【 石切り唄 】 高松市指定無形民俗文化財 (旧 牟礼町無形文化財)
石切り唄保存会 (昭和57年4月1日指定)
石切り唄(いしきりうた)は、丁場で石を切り出すときに、
職人達の間で歌い継がれてきた唄(歌)です。
高松市牟礼町と庵治町の境にある五剣山(八栗山)の西麓一帯では、
現在でも良質な花崗岩「庵治石(あじいし)」が
産出されています。
そのため優秀な石材加工技術産業が発達し、
庵治石(あじいし)と優秀な加工技術により
全国的にも知られる石材産業の産地です。
「庵治石(あじいし)」の歴史は、天正16年(1588)高松城築城開始の頃に
さかのぼるといわれています。
「石切り唄(いしきりうた)」も、その頃から歌い始められたといわれています。
石材の仕事は、文化11年~12年(1814~15)の屋島神社の造営に伴い和泉(大阪府)から
呼び寄せた石工によって栄えたといわれています。
石材の仕事は、山で石を切り出す「石材採掘」、石垣を築く「石積み」、彫刻加工の3種類あり、
いずれも鑿(ノミ)・玄翁(げんのう)・鏨(タガネ)などによる手作業によるものでした。
山から石を切り出す仕事(石材採掘)は、
常に自然を相手にした過酷な労働環境の中での重労働となる仕事です。
その苦しさ、寒さや暑さを紛らわせるために、
カッチン、カッチンという石を叩く音に合わせて一人が歌い、
もう1人が合いの手を入れるという唄が自然に口ずさまれるようになりました。
それが「石切り唄(いしきりうた)」という作業唄です。
手作業で石を切る仕事は、時間がかかる根気のいる仕事です。
山にはいくつもの丁場(ちょうば)があり、その丁場(ちょうば)から
石を掘る槌(つち)に合わせて歌われる石切り唄(いしきりうた)は、
かつてはノミの高い音とともに、唄が石壁と山にこだまし、
山裾(ふもと)の家々にまで聞こえてきたものだといいます。
当時は、石工がねじりハチマキをして、
力強く仕事(重労働)をしている様子が手にとるようにわかり、
情緒を感じることができたといわれます。
その唄声も昭和30年代以降、
作業の機械化とともに次第に聞かれなくなっていきました。
石切り作業の歴史において石切り作業の唄の文化があったことを後世に伝えることを目的として残し、
石切り唄を絶やすことのないようにとの思いから、
唄を継承していくために石切唄保存会が結成され、
作業唄としての石切り唄が伝承されています。
牟礼町の石切唄保存会では、採石場において採石がまだ手掘りだった頃、
作業時に石切り唄を唄っていた最後の世代の生の石切り唄が受け繋がれています。
高松市無形民俗文化財「石切り唄(いしきりうた)」は、
時代の移り変わりや時間の経過とともに、
歌い手によって楽曲が編曲されて変わっていかないようにとのことから、
その楽曲は予め採譜され譜面にして保存されています。
その譜面は1993年発行の牟礼町史(新刊)において楽譜化された楽曲が掲載されています。
下記に掲載の楽譜は、1993年に発行された牟礼町史に掲載された
高松市指定無形民俗文化財(旧 牟礼町無形文化財)「石切り唄(いしきりうた)」の
楽曲の楽譜です。
歌い手はこの保存された楽曲に合わせて毎月集い練習をおこなっています。
歌い手によっては歌い手のそれぞれのその時の心境や心情などによって、
歌詞を自由に創作して唄っています。
そうすることで過去の継承とともに、現在においても、その時代、
その時代を反映した石屋職人の思いを
繋ぐことのできる「石切り唄(いしきりうた)」となっています。
このように、高松市無形民俗文化財「石切り唄」は、
まさに今も活きて受け継がれている唄です。
現在、「石切り唄(いしきりうた)」は、
地元石材産地のイベントや文化祭、その他の各種イベントなどにおいて披露されています。
※上記、「ものづくり・匠の技の祭典2016」のライブ映像中では
司会のアナウンサーが「国指定の無形文化財」と紹介されていたようですが、正しくは「高松市指定の無形民俗文化財」の誤りです。
ちなみに、国指定のものについては下記データベースにて登録公開されているものをいいます。
高松市指定無形民俗文化財〈石切り唄〉保存会(『月刊石材』2020年10月号、保存版 誌上 「庵治ストーンフェア2020」第2部より)
※お使いの端末でうまく表示されない方は
こちらの公式サイト「石切り唄保存会 公式ページ」をお試しください。