『赤岳に立つ』 Sept. 1984

この宇宙と言う大自然は、地球という星を造り、その地球は人間を、そして人間は、文明を築いた。 
7月24日、午前6時15分、列車は中央線高尾駅を出発した。館高トレッキング部、八ヶ岳合宿の始まりである。一行14名は、弾んだ心の中にも、列車に乗 り遅れた1名のことが気にかかっていた。天気は曇っていたが、薄日が差していた。今度の計画は、八ヶ岳八峰のうち、主峰・赤岳(2,899m)を中心によ く知られる阿弥陀岳、横岳、硫黄岳の4峰を極める言わば、八ヶ岳スペシャル・コースなのである。ここで、もう少し八ヶ岳について書こうと思う。八ヶ岳は前 に述べた峰のほか、北に天狗岳、南に権現岳、西岳、編笠山とあるが、阿弥陀岳と西岳を除けば、南北に長い稜線上にある。そして僕たちが登る横岳や阿弥陀岳 は、ヨーロッパ・アルプスに登る前のロッククライミングの練習場にもなっている。言い忘れたが、阿弥陀岳は赤岳から稜線にほぼ直角に突き出した尾根上にあ り、その中間には中岳と言うピークもある。また八ヶ岳山麓には牧場が点在し、女子大生に人気の清里や野辺山高原などがある。列車は、朝の光の中を走りつづ けた。相模湖辺りから僕はまどろみ、気付くともう笹子を抜けていた。

初めて言うが、僕は体が不自由である。僕が山と出会ったのは中1の時、ワンダーフォーゲル部に入ったのがきっかけだった。そして、日本 第2の高峰、北岳にも登った。その頃の山行では、行程の10分の1位、歩くのが精一杯だったが、今度の山行では、なるべく自分の足で歩く事にした。まさ に、僕にとっては挑戦である。

しかし、それだけの思いでぼくはこの列車に揺られている訳ではなかった。中二の時、友だち1人が単独日帰りで赤岳、横岳をきわめた。そ して去年中学のOB会で八ヶ岳縦走を行ったのであるが、僕はある事情で行く事はできなかったのである。そんなことを思っているうち.列車は早くも甲府を過 ぎ韮崎も渦ぎて、もう小淵沢であった。小淵沢は小海線の始発駅であリ八ヶ岳縦走の起点でもある。しかし、ぼくたちはここではおりず茅野まで行くく。遠回り だが小淵沢からぼくたちが登りはじめる美濃戸口まで行くバスがないからである。小淵沢を過ぎると、車窓から雄大な八ヶ岳が見えるはずだが、僕たちが見た時 は、上の方は雲の中にかくれて裾野だけが見えた。

そうしているうちに列車は茅野についた。駅を出ると、タクシーの運転手が待ち構えたように乗らないかと勧めた。しかし予定がくるうから と断った。駅からパスターミナルまで3・4分で行った。ちょっと歩いただけでも汗ばんだ。時計を見ると8時50分をさしていた。バスの発車まであと50分 余りあった。古い木のベンチには、いろいろな装備で重たそうなザックがずらりと並んでいた。缶コーヒーを一本、ゆっくりと空け、友だちと雑談していると、 バスが出る時間となった。バスには僕たちトレッキング部一行以外の人は数人であった。バスはちょっと小型で田舎のバスという感じであった。出発して町中を 過ぎる頃、小学生の一行40人位がガヤガヤと乗りこんできた。キャンプをするらしく小さなリュックサックを背負っていた。バスは重たそうに走りながら、か ら松林をぬけて、牧場を通り、又、から松林に入った。この辺は別荘地らしくヨーロッパ風の小さな家が点在していた。小学生一行があるキャンプ場の近くの停 留所でおりて行った。

そこから10分位で、終点美濃戸口についた。バスをおり、−息入れて、僕は10時半にみんなよりひと足先に出発することにした、みんなは出発前の再点検曹 している。今日の行程は、約8キロ、高低差800メートルで行者小屋のベースキャンプまで登る。ちなみに館高の校歌に出てくる高尾山が海抜600メートル だ。から松林の砂利道を歩いた。砂利道は、車一台悠々通れる。ここから美濃戸の山荘まではこんな道が続くらしい。しかし、一般車は美濃戸口からは入っては いけない。僕はせみの声を聞きながら一人歩いた。後ろからT先生が歩いてきて、僕と並んで行った。道は別荘の横を通り」、そこから急な下り坂に入って行っ た。もう十5分位歩いたろうか。少し汗をかいた。いつの頃か、せみの声が谷川の流れの音にかわっていた。

後ろをふり返ると卜レッキングの部員たちがやって来た。坂はまだ続いていた。その時である。前の方から三人のみた事のある高校生が歩い てきた。なんと館高の2年生であった。そのうちの二人ほ僕と同クラスの友だちであった。彼らは蓼科の方から登ってここにおりてきたということだ。後で聞い た話だがほんとなら小淵沢まで行くはずだったらしい。蓼科山と言えば八ケ岳の北の方仁ある独立峰である。挨拶をかわした後、坂を下り木製の橋を渡った。そ の頃「先に行っているよ。」と部員が声をかけに過ぎていった。

そして、A先年と僕と母の三人で歩いて行くことになった。ちょっと急な坂を登るどほとんど平坦な道になっている。そのあたりで小休止し た。再び、歩き出した。道は白樺と他の木が混じりあった林の中を通っていた。母と先生はしゃべりながら歩いていたが、僕は歩くことが精一杯でなかなか会話 に参加できなく聞き手となった。もう一回日の小休止から30分たっている。天気は青空が見えない訳ではないが曇っていた。さらに歩を進めると谷川の音が聞 こえてきた。そして道も少し急になった。やなぎらんやうつほ草がきれいに咲いている。時々、蝿が寄ってきて、頭とか顔にとまる。とてもうるきい。道は大き く蛇行していた。

そこを過ぎると、やっと美濃戸の小松山荘に着いた。三匹のぬいぐるみのような、毛のふふさふさした犬が、ワンワン、キヤンキヤン、歓迎 してくれた。山荘の前にはお井当を食べてひと休みしている部員がいた。時計を見ると十二時半であった。部員たちが出発すると、今度は僕たちが弁当を広げ た。山荘のおばさんは麦茶と野沢菜の漬物をサービスしてくれた。 こんなサ−ビスのいい山荘も少ない。山での弁当は又格別の昧がする。

しばらく休んで僕たちは出発した。砂利道を登って行くと橋があった。ここが柳川北沢と柳川南沢の合流地点である。橋をわたりもう少し行 くと美濃戸山荘がある。その庭先を通過して山道に入る。山道には、沢と同じように2つのコ一スがある。僕たちは南沢にそった道を登るる。これまでの道はい わゆるアブロー手だ。ここからベ−スキャンプまで約6キロメートル,高位差650メートル位である。又ここからは国定公園になる。道は狭く並んでは歩きに くい。一回目の丸木橋をA先生におぶってもらって渡った。川の流れが急なので少しこわい気がした。

ここで小林止。又、歩き出にた。道は根っこがむき出しになっていたり、倒木が道をさえぎったりしていた。歩くペースも遅くならざるを得 ない。先生に荷物を持ってもらい、僕は母に手を引かれて歩いた。何度か丸木橋を渡った。A先生は丸木橋の所で待っていて、その都度、僕を渡してくれた。そ れからは.先生に先に行ってもらい、僕は母と二人になった。途中、他の登山者に会うたびに「こんにちは」と挨拶をかわした。平坦な道でさえやっと歩いてい る僕は、後から来た者には当然道をゆずって.先に行ってもらった。こんな山の中を僕のような不自由な者が歩いているので、どの人も(あれっ)と言うような 顔で見た。「頑張ってね。」と声をかけてくれる人もいた。僕はハアハアと息を切らしながら歩いた。

このあたりで、朝、列車に乗り遅れたI君が、重いザックを背負って登ってきた。至極速いペースである。彼にも先に行ってもらった。ベースキャンプまでの道 のりは長い。午後3時頃だったと思う。朝が早かったので、時間の感覚がなく、昼頃なのか、夕方なのかわからない感じだ。僕はもう膝がガクガクになってい た。それでも歩いていたが、とうとう,座りこんでしまった。母は
「もしも、ここで置いてていかれたらどうする。」
と問いた。僕は
「はってでもペースキャンプまで行く。」
と答えた。

ちょっと休んだ後、またよたよたと歩き出した。とてものとが渇いていた。山の木々の間を歩いていると、もううす暗く、前にも人影は少なく、し−んと静まり かえって心細くなつてくる。山のタ暮れは早い。この道でいいのだろうかと不安になり、エリアマップを広げる。どうやら大丈夫そうだ。やっとの思いで、沢に 出た。喉が渇いたのですぐにストロ−を直接沢の冷たい流れにつっこんでゴクゴクと飲んだ。なんとその姿は獣が水を飲んでいるような姿であった。これが本当 の水だと思った。体を冷たい水がしみ通る。風の音が人の声に聞こえる。山をはい上がる霧が食事を作っている煙に見える。べ−スキャンプはまだか。まだか。 くたくたになった体を持ち上げて、又、一歩一歩おぼつかない足どりで歩き出した。何鹿も、何度も、転び、そのたびに座りこんで中々起き上がろうとしなかっ た。中字の時、先生に山登りというのは、体力が三、精神力が七であると言われた言葉を思い出した。それから僕は30分位歩き、転び、歩いた。

そのあたりで救援部隊の部員のK君、KM君、O君の3人に会った。僕はとても嬉しかった。おぷい紐と水と飴を持ってきてくれた。5時頃であったような気がする。
「後何分位で着く?」
と聞いたら、無情にも彼らは
「ここまで40分でおりてきたから、一時間位はかかるだろう。」
と 言った。あぁまだそんなにあるのかと少しがっかりした。もうあたりはうす暗くかった。僕はみんなの背中を借りることになった。みん重いザックを背負って 登った後なので、どんなに疲れていたにちがいない。しかし僕を10分交代でおぶってくれた。僕は心の中で「ありがとう。」と言った。

夕日が両の斜面を照らしていた。途中、小休止で休んでいると、赤岳の頭が、普段でも酸化鉄でさらに夕日で真っ赤に燃えていた。目を移す と切り立った崖だ高々と見える。道はちくりま林を通っていた。ちくりまと言うと、植物に詳しい人は、そんな植物はないと言うだろう。あたりまえだ。それは 僕があぎみという草につけたニックネームだ。草の葉がとげ のようにとがっていて触れるとチクッとするからつけたのた。ことわっておくがひいらぎではない。

そのうちに山あいから賑やかな声が聞こえてきた。ああ、やっとべ−スキャンプだ。今日の一日の長かったこと。バスを午前10時半に下りて、今は時計の短針が7をさそうとしている。こんなに長い時間歩いたことは生まれて初めてのことである。

ベースキャンプに着くともうテントが張られてダイニングキッチン(近くのペ二ヤ板と丸太でつくった物)が出来ていた。但し、ダイ二ング キッチンの天井は高く、その高さは無限大である。もう食事は半分できていた。今夜のメニューはシチューとライスの豪華版である。料理に使う火は薪ではなく ガスコンロだ。食事に文句をつけることは、自分に文句を言う事である。食事が終わった頃には、あたりはもう真っ暗だった。懐中電灯で空を照らすとUFOが 現れた。懐中電灯を消すと、UFOも消える。実は、これは懐中電灯の光が霧に当たって、乱反射しUFOに見えるのだ。

僕は八時半頃テントに入った。僕たちのテントはK君とN君と僕の三人であった。十時頃、くたくたに疲れた体を寝袋に包んで眠りについた。

翌朝、4時30分頃起床した。海抜2,350メートルのここ行者小屋の幕営地は、気温が10度位でセ−ターを着こんでも寒い朝であった。 この日の八王子の最低気温が23度であるから、結構、温度差がある。テントを出ると、阿弥陀岳が朝日に染まっていた。目を移すを赤岳の男性的な岩肌が、目 の前に立ちはだかっていた。赤岳石室が小さく見える。

この日はみんなは.横岳と硫黄岳に登ったたが僕は、明日にそなえてベ−スキャンプに残ってていた。行った人の話によると、硫黄岳で火口を見たりしたそうだ。

3日目の朝がきた。昨日と同じように阿弥陀岳が燃えている。今日は念願叶って、赤岳をきわめる。ご飯とみそ汁と缶詰だけの食事をすませ、午前8時ごろ、ベースキャンプを出発した。残念ながらO君は不調の為、ぺ−スキャンプに残った。

最 初、僕は一人で歩き、みんなと登っていったが、途中から道は狭くなるし、石がゴロゴロして歩くのが困難になってきたので、おぶい紐で母に負ぶさった。道 は、一歩一歩急になって行くようであった。15分位して、道が歩ける状態の所になったので、一人で少し歩いた。だがすぐに 又、おぶってもらわなければな らなかった。道はくさりを使って行くような所になってきた。その辺りは森林限界で、這松と高山植物だけが生きられる所である。

道の傾斜は40度位になった。スキーのジャンプ台が35度であるから相当きつい。A先生、T先生そして部員5・6人の背中を次々とかり ることになった。ガレ場なのでくさりに掴まらないと前進するのは困難だ。足元の石をつい落として、「落石!」と声が飛ぶ。僕は赤いヘルメットを被ってい た。時々、(おぶってくれてる人の)足元がズルズルと滑ることがある。今だから言えるが、あの時僕は背中で冷や汗の連続だった。ちょっと休んでいる時など は、座っていても足が震えるような感じだった。おぶってくれている人の荒い息と鼓動が僕に伝わってくる。密着した体は流れる汗でびっしょりであっだ。

やっと赤岳から阿弥陀岳を通る稜線上に出た。雄大な空間と巨大な立体、その中に僕たちはいることを認めた。その中で時間に沿って、霧が山肌をはい上がる。自然が、僕たちを認めてくれるような気がした。

ここから先、僕をおぶって登ることは大変なので
「僕は.ここで待つているから、みんな行ってきてほしい。」
と言ったが、
「ここまで来たんだから、赤岳の頂上まで行かなくちゃ。」
と みんなで言っててくれるので、行為を素直に受けて一緒に連れて行ってもらうことにした。そこから頂上までは、今までよりさらに急になり、大きな岩にかじり つきながら登っていかなくてはならない。岩の間に紫色をしたイワギキョウがかわいく咲いている。あちこちに名も知らぬ高山植物が咲いていて、僕たちの目を たのしませてくれる。

いくつもの大きな岩を一歩一ほ登って行くと、ついに夢に見た赤岳の頂上に到達した。11時頃である。もう少し時間が早いと、富士山をは じめ、アルプス、上越などの山々が見えるのだが、今は白い宇笛(そら)に浮かぶ、小さな陸(おか)のようである。頂上にいると下界で起こる何もかもが、小 さなことに思われてくる。そしてこの大自然は僕たちを、その中へ引づりこむ。

山から帰って、ニケ月たって友だちが言った。頂上でぽんやりしていると風の音が何か話し かけてくれるような気がしたよ。」と。

大自然の中にいると、僕たちはその中に溶けこんでしまう。それは同時に人間本来の姿に帰ることではなかろうか。何故ならば、人間は自然から生まれたのだから。





後記:この作文は1984年9月に(16歳)、書いたものです。美濃戸口から行者小屋まで、普通の人で3・4時間の行程です。この時の下りは、バスの時間に間に合わせるため、母におぶって下りてもらいました。
赤岳はやはりきついです。後から、山好きな人に、「当時、行者小屋から赤岳まで、ステップもないガレ場の文三郎尾根を登るなんて、自殺行為だ。」と言われてしまいました。だけど、10代半ばで、こんな素晴らしい経験ができたから、今があると思います。

今 でも自然は大好きですが、このような強行軍に耐えられないでしょう。身体を鍛えて、小屋の多いルートなら上り下り合わせて2週間くらいかけて小屋泊まり、 サポートつきで、攻められるかもしれませんが。コリてません!!! でも、この作文、タイピングするだけで、4日掛かりました。(2003年7月記)
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