予測可能性がゲームの面白さに与える影響

2015/12/03 6:57 に Jun Shin が投稿   [ 2016/06/27 19:22 に更新しました ]
この記事は、Board Game Design Advent Calendar 2015 という、クリスマスまでの間、ボードゲームデザインに関する記事を毎日入れ替わりでみんなで投稿していく、という企画の12月4日分の記事となります。


■自己紹介

 ちゃがちゃがゲームズのjun1sです。協力型お絵かきゲーム「スタンプグラフィティ」、たねまきお買い物パズル「くだものあつめ」、かんたん人狼「おさわり人狼」をこれまで制作して販売しています。
 「ボードゲームの面白さとは何か」について考えるのが好きで、過去に「ボードゲームのメカニクス」「ゲームとアート、そしてデザイン」といった記事を書いています。 今回は「予測可能性がゲームの面白さに与える影響」という切り口で、またもや「面白さ」についての探求をしていこうと思います。ちょっと長い記事ですが、ぜひ一緒に探求の旅へと、参りましょう! ここから文体が変わります。

■先が読めない事が面白さにつながる
 「予測可能性」とは何かというと、読んで字のごとく、ある事象について、それが起こる事が事前に予測できたかどうか、ということだ。例えば「ビンゴ」では、次にどの数字が出るかは(既に出た数字が出ない事を除いて)予測できない。これがもし、最初に「どの順序でどの数字が出るか」が前にデカデカと張り出され、リストを先頭から順に読み上げるゲームになってしまったとしたら、単に目の前のリストと手元のビンゴカードを見て、「あー自分は12ターン目にビンゴか」と思うだけになってしまうだろう。それは「可能性」ではなく、100%起こる事実に代わってしまう。他のプレイヤーが何番目にビンゴするか、というドキドキ感は残るだろうが、ビンゴの面白さの大部分は消えてしまう。つまり、ビンゴでは、予測可能でない事が、面白さを担保していると言える。

囲碁将棋では、相手がどんな手を打ってくるかは事前に分からない。定石やリスク&リターンの計算である程度絞り込めるものの、必ずその手を打ってくるとは限らないし、時には思いもよらぬ手を打たれて驚く事もある。そしてそれこそが囲碁や将棋の面白さのコアだろう。これに対して三並べは、ある程度慣れてくると「定石」のみがゲームを支配し、「ここに打てば相手はここに打つしかない」状況が延々と続く。いくつかの選択肢はあるが、「ここか、ここしかない。それ以外に置けば100%負ける」という状況がお互い続くのは、お互いの手にまったく意外性がなく、予測可能すぎて面白くない。しかしそれでも、定石を良く知らないもの同士であれば、「あっ、負けた!」という状況が生まれ、ゲームは面白くなる。予測可能性が下がったわけだ。実際、「どうぶつしょうぎ」には必勝パターンがあることが解析されてしまったが、一般的なプレイヤーにとってはそのパターンは複雑で難易度が高く、「予測可能」となっていない為、今でも十分楽しめる。囲碁や将棋でも、予測可能でない事がゲームを面白くしているわけだ。

■先がまったく読めないゲームは面白いか
 先が読め過ぎてしまうゲームがあまり面白くない事は分かった。それでは、究極に面白いゲームとは、先がまったく読めないゲームなのだろうか。

 先ほど例に挙がったビンゴは、司会が読み上げる数字が完全ランダムで、先がまったく読めないゲームに見えるが、実はゲーム中に「先が読める」仕掛けが施されている。それが「リーチ」だ。リーチになると、「次の数字で自分がビンゴになる可能性」はゼロではなくなる。読み上げられる数字は相変わらずランダムだが、自分が上がれる可能性が「以前より上がった」事が(感覚として)予測できる、すなわち、期待に胸が膨らむわけだ。同様に、3つ揃えば「リーチまであと1個!」だし、それ以前も同様となる。徐々に期待膨らむ仕掛けがある。
 では、ビンゴから「先が読める要素」を完全になくしたらどうなるかというと、例えば、ゲーム中に縦横斜めが揃う事が勝利条件とは何の関係もなく、誰かがビンゴになったら、ビンゴしなかった人も含めて全員でじゃんけんをして勝者を決める、という感じのゲームになるだろう。残ったのは「宣言された数字が自分のカード上にあったらそこに穴をあける」という、勝利とは何の関係もない行為のみである。これを変則ビンゴと呼ぶ事にしよう。

 困ったことに、それでも恐らく、この変則ビンゴは多少の面白さを残している。宣言された数字が自分のカードにあり、そこに穴を開けるという行為は、その行為自体が純粋に面白い。5-6歳ぐらいまでの幼児なら、恐らくそれだけで充分楽しめるはずだ。ただ、それが勝利に関係が無いとなれば、ある程度の年齢に達すれば、白けてしまってそのゲームをやろうとは思わなくなるだろう。

 ある程度の年齢になれば、自分がゲーム中に行った行為が「ゲーム中の意味」を持っている事が、プレイヤーにとって重要になる。ゲーム中の意味とはすなわち、「ゲーム中の自分の状態が変化し、多少なりともゲームの目的に向かって進んでいる感覚を得られるかどうか」ということである。より分かりやすく書けば「うまくいっている感覚」が大事だということだ。

■「うまくいっている感覚」の正体
 予測可能性と、うまくいっている感覚、に、関連性はあるだろうか。先ほどの変則ビンゴの例からすると、そこには関連性がある。普通のビンゴには、まったく先が読めないゲームのように見えて、実は「予測可能性」があった。勝利へと近づく過程があり、それは視覚的にも分かりやすくなっている為、ゲームは盛り上がる。つまりビンゴにも「うまくいっている感覚」が得られる仕組みが用意されている。ところが変則ビンゴにはそれが無い。カードに穴を空けるのは楽しいが、それは幼児以外のプレイヤーにとっては「うまくいっている感覚」にはなり得ない。ビンゴにおける「うまくいっている感覚」を作り出しているのは、「先に縦横斜めに揃ったら勝利」というルールであり、揃っていくにつれて「自分が勝利に近づいている」事が可能性として予測できる為、盛り上がるし楽しいのだ。

 しかし、本当にその「うまくいっている感覚」は、予測可能性が生み出しているのだろうか? ただたんに、勝利条件とカードに穴を空ける行為がリンクしているから、それが楽しいと感じるだけなのではないだろうか? そもそもビンゴに予測可能性がある、という話自体がなんだか怪しく感じられる(「ちょっとそれは話が乱暴すぎないか?」とか)読者もいるだろう。

 ここでもう一つ、ビンゴの異なるルールを考えてみる。配られたカードに1つだけ穴を空けるスペースがあり、そこに数字を書きこめるようになっている。司会者がその数字を宣言したら、その人がビンゴ!で勝利というルールだ。複数いた場合は全員勝利となる。これを瞬間ビンゴと呼ぼう。ここには予測可能性は一切ない。ビンゴにあるとされた「徐々に自分の勝利確率が上がっていく感じ」を消してしまったからだ。自分が書きこんだ数字にはなんの根拠もなく、何も予測できず、ただ乱数要素としてシステムの一翼を担っているだけだ。このゲームで「うまくいっている感覚」を得られる人は、恐らく超能力を信じている人だろう(ただ、それが悪いというわけではなく、そういう面白さをメインにしたゲームはあり得る)。

 「うまくいっている感覚」には「完全には予測できないが、予想可能性がゼロではない」というちょうどいい予測可能性が重要であり、それが無いビンゴは、やはりあまり面白くはないのである。

■実在のゲームに当てはめてみると…

 ビンゴでの考察を、日本で人気のボードゲームに当てはめて検証してみよう。昨年の日本人ボードゲーマーによる人気ボードゲームの指標となる「日本版The One Hundred 2014」の結果(監修のさとーとしきさん、ありがとうございます!)を見てみると、上位7位は次の通りとなる。

1. アグリコラ
2. カタンの開拓者たち
3. ドミニオン
4. プエルトリコ
5. ツォルキン
6. カルカソンヌ
7. 宝石の煌き

 さすがこの企画に投票するようなマニアが選んだだけあって、全て、「戦略ゲーム」と呼ばれるような、戦略性の高いものばかりである。戦略を組み立てる為には、当然ながら展開がある程度予測可能でなければならない。展開がまったく読めず、一生懸命戦略を立ててもそれが意味をなさないようなゲームは、ゲーマーにとって楽しいとは思えないだろう。

 かといって、展開が予測可能すぎれば、それはやはり面白くない。当たり前の事を当たり前にやっていくだけであり、変則ビンゴと同じ結果になる。

 それでは一体、これらのゲームは、どのようにして「ちょうどいい」予測可能性を実現しているのだろうか。

■戦略ゲームにおける「予測可能性」

 ドナルド・X・ヴァッカリーノの代表作「ドミニオン」を例に考えてみる。ドミニオンは、10種類の王国カードのサプライからどんどんカードを買って行って自分の「デッキ」を構築していき、勝利点を溜めていくゲームである。どの王国カードを買い、プレイしていくかを判断するのが楽しいゲームだ。その楽しさが成立するには、「この王国カードの組み合わせなら、このようにして買っていくのが強いはずである」という「予測」が成り立たなければならない。もしそれが成り立たないのであれば、何を買っても一緒ということになり、戦略性は失われる。逆に、「この組み合わせならこれを買うしかないでしょ」という事ばかりが起こると、やはり面白くない。たまにそういうサプライの組み合わせが起こり、予想通りの結果となるが、プレイ結果もやはり満足度は高くない。

 しかし、ドミニオンでは、多くのケースで「このカードを買えば勝てる」という判断がなかなか難しくなっている。それを担保している要素の一つは、皆さんもすぐにお気づきの通り「デッキ構築要素」である。しかしそれは「デッキ構築だと、運要素が入ってくるから何のカードを引けるか100%は予測できない」という類の単純な理由ではない。デッキ中のカード構成の比率、つまり確率そのものがゲーム中にどんどん変化していく為、それがゲームにどれぐらい影響するのかが、複雑すぎて完全には読み切れない、というのが理由になる。恐らくコンピュータープレイヤーならば、これらは解決可能だろう。しかし、人間には複雑な確率計算を瞬時に行うのは難しい。これが、ゲームに「完全には読み切れない予測可能性」を与えているのである。

 もちろん、ゲーム中にはデッキ構築の常として、「ああ~、このタイミングでこのカードを引けないとは!」という展開は起こり得る。そしてそれが勝敗を決する事もある。しかし、こういう類の運要素は、何度もプレイしていればいずれならされるものであり、最終的には強いプレイヤーの勝率は高いという結果として残る。

 複雑な確率計算は難しい、とは言うものの、何千回も遊んでいれば、いずれプレイヤーの習熟度が「この組み合わせならこれが強い、と分かってしまう」ぐらいにはなってしまうものだ。そこでドミニオンでは、プレイヤーの習熟度に合わせ、どんどん新しい、複雑な拡張カードを登場させてゲームの寿命を延ばしている。拡張カードは既存のカードとも組み合わせが可能なので、それこそ天文学的な数の組み合わせが可能になり、プレイヤーに新しい戦略を立てる楽しみを提供してくれるのである。

 これらの話は、アグリコラ、プエルトリコ、カタンなど他の戦略ゲームにも同様に当てはまる。一見運要素が入っているように見えて、実はそれらは「揺らぎ」としての効果しかなく、基本的にはそのゲーム自体が持っている「複雑さ」がゲームの100%の予測可能性を防ぎ、同時にプレイヤーにとって予測可能な戦略を立てさせることを可能にしているのだ。これがあるからこそ、プレイヤーは「予測を立て、結果を考察し、次回のプレイではよりよくプレイできることをを期待する」ということが可能になる。結局は、将棋や囲碁と「三並べ」の違いで見たように、その複雑さが適度な予測可能性を担保しているという点においては、アブストラクトと似たような構造を持っているのだろう。

■戦略ゲーム以外のゲームではどうか

 先ほどの「日本版The One Hundred」のアンケート結果はあくまでも日本のコアなボードゲームファンによるものである。もっと一般的なボードゲーム人気ランキングの指標として、Amazonの「ボードゲーム」カテゴリの人気一覧を見てみよう。2015年12月3日時点でのランキングは以下の通りだ。

1. ブロックス
2. カタン スタンダード版
3. 夜店でおかいものすごろく
4. アルゴ
5. 人生ゲーム
6. ぴっぐテン
7. モノポリー
8. ゲームスタジアム20(オセロ等複数のゲームが遊べる)
9. ドブル
10. おばけキャッチ

 こちらのリストには、定番のアブストラクト以外にも、人生ゲーム、すごろく、といった、運要素の強いゲームが並んでくる。運要素が強いということは、すなわち展開が読みづらいということだ。予測可能性は低くなり、それだけ戦略は立てづらくなる。では、これらのゲームはどのような形で「うまくいっている感覚」を生み出しているのだろうか。

■すごろくにおける「予測可能性」

 人生ゲームや一般的なすごろくについて考えてみると、そのゲームにおける「うまくいっている感覚」は、既に考察したビンゴの予測可能性に近い。「ゴール」に近づいていくのが視覚的に分かる為、近づけば近づくほどそのプレイヤーの「勝利の可能性」が上がっていく。自分が勝てるという事が予測可能になっていくわけである。この期待の上昇と下落が、ゲームの面白さに繋がっている。

 しかし、それらがなぜゲーマーにウケないかと言うと、それらの予測可能性が「戦略」に結び付かないからだろう。すごろくにおいて、自分の勝率が上がっている感覚はあっても、それを自分の力で左右できるわけではないからだ。サイコロやルーレットの結果は基本的には予測不可能であり、それ自体は「うまくいっている感覚」を生み出すことは無い。

 しかし、ちょっと今回の記事の主旨とは外れるが、プレイヤー本人がサイコロを振ったりルーレットを回すというのは、その人本人の「うまくいっている感覚」に大きく寄与していると思う。もし人生ゲームのルーレットを、本人ではなく「右隣の人が回す」というルールにしたら、恐らく白けるだろう。自分の運命を自分で決めている、という感覚が、「自分の力で目的を達成できた」という感覚に繋がっている。手番プレイヤーがルーレットを回す、というのは、当たり前のように見えて、実は非常に重要なルールなのだ。ただ単にサイコロを振っているだけのゲームでも、案外それは面白いものだ。だから、サイコロゲームをデザインする場合、その面白さが果たしてルールが作り出している面白さなのか、単にサイコロを振る事の魅力が生み出しているのかは、よく考えて自覚しておいた方が良いだろう。

■おばけキャッチにおける「予測可能性」

 ランキング10位の「おばけキャッチ」は今回の記事では少し特殊な事例となるかもしれない。おばけキャッチとは、テーブル中央に「赤い椅子」「緑のビン」「青い本」などの手づかみできる大きさの物体を並べた上で、山札からカードを1枚めくり、そこに「描かれていない色および形」物体をすばやく判断して掴む、というゲームだ。カードに「青い椅子」が描かれていたら、「赤い椅子」も「青い本」も掴んではダメで、「緑のビン」を掴むのが正解となる(追加でもう少し特殊なルールもある)、という反射神経ゲームだ。次にどんなカードがめくられるかという点において予測可能性は存在しない

 基本的にはこのタイプの反射神経ゲームの「面白さ」や「うまくいっている感覚」は、反射神経そのものが生み出している事が多い。反射神経がうまく働くと、それだけで楽しいのだ。だからむしろ、めくられるカードには予測可能性があってはいけない。予測可能性から生み出される戦略が、この面白さの肝ではない。このゲームでは、「物体を1つ1つ判定していく」よりも、「カードに描かれている"形"を排除して、次に"色"を排除して、残ったものが答え!」という判定方法の方が基本的には効率的になっている。ところが、その判定方法に対するカウンターとして、「物体と全く同じ色・形のものが描かれていたら、それが答え」というルールがあるのだ。つまり、どの戦略をとっても最終的には似たようなもので、結局は反射神経がモノを言うようにデザインされているわけである。

 「変則ビンゴ」にも多少の面白さ(穴を空ける、という根源的な面白さ)が残っていたように、また、サイコロを振る事自体が楽しさを生み出すように、このゲームも予測可能性だけがゲームの面白さではないという好例だろう。

 逆に言えば、対象年齢を下げる為には、予測可能性をある程度低くしなければならない(「戦略」が占める割合を減らさなければならない)が、その分、予測可能性によって生み出される「うまくいっている感覚」が失われる為、別の事で「面白さ」や「うまくいっている感覚」を用意しなければならない、ということかもしれない。逆に、予測可能性を「戦略が成り立たないレベル」まで上げ(場合によっては100%に近くする)、予想が当たる面白さを演出する、という方向性も、ありかもしれない。

■バッティングゲームの「予測可能性」

 ここまでで触れていないゲームとして、いくつかのジャンルやメカニクスのゲームがあるのだが、特に触れておきたいのがバッティングゲームというジャンルだ。実はこの記事は、バッティングゲームについて考察している中から生まれたものだったりする。

 バッティングゲームの面白さについて考察していると、いかにこのジャンルのゲームが特殊かということに気づく。

 まず、バッティングゲームを成り立たせる為には、相手の手を100%読めてしまってはいけない。しかし、まったく読めないのはそれはそれでだめだ。これは先ほどから書いている「予測可能性」の話と同じである。しかし、面白いのが、バッティングゲームにおいて、まったくバッティングしないゲームは面白くない、という点だ。

 みんな、バッティングを避ける為にプレイをする(敢えてバッティングさせるプレイもあるだろうが、バッティングを避ける人がいるからこそそれが成り立つ)。にもかかわらず、意図に反してバッティングしてしまう、というのが、バッティングゲームの最大の盛り上がりどころだろう。

 「それを避ける為にプレイするのに、避けられない」。普通ならこんな事が起これば面白くないはずだが、これが面白くなるのは、ひとえにそれが対人戦だからだ。コンピュータとバッティングしても、多分全然面白くない。「えっ、あの人と思惑が一緒になった!?」という点が、笑いを誘うのだ。

 しかし、その「思惑」を作り出す為には、何かしらの予測と戦略を生み出す為の仕掛けが必要で、その上で、それらの予測は必ず裏切られなければ、ゲームは面白くならないのである。バッティングゲームを作る際の難しさはそこにある。

■バッティングゲーム:「はげたかのえじき」

 バッティングゲームの代表と言えば、アレックス・ランドルフの「はげたかのえじき」であると思う。異論はあるかもしれないが、ここではそういうことにする。

 はげたかのえじきの構造はシンプルだ。まず勝利点を示して「相場」を明確にする。ゲームに慣れてくれば、その勝利点を得る為の相場はなんとなく分かってくる。つまり、「答え」は先に示される。これが各自の「戦略」の基礎となる。しかし、他プレイヤーと同じ答えを出せば、負けてしまうのだ。ゆえに「揺らぎ」が生じる。バッティングゲームの面白さの全てが、ここに詰まっている。予測可能性を利用しながらも、システムがプレイヤーの思惑を超えて予測を裏切ってくるのが、バッティングというメカニクスのコアなのである。

 例えばこの構造を保ったままシンプルにした「じゃんけんのえじき」を考えてみる。カードは「グー」「チョキ」「パー」の3種類だけだ。各自に10枚ずつぐらい配る。次に、残った山札から1枚めくる。そこにも同様にグーチョキパーのいずれかが描かれている。全員で一斉に手札から1枚出し、山札からめくられたカードも加えて「ゲーマーじゃんけん(同じ手を出した人は全員脱落するじゃんけん)」を行うのだ。但し、自分ひとりだけが脱落せずに残った場合は、たとえ山札のカードに負けていたとしても自分が勝つ、とする。

 山札から「パー」がめくられたとする。ということは、手札から「チョキ」を出せば勝てるわけだが、他の人も同様にチョキを出した場合、その人たちはバッティングということで脱落する。ルール上、山札からめくられたカードそのものとはバッティングしない、としておけば、パーを出すというのも選択肢の一つだ。しかし、他のプレイヤーがチョキを出す可能性が高いのに、敢えてパーを出すのもリスクが高い。ならばグーが正解かというと、結局パーの勝率を上げるだけである。

 思考がぐるぐる回り、答えが見えない。しかし、場には「パー」が見えている。答えらしきものは見える…後は、各自の立てた謎の推論のぶつかり合いだ。

 恐らく、このゲームでもそれなりに面白くはなるだろう。しかし、それはじゃんけん自体の面白さであり、はげたかのえじきほどではない。なぜなら、はげたかのえじきのように、「10点」が出たり「-5点」が出たりといった「起伏」が生まれないからだ。「勝利に近づいている感覚」を適度に生み出すには、こういった起伏も大事だ。かといってこの「じゃんけんのえじき」にそういう要素を入れたのでは、それはただのはげたかのえじき亜種になる。

 ゲームの面白さを「バッティング」だけに依存させると、それは永遠にはげたかのえじきを超える事はできないし、下手をすればただのじゃんけんになってしまう。それが悪いわけではないが、長く遊ばれるゲームとしては弱いだろう。

■バッティングゲーム:「宝石商」

 バッティングゲームの傑作のひとつにラインハルト・シュタウペの「宝石商」というゲームがある。各ラウンドで、「特殊効果カード」と「赤青黄緑からランダムにいくつかの宝石」と「勝利点」のいずれかが用意され、それを取り合うのを何度も繰り返すゲームだ。最終的に集めた宝石の色ごとに、一番多い人が勝利点を得る、という感じになっていて、その取り合いに、バッティングが使われている。

 場に出た(A)特殊効果カード、(B)宝石(複数)、(C)勝利点、を見て、各プレイヤーはどれが欲しいかを手札カードで決め、一斉にA or B or Cをオープンする。誰ともバッティングしていなければそれを独り占め、バッティングしていたら、それらのプレイヤー間で手持ちの宝石を使った競りが始まる。競り落とした人がその分の宝石をバッティング相手に払い、特殊効果なり宝石なり勝利点なりを得る。

 このゲームでも、はげたかのえじきのように「避けたつもりがバッティング」というのが最大の面白さだ。しかし宝石商では、バッティングした後の「競り(交渉)」という別の面白さを付与している為、はげたかのえじきとはまた異なる魅力を持っている。

 宝石のセットコレクション要素も魅力の一つではあるが、それはあくまでもはげたかのえじきと同じ「バッティング」を成り立たせるための小道具の一つでしかない。このセットコレクション要素によって、「あのプレイヤーはあの宝石を欲しいはずだから…」という読みを可能にし、その上でバッティングを避けたりかぶせようとしたりするわけだ。ここは、はげたかのえじきで「10点カードが出たということは、他プレイヤーはきっと大きい数字を出してくるはずだ…」と考える点と構造としては同じである。

 その部分がはげたかのえじきと同じであるからこそ、宝石商には、「宝石による競り(交渉)」という、バッティングとは異なる軸の面白要素がある点が大事なのだ。

■バッティングゲーム:「ブルームサービス」

 最近出版され、KdJを受賞したアンドレアス・ペリカンによる「ブルームサービス」も、またバッティングゲームの傑作のひとつだ。

 このゲームでは、マップ上の自分の駒を動かしながら、薬を集め、その薬をマップ上の塔に配達することで勝利点を得るというのが骨子になっているが、その駒の移動や薬を集める事、そして勝利点を獲得する、というアクションをバッティングによって解決している。

 実のところ、薬の配達や薬を集めたりする行為そのものは、先ほどの「宝石商」のセットコレクション要素と同じで、「バッティング」の読みを成り立たせるための小道具でしかない。では何がこのゲームをユニークたらしめているのかというと、「弱気」効果と「強気」効果の存在だ。

 アクションカードの公開は、全員一斉公開ではなく、スタートプレイヤーから順に行われる。まずこの時点で、はげたかや宝石商とはだいぶ違うゲームになっている。そして、その時に「強気」を宣言すると、より強い効果を得られる。しかし、以降のプレイヤーが同じカードを手札として選んでいた場合、同様に「強気」を宣言されてしまうと、最初に強気を出したプレイヤーは、まったく何もできないのである。しかし、「弱気」を宣言しておけば、バッティングされても大丈夫、アクションカードを出した時点で弱い効果をすぐに受ける事ができる。

 つまりこのゲーム、バッティングゲームとは言うものの、実はバッティングという枠組みから抜けても良い。弱気を選択し続ければいいのだ。また、実のところ、各プレイヤーがどういうカードを選ぶかはそこまで読めるわけではなく、「多分…」ぐらいの感じにしかならない。時には読み切れるようなシーンもあるが、ゲーム中の大半は、他人の思惑を読んでというよりは、自分の出したいカードとの兼ね合いで多くが決まる。

 しかし、他人とのバッティングをまったく意識せずにプレイすると、自分の目的を達成する(マップ上で薬を配達する)効率が物凄く悪いようにデザインされている。また、イベントカードや4人以下の場合の疑似プレイヤーの存在によって、「出したいアクションカード」が絞られ、適度にバッティングを誘発するようになっている。

 バッティングはこのゲームの肝ではあるが、それがメインディッシュではなく、はげたかのえじきや宝石商のような「バッティングが起こってギャー!」という前段階として、「バッティング合戦に参戦するかどうか」という判断フェーズが用意されている点が新しく、このゲームの大きな魅力となっている。その為このゲームには、ルールとして「自分の手札に関する情報を漏らしていけない」というルールが定められている。強気でいくか弱気で行くかの判断の際に、次プレイヤーが「自分、そのアクション持ってるよ」と言う事が、「じゃあ弱気で」という、ゲームの平衡点を生み出してしまう場合があるからだろう。そもそも、「持っているかどうか」を盤面からある程度読める形でデザインされているのに、それが口頭でのブラフやカマかけで邪魔されてしまうのは興ざめだ、というデザイナーの意思かもしれない。こういう細かい配慮が、ゲームの面白さを担保する上で大事だ。

 ちなみに「宝石商」や「はげたかのえじき」では、何を狙っているか関していくらでも語って良い。もちろん公開してしまってはいけないが、常に「ブラフかもしれない」という疑心暗鬼を産む設計となっている。「15を出します」が本当とは限らないのだ。その辺、うまく設計されている。しかし、この辺をあまり考えずにバッティングゲームを作ると、誰かが「ここを狙います」と言ってしまう事が平衡状態を生み出し、「じゃあ自分はこっちを狙うしかないし、彼はそう宣言した以上、そこ以外を狙う必然性がまったくない」という状況になる事がある。そうなってしまっては興ざめだろう。

■まとめ:ボードゲームにおける「予測可能性」とは

 そろそろまとめに入ろう。これまで見てきたように、ボードゲームの面白さには、予測可能性が大きく関与している。ゲームデザイナーはそのことに自覚的であった方が良い。それが面白さに関与していないケースもあるが、それはそれで「関与していない」事に自覚的である方が良い(不必要な予測可能性は取り除いた方がいい)。

 戦略ゲームにおいては、適度な予測可能性が必要であるが、それは「複雑さ」が生み出している。複雑さが不足しているからといって運要素を導入して予測可能性を100%から下げたところで、それによって面白さが大きく向上することは無い。運要素が生み出すのは、あくまでも運要素そのものが持つ別の面白さであって、適度な予測可能性への補助にはなりにくい。恐らく、多くの戦略ゲームにおいて、運要素は「考える事を減らす役割」を持っているだけであり、適度な予測可能性の担保はそれ自身の複雑さが担っている。

 充分な複雑さを持たない、戦略ゲーム以外のゲームにおいては、予測可能性はゲームの面白さに対して「味付け」程度の役割しか持たない。場合によってはそれは「勝利に近づいている事が実感できる」程度の予測可能性しか持たない(重要ではあるが)。「面白さ」の担保は、予測可能性ではなく別のもので作り出さなければならないだろう。特にバッティングゲームを作る際には、バッティング要素そのものが面白い為、自分が付けたそうとするものが果たして面白い要素たりえているのかについて注意が必要だ。また、自分が作ろうとしているものが、果たして予測可能性をどの程度必要としているのか、十分に自覚し、目指すものをデザインしなければならない。

 以上、いつものように、分かっている人にとっては「何を今更」な内容だろう。場合によっては「何言ってんだ?全然ちげーよ」かもしれない。ただ、これまで漠然と考えていたような事が明確になったとか、新しい視点が得られたと感じて頂けたなら幸いである。

 他、記事中であまり語っていないものとして、「プレイヤーが体験したこのないものを体験させること」がどのような予測可能性と面白さを生み出すのか、という点や、ストーリーテリングの手法が生み出す予測可能性という話題がある。本当はそれらの考察から、脳にどのような刺激を与えることが「面白い」という感覚に繋がるのか、という部分にまで話を拡げたかった(「面白い」という事についての掘り下げについては、こちらの記事「ゲームとアート、そしてデザイン」をどうぞ)。
 また、この記事では、実際にどのような手法で予測可能性をゲームに組み込み、それらを調整するのか、まで具体的に踏み込みたかったが、既に十分な文章量となってしまったので、今回はここまでとしたい。

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 以上、長々と読んで頂きまして、ありがとうございました。こんなクソ長い記事を書いたjun1sってやつの作ったゲームはどんなんじゃ…、とご興味を持たれた方は、ぜひこちらのゲームをチェック! 記事はクソ長いですが、作るゲームのルールは割とシンプルです。笑
 明日のBoard Game Design Advent Calendar 2015は、「開拓王」や「きょうあくなまもの」を制作されているStudio GGのShunさんによる記事です。どうぞお楽しみに!

※記事中で、さとーとしきさん監修の「日本版The One Hundred」を引用させて頂きました。現在(2015/12/3)、2015年版の「日本版The One Hundred 2015」が進行中です。ぜひみなさんも投票してみましょう!
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