮水神社の神事だという事です。
 神事のひとつ「巫女の舞」によって、彗星がこの地に落ちるという事を言い伝えていきます(この意味は火災で失われましたが、舞の「形」は残りました)。そしてもう一つの神事は、「口噛み酒の奉納」です。これは恐らく、巫女の能力と関係があるのでしょう。唾液にはDNA成分が含まれますから、巫女の「情報」を長期保存する為の仕組みと考えると納得が行きます。そして、ある時突然、町に彗星が降り注いで壊滅しても、そこから遠く離れた場所にあえて設置された「ご神体」に定期的に奉納されている「口噛み酒」の巫女の半身がセーフティーポイントとして残る、という仕組みなのだろうと思います。
 実際、「入れ替わり」は、三葉が口噛み酒を造った次の日から開始されます。恐らくそれは、口噛み酒の中には、それを作る前の情報は残っていない為だと思われます。いわばセーブポイントのようなものです。街に彗星が落ちて三葉が死んだ時に(又は死ぬ寸前に)巫女の能力が発動し、セーブポイントからやり直すことができたわけですが、そこに残されているのはあくまでの「過去の自分の記録」であり、未来の記憶を本人が持って戻ることができない為、「未来の人間と入れ替わる」事で、危機に気づかせ、対処しよう、という事なのかもしれません。
 いやはや、よくできた話なのですが、いくら考えても分からないのが、「なぜここに何度も彗星が落ちるのか」という点と、「同じ場所に落ちることが分かっていたのなら、どうしてご神体は彗星の落下地点に作られているのか」という点です。
 町から遠く離れた場所にご神体を設置することで、彗星落下時に、大切な「巫女の半身」たるセーブポイントが一緒に失われてしまうことを避けるはずが、それが「彗星が落下する可能性の高い」過去の彗星落下ポイントのど真ん中に作られているのは、なぜなのか?
 いくら考えても分からないのですが、とにかくも、何らかの理由で、あのご神体の場所には今後二回目の彗星は落下しないことが、この神事を始めた古の巫女にはハッキリしていたのでしょう。でなくては、わざわざあそこにご神体を置く意味がありません。
 そのご神体の場所が、彗星落下地点のど真ん中ということは、これはもう、ご神体そのものが「落下した何か」であることは明白です。そこに落ちた何かがあったので、それをご神体として祀ったのでしょう。そして、糸守町の湖(二度目の彗星落下地点)は、ご神体から充分離れているとはいえ、地理的には「すぐそこ」です。そして、今回の物語で落ちた「三度目の彗星落下」も、まさに二度目の彗星落下地点のすぐそこでした。
 これはもう、「彗星は何らかの理由でそこを狙って落ちてきている」としか考えられません。
 一度目に落ちた場所には、「落下物」がご神体として祀られており、恐らくそれが理由で、「そこを狙って落ちてくるのだが、ご神体を壊すわけにはいけないので、二回目は少しずれた場所に落ちた」のだとしたら、三回目も同様に似たような場所に落ちた、というのも頷けます。
 ここからはものすごい妄想になるのですが、最初に落ちた落下物は、何らかの知的生命体だったのではないでしょうか(トンデモ解釈キタコレ)。何万年も生きる事のできる、珪素生命体、みたいな…。そして、その生命体を助ける為に、ティアマト彗星は、千年周期で地球に近づく度に、何らかの「助け舟」を毎回、その生命体の近くへと射出し続けるのだ、と…。
 しかし、過去にその生命体と心を通わせた人間の女性がいて、その生命体は「このままでは、この女性の子孫が住む地を破壊してしまう」と恐れ、その女性に「代々受け継ぐことのできる特殊能力」を授け、その災害から身を守るよう言づけた、みたいな……我ながら妄想力がすごいな……。

 まぁ、そんな妄想をしてしまうぐらい、「なんでなんだろう?」というのが分からないわけですw
 答えはあるんでしょうかね?(外伝とか読むとわかるのかな?)

■なぜ、瀧が選ばれたのか?

 最後に、気になる点5つめ。これはまぁ、ついでというか、「わかんないままでいいんだろうな」という点なんですが、「なんで三葉の入れ替わりの相手は瀧だったんだろう」という点です。
 瀧と三葉が最初に出会ったのは、瀧が中学生の時に三葉が東京へ来たためですが、三葉が東京へ行ったのは、身体が入れ替わった瀧に会いに行くためです。となると、「過去に瀧と三葉が出会っていた(ついでに組紐も渡してあった)から体が入れ替わった」というのは、自己言及の再帰ループになっており、説明としてはちょっと弱い感じです。

 無理やり考えるとするならば、「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!!!」と唱えたことが、巫女の能力として効果を発揮したのかもしれません。能力には「イケメン」の意味がわからなかったので、その時点で適当に選ばれたのが、瀧だった…いやー、もしそうなら悲しいですねw

 でもまぁそこは多分、理由なんてないんでしょう。恋人同士が出会うことに、理由があってはいけないのかもしれません。
 気になる点としてはそんなところですが、あとはやっぱ、あのラストシーンですね。ハラハラさせますよね、まったくw 「会えばきっとわかる」と言っていたのに何度もすれ違うのはちょっと見ていて辛かったです。このあたりは新海監督の過去作のオマージュ(過去作では、あのあと結局出会えない)らしいんですが、もしそうだとしたら、ちょっとやめて欲しかった演出ですね…ファンには「わかってないな」と言われてしまうのでしょうえど、素直にスッキリと、劇的に出会わせてやってほしかった。あと、せっかく出会えた後、もうちょっと二人のその後の絡みとかを見たかったです。
 他、父親の挙動など細かい部分で謎があるんですが、どうやら小説版の「外伝」を読むと詳細が分かるそうなので、それも買って読んでみたいと思います。その後、何らかの追記をするかも!
 「君の名は。」、劇場でもう一度見たいですね。
 個人的には、神事として行われる巫女の舞、そして「口噛み酒」を造るシーンがあまりにも美しく描かれており、そこだけでも必見だなーと思いました。

→小説版や「アナザーサイド」を読んだ後の追記記事:「「君の名は。」と「秒速5センチメートル」の比較考察」もどうぞ。
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