Interlocal Journal はドイツ・エアランゲン在住のジャーナリスト・高松平藏が主宰するウエブサイトです。


大学の授業でなぜ発言すべきなのか?

デモクラシーの地力をつくる

2016年6月8日


執筆
高松平藏ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)



複数の日本の大学で講義・講演を続けて行う機会があった。総じて学生さんたちはおとなしい。私はたまたま大学にお呼びいただいただけの「外野」で、実情はわからないが、もっと発言したほうがよいと思った。


■書き言葉は持っているのに・・・
日本国内で立て続けに複数の大学の教壇に立った。予想に違わず、ほとんどの大学の学生さんはおとなしい。

だが、驚いたことがある。
大学によっては授業終了後に学んだことなどを紙に書いて提出してもらうが、実にびっしり書かれているのだ。この紙が成績を左右するという事情もあるが、授業中のおとなしさとは裏腹に「書き言葉」は持っている印象を受ける。

■社会人院生は知的ピラニア
昨今、大学生の学力について懸念や議論もあるが、原則論でいえば大学は最高学府だ。特にいわゆる「文系」の学部では、幅広い視野から、社会のものごとを論理的に捉え、学術的問いを立てることが大切だ。こういう知的訓練を積むことで、職業人として、市民として自分を相対的に、あるいはクリティカルに捉えることができ、またそこから職場や社会で何をすべきかを考えることができる。

ある大学では少人数だったので、以上のような見解を話し、用意したパワーポイントも使わず、積極的に発言してもらうように言った。

最初はなかなか発言は出てこなかった。印象でいえば、恥ずかしいといったような理由ではなく、自分の知識・経験と比較しながら人の話を聞く、自分の関心に引きつけてながら聞く。そんな訓練が基本的に少ないように思えた。裏を返せば、知識・経験を総動員しなければならない問いを立てると、目をくりくりさせながら考え始め、ぽつりぽつりと発言が出てきた。

対称的だったのが同志社大学。友人の教員・西村仁志さんが担当していらっしゃる社会人院生の集中講義にお邪魔した。つかの間、西村さんとちょっとしたトーク形式で話し始めると院生の皆さんの目はきらきら、ペンがノートを走る、そして質問の嵐。まるで知的ピラニアの水槽に放り込まれた気分だ。仕事や子育てなどの人生経験を重ねた上で、より学ぼうという意思を持った人たちは、ごく普通に自分の知識・経験・課題に関連付けながら人の話を聞くのだろう。
某大学での講義を行ったときの様子。
この時は話が終わったあと、個人的に質問をしにきてくれた学生さんもいた。

■議論はデモクラシーの地力
日本は明治以降、近代国家、先進国として変遷してきたが、手法は国家主導の開発主義。そのせいか社会のなかで、議論によって既存の価値を高めたり、新しい価値を創造する部分が弱い。

また他の先進国と「デモクラシー」のアイデアを共有しているはずだが、日本では選挙の投票率ばかりに注目がいく。大切なのは日常的に職業肩書、性別・年齡とは無関係の多様な社交があり、その上で議論を重ねることだ。選挙はあくまでもデモクラシーの一部にすぎない。

それからデモクラシーにとってジャーナリズムとは権力のチェックなどの他に、社会のなかでの議論を活発化させる役割がある。
私の場合、ドイツのことを扱っているが、劣化コピーをするのための「海外事例」を紹介しているわけではない。事象の背景や思想、歴史的経緯に注意を払い、日本とはちがう社会のかたちを伝えることで、新たな議論の方向性や課題が出てくるとよいなあと思っている。
最近話題になっている近畿大学の広告。
大学は義務教育ではなく自己決定。
それを考えると、発言をして授業に参加するのは当然。

■自由で多様な発言は脱・開発型先進国につながる?
ひるがえって日本の学生は勉強しない、おとなしい、ということは、私の世代(1969年生まれ)でも言われていた。一方、ドイツの学生の発言頻度は断然多い。やや突飛だが、これは、開発型の先進国(日本)とそうではない先進国(ドイツ)との違いの現れといえないか?

しかし、開発型から脱するには今からでも遅くない。
発言し、それに対して別の人の意見や反応を聞くことは、自分の考えを深めることができ、充実感が伴うことも多い。「外野」の私から見ると、本来、大学はそういう知的訓練を比較的じっくりできる場所だと思うのだ。(了)


 


 
 
 
※引用される場合、高松平藏が執筆したことを明らかにして下さい。