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Interfaith Dialogue Guidelines (Japanese - 日本語)

宗教対話指針

INTERFAITH DIALOGUE GUIDELINES

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1) 我らは、真の対話は寛容のみならず、互いの個性の尊重とその受容とによって初めて可能となると信ずるものである。互いの個性を受け入れるためには互いの文 化的背景を知ることが欠かせない条件となる。社会的,文化的および宗教的多様性を認め,受け入れる ことで互いの価値観を交流させ,一致協同すれば究極的には人類の最終的統合に到達する であろう。

2) 我らは、すべての自然、すべての生物と共にある人類としての我らが、より高い知的 および精神的状況のもとに、さらなる完全な世界を目指し、たゆまざる成長の道を積極的 に歩み続けるものと信ずる(Teilhard de Chardin)。こうした前向きの視点で、国境を超 えた地球的コミュニケーションの新たな世界にあって,すべての人類が起原と運命とを共 にする同胞であるとの認識を持てば,このことを日常的に実践する普遍的な重い責任を万 人が負うこととになる。

3) 我らは、平和と正義のより高い世界秩序の創造を目指すうえで、その組織形態の如何 を問わず、世界における宗教の指導者たちの精神的指導の役割が極めて重要だと信ずるも のである。それぞれの文化的および哲学的伝統を有する世界の宗教の教会や組織などは、 普遍的に受け入れられている道徳律を宣言し保持することのできる卓越した施設である。

4) 我らは、世界のすべての宗教や聖伝の教義は、それが発祥した地の文化から生まれた ものであり、そしてその文化の哲学観や道徳観のうえに培われたものであり、さらにその 文化固有の形式や儀式において發現してきたものである信ずるものである。常に新たな発 見の途にある巡礼者は変化に遭遇するが、いかなる宗教や聖伝の信者といえども、真理の 排他的解釈を主張したり、他者に対する優位性を主張してはならない。

5) 我らは、当然の帰結として世界の宗教の布教活動と目標を「改宗運のアプローチ」か ら「証を立てるアプローチ」へ切り替える必要があると信じるものである。それぞれの信 仰の重要な基本的要素は、各地の信者が理解できる言語で表わされるべきであり、これに よって世界の宗教および聖伝間の対話を通じて、相互の知識や理解が深められ、相互の価 値観が交流し、自他の信仰を豊かならしめなくてはならない。

6) 我らは、真理と精神性へのより判り易いアプローチとを懸命に探求するにあたっては 瞑想を再評価し、神の存在を深く認識する優れた手段として、広く実践すべきである。瞑 想こそは,宗教的文化を超え、普遍的に共にし受け入れる神への決定的アプローチである。 沈黙の瞑想は、あらゆる宗教間の遭遇の一部を成すべきものである。

7) 我らは、宗教対話に加わるすべての人々は、世界の増大しつつある生 態系的,社会的,経済的および財政的諸問題に対して,不断の関心と憂慮とを抱くべきだ と信じるものである.以上の指針を受け入れることが、教義の違いを超えて、世界の宗教 および聖伝が゙一致協同することへの重要な踏み台となる。 政治的世界との協同における こうした対話は、世界の諸問題の効果的解決にもっとも有効に寄与するものであり、同時 に、万人にとってより平和で正しい世界の新秩序を目指す重要な踏み台ともなる。

.趣 意

この宗教対話指針は、きっと多くの人々から夢だと思われよう。 しかし、人間の文明や社会の進歩にとって、夢をもつということは必要なこと だ。夢は発展と進歩の源なのである。夢の実現にあたっては、特に次のような 価値体系に基礎を置かなくてはならない。

  • すべての人間は、権利と義務とにおいて平等である。

  • 人の喜びは神への愛、みもとへ帰る愛にある。

  • 対立を捨て、互いに尊重しつつ協調しなければならない。

  • すべての開発援助/支援の基本的目的は、教育と科学の支援であるべきだ。

  • 戦争や暴力行為は、すべての人間にとって損失でしかない。

  • 平和と平和な社会への一番の近道は、兵器の生産,売買および保有の制限 である。

  • 世界規模のコミュニケーションを円滑に行う不可欠な手段として、自国語 以外の世 界共通言語の普及を図らなくてはならない。

  • 地球の資源(石油、ガス、鉱物など)は全人類の所有物とみなされるべきであって、たまたま地理的に資源国となった国々やその隣接国のみのものであってはならない。これらの資源の利用税を徴し、これを人類共通の福祉に充てるべきである。

以 上の価値観に基づいて、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、バハーイ教など世界の宗教、精神的活動、人道主義者、その他の思想団体相互において、 また異文化間において,互いに認め合い協調するための礎となるのが本 指針の目的である。「すべての善良なる人々へ地上の平和」をもたらすという 目的に到達するために欠かせないと思われる条件に限定したのが上の7項目で ある。過去5年間にわたって、多くの賛同者からの意見や忠告により,当初の 理念を維持しつつも、種種の文言修正を行った。

1) 我らは、真の対話は寛容のみならず、互いの個性の尊重とその受容とによって初めて可能となると信ずるものである。互いの個性を受け入れるためには 互いの文化的背景を知ることが欠かせない条件となる。社会的,文化的および 宗教的多様性を認め,受け入れることで互いの価値観を交流させ,一致協同すれば究極的には人類の最終的統合に到達するであろう。

  互いの文化と宗教の価値観を知り、それを双方が受け入れるときに、初めて 真の対話が成立する。主として無知から生じるのだが、他の文化やそれに属する人間を受入れない不寛容さが民族主義であるとも言える。民族主義に反対の 人々はこぞって、寛容を説く。近年、寛容という言葉は、全教会的,宗教間および異文化間の出会いにあたって,好ましい態度を表わす言葉として、殆どの 異文化間および宗教間の会合において,メデイアや人々の間で使われている。寛 容というのは、人が本当はそこに在って欲しくないと思うものを受け入れることを意味するので、差別を意味するものだ。寛容とは,真の対話の基礎とはなり得 ないのであって、この言葉は、他者の文化,宗教そして慣習に固有の価値 を尊重し、他者を受け入れる,という言葉に置き換えるべきである。他者を受け入れるということは、者に寛容であること以上のものを意味するのでなくて はならない。つまり、他者を受け入れるということは、他者のアイデンテテイ を損なわずに 他者を自己の社会の一員として受け入れることでなければならない。こうした 受入れが双方で行われれば、必然的に双方の価値観が融合し、文化的により豊かな社会ができる。他者を尊重する気持ちがあれば、自己の文化的,宗教的価 値を豊かにする手段として,他者の価値を喜んで自己の生活様式に取り入れさ えするものである。他者を尊重するというこうした態度は,他者に関する様式 の歴史的,文化的発展について,ある程度、知識が無ければとれないことは、 明らかである。通信手段の発達,他の文化や宗教に関する書籍の出版、文化や 宗教の関連記事の増大などののおかげで、こうした知識はここ二十年間で拡大 しており、これらすべてが全世界の異文化の出会いにおいて,貴重な刺激となっている.

互 いに尊重しあいながら他者を受け入れるという,こうした態度は,ますます多くの宗教的指導者たちのものとなっている。ちなみに,私のカトリック教 会でも、まだ上述の7項目を公式に支持するまでに機が熟してはいないものの、 ヴァチカンでは下から上までの間で,著しい変化が生じつつある。1993年1月 アシスで行われた異宗派間「平和への祈り」での法王パウロⅡ世の言葉を引用 しよう。「..人間が最後には和解する鍵は、互いに相手を受け入れること、愛を 以ってさらに深まる互いを尊重する気持ちにこそ在る...謙虚さを持ちながらも, 勇気をもって,さらに互いのアイデンテテイを尊重する調和の精神をもって、われ等は,戦争や抗争に反対したい」。

  近年,欧米でイスラム-アラブ世界に関する著作が多く出されているが、こ のことは、外部の殆どの人々に未だ十分に知られていないイスラム世界につい ての必要な知識を涵養するうえで、大いに幸いなことだ。現在、ヨーロッパの 多くの僧院で定期的に禅の講習会が開かれており、英国だけでも仏教の団体や センターが250以上もあって、仏教の信仰や修行に対する関心が深まっていることを示している。他の文化、宗教および聖伝の価値についての知識や受け 入れが増大しているが、このことが究極的には同じ大地を母とする人類の統合 をもたらすであろう。

2) 我らは、すべての自然、すべての生物と共にある人類としての我らが、より高い知的および精神的状況のもとに、さらなる完全な世界を目指し、たゆま ざる成長の道を積極的に歩み続けるものと信ずる(Teilhard de Chardin)。こう した前向きの視点で、国境を超えた地球的コミュニケーションの新たな世界に あって,すべての人類が起原と運命とを共にする同胞であるとの認識を持てば, このことを日常的に実践する普遍的な重い責任を万人が負うこととになる。

  将来に夢を描くということは、常により良い世界を目指す発展を信じる楽天 的姿勢を示している。イエズス会修道士であり、地質学者であり、そして古生 物学者であるPierre Teilhard de Chardin (1881 ~1955) の「人間の現象」、 「人類の出現」、「過去の観念」、「聖域」、「人類の未来」の5つの著作は、 数百年単位の長さでみれば、人間の精神的向上は緩慢ながら着実に進むという 明るい期待と自信に満ちたヴィジョンを与えてくれる。 Alvin Toffler は、近著「パワー・シフト」で通信システムはインテリジェント・ システムから電子ナーヴ・ネットワークに進歩し、これが地球上を覆うと述べ ている。

  いずれの学者もそれぞれ独自の立場で、将来、世界の価値観が物質的なもの から精神的なもの、すなわち人間の知恵が常に大きな役割を果たす精神的なも のへと転換するとみている。こうした価値観の転換過程における極めて重要な 役割は、そのヴィジョンがキリスト教圏から生まれたとはいえ、キリスト教会 のみが担うべきものではなく、世界の他の宗教および聖伝も担うべきものであることは明らかである。このような成長過程は、人間内部にも起きつつあるの である。この地上に生き、動くすべてのものは、浄化し、すべての存在の根本 である神性に近づくのである。 1992年に発表されたダライラマの10ページの論文「地球社会と世界の責任」 は今日でももっとも価値あるもので、地球という一家族の全員に責任ある態度 と責任ある生活様式をとるべきことを呼びかけている。最近の動向としてもっとも重要なのは、欧州、EUおよび米国の政治家が、これを評価しつつあること である。

  人類が゙地上に現れて何十万年も続いた動物のような生き方から精神性の高い生活を営むまでの不断の成長を見れば,長い人類の歴史の発展に明るい見通しが開 ける。西暦紀元初期にあっては、その時代の一般的知識は少数の特権階 級のものであった。人類が゙地上に出現してからの長い歴史からみれば比較的に 短い二千年の間に,時代の知識というものは徐々にすべての民衆のものとなり つつある。我々の社会において多くのものが余りにも急速に変化しているが、  知識というものもここ50年で百年前には誰も予想できなかったほどの進歩を遂 げている.今後、知識の進歩はさらに急速の度を加えることは、すでに常識で ある.この知識の進歩は、中世の封建社会から民主的政治,自由貿易そして自 由交流の現代へとまったく異なる生活様式を招来し,ますます高度な知的遺産 が時代から時代へと受け継がれている。昔は,ごく少数のものが土地を所有し ていて、その土地所有者の富の労働をもって支えていたのが,民衆であった。 現在では,少なくとも西欧や日本などの民主国家にあっては、富は比較的公平 に一般市民に分配されるようになった。一般的に言って,現代の生活は昔に比 べるとはるかに知的で人間的なものとなっていることは、誰も否定できない。 殆どの国で文化活動が著しく活発化し,文化活動に対する関心が高まっている ことは、日常生活の質的向上の証であることは確かである.比較的最近ではあるが、輸送手段や通信手段が世界的に発達し、このことが当然に,仕事やレジ ャーでの旅行を激増させ,何百万人もの移民を生じ,これに、残念ながら、各 国間の内戦や戦争が絡んでいるのである。

 このように,何百万人の人々が自分たちのとは異なる文化や宗教と接することになったのだ。これは後戻りのできない道であり、多文化で多元的な新しい 明日の世界の始まりに過ぎないのであって、この新しい世界は普通考えられているよりもはるか に早く到 来する。
  すでに欧州では、言語の相違があるのに、EU内諸国の国境は取り除かれた。 当然ながら、地理的および政治的実体としての国というものの重要性は、急速 に減少し、代わりに、言語地域というものが、明日の欧州ではますます優位な 実体となりつつある。この点はインドの政権担当者はよく理解していて、地域 言語に準じて州境を定めているが、これは規模においては世界でもユニークな ものだ。

  宗教間・異文化間対話との関連で非常に重要なことは、統合への世界的動向 と並行して、同一文化、同一言語に属する社会のアイデンテテイを強調し、その アイデンテテイの維持を強調する強い傾向が存在する。こうした、一方において 統合と均質性を志向しながら他方において、自己の文化的アイデンテテイの保護 を目指す動きは、まず欧米の政治的指導者や世界中の宗教間対話に参加しているすべての人々の議論の対象となっているし、今後もますます議論されよう。 分離独立運動の問題を抱えている国々の政府は、こうした世界の動向に注目し、 解決を分離に求めるのではなく、連邦政府樹立への努力に求めるべきである。

  ブリュッセルのEU委員会の前委員長ジャック・ドロール(Jacques Delors) 氏は、EUの倫理基準を検討する目的から委員会に「フォーワード・スタデイズ・ ユニット」(Forward Studies Unit)という研究班を創設した.この班は、1995年 にトレドで、1996年にフロレンスで、先頃、ブリュッセルで、すでにシンポジ ュウムを開いているが、ブリュッセルのシンポジュウムにはウイリアム・スウィング司教が招かれ,宗教連合期成会について講演をしている。 また、この研 究班は宗教、政治そして協同に到る方法における関連性について、大変興味深い報告書や文書を発表している。このようにEUは、この分野での先駆者たり 得るし、他の多くの国々の政府もEUに続くことを望みたい。同研究班班長の ウォルフガンク・パーペ博士が1997年に発表した論文から引用してみよう。「今、 欧州では、種種の価値観と宗教とが、時間的、空間的境界を越えて、公共の利 益のために必要とされる科学、人権、民主主義(進歩)に関わる倫理的制約の 合法化の新たな根拠となることが期待されている」―「思想に関する永遠の理念 から倫理を切り離すことは、もはやできないのであって、我々が生き残るため に必要とされるさまざまな価値についてのコミュニケーションや世界的対話が, 脚光を浴びるであろう」

3) 我らは、平和と正義のより高い世界秩序の創造を目指すうえで、その組織 形態の如何を問わず、世界における宗教の指導者たちの精神的指導の役割が極めて重要だと信ずるものである。それぞれの文化的および哲学的伝統を有する 世界の宗教の教会や組織などは、普遍的に受け入れられている道徳律を宣言し 保持することのできる卓越した施設である。

第 2次世界大戦後、ついに人類はこの戦争の惨禍から貴重な教訓を学んだろうという希望と期待があった。平和と正義への夢があった。しかし、世界の政 治家たちは、またもやこの期待に応えることができなかった。それでも我らは、 何らかの方法でいつかはこの夢が実現することを信じ続けている。長い目でみて、世界の宗教が世界規模で対話と協調を達成できるなら、その重大な使命を 果たすことができよう。世界における宗教の創始者の教義の真髄を訴え、多様 性と協調のもとでの統一に必要な基盤をそこに築くのが宗教の使命である。こ のような協調は、超国家的組織、例えば、サンフランシスコの監督司教W.スウィング氏が1995年に提唱した「宗教連合」(United Religions Organization) やフランスのチベット仏教センター、カルマ・リング協会が1997年に提唱した ‘Organisation des Traditions Unies’のような世界的組織が権威ある唯一の代弁者として明らかにすべきもの である。最近のこうした組織は、宗教、聖伝、精神的運動その他が、人間個人 が社会的および精神的次元において中心に立脚するという新らしい世界秩序を 目指し、効果的に世界の倫理を支え、貢献するうえでの橋頭堡となることがで きる。

  西欧の個人主義的世界にあっては、倫理的問題では、個人の良心に基づく決 定者として個人が前面に置かれる傾向が強まっている。これがニュウ・エイジや 多くの新しい宗派の運動の魅力となって現れ、これらの運動が南米やアフリカ のように貧困と窮乏が、いまだに続いている国々で主導的地位を目指して戦っているのだ. カトリック教会を始めとするキリスト教教会の信仰の厚い信者たち は、組織としての教会に対する信頼を失っている. これは危険な傾向であっ て、私見によれば、この傾向の主たる原因は、学問の進歩、聖書の研究、聖書 その他の聖書関連古文書の由来についての新しい解釈など、時代の要請や動向 に最高の地位にある教会関係者が即応できないところにあるようだ。

こ れは、また自己個人の知識や良心に基づいた独自性の強い思考や行動が一般 化している中で生まれる当然の現象とも言える。この地上の男女は、善悪両面 を備えた男女であることには変わりはないのであるから、人々の道徳的な行動 にとって天からの導きが、かけがえのない重要な要素であることは明らかである。こうした体制を実際に変えるものは、組織としての世界の宗教以外には無いこ とも明らかだ。それどころか、組織としての世界の宗教は、最近の自由思 想の人道主義者の宣言に呼応し、地球的規模でひとつの協同体に結合して、個 人のみならず世界の次元での道徳的、倫理的実効性を高めなくてはならない。 このことは、依然として実現が非常に難しい夢であるが、この夢は、すべての 宗教間対話運動の最終的な目標となり得るし、目標としなくてはならない。こ うした世界的規模の夢は、生活の新しい倫理基盤を求めている世界中の若者たちの熱烈な支持を受けることは間違いない。こうした協同体の倫理基盤は、ド イツのカトリック神学者ハンス・キュング氏と彼の同僚のカール・ヨセフ・クッ シェル氏とが発表した世界倫理宣言に求めることができる。1993年にシカゴで 世界宗教会議が開かれ、世界中の宗教関係者7,000人が参加したが、世界倫理 宣言は、ここで白熱の議論の末、暫定承認され公表されたものである。この宣 言の主要な理念は,次の三行の文言に集約されるものだ。

各国が世界的倫理を共有しなければ、人間的生活はない
宗教間に平和なくして、各国間の平和はない
宗教間の対話なくして、宗教間の平和なし。

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世 界倫理に関する第二に重要な文章は、ドイツのシュミット前首相を先頭に、 28カ国の の政治家が支持したインターアクション東京会議が1997年9月1日に発表した 「人間の責任に関するする世界宣言」である。この宣言は、東洋文明の文化的 価値を反映し、日本的および東洋的生活様式を映し、権利よりも責任や義務に 重きを置いたものと考えられる。また、この宣言は「人間の権利に関する世界 宣言」に対して、非常に時機を得た宣言でもあった。これら二つの宣言は、宗 教連合機構の構想の中心軸となり得るものだ。  私自身、異宗派間対話を主題とした多くの書籍、雑誌、新聞記事などを読み、 異宗派間対話のシンポジュウムや会合に参加して感じたことは、宗教間対話に 到る道は主として学術的セミナーや祈祷会など数多くあるらしいということだ。 門外漢のビジネスマンとしての私が驚いたのは、こうした会合の参加者の殆ど が特に学者、宗教および思想関係の指導者たちであって、私のような庶民的レ ベルで活動しているごく普通の人間が稀で例外的であったことである。いまひ とつ私の驚いたことは、こうした活動が一般に知られるような努力が何故、もっとなされないのかということだ。恐らく、これが普通の人の参加者が少ない 原因のひとつではなかろうか。庶民レベルで活躍している多くの男女は、教区 の仕事や他の社会的活動に貴重な時間を割いているが、この人たちは非常に重 要なこの対話の仕事に献身し、異宗派間対話の出会いに積極的に参加すると、 私は考えている。いま私がここで考えているのは、いろいろな宗教を持ちなが ら社会的に仕事についている人たち、貧しい途上国の多くの援助・支援プロジ ェクトで働くボランテアの人たち、インドや東南アジアでジャイナ教の教え “Ahimsa paramo dharma" (非暴力こそ宗教の最も崇高な責務)を実践してい る、スワデーシという理念を持つインドのマハトマ・ガンジー(Mahatma Ghandi)やその弟子のヴィノバ・ブハヴ(Vinoba Bhave)、ヴィヴェカナンダ (Vivekananda)とそのラマ・クリシュナ(Rama-Krishna)教団、パキスタンのシ ェイク・ムジブール・ラーマンSheik Mujibur Rahman)、ミャンマーのマーハ・ ゴサナンダ(Maha Ghosananda)、バングラデッシュのカーン・アブドル・ガハ- ル・カ-ンKhan Abdul Ghaffar Khan)、ダライ・ラマ(Dalai Lama)や世界中 にいるチベット僧、その他大勢の人たちのことである。

4) 我らは、世界のすべての宗教や聖伝の教義は、それが発祥した地の文化か ら生まれたものであり、そしてその文化の哲学観や道徳観のうえに培われたものであり、さらにその文化固有の形式や儀式において發現してきたものである 信ずるものである。常に新たな発見の途にある巡礼者は変化に遭遇するが、い かなる宗教や聖伝の信者といえども、真理の排他的解釈を主張したり、他者に 対する優位性を主張してはならない。

  この立場は、キリスト教やイスラムの多くの神学者や聖書およびコーランの 解釈者が、ますます受け入れ、求めている。神の啓示の表現は、ほとんどが宗 教の生まれた文化の影響を受けており、この表現形式そのものが啓示ではない ことは、今では自明のことと考えられている。宗教的真髄は変わらないのだが、 こうした表現や表現形式は、信徒たちの常に変化する知識や絶えず高まる精神 に応じて、絶えず変化せざるを得ない。特にキリスト教神学においては、文化 の発達に応じて、文字的解釈から表現的、描写的解釈へと聖書解釈の変革が起 きたが、これは、宗教間対話を目指す改革としては、過去50年においてもっとも価値ある改革だった。カトリックの聖体拝領の礼拝儀式が変化し、いまま で特にラテン語で行われていたものがそれぞれの国の言葉で行われるようになっているが、ここまで到達するには幾多の段階を経ている。しかし、残念なの は、このため教会内の神秘的雰囲気が損なわれたことだ。日本の仏教寺院にあっても、半分、中国語、半分、日本語である旧来の経文を信者にもっと分かり やすい言葉に刷新しようという声があがっている。ただし、仏性を表す仏像は 従来どおり、象徴的な薄明かりのなかに安置して置きたいという。このような 立場を受け入れるということは、何らかの優越性が依然、感じられるにせよ、 これを適当な程度に抑制しつつ、公平に他者を受け入れるということだ。

  多くの宗教にとって異宗派間対話は、長年、問題でありアクション・プログ ラムでもあった。バハーイ(Baha'i)教の創始者、バ-ハ・ウッラ-(Baha'u'llah) は、戦争や社会的不正を除く唯一の解決法として、統合的機構としての世界政 府の必要性を時代に先駆けて、最初に宣言した人であろう。カトリック教会と 他のキリスト教会との間での全教会運動は、50年にわたって多くの会合で課題 とされてきたものである。 シカゴで1893年に世界宗教会議により最初の異宗 派間会議が開かれ、ここでインドのヴィーヴぇカナンダ(Vivekananda)師が優れ た講演をしているが、それ以来、長い空白が続いていた。そして、1968年のガ ンジー平和基金によるニューデリー国際異宗派間シンポジュウムを皮切りに、 宗教間の会合が次々と開かれるようになったのは、ここ僅か30年来のことである。

  これまでの異宗派間対話運動の場は、主として宗教学者や宗教指導者の出席 する祈祷会という形のものであった。例を挙げると、日本では定期的に、夏に 行われている仏教天台宗の祈祷会合、欧米では頻繁に行われている、欧州のカ トリック僧と日本の禅宗の僧との僧交流会、イスラム教・キリスト教協議会-ヨ ルダン アンマンのアル・アルバイト財団Al Albait Foundationの援助を得て-、 欧州の賛同者が1984年以降、毎年、開催)、その他、世界の主な国際異宗派観 組織が開催する多くの会議などがある。こうした動きが、他者の宗教や文化へ の理解を深めたことは確かであり、最近では、互いの価値観を尊重し、受け入れるという気運も高まっている。

  さらに、自己の信仰を見直し深めるものとして、他者の文化的および宗教的 価値観を自己の信仰生活に取り入れる努力も進んでいる。しかし、一方において世界的通信網の技術が進み、他方、ますます多くの人々が異文化の国々に移 民し、異文化間の交流が不可避となり、世界的規模の異宗派間対話のための豊かな土壌にとって必要な条件が整ったのは、ここ十年来のことである。

5) 我らは、当然の帰結として世界の宗教の布教活動と目標を「改宗運のアプ ローチ」から「証を立てるアプローチ」へ切り替える必要があると信じるもの である。それぞれの信仰の重要な基本的要素は、各地の信者が理解できる言語 で表わされるべきであり、これによって世界の宗教および聖伝間の対話を通じ て、相互の知識や理解が深められ、相互の価値観が交流し、自他の信仰を豊か ならしめなくてはならない。

  憐憫や愛とか、定義の難しい「因縁」や「仏性」(すべての人間や存在物の 霊的存在が、根源的に、究極的な運命として帰属するもの)のような理想化し た人間的性格を備えたものと考えるか、信じるかはともかく、霊力や霊的存在 を我々の多くは、受け入れている。世界の各宗教は特定の文化に生まれたもの であり、その永遠の真理の表現や宗教的儀式は、その特定の文化の一部である ことは、いまや殆どの宗教学者が認めている。一般的知識や学問そして生活様 式が不断に向上しているのであるから、何百年もの間には文化も変わるという のが歴史的事実である。キリスト教、イスラム教、仏教その他の宗教の創始者 の時代やインドのヴェーダ、ウパニシャッドなどの聖典の時代の生活は、我々 の生活や考え方と全く異なるものだ。二千年前の物事の表現の仕方は、当時の 生活観に基づくものであるから、後世に誤った解釈が生じやすい。文献学、 考古学それに人類学の研究が進歩したおかげで、現代との文脈のなかでみる、 世界の宗教の起原と歴史に関する古文書をより深く、正確に解釈できるように なった。

  こうした貴重な文書は、起原と性格がグローバルなものではなく、ローカル なものであるから、変化するものであり、従って唯一絶対のものとも究極のも のとも言えないのである。永遠の真理というものは、その本質からも世界的かつ宇宙的なものであるはずであって、特定のひとつの文化や宗教に限られるはずの ものではない。信仰に関わる観念には新しい学問に基づく解釈を施し得る ものもあるという認識を持ちつつ、古くからの観念を排して、これら文書の本 質と根幹に立ち戻ることが、対話の実践における多くの問題の克服に役立とう。

  各種宗教団体の発刊物や公式の宣言書などからみると、他者を自己の信仰に 改宗させようとする水面下の意図が、いまだに残っているようだ。カトリック 教会のローマン・ヴィジョンが、まさにこれに当てはまるものであり、イエス・ キリストをいまだに人間の唯一の罪を贖う存在だとする一部のプロテスタント 教会や一部のイスラム教も同じである。新約・旧約聖書の教義の歴史的発展を 含めた、キリスト教の起原から現状までの現代的研究に照らしてみると、キリ スト教教会における、全的真理を有することに関わる不可謬性〔絶対的確実〕 の主張は、もはや支持できないドグマとなっている。コーランやイスラム教の 教義の歴史的発展の研究についても同じことが言えよう。戦後の日本における 一部の新興宗教は例外として、仏教はこの種の排他的ドグマチックな教義を提 唱してはいない。

  第二回ヴァチカン会議(1962~5年)は、カトリック教会内の姿勢に大きな転換 を認めている。同会議の16の文書のうちのひとつ、Nostra Aetateは、カトリック教会とキリスト教以外の宗教との関係について、特に言及したものである が、次のように宣言している。「カトリック教会は、キリスト教以外の宗教で 真実で聖なるものとしているものを、何ら否定しない。カトリック教会は、他 の宗教の行動様式や生活様式を尊重し、カトリックと多くの点で異なるものの、 しばしば万人を啓発する真理の光を放つ規則や教えをも尊重する。

  すべて申し分なしとは言えないことが、同会議のいまひとつの文書 Ad Gentesをみれば明らかとなる。こう宣言している。「教会は、本来の性格は伝 導の場である」として、伝導の目的を「カトリックがまだ根付いていない人々 に福音をもたらし,カトリックを広めること」と定義している。そして、「神 と人とを結ぶのは、イエス・キリストただ一人であり、他に救世主はいない」 としているので、こう結んでいる。「したがって、教会の説教で説かれている ように、すべてはキリストに帰依しなくてはならない。すべては洗礼によりキ リストとキリストの御身体である教会とに一体化しなければならない」 Nostra AetateとAd Gentesとは実生活において、どう結合して好いのか分か らないのであって、両者は本質的に矛盾しているようにみえるし,事実、矛盾 しているのである。しかしながら、上層部ではなく、庶民や僧、司教、修道士 の間では、カトリック教に心強い動きが現れている。即ち、実際の宗教生活に おいて、どちらかというと排他的なAd Gentesのほうが無視されつつあり、 Nostra Aetateが大多数の人々により一般的に実践されるに到っている。

  聖書やコーランで神性の完全にして究極的啓示とされてきた、何百年も続いたドグマを正式に放棄しない限り、互いを受け入れる真の対話というものは所 詮、考えられないようだ。他者の文化や財産を否定し、破壊し、奴隷制や特に 西洋人の優越感を土台とした宗教裁判、十字軍、植民地主義などの西洋史上の 殆どの過ちは、こうした排他性の主張に起因していることを人々は、いま漸く 認めつつあるのだが、このような主張を捨て去るまでには依然として、心の準 備にある程度の時間がかかることは確かである。こうした主張を捨てることは、 真の対話の実現にとっての大きな障害を取り除き、互いを高めあう価値観の交 流を実現する架け橋となることは間違いない。

  多くの人々が恐れるのは、他者の文化を自己の文化圏に受け入れると、自己 自身の価値が損なわれるのではないかということだ。この恐れは、主として他 者の文化についての知識がないか、他者の文化と接触のない人たちが抱くもの だ。自国語以外の言葉を知っている人は、外国語の知識が大切な人間的豊かさ をもたらすということを経験によって知っている。他者の文化に対して心を開 いて、世界を往来している人たちにも同じことが言えよう。他者の文化に属す る人々やその価値観を知ることは、自己自身の文化的価値を育み、豊かにする ことでもあるのだ。世界の人々が互いの文化的価値を等しく受入れ、認め合えば総じて自己の文化ばかりか、世界の文化をも豊かにすることができる。  このことは、また宗教的認識についても言えることである。我に絶対的真理 ありと主唱することを止めれば、その瞬間から、他の宗教の信者を自分たちの 宗教に改宗させようとする意図には、もはや何の意味も無くなるのである。世 界の宗教は、それぞれ独自の価値をもっているので、他の宗教の信者を改宗さ せるためにではなく、互いの信仰を深めるためにその独自の価値を伝えること こそ、互いに近づき合うための大切な条件である。

  このことは、また、結果として、教会間の争いに終止符を打つことでもあり、 個人の自由な改宗を全面的に受け入れ、理解することでもある。世界の宗教は、 それぞれ時代を重ねるなかで、宗教の中核的な価値を育み、独自のアイデンテ テイを形成し、固有の権利としてこのアイデンテテイを固守してきたのである。 しかしながら、このアイデンテテイは成長し向上するものでもあるべきなのである。 他の宗教を受け入れること、さらには他の宗教の価値を継承することは、 いかなる場 合でも、自分自身の信仰を豊かにし、深めることでなければならない。また、 こうして他の信仰を受け入れ、その価値や真理を経験することは、神性と究極・ 永遠の真理の知識と知覚とを深めることにもなる。

  すべての異宗派間対話の明らかな目的は、まず私としては最も重要と思われ る、相互理解の推進と共同活動の実現である。この共同活動というのは、和解 の精神を持って過去何百年もの間に犯した過ちを再び繰り返さず、平和なより 良い世界を築くという目的を持ち、地上の富を万人に等しく分ち、世界の恵まれない人々に尽くす活動のことである。教義の統一というのは、実現からます ます遠く、しかもこれを戦いの真の目標とすべきではないことが明らかになる につれて、教義、教会或いは宗教をひとつに統合しようという運動は、教義や 儀式の類似性とか相違の議論を超えて、共に何事かを行うという共同活動への 運動へと切り替わるべきなのだ。このような統合というものは、不可避的にますます均質化する世界にあって、自己のアイデンテテイをできるだけ多様に、しか も多く維持することによってのみ可能となるものだ。これは矛盾しているよ うだが、収斂的発展なのである。このことは、国境がますます重要性を失い、 無くなる場合もある国というものについても言えることであって、宗教についても然りである。世界的に共通の領域での活動が共同で行われるようになって、 始めてこうした統合が、実現するのは明らかであろう。

6) 我らは、真理と精神性へのより判り易いアプローチとを懸命に探求するに あたっては瞑想を再評価し、神の存在を深く認 識する優れた手段として、広く 実践すべきである。瞑想こそは,宗教的文化を超え、普遍的に共にし受け入れる神への決定的アプローチである。沈黙の瞑想は、あらゆる宗教間の遭遇の一 部を成すべきものである。

   過去数十年間でヒンズー教や仏教の精神性とその瞑想修行とに触れることが 多くなったが、このことが大きく影響し、ヨガや禅の座禅会からニュー・エイ ジ・ミーテイング、歌、ポピュラー・ジャズ、ヒッピイその他の歌祭りまでの、 あらゆる種類の精神活動に最近、関心が集まっている。西洋では,宗教的修行 として盛んになってきた祈祷と知的瞑想とに慣れてきているのに、東洋では驚 いたことに、表現しがたい神の神秘性を東洋の教典で説明するといった方法を とっているのだ。東洋の辞書には一神教の「神」にあたる言葉は見つからない のだ。東洋の神は,あらゆるもの、特に人それぞれの自己の中に存在する。思 念や欲望から自由になり、真の自己を顕現させるために自己を空にするという 方法で、自己を捨てて真の自己発見するのが、仏教徒やヒンズー教徒の瞑想や 黙想である。恐らく、これを実践しているのはまだ少数であろうが、その数は 年配層だけではなく若年層にも著しく増えつつある。一日に若干の時間をこの 種の瞑想に割く場合、

い まだ実践者の少ない結跏趺坐の姿勢で座る必要は、 直ぐにはないのである。瞑想は誰にでもできる。他者を同じ家族の一員と意識 しつつ、周りのすべてのものを明確に意識しつつ日々を生きるということだ。 意識を働かせるということは、本質に集中し、あらゆる執着を排し、特に万人 を地球というひとつの家族の兄弟姉妹と意識するうえで役立つのである。

7) 我らは、宗教対話に加わるすべての人々は、世界の増大しつつある生態系的,社会的,経済的および財政的諸問題に対して,不断の関心 と憂慮とを抱くべきだと信じるものである.以上の指針を受け入れることが、 教義の違いを超えて、世界の宗教および聖伝が゙一致協同することへの重要な踏 み台となる。 政治的世界との協同におけるこうした対話は、世界の諸問題の 効果的解決にもっとも有効に寄与するものであり、同時に、万人にとってより 平和で正しい世界の新秩序を目指す重要な踏み台ともなる。

  さまざまな宗教の教義の現状においては、これらが融合的統合に到るのには、 時期いまだ尚早である。現状況下で、世界のすべての宗教および聖伝が目指すべき目標としては、共同活動のみが可能である。すべての宗教,聖伝および精 神的運動が多かれ少なかれ関心を寄せているのは、個人としての、地球社会の 一員としての全人類の福祉である。貧困、戦争、兵器の製造、売買、保有、富 の不正な分配その他、ますます深刻化する人類の諸問題の解決を共に図る共同 活動こそが、宗教間の最優先的目標とすべきものだ。このような明確な目標を 掲げてこそ、教義やその他の相違を超えて、統合的共同活動が達成できる。

  多文化、多宗教の社会へと余りにも急速に変化しつつある世界にあって、新しい道徳的基盤を求めることにメデイアや一般の関心が集まっていることから も、また世界の諸問題の解決を求め、宗教の世界とより緊密な連携を目指す政 治の世界の関心もここに向けられていることからも、宗教に対する関心が高まっていることは明らかである。すべての宗教、聖伝、その他の信仰が道標となっ て、上述の宗教連合とか聖伝連合のような総意による統一的権威が世界的に 合意した道徳律を宣言するには、今が世界史にも稀にみる絶好の機会なのである。異宗派間対話や平和のための対話で活躍している諸団体が、固い信念に基づい て活動しているのであれば、宗教連合期成会の目的と同様に、宗教、聖伝、 その他の信仰からひとつの世界的フォーラムを結成するもっとも直接的で効果 的な方法は何であろうか。それは,世界宗教会議、平和のための世界宗教会議、 世界宗派会議、宗教・平和国際会議などの主要な異宗派間団体や平和団体が、 宗教連合期成会と共にひとつの旗の下に連邦を結成するように、力を結集して 国際連合機構と連携し得るような宗教連合という名に値する世界的機構を創設 することだ。これは、互いを愛し思い遣る真に人間的な精神、公共の利益のために自己を忘れるという日本的、東洋的調和の精神の表れであり、世界の反響 を呼ぶものである。神学者ハンス・キュング氏(ドイツ)が1993年に提唱した 「世界的倫理」、1997年の「人間の責任に関する世界宣言」(日本)、1995 年のバハ-イ文書「すべての国の転機」、そして最後に特に重要な1992年のダ ライ・ラマの文書「世界国家と普遍的責任の必要性」など、「人間の権利に関 する宣言」に対しての補足的文書は多いが、人間の男女が社会的、精神的次元 において中央に位置するような新しい世界秩序に宗教や聖伝が貢献するうえで、 これらの宣言や文書を基本とすることができるし,また基本としなくてはなら ない。


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