「ストーリー 」あるいは 「物語」


    「物語」に囲まれて 浸りきってもいいのかな 作家・高橋源一郎

    (論壇時評) 朝日新聞  2/27/2014

      テレビをつけた。最後に滑り終わったフィギュアスケートのキム・ヨナ選手が、結果を待っているシーンだった。銀メダルなのがわかった瞬間、落胆の表情を浮かべる周囲の関係者と異なり、この試合で引退を表明しているという彼女は安堵(あんど)の微笑(ほほえ)みを浮かべたように見えた。

     その後、わたしは、彼女の口から洩(も)れることばを追った。採点に不満はないのかと問いかけた自国のメディアに、彼女は「(以前も)わたしより周りの人びとが熱くなっていた……何の未練もない」といい、またライバルとして浅田真央の名をあげた。

     「浅田は日本で、私は韓国で最も注目を浴びたフィギュア選手という共通点がある。その選手の心情を私も理解できると思う。浅田が泣きそうなときは、私もこみ上げてくる」〈1〉

     オリンピックは、単なるスポーツの祭典ではなく、「愛国」という「物語」がもっとも活躍する場所の一つでもある。そんな場所で長く活躍する人間には、どんな思いがあるだろう。

     もちろん、わたしにはスポーツ選手の気持ちはわからない。けれども、フィギュアの評価の基準に、かつては「芸術点」と呼ばれたものがあることは知っている。芸術には「物語」がつきまとうが、その作り手は違う。ただひとり現場で、「美」に立ち向かう芸術家(選手)にとって、「物語」は不要だ。そのことを真に理解できるのは、同じ道を歩んだ者だけだ、といいたかったのだろうか。

     「物語」はある者にとっては支えになり、別のある者にとっては強い拘束にもなる。キム・ヨナのことばには、その恐ろしさを知った者の感慨が溢(あふ)れているように思えた。

         *

     「現代のベートーべン」とされた男の作品の殆(ほとん)どは、別の現代音楽の作曲家の作品だった。その作品がクラシック曲としては異例の売り上げとなったのは、「被爆二世で全聾(ろう)の天才音楽家」という「物語」が付帯していたからだったのかもしれない。

     ピアニストの森下唯はブログで「より正しい物語を得た音楽はより幸せである」と題して、こんなことを書いている〈2〉。……私は、純粋に(どんな付帯情報もなく)音楽を聴くことは不可能だし、そんなことを目指す必要もないと考えている。「彼」の「作品」は、薄ら寒い「物語」を背負っているにもかかわらず、丹精込めた「工芸品」のように聴こえ、初めは違和を感じていた。事実が明らかになった後、感じたのは、ふだん報われることのない現代音楽作曲家が、ある拘束の中で、想像力を解き放ったという「より正しい物語」の中でこそ、よりよくその曲を理解できるということだった……。

     わたしたちは、たくさんの「物語」に囲まれて生きている。そのこと自体は、良いことでも悪いことでもない。「良き物語」と「悪(あ)しき物語」が、あるいは、人を助ける「物語」と人を傷つける「物語」があるだけだ。

         *

     都知事選が終わり「脱原発派」もしくは「リベラル」と呼ばれる候補2人が敗れ、「極右」とも目された候補が大きく得票を伸ばした。とりわけ、若者と呼ばれる層の得票が多かったとされたことに衝撃を受けた人も多かっただろう。いったい、何が起こったのか。

     宇野常寛は「リベラル勢力は自分たちの言葉が届かない若い層がこれだけいるということを軽視してはいけない」として、こう言っている。

     「現実に東アジア情勢」が「緊迫し」ている中、「リベラル勢力は数十年前から更新されない言葉で教条的かつ精神論的な憲法9条擁護論を繰り返すだけで、現実に存在する国民の不安に対応しようとしな」かったのだ、と〈3〉。

     「脱原発」を掲げて都知事選に出馬した細川護熙は、インタビューに答え、脱原発は単なるエネルギー問題ではなく、文明史的意味合いがあるとした〈4〉。それは、おそらく「正しい」のだろう。そして、彼のいうように、いまこそ、生活スタイルを「多消費型から共存型へ」変えてゆく必要もあるのだろう。だが、その彼のことば、あるいは「物語」は、残念なことに、多くの人たち、とりわけ、若い人たちには届かなかった。中島岳志が指摘しているように、それは、「決定的に時代の切実さから取り残されて」いたからなのかもしれない〈5〉。

     リベラル勢力のことばが、いや「物語」が、人びとに届いていなかったとした宇野は、都知事選では、ネットを中心に活躍しているIT起業家、家入一真を支持した。その選挙にボランティアで参加した、ある若者が、その渦中で感じた「違和感」について書いている〈6〉。

     「高齢者ばかりの候補者の中」に「彗星(すいせい)の如(ごと)く」家入候補が登場した時、彼は、「身体中に電流が走った」。誰かの決めた政策に「○か×か」で答えるのではなく「政策そのものをみんなで考える」という考えに、だ。だが、選挙活動を手伝いながら、彼は多くの疑問を感じる。候補はともかく、「風紀委員のような」「周囲の人たち」が「人間の心を動かすのは『ロジック(正しさ)』ではなく『エモーション(楽しさ)』」であることを知らないように感じたからだ。

     不気味に広がる、他者を排撃する「物語」。それに対抗すべき新しい「物語」は、自らの中になお残る古い「物語」と、決別し得ていないのである。

         *

     〈1〉キム・ヨナ会見(聯合〈れんごう〉ニュース、http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2014/02/21/0200000000AJP20140221003800882.HTML)

     〈2〉森下唯「より正しい物語を得た音楽はより幸せである」(http://www.morishitayui.jp/samuragochi-niigaki/)

     〈3〉宇野常寛「若者に届かぬリベラル」(本紙2月12日付文化面)

     〈4〉細川護熙「私はなぜ火中の栗を拾ったのか」(文芸春秋3月号)

     〈5〉中島岳志「細川護熙の功罪」(週刊金曜日2月14日号)

     〈6〉坂爪圭吾「家入さんの選挙ボランティアに参加して感じた3つの違和感」(http://ibaya.hatenablog.com/entry/2014/02/06/043957)

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     たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。近刊はルポ作品『101年目の孤独』。=伊ケ崎忍撮影

     就職活動とストーリー 津村記久子

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