ボードゲームの謎を解く

2011/01/29 5:56 に Jun Shin が投稿   [ 2011/01/29 6:03 に更新しました ]

 私がボードゲームの何を楽しんでいるかというと、実は勝ち負けでもなく、プレイヤー間のやり取りでもなく、その上位(下位?)に存在する「ゲームデザイン」そのものだったりする(勝負や他プレイヤーとのやり取りを楽しんでいないわけではないです。念の為)。例えばカタンにおいて、「あれ?これ、開拓地を全部都市にしても、9点にしかならないじゃん・・・!」と気づいた瞬間の、してやられた感とか。こんな時「な、なるほど・・・!!そういう事か!!」というアハ体験的な喜びを感じるのだ(私はよく本当に声に出して「そういう事か!」とか言ってて正直うざいです)。普通はこういうのは、ゲームのインストを聞いた時点で気づくものなんだろうと思う。私の、ニワトリよりも軽いと囁かれる脳みそだからこそ成り立つ楽しみ方だと言えるだろう。

 その喜びの上に、他プレイヤーとのやり取りや、勝負の楽しみが乗っかってくる。「ようし、そういうことなら、次はそういう前提でプレイして、今度こそ勝つぞー!」という感じの。大抵この後、誰かのプレイを見てまた別のアハ体験をすることになるのだが(こりゃいつまで経っても勝てないわけだ・・・)。

 私はこれを個人的に「ボードゲームに仕掛けられた謎」と呼んでいて(すいません今そう決めました)、まぁ実際には単に「ゲームデザイン」を「謎」と言い換えただけなのだが、「そういう理由でここはそうなっているんだ!」と「理解」していく過程が、心の底から楽しいと感じる。例えば先ほどのカタンの例であれば、「だから、開拓地は5つあるのに、都市は4つしかないんだ!」と理解するような場合などだ。

 カタンのようなシンプルな例以外にも、ドミニオンの「コンボ」のようなものもある。「村」と「鍛冶屋」でまた村と鍛冶屋を引いて何枚も何枚も引き続ける・・・みたいなプレイに気づいた瞬間のアハ体験といったら! これを最初に見たのは学生さんがそれをやっていた時なのだが、自分がプレイしていなくてもそれだけで楽しいと思えた(なんか情けないけど)。

 ただ、ドミニオンのコンボの例がカタンの例とちょっと違うのは、コンボが「選択肢そのもの」であるのに対して、カタンの例は「制限」であるということだ。つまり、ドミニオンのコンボは誰かが発見したら、それは今後の「選択肢」としてプレイヤーの中に蓄積されていく。それだけの話であり、それ以降は、そのコンボを使うかどうか、程度でしかゲームに関わらない(重要な部分ではあるけど)。極端な話、コンボが発見しつくされてしまえば、その部分の楽しみは終わる。しかし、カタンで「都市が4つしかない!」という「制限」は、ゲームそのものを決めていると言える。これは「さあ、じゃあどうする?」という、デザイナーからの謎かけなのだ(と私は捉えている)。そこに気づいてからが勝負なのである。

 言い換えると、プレイヤーにどういうジレンマを与えているのか?を理解する過程を、私は「謎解き」と呼び、楽しんでいると言えるかもしれない。だからむしろ、ジレンマが見つからずにゲームが終了してしまった場合、例え勝ってしまったとしても、自分はあまり楽しいとは思わない。むしろモヤモヤ感が残ってしまい、なんだか気持ちが悪い。まず第一に、自分はゲームの謎を解いていない。ということはさらに、自分はゲームに「たまたま」勝ったのであり、なにかうまいことやったというわけではない事にもなる。二重の意味で楽しめていない。

 子供のころ、「じゃんけん」の必勝法について考えていた時に、「これって、自分が何を出しても、相手が出す手は3種類で確率的に同じだから、結局勝つ確率も負ける確率も同じなんだ!」という仕組みについて気づいた瞬間「じゃんけんすげーー!!」と興奮した記憶がある。それまではなんと、「うまくやれば勝てる」と思っていた(素晴らしい鳥頭)のに、実は完全に運だと気づいた、というわけだ。しかしそれ以降、自分はじゃんけんについて一生懸命考えたりオカルトめいたことをするのをやめた。まぁ、それでも考えちゃうのがじゃんけんなんだけど。

 ゲームの「謎」を解いたあともさらに面白いと思えるのは、良いゲームだと思う。それは良いジレンマだということだ。「じゃんけん」のジレンマはシンプルすぎた。どの手を選んでも完全に一緒。なら、考えるだけ無駄というわけで、そこに気づいてしまえばもうジレンマとしては成立しない。カタンの「都市が4つしかない」は、そこから始まるジレンマだ。じゃあ建設以外に最長路か最大騎士力を取らないと・・・と考えたり、いやいや待てよ開拓地をもう一つ別で建てればいんじゃね?と考えたり・・・。そのどれがいいか、を、今回のマップや他プレイヤーの動向を見て悩むわけだ。

 しかし、そのジレンマも、「都市が4つしかない」と気づかない限り楽しめない。私はその楽しみを得る為にも、ゲームの謎を解く努力を惜しまない。

 例えばあるゲームにおいて、自分の手番にA、Bの2つの選択肢があるとする。初めてのゲームで、どの選択肢を取っていいのかサッパリわからない。私はこういう状態はあまり好きではない。人によっては恐らく、そういう状態で「エイヤッ」と直感に身を任せて手を選ぶことに何の躊躇もない人もいるだろう。その結果どうなるか、という事そのものを楽しめばいいわけで、別に今、結果を一生懸命予想しなくてもいいじゃないか、という事かもしれない。しかし私は考えるのである。AとBの違いはそれぞれなんなのか? 違いが無いはずがない。ここにはデザイナーの何らかの「意図」つまり謎が隠されているはず・・・そいう考えるのだ。

 よくボードを眺めると、AよりBの方がどうやら目指す先の勝利点が高いようだ。ところが一見すると、AもBも同じコストで実行できるように見える・・・とする。一体なぜなのか? なぜ、デザイナーはそのようにデザインしたのだろう? もしA、Bの戦略がそれぞれ「早い者勝ち」であれば、それは明らかにBを選ぶべきだ。しかし、それはゲームとして破綻している。早いものが勝つだけのゲーム、誰がプレイしたいと思うのか? ということは、Bには何らかの「デメリット」が隠されているはずなのである。それは一体なんだろう。うーむ、むむむ・・・。

 そういった感じで、自分は良く長考をする。「明らかにBだろ」と表面上思えたとしても、「ゲームの謎」を解いていない場合、本当にBなのかどうかを怪しむ。「そんなの、とりあえず選択して、結果で判断しちゃえばいいじゃん」という意見も当然あるのだろうが、それは私の「可能な限り勝ちを目指す」という姿勢に反する。だから私は割と長考がちなのだ。まったく始末に終えない。

 そこでもし、ゲームの謎が解かれて、「なるほどー!一見Bの方が得点高いように見えたけど、よく見たらその後、Bの方は手駒が一個減るんじゃないか!」みたいな事に気づけば、まずその時点で自分は「うおー、こりゃ良く出来てるわ!悩ましぃ~!ウッヒョー!」とゴキゲンな奇声を上げて周囲から可哀そうな目で見られる(ごめんなさい)。そしてその後は、それほど考えない。あとは自分がどうしたいかという問題であり、ボードをいくら睨んでも答えは出ない。ただ、実際にはそこまでハッキリと「ゲームの謎」が解かれることはあまり無く、「いやいや待てよ、まだ第三、第四の謎がその奥に控えているんじゃないか?」と言った深読みを初めてしまうのだが・・・。結局はこれも、長考をいくらでも認めていいという理由にはならず、やっぱりどこかで諦めて、結果に身を委ねる決断が必要だろう。

 何はともあれ、私はゲームを遊ぶ時、そういう事を考えながら楽しんでいる。だから、実はゲームそのものをプレイしなくても、横で観戦しているだけでも(特に初めてのゲームの場合)非常に楽しい。むしろ自分は観戦が似合っているのかもしれない。だって観戦者なら、いくら長考しても誰にも迷惑かけないし。まぁ、もちろん自分が思う通りの手など誰も打ってくれないわけで、最終的には「うおお、自分でやりてえ!」と思ってくるのだが・・・。

 ゲームのルールを聞いた瞬間に「犯人はお前だ!」・・じゃなかった「謎はすべて解けた!」とか言えるようになりたいものである。こういうのは、ボドゲの経験を積めば身につくものなんだろうか? それとも生来の何かによって決まるものなのだろうか?
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