Interlocal Journal はドイツ・エアランゲン在住のジャーナリスト・高松平藏が主宰するウエブサイトです。


「保育園落ちたの私だ」という表現の意味は何か

自己責任、絆、そして連帯へ?

2016年3月11日


執筆
高松平藏ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)



「保育園落ちた日本死ね」という匿名のブロガーの書き込みを発端に、待機児童問題に対する危機意識表明の動きがでている。ドイツから見ていると社会的連帯がおこっているように見えるのだが、この意味を考えてみたい。


■表明方法の獲得
3月5日付朝日新聞電子版によると、 「保育園落ちたの私だ」と書いた紙を掲げた人たちが5日、国会前に集まった。しかも、これから子育てをする人、すでに子育てが終わったような人も参加していると報じている。

「○○は私だ」という類の表明方法は、昨年日本で多くの人が知った。フランスのシャルリー・エブド襲撃事件に対して、たくさんの人々が「私はシャルリ-」と表現した。あるいはイスラム国に拘束された後藤健二さんの解放に向けて「I am Kenji」と表明した人が世界中に現れた。
「私はパリだ」パリのテロに対する追悼集会。(ドイツ エアランゲン市 2015年11月17日)

■同情ではない
「保育園落ちたの私だ」 は、他者の問題の「わたくし事化」とでもいえるが、ドイツから見ると、「社会的連帯」が起こっているのかなと思った。

欧米社会で連帯は重要な概念であるが、フランス革命の「自由・平等・博愛」から見てみよう。この3つの言葉をめぐる議論は様々あるが、私の理解ではこうだ。

自由は個人の自由意思や自己決定を認めるもの。しかし、時には自分の「自由」と他者の「自由」がぶつかる。そこで「平等」とい う概念を加えて自由の暴走をコントロールする。

最後の「博愛」は実は「連帯」である。 赤の他人同士のつながりや協力関係を表す概念だ。これが加わることで、個人の尊厳を基本にした、自由と平等が担保される社会が結果的にパワフルに機能する(はずだ)。「私はシャルリ-」と表明することは襲撃されたメディアへの同情ではなく、自分たちも殺さない限り、共有している「表現の自由」という価値は崩れない。そういう連帯の表明だと理解できる。
「連帯」-フランスの国旗の色を使って表明。
(パリのテロに対する追悼集会、ドイツ・エアランゲン市 2015年11月17日)

■欧米で、なぜベビーカーを押す男性を手伝う?-「私も父親だ」
東日本大震災がおきたとき、相互扶助を表明するのに「絆」という言葉がよく使われた。語源からいえば、馬や犬などをつなぎとめる綱をさし、<断つに忍びない恩愛。離れがたい情実>(広辞苑第3版)という意味だ。よくも悪くも絆で結ばれると、地縁・血縁に伴う義理人情を理由に永遠に束縛されてしまいそうなイメージもある。が、当時は「絆」がぴったりきた。人々のあいだに日本という「地縁」が想定されていたのかもしれない。

一方「連帯」はキリスト教に端を発する概念で、神のもとで子羊たちは皆平等。困ってる羊がいたら、皆で助けるように、という理屈で、社会保障や年金の原理にもなっている。

分かりやすい例をあげると、私は子供が小さな頃、ドイツでベビーカーを押して町を歩いた。色んな人が赤の他人の私にドアを開けるなど、ちょっとした手助けをよくしくれた。これは羊たちの連帯行為で、まさに「私も父親だ」なのだ。
飛行機の搭乗も車いすや小さな子供を連れた客は優先されるが、これも「私も車いす使用者だ」「私もチビッコの親だ」の連帯思想が、搭乗システムに組み込まれていると理解できるだろう。
だが、日本社会にこういった了解はあまりない。先述の概念整理からいえば当然かもしれない。

■私も社会だ
以上のことを考えた時、「保育園落ちたのは私だ」という表現が、個人の問題を社会として受け止め、連帯が発生しているといえる。

日本に西欧由来の個人主義という言葉が入って久しいが、他の「個人」とどう関係を築き、個人的問題をどう社会の課題にしていくかという部分が長年弱かった。芸術やスポーツ、子育て、介護、教育、人材育成など様々な分野でおきている諸問題の重要な基本的課題はそこにある。

さらに以前は、本来、社会で共有し、課題にすべきものが「自己責任」の言葉で葬られたものもかなりあるように思う。10年前なら、くだんのブロガーの叫びも「自己責任」で終わっていた可能性は高い。

そういったことを鑑みると、「○○は私だ」という表現と、それに伴う行動は、個人がいわゆる市民的公共性に行き来するための端的な言葉を獲得したということかもしれない。「私も社会」なのである。(了)


 


 
 
 
※引用される場合、高松平藏が執筆したことを明らかにして下さい。