ご当地マンホール蓋が示す日本の都市計画の性質
面白いが、心底楽しめない理由
2016年8月8日

執筆
仕事などで日本の地方を訪ねると、まず探すのがマンホールの「ご当地蓋」。私が蓋に着目したきっかけは、地方の「独自性探し」がスタートだった。デザイン性も技術も高く、楽しいが、一方で日本の都市計画の性質がよく出ているように思う。
■独自性を探していて「発見」
地方の駅を降りると、ファストフード店やコンビニが並ぶおなじみの風景が目に入る。何か地域独自のものはないか、と目を凝らしたときに、「発見」したのがマンホールの蓋のご当地デザインだった。以来いつも写真におさめている。
金物工業が盛んな三条市(新潟県)のマンホール蓋。
個人的には一番好きだ。Tシャツにプリントしてみたい。
吹田市のマンホール蓋。
集め始めると、それなりに面白いし、デザインについても比較するのが楽しくなる。SNSでこの話題を投稿すると、意外とご当地マンホール蓋のファンもいることがわかった。またコレクション意識をくすぐるマンホール蓋は、魚拓ならぬ蓋拓にでもすると楽しそうだ。
しかし、独自の蓋は不統一で全体的な統一感のない「日本的な都市計画」を示す象徴のひとつに思えてならない。
長崎市。星は市章なのだが、アメリカンヒーローが盾として持ちそう。
■雑多構成都市の日本
どういうことかというと、ドイツと比較すると分かりやすい。
ドイツの都市景観、特に市街中心部を見ると、秩序と統一感があり、「この都市はこういう歴史のある都市です」ということが景観でもって具現化されている。それは一種の都市という名の「大きな物語」を示している。それでいて現代に必要な機能や価値も備わっているので求心力もある。
それに対して、日本の都市は、それぞれのビルや建物には建築家によるデザインが一応ある。商業施設ともなると、資本の論理に基づいたロゴやシンボルカラーなど種々の要素をまとめたデザインコンセプトがある。デザインとは一種の物語ともいえるが、すなわち日本の都市は、「小さな物語」の集積で構成されており、都市景観という全体の秩序や統一感が弱い。
もっとも、この雑多な感じが時には欧米のクリエイターには魅力と映ることがあるわけだが、私個人としては日本は「雑多すぎる」と感じている。デザイナーの石井大五さんの作品に世界の都市が東京化したらどうなるか、というものがあるが、日本の都市は「町という大きな物語」が希薄で、いかに雑多であるかが認識させられる。
■カラー技術で蓋がより主張する
マンホールの独自デザインに話を戻すと、それぞれ技術的にもデザインとしてもクオリティは高いが、結局「小さな物語」にエネルギーを注いでいるように見えてくるのだ。やや乱暴で単純化した言い方になるが、蓋デザインにまわす資源(カネ・人材)を、もっと都市全体の物語を作ることにまわしてはと思うことすらある。
しかも昨今は技術の向上で着色ができるため、カラフルなものもよく目につく。「たかが蓋」ではあるが、都市景観という全体からみると、「小さな物語」の主張がどんどん大きくなってきおり、カラー蓋の「増長」はいかにも「日本的な都市計画」の性質の現れに見えるのだ。
ウィキペディアの情報ではあるが、「ご当地マンホール」(2016年8月3日閲覧)のページによると、独自蓋デザインは1970年代から始まり、80年代から下水道のイメージアップなどを目的に建設省が働きかけたらしい。(了)
参考:デザイナーの石井大五さんの作品 「世界東京化計画Worldwide Tokyo-lization Project)」に関する記事(2016年8月5日閲覧)
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