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「四季がある日本すごい」自慢が出てくる理由

古くて新しい「郷土」というテーマ

2017年3月17日


執筆
高松平藏ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)



「四季があるのが日本のすごいところ」という自己評価があるが、最近アメリカのタレント、厚切りジェイソンさんが、特別すごいわけではないとばっさり。四季自慢を手がかりに、今日の「郷土」について考察してみる。

■奇妙な自己評価 
四季自慢は新しいものではない。私の体験でも若いころ、外国人が多数参加するパーティーで年配の方が「日本には四季があってね」と語られる場面を目撃したことがある。私自身、奇妙な自慢だなと思っていた。だから厚切りジェイソンさんの指摘はもっともだ。が、見るべきは、なぜ四季を自慢し、多くの人が納得してしまうのかという点だ。 

おそらく、俳句の季語などがその源泉だろう。 もう25年以上前になるが、俳句が世界でも広がっているという小さなコラムを読んだことがあった。インドなど日本と気候条件が異なるところでは季語をどうするかという難しさがある。そんな趣旨のことが書いてあったと記憶している。 

裏をかえせば「情感・美意識としての四季」「自然現象の四季」を重ね、「1年間の時間の経過」に文芸的なタグをつけるような行為や考えが強い。この感覚が膨らみ、「日本には四季がある」という言葉になるのかもしれない。そこへ昨今「日本は実はすごい」という自画自賛の風潮がある。 

一方、文芸というフィルターを通した四季感覚が強いため、実際の自然保護などにはつながりにくい面もあるかと思う。それを思い知らされたのが、フクシマの汚染水が海に流れていることが話題になったときだ。ドイツの友人に「日本は自然を大切にする国なのに、なぜ垂れ流す?」と尋ねられた。「もちろん、自然を大切にする人は多いが、文芸上でのイメージが強い。だから社会や政治の行動につながりにくい」と苦しい屁理屈で答えた。 

■美しい自然と郷土愛 
ところで自然を美しいものと感じ、それを恣意的に切り取って、郷土愛やナショナリズムにつなげることはわりあいよくある。 

スイスの険しい山岳やアメリカの国立公園などもそうだし、魔法で小さくなった男の子、ニルスが鳥に乗ってスウェーデンを旅する「ニルスの不思議な旅」もそう。物語を通じて国土の自然を知り、郷土愛を育むことが目的。同国の20世紀初頭の文化政策だった。またドイツも同様で、19世紀末から故郷の風景や自然を郷土愛と結びつける動きがあった。 

ドイツに関して言えば「郷土」という概念は、戦争中、全体主義と結び付けられたこともあり、やや複雑なものになってしまった。しかし一方で、自然保護や郷土保全につながったりしている。例えば私が住むエアランゲン市(人口約10万人)のパン製造販売会社は地産地消を進めている。麦などの原料をできるだけ地元から仕入れようとしているが、故郷の風景を構成している田園を維持することがその理由のひとつだ。 
毎年行われるエアランゲン市のビール祭り。郷土の自慢にひとつであり、郷土愛の対象でもある。

■「郷土」は21世紀の新しいテーマだ 
お国自慢そのものは悪くはない。ただ、そこから排除の意識とつながるとそれは危険だ。以前ネオナチが書く文書を読んでみたことがあるが、「郷土」という言葉が頻出するのが印象的だった。 

かつてはヒトを分類するときの根拠に「国民国家」という抽象的なモデルがあったが、今日輪郭がぼやけている。 難民・移民をはじめ、人の移動が増え、多様なルーツを持つ人も増加しているからだ。しかし、土地に対する何らかの感情が生じるのは自然なことであり、「郷土」は実は新しいテーマでもあるわけだ。 

そんな時代、「日本スゴイ」と言うのもけっこうだが、独りよがりになっていないか、排除の気持ちとつながっていないか、ということは絶えずチェックすべきだろう。その点、「実は滑稽な四季自慢」が連発されるのは、冷静さを欠いているような気がする。 

ところで、エアランゲン市では毎年10日余り行われるビール祭りがある。地元の人から外国人まで誰もが一緒になって楽しむ祭りだが、この時期を「5番目の季節」と呼んで、とても自慢している。(了)

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