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勘違いかもしれないが、明るい材料

消失してきている150年の思考

2019年1月1日


執筆者 高松平藏ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)



【元旦コラム】若い世代に「日本とドイツは似ている?」と問うと「えっ?」という反応を得ることが多い。これを、日本が150年抱えてきたある思考フレームの消失ととらえ、肯定的に考えてみたい。




■フラットに見る準備ができている? 
一定以上の年齢の人は「ドイツと日本はよく似てる」と考える方が多い。関西育ちの私は「どこが似てるねん」とツッコミをいれたくなる。 

ところが最近の若い人はそういうふうには見ていないようだ。昨年もある大学で「2つの国は似てるか?」と問うと、「何いってるの?」という雰囲気がさーっと教室に広がった。 この反応は面白い。というのも、ドイツをフラットに見る準備ができているように思えたからだ。 

一方、2000年代初頭、私は少しづつ講演の依頼を頂くようになったが、「ドイツの先進事例をお願いします」という常套句がついてまわったことには驚いた。というのも私自身はドイツへの特別は関心はなく、結婚という極めてプライベートな理由で、たまたま彼の国との関わりができた。そこへジャーナリストという職業が重なり、執筆や講演をするようになったからだ。 

おそらく日本社会にとって、「先進事例」という言葉は、実感としては無関係の外国、特に「欧米」とつなぐ接着剤のような役割がある。とりわけドイツとなると、歴史的経緯からか、日本側の「片思い」が強く、これが「日独似ている」という言葉に至るのだろう。 

■先進事例という常套句に潜む思考 
一般に、何気なく使われる常套句ほど気をつけねばならない。その奥に時代の精神や思考フレームが含まれているからだ。 

「先進事例」はその一例。日本は近代化のために150年前に欧米に範を求め、せっせと視察に赴き、学術、制度、技術など様々なものを輸入した。このキャッチアップ型の思考フレームが「先進事例」という言葉の奥にあり、欧米とつないだ。 

確かに150年前、その当時の判断は正しかったかもしれない。しかし経済成長が鈍化したあとの日本は、「デモクラシーの健全性」「社会の安定性」「知の地盤」に問題が噴出している。これは、国際政治やグローバル化などにも原因は求められるが、歴史的にみると、「先進事例」の劣化コピーを重ねてきた結果と見ることもできるのではないか。 
■「発展経緯が異なる国」と見るのが妥当 
ひるがえって、今後はドイツを「先進事例のある国」として見るのではなく、「発展経緯が異なる国」として捉えることが妥当だろう。 

確かにドイツを見ると「素晴らしい」と感じるものもある。視察に赴き、見聞することにも一定の価値はある。しかし、それを「先進事例」と捉えるのではなく、どういう価値観や経緯で成立してきたのかというアプローチをすべきだ。 

もっとも、こういうアプローチは即効性のある「処方箋」(これも「常套句」である)にはならない。 
では、なんの役に立つのだろうか? 

おそらく日本における議論に、すこしばかり刺激になり、議論での問いの立て方に影響が出る程度のことである。実は執筆や講演といった私の仕事も、こういう部分を少し手伝っているにすぎない。極めて地味なことなのだ。だが、ケーキの生地を膨らます酵母のような役割を果たすことだろう。 

※      ※

そんなことを考えたとき、冒頭のような若い世代の様子を見ると、150年前の思考フレームがようやく消失しているように思えるのだ。もっともこれは彼らの単純な「無関心」で、私の勘違いか買いかぶりかもしれない。 

だが、個人的に面白いと感じるのは、この5、6年、世代交代が進んだのか「先進事例としてのドイツ」という常套句のついた講演依頼をいただくことが、ほぼなくなってきている。(了) 

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