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『先進事例』の限界

創造する未来の20年につながるか?

2013年4月8日



執筆
高松平藏ドイツ在住ジャーナリスト、当サイト主宰)



日本は海外の先進行事例を取り入れることで発展してきた。ここにきて、ささやかな個人的な出来事からの印象だが、こうした発想に変化が出てきているように思う。

■学ぶな
何の因果か、特に思い入れのある国でもなかったのだが、たまたまドイツのことを扱うようになって久しい。それでドイツのまちづくり関連や環境問題といった分野の講演をする機会がある。その時、内容の紹介文を主催者さんが書いてくださるが、『先進事例に学ぶ』というフレーズがよく入る。

やや挑戦的にいえば、私は『学ぶ』とか『学び』という言葉をあまり好まない。学ぶという言葉は『真似る』と同源とされるが、そのせいか、受け身の態度が前提になっていることがあるからだ。

事例は、『学ぶ』『真似る』というよりも、対峙して新しいアイデアを生み出すための刺激にできるかが肝心だと考えている。そのためには事例がなぜ成り立っているのかを鑑みながら、積極的に、時には批判的に理解・分析をすることが正攻法だと思う。だから執筆や講演でも事例の背景についてできるだけ私は注意を払ってきた。

だが国外の先進事例に興味を持つ人の中には、いささか乱暴な言い方をすると、事例の表面だけを見て『ほう、これはすごい。学ばせていただきました』という感激しているが、消化不良をおこしている。あるいはやたらに物知りな、『事例屋さん』状態になっている。そんなケースがけっこうあるような気がする。
 
■関心のポイントに変化
もっとも、ベタな言い方をすると国外の先進事例から学ぶやり方は日本のお家芸である。外国のことを『海の外』と表現する我々には、海の向こうには素晴らしいものがあるというイメージがあり、古くは中国や朝鮮半島から、近世になってからは欧米から文明や技術を取り入れた。そして器用にローカライズしていった。

この傾向は学術、特に人文系の世界でも強く、国外(具体的には欧米)の先進研究を翻訳して仕入れることが業績になっていた時期が長い。その裏返しで人文系でパラダイムをひっくりがえすような研究が日本からは出にくいとも聞いたことがある。

国外の先進事例に学ぶという態度はこういう歴史的な指向性が受け継がれている表れだろう。





日本は様々な近代概念も翻訳して欧米から輸入した。それらの
中身については実はよくわからないが、
抽象的で舶来の高級な意味が
ふんだんに詰まっているよう
で惹きつけられる。このことを翻訳語研究者・柳父章氏は『宝石箱(カセット)効果』としている。国外の先進事例に学ぶということも『宝石箱効果』とけっこう似ているように思う。 







だが、ここにきて興味深いのは最近、『なぜ事例が成り立っているのか』というところに関心が移ってきている印象を受けることだ。

たとえば、ドイツの事象について(私の知見の範囲ではあるが)背景や成り立ちの経緯まで説明すると、『ドイツの事例から何か盗んでやろうと思っていたが、話しを聞くとマネできないということが分かった』という感想を述べてくださる方もちらほらいらっしゃる。こうした様子は、『先行事例に学ぶ(真似ぶ)』のではなく『事例に対峙』する第一歩で、少し日本も変わってきたのかもしれない

■技術はある。問題はその使い方
日本には様々な進んだ技術がある。技術革新の継続は必要だが、今後は持っている技術をどのような形で社会で運用していくかをもっと重要視するべきだろう。

例えば景観問題。ドイツには美しい景観の町はある。すこし踏み込むと、そのための法律の存在にも気がつく。ところが、日本にはすでに高い建築技術はあるのに景観の統一感や秩序を見出すのは難しい。これは、どういう価値観に基づいて、社会の中で技術や道具の使うか、という議論ができていないのではないか。民主制の国ではそういった議論が自由にでき(るはずで)、ひいては景観の法律につながる(はずだ)。(念のためにいえば日本にも景観法はあることはある・・・)


もしドイツを『景観の美しい町の先進事例』と捉えても、コピーで解決する明確な答えやノウハウはない。もちろん日本の技術で、建築物をそのままコピーもできるが、愚の骨頂。では法律をコピーしようとしても、その背後には景観に対する思想、価値観、歴史、そして議論と意思決定の方法などがドイツ独自の文脈で編み上がっている。こういうところを見ると、先行事例を学ぶ(真似ぶ)という方法の限界が見出だせるように思う。

また少々大げさな話をすると、『失われた20年』という言説があるが、『創造する未来の20年』をイメージすることも重要だ。『マネできないということが分かった』という感想は輸入方式からの脱却ともとれ、実は可能性の高い一言だと感じている。

■教会に通った法学者
国外の先進事例を学ぶことはお家芸と書いたが、随分前にどこかで読んだことがあるこんな話を最後にひとつ。

事例の背景や経緯を注視するというのは事例の理解や解釈に踏み込むことであるが、その昔、面白いことをしていた人がいる。法学者で神道思想家の筧克彦(1872- 1961)がその人だ。

彼は明治30年に帝大法科を出てドイツに留学。教会に通い、ゲーテやシラー、美術を勉強した。行政法を学ぶためにはドイツ国家の本質を把握する必要があり、その理解には文化を学ぶ必要があると考たからであり、そして『ドイツかぶれ』にはならず、帰国後は日本の本質をつかもうとしたという。筧自身の業績については恥ずかしながら私はよくわからないのだが、100年以上前のこの話がとても気に入っている。(了)