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Evolution in the Faith Communities (in Japanese)

宗教界における世界的変化

Evolution in the Faith Communities

 )1945~65年におけるカトリック教会の動き

この20年間、カトリック教会内では熱心な信者たちに神の新しいイメージを創造し、カトリック教会を教育施設とみる新たな見方を示したが、こうした著しい進展とそれに伴う変化に対して、カトリック教会は真に先駆者として活躍した。これまで、特に、第二次世界大戦以後は、カトリックの信仰社会におけるカトリック教会の権威に対する信者の姿勢が劇的な変化を遂げている。

a)聖書の新解釈

旧約および新約聖書の科学的根拠に基づいた新解釈が始められ、1940~45年の戦時から、司教セミナーや修道院での神学研究にその応用が実践されることとなった。

b)第二回バチカン会議(1962~1965)

これは、他の宗教とその信仰者たちの価値を認めるという、重要な第二の段階であって、第一の具体的な成果としては、ラテン語から各国語への切り替えが世界的に行われたことだ。

聖書の解釈が文字解釈から実態解釈へと進み、これが各国語へと切り替わったことは、宗教間対話、真の教化、多文化・多宗教社会に向かった過去六十年間における最も価値のある進化・発展であった。キリスト教宗派間の統一を目指した全キリスト教会の諸会合に加えて、上述の変化が宗教間対話の世界的促進にとって欠かせない基盤となった。その主な結果の一つが、他の文化や宗教を今では世界的に受け入れ、尊重するようになったことだ。

私の「宗教間対話概要」は以下の四点にまとめられる。世界の宗教や伝統的信仰の教義は、それぞれ土地の文化に根ざしたものであり、それぞれの文化の哲学的、道徳的観念を基として発展したものであり、そして過渡的な表現、文化に適した儀式を通して究極の霊的存在に迫り、その存在を宣したものである。巡礼者は、常に新発見への途上にあって、変化へ順応するものであるので、信仰のない社会は真理の独特な具現者たりえないのだ。

c)旧来の教えと禁忌を排する

過去六十年間において、特にカトリック教会内にあっては、数々の世界的な変化をもたらしている。日曜礼拝、金曜日の肉食禁止、定期的な罪の告白、避妊法の禁止、四十日の断食(もっと精神的な個人的愛情の抑制に転じている)などの旧来の教えや禁忌を排する、というよりも、意に介しなくなってきているのである。現在の教会の説教壇からは、罪の話も旧来の地獄や煉獄の恐ろしい罰の話も、もはや聞こえなくなっている。

d)教義への信頼薄れる

信者だけではなく、聖職者、神学者の間でさえ、不愉快なことかもしれないが、キリスト教の教義の中の多くの人為的教義、たとえば法王の無謬性、キリストを人類の唯一の救世主とする絶対的信仰、無原罪懐胎説、聖母子昇天、聖職者の必須条件としての独身、教会組織における位階制への女性参加禁止、などの人為的教義が重んじられなくなっている。

現在、少なくとも西欧全体に広がっている驚くべき変化は、ドミニコ会エドワード・シラーベックス、イエズス会ジャック・ジュプイ、イエズス会ハン・キュング、イエズス会ロジャー・レーナー(「ネブカドネサ―ルの夢」2001、「キリスト神話からの脱出」2003、現在、オランド語のみ)、英国国教会ジョン・ヒックなどのカトリックおよびプロテスタントのポストモダンな新ビジョン、それに忘れてならないのは特に南米の解放神学関係の神学文献にその源を発している。自然の再認識、他の文化や宗教への新たな認識と受容、反核・環境保護派「グリーンズ」の台頭、健全な環境への取り組み、地球はみんなの財産だという環境的視点、宗教と科学との新たな積極的連携、政治的世界と宗教社会の指導層との間で拡大する協力など、戦後の新しい運動とカトリック教会での諸変化のすべてが、間違いなく互いに関係しあっているのである。互いに影響しあい、引き返せない進化の道を歩んでいる。

いまひとつこれに劣らないほど重要な変化が、神、神性の像(イメージ)に生じている。これは多くの信者が感じているのだが、キリスト教の一神教観は今では汎神論的傾向を帯び、感覚的存在のみならず創造物すべては、その起源と究極の定めとして、神の霊的実在が遍在するという意識を新たに信ずるに至っている。カトリックの信仰世界にあっては、肉体と性とは数百年来、罪と考えられてきたが、もはや罪とは考えられなくなった。

キリスト教の原罪という基本的な教義に対する態度と信頼が変化しているのも一つの例で、教訓的である。

原罪とその影響

カトリックの教義、原罪についての情報をインターネットのカトリック百科事典から引いてみよう。

1.意義

原罪の意味:(1)アダムが犯した罪、(2)この最初の罪の結果、起源としてアダムの血統に由来しているため、我々は遺伝的に穢れをもって生まれている。

聖オーガスチンも「最初の人間の熟慮のうえでの罪は、原罪である」と述べているように、原罪の言葉の意味は後者が普通であった。それがここで言われている遺伝的な穢れだ。アダムの罪については、その罪が犯された状況を精査する必要もないし、創世記第三節の解釈を施す必要もない。

2.原罪の特徴

これは難しい点で、この説明で多くの学説が生まれているが、現在、広く受け入れられている神学的説明にとどめたい。原罪とは、アダムの罪の結果として、罪を清める神の恩寵を失うことだった。これは聖トマスの主張でもあるが、聖アンセルムさらには初期のカトリック教会の伝説にまで遡るもので、オランジュ第二回会議宣言(529年)にみるように、一人の人間が、罪の罰として全人類に肉体の死だけではなく、魂の死である罪それ自体をも伝えたのだ。死は、生の根本を奪うことであると同様に、魂の死は、すべての神学者によれば超自然的生命の根本である罪を清める神の恩寵の喪失なのである。したがって、原罪は魂の死であり、罪を清める神の恩寵の喪失であるのだ。

 タイルハード・シャルダンが予言しているように、一見、純粋とみえる物質である原初的存在が現在の高次元の精神的人類へと進化したのだが、人類は宇宙の進化の一部をなすものだ。すべて存在する物は、少ないものから多くのものへ、善くないものから善いものへ、不完全なものから完全なものへと不断に変化するという条件にもともと結びついている。あらゆる形での苦しみというのは生命、より善い生命に向かう戦いにおける、感覚的存在の不完全さの結果として捉えられる。

悪、神学用語では罪というものは、より高い霊化への進化に逆らうすべてのものと説明することができるが、このことは知的存在の自由な選択ゆえに可能なものだ。善悪は、何が善で何が悪かということを弁える知性にもともと結びついている。人間は、その自由意志によって善悪を選択できる能力を備えているものだ。

すべての信仰の世界において受け入れられている黄金律へ向かう方向を選択する可能性に道徳的基盤を求める人たちがますます増えている。人間社会にあっては、社会的権威に基づき善には報い、悪/罪は罰し、より善い人間社会へと進むべきである。

トレント会議での原罪の定義によれば、罪は模倣ではなく、生殖によってすべての人間に伝わるのだと述べられている。カトリックの教義によると、すべての人間はアダムとイブの子孫であることから、生まれたときから穢れを背負っているという。知性も低く、善を選択する能力にも欠けていたはずの四百万年も前の人間の原罪を、どうして穢れたとするのか、私にはその理由がますます分からないのだ。人間は悪へ傾きやすいものだという説は受け入れ難いが、善を選択するのは悪を選択するよりも強い意思が必要であるとは言える。人間は悪を選びやすいものだという説の根拠はここにあるのかもしれない。

神、究極の霊的真実の新たな見つめ方というのは、すべての物や生き物に神は存在していて、互いに愛するという可能性をもった人間の場合には特別な形で存在している。

キリスト教信者にとっては、原罪の問題は最も重要なものといわれているが、それは罪を清める神の恩寵の喪失状態としての罪に関わるキリスト教教義、旧約聖書の動物の供物、キリストの十字架での死、洗礼などの救いの教義は、すべての人間の罪の原型に由来しているからである。イエス・キリストの生涯と教えは、神によって極限にまで満たされた位格の生涯と教えとして、見直されなくてはならない。その教えと教訓には、神への強い愛、同じ人類としての兄妹への強い愛、敵への愛さえをも基調としている。

 キリスト教教会における説教の主題の一つは、数百年来、罪、原罪およびその結果についてであった。第二次世界大戦後、罪に関わる教会での説教がほとんど姿を消したので、驚くほどの変化が生じている。これは、現代の教会礼拝者のなかで、原罪へのこだわりが少なくなっているか、消滅していることと関係があるのだろうか。神学的設明によって言い表せないものを説明し、さらには無謬のドグマを掲げることもなく、性善説が仏陀をしてその教えを道徳的導きにのみに専念させたのだ。善が究極的には悪に打ち克った一つの例が、今日の平和で民主的なヨーロッパにおいて数百年に及ぶ紛争と戦禍がなくなったことである。

 罪を清める神の恩寵とはどのような意味か。それは、単に、神と結びつく人間の心、精神、意識および行為の状態ではない。神、無限の、表現しがたい霊的存在がすべてのものに、愛する父として現れていて、しかも人間の相互愛のような形で現れていると信ずることは、すべての人間がこの世に生れ落ちたときから、神の子としての恩寵を受けているということなのだ。神と愛を通じ合う恩寵の状態というのは、信仰のある無しに拘わらず、すべての人間に固有の特徴である。

聖書に基づいて解釈されてきた救いの教義についても意味の有無が問題となっている。人間は無いものから救われるはずがないのだが、善への選択を続け、それを助けなければならない。教会での説教の伝統は、神についての知識を深めるうえで重要だ。したがって、伝統的な解釈を放棄すべきではなく、解釈を見直し、言葉を変え、現代の人たちをキリスト教世界での道徳的教えや社会的貢献になじみやすくするようなものにしなくてはならない。これは神学者の仕事である。

 神が自分の中にある、神自身が自分自身の代わりとなっている、という仏教の生の目的ともなっている、と常に意識していることは、人間の最高の生き方ではないであろうか。さらに、この意識は、過去の祖先、未来の子孫と一体化しつつ、自分が世界の人類という家族の一員であることを常に意識させることになる。できるだけ多くの人たちにこの種の意識を深めさせることが、すべての宗教界の存在理由ではないか。

2)宗教界における進化の概況

すでに起きていて、後戻りのできない劇的変化をもたらしている主な底流というのは、西欧の先進工業諸国のほとんどの一般の人々が、個人として時には集団として、意識と知識に基づいて道徳的に何が善で何が悪であるかを自ら決定しうる知的水準に達しているということだ。

a)カトリック信仰世界内の著しい変化は、間違いなくカトリック教会や他の信仰社会にも起きうることだ。イスラムの各宗派における同様の進化も他の価値やアイデンテティを理解し受け入れるという真の宗教間対話に最も歓迎されるものであり、最も貢献するものであって、疑いなく世界平和への重要な第一歩となる。

b)不安と焦燥

キリスト教内部や周辺で数百年来、固く信じられてきた信仰は、第二次世界大戦以降、全体として不安定性と焦燥感を帯びることとなり、こうしたなかで多くの信者は新たな信仰の道を探っているところである。あまりにも多くの人間的属性をもった神への信仰が問題になっている一方で、どこかでどのようにしてかは別として、究極の霊的存在が、すべてのものの起源と運命とをそこに宿し、それとの一体化あるいは果てしのない再生と復活の循環を通して存在するという確信が根づきつつある。過去数十年、特に西欧諸国でむしろ共通にみられた現象となっているのだが、教会が信頼を失ったことによる不安に対しては、教会は他のいかなる施設とも替えがたいものであるとするのは当然だといえる。キリストの教えの本質を伝える役割は必要だし、ドイツのカトリック神学者ハンス・キュングが何年も前からすでに言っていることだが、全人類が世界的に受け入れられる倫理を伝える役割も必要だ。この世界的倫理の宣言は、宗教社会における協力体制の統一に向けての貴重な手段、人類の行動に関する望ましい世界的基準として、1993年のシカゴでの第二回世界宗教会議で7千人の参加者多数によって採択されたものだ。

c)科学と宗教間の融

科学と宗教の世界にあっては、真理の追究という共通の目的にたって、対立するのではなく、互いの価値を認め合い、協力し合い、互いの価値を認識しあうという傾向が強まりつつある。宗教と科学とのこの種の協力関係に向けての努力は、米国、ヨーロッパ、その他の国でも顕著だとメディアもはっきりと報じている。

d)キリスト教徒が企業活動に息吹

産業の世界でも面白い大きな変化が起きている。過去十年間で、オランダ、ベルギーその他の西欧諸国の何百という企業が協力して定期的会合を重ね、ひも付きでない銀行融資、や技師派遣により、南北格差是正に貢献しようと、主としてアフリカや南米の貧困国の中小企業の支援のために乗り出している。世界の問題のクリスチャン的見方からすると、何百年もの間、キリスト教世界の僧院や教会施設が担ってきた仕事を今、彼らが遂行しているのだ。

e)規定も禁止もない宗教世界

規定も禁止もない宗教世界というものが仏教信者にとっては、真実の生きる道となっていることを我々は仏教から教えられる。仏教には多くの教えがあるが、ドグマや厳しい戒律というものがない。仏教は神秘的な宗教で、言葉や思考、理念を超えて、先験的知恵の沈黙へといざなう宗教である。世界中の多くの人々から賞賛され、崇められているダライ・ラマは説教壇から諭すような話し方は決してしないし、戒律を説くこともない。それでも、彼の忠告や助言は宇宙の深遠な神秘の知恵が放つ光のように賛美され受け入れられているのだ。

たとえば、ブラーマ・クマリス、ほとんどの土着信仰、ヒューマニスト信仰の社会では、その信奉者や同調者への基本的態度として、すでにこうした戒律のない教え導きの方法ができている。

クリスチャンと仏教徒との間の宗教間交流および対話が、遠い将来のことであろうけれど、戒律と禁止のない宗教になることが可能であろうか。将来、これが、世界のすべての宗教の世界がたどる真の道となりえようか。こうした「教えに行こう」といった姿勢のないカトリック教会や他のキリスト教会が、信者たちの道徳的、精神的指導や人道的指導において全体として、その権威を保ちえるものだろうか。このような意味で、教会施設としてのカトリック教やその他のキリスト教のイメージは、これまで不変の教義と思われ信じられてきたものの多くにおいて、劇的な変化を受けつつある。「教えに行こう」という姿勢が、「学びにこう」の姿勢に変じ、「命ずる」から「導き」へ、「改宗を説く」から「証しを示す」へと著しい変化がみられる。

f)神のいまひとつ別のイメージ

ディオニシュウス・デ・アレオパギットは、いわゆる否定的神学の創始者と言われていて神秘主義にとっては重要な存在だ。神は、我々が考えているよりはるかに無限に偉大な存在だというのが彼の主張である。

上述した、命じ、禁止する姿勢から導きへという好ましい進化の傾向の背景には、いまひとつの進化が進んでいる。それは、究極的な霊的存在を把握し理解する次元における人知の無力さを認めつつあることであるが、同時にこの存在を説くためのすべての人間の言葉は、依然として極めて限られていることがますます自覚され、物心世界へのより深い科学的、神秘的洞察に伴い、人間の言葉には随時必要な改変が加わるということだ。これは、各々の宗教・宗派が受け取るのは究極の全真理ではなく、そのごく一部だということである。このことは、世界の宗教の創立者たちによる天啓というものも、もはや無謬のドグマとして唱えるべきではないということだ。というのは、各宗教は、時代の文化的環境の影響を受け形成された、限られた人間の言語によるところから、究極の霊的存在のごく一部しか把握できないからだ。世界の宗教の創立者たちが唱える天啓や聖典類のすべては同一の唯一の神性に関わるものだという認識はますます一般に認められつつある。一神教、多神教その他といった分け方は、同じ神性の一神教的、多神教的特長を混合したもので、分け方自体、その意味を失いつつある。こうした新しい考え方を取り入れることにより、宗教間対話に当たる宗教界や諸団体が互いに連携し、統一するというより、協働すべきなのである。

多様性:『多様性こそ神から人への贈り物』といわれている。私見では、多様性が本当に神からの贈り物かどうかは不明だ。すべてにおける人間の多様性、特に異なる宗教世界での多様性はすべての人間の自由意志の結果のように私には思える。この自由意志こそが確かに神の贈り物だ。

数百年に及ぶ人間の精神の進化、生死の意味を問う人間の歴史を経た、人類と同様、その多様性というものは、衝突するのではなく、究極の目的、すなわち究極の霊的存在と融合することをよりよく理解する方向へと収斂しつつあるのである。

人間が存在し始めてから1940年頃までは、多様性の道は、まったく別々の多様性の道であった。しかし、この後、対話の新時代が開け、互いに知り合い、学び合い、理解し合い、受け入れ合った。このことが、クリスチャンが神と呼ぶ霊的存在および宗教の人間的多様性をひとつのヒューマニティへとさらに融合させる方向へ自ずと向かわせる。

二重の帰依:例えば、カトリック教徒が座禅を行うといったことはEUや米国では広くみられるように、一つ以上の宗教を持つというのが、むしろ新たな宗教観となっている。自分たちのことを仏教徒兼カトリック教徒と呼ぶカトリック教徒もいる。現在。カトリック教徒はプロテスタントの教会や仏教寺院に行って祈ることが、許されており、カトリック神父はプロテスタントの祈祷で説教するし、プロテスタントの聖職者(男女)はカトリック教会で説教を行っている。このような問題について書かれた非常に有意義な小冊子に『多重宗教への帰依とクリスチャンの独自性』があるが、出版元はキャサリン・コーネイルで、共著者は、ジョン・バン・ブラットなどである。

)今後における政治と宗教との協働

いまひとつ目覚しく好ましい進化というのが、政治と宗教の世界における協働を探るという今日までの動きで、非常に関心がもたれている。この協働を追求している例として英国が挙げられるが、ここでは政治と宗教の指導者たちが全国又は地方レベルの集会や定期的会合で交流しているのが見受けられている。同じ運動は、EUでは十年前から行われており、特にジャック・デロールが今でも指揮しているEU委員会フォーワード・スタディーズ・ユニットの活動を通して行われているが、2001年以降は政策諮問グループの名称の下で継続している。その専門四分野の一つが「宗教とヒューマニズムとの対話」となっている。

  宗教世界の指導者たちが手を握りさえすれば、皆にとって平和で正義の世界がもたらされるという思いを、政治や産業の世界の指導者たちはますます深めている。インド、南米、アフリカ諸国の何百万人というに人々の貧困と識字率の低さを変えうるものは、内外の政治的圧力のみである。平和と社会正義へ向けた政治の世界へのこの種の圧力は、宗教界の協働による世界的融合によってのみ可能となる。

  現在、加盟国191カ国の国連の創設と活動により、世界の政治的統合は進んでいる。宗教間の世界的融合は、必然的に世界的統一見解を発する場の創設をもたらす。それは国連の良きパートナーともいうべき国際宗教連合構想だが、この構想は1993年にカリフォルニアの司教ウイリアム・スウイングが提唱したもので、世界の宗教間諸団体のすべてが支持し、賛成したものである。

  統一的世界フォーラム創設を目指す統合への道で主として障害となるもののひとつは、それぞれの世界で真の代表者として受け入れられている人物が出てくるかどうかという問題である。イスラム世界、仏教、ヒンズー教それにカトリック教や非カトリック教の世界では、権威ある代表者機関の必要性が切実に感じられている。カトリック司教会議で選ぶ各大陸を代表する代表者から成る指導的権威としてのバチカンについて、問題を処理できるのは、カトリック教会のみである。過去十年間におけるEU委員会の各宗派間の対話実現への努力が続けられているということは、政治の世界の指導者たちに受け入れられる真の代表的機関や組織がいまだに見つけられていないという問題を如実に示している。

  宗教世界での統合を図る目的は、一つの宗教を創設することではなく、各宗教に独自のアイデンテティと価値を保たせながらも、それぞれ異なる宗教(宗教、土着信仰、その他人道運動、フリーメーソンなど)が協力して、手を握り融合することにある。また、宗教間対話は、各自の宗教的、文化的アイデンテティを互いに豊かにするものでもある。ダライ・ラマがキリスト教徒のダライ・ラマ信奉者に繰り返し言っている言葉がある。「仏教を学ぶことでより良いクリスチャンになれるし、キリスト教を学ぶことでより良い仏教徒となる」。

 政治、産業そして金融の世界に本当に影響を与えるには、何十億人という信仰者の統合した力が必要とされる。これは、融合の高まった段階で、全国的および大陸的次元での包括的宗教間対話機構の創設に協力し合うことで、初めて達成される。こうした全国的および大陸的次元での包括的機構の力を結集すれば、超国家的宗教界の強力な発言機構ならびに国連の貴重なパートナーとしての機構の創設への礎石となろう。このことは、世界の宗教と産業のグロバリゼーションの統合進化においてもさらに重要なものとなる。

 宗教間対話の世界的運動に長年携わってきて私の確信したのは、国連との貴重なパートナーとしての世界機構の創設という目的の実現にとって重要なのは、若干の宗教間機構の合併体が最も適して、時宜にもかなっているということである。この種の合併に最も先進的な機構が西欧に二つあるうちの一つは間違いなく、世界宗教会議評議会(シカゴ)であり、いまひとつが統一宗教イニシャテイブ(サンフランシスコ)である。これらの機構は英国オックスフォードにある世界宗教大会に参加統合する可能性がある。これら三者は共に、きわめて必要とされる世界宗教間雑誌を発行し、これに現行のWCF編集の『世界宗教の遭遇』を補強させることもできよう。この雑誌は、2003年以降は「宗教間インサイト」という新しい名称で発行されていて、最後は、タイの「仏教徒の国際ネットワーク」が編集する「平和の種子」というタイの雑誌と記事交換による共同編集となったものだ。

産業と金融の世界が企業と金融機関の合併をますます進め、手を携えて統合を行っているが、一方で、こうした種類の統合は宗教界や宗教間対話機構においてはいまだに受け入れられていないし、望まれる度合いも低い。東西の何百という宗教間機関(私のウェブサイト参照)はそれぞれの地方、地域そして国の利害関係と依然として密着しているのである。これらの機関の掲げる憲章の前文や目的にみられる統合の文字は真の協働という観点から十分にねられていないし、合併と言う観念も依然として薄い。このこと自体が、宗教組織や機構の利害を超えた一般的な善を優先しているということだ。

重要な二つの新概念

人間の責任についての一般的宣言

1997年9月1日、東京のインターアクション会議が公表したのが上記の宣言であるが、これは日本的および東洋的生活様式を掲げたもので、東洋の文化的価値を反映し、権利よりも責任と義務に重きを置く、言い換えれば一般的な善を優先させるものと考えられる。こうした考え方を基本とする日本的な生活様式には世界の他の諸国の範とすべきものがある(私のウェブサイト『日本の実像』参照)。さらに、この宣言は究極的には世界人権宣言言に最も適した、不可欠な内容をもつものだが、個人を優先する「人権宣言」の署名国によっていまだに受け入れられてはいない。この宣言は、経済のグロバリゼーションにとっても一つの道徳的基本を示している。宣言前文については私のウェブサイトか他を参照されたい。(www.interactioncouncil.org)

 仏教とヒンズー教の一神教的解釈

インドの聖典の研究から現在、明らかになったことだが、ブラーマ(梵天)、ビシュヌそれにクリシュナの三大神、一種の三位一体のなかに究極の霊的存在のあることが一般的に受け入れられていて、他の大勢の聖者(神々)たちはそれぞれの形や表現によって、この霊的存在を表出させているとされる。これは、すでに一神教の宗教と考えられているシーク教に近いヒンズー教が多神教の宗教というより、現在、一神教の宗教と呼ばれている範疇に入れられるということだ。同じことが仏教についても言えるのであって、仏教では全人類、全生物それに万物の起源と究極の到達点としての究極の霊的存在を全面的に受け入れており、ここにおいて仏陀は主たる預言者なのである。ここでは、神々とか菩薩は、神としてよりも聖人として尊敬されていた、信仰の厚い歴史的人物を表しているものでもある。このことからも、仏教を一神教の領域に入れられることになる。このことは、さらには、キリスト教、イスラム教それに仏教の世界における新たな神性のイメージは、一神教と多神教の混合へと進展し、神が全創造物の唯一、万能の存在となるということである。

   ジョージ・フォイエルシュタインら共著の「文明の揺籃を求めて」(1995年セオソフィカル出版社刊)から以下を抜粋しよう。「マックス・ミューラー(サンスクリット語のヒンズー教聖典の翻訳家として著名)は、ヘノシーズムという新語を造った。ベーダが今、この神が上位だとしているかと思えば、次には別の神を上位としていて、まるで神と神が完全に入れ替え可能であるかのようで、これを一神教と多神教の間を揺れる宗教性の一つの形と見て、これを説明するための新語だった。ところで、同時に一つであるところの多くの神々の教えというのは、後のヒンズー教にもみられる考え方で、ヒンズー教では、ブラーマ、ビシュヌ、シバその他同僚の神々はすべて同じ思考の存在、神格のあらゆる様相を表しているものと考えられているのだ」。

   これまでは排他的とみられてきた三つの一神教、ユダヤ教、キリスト教それにイスラム教と仏教およびヒンズー教との間の関係・交流を進める上で、仏教とヒンズー教を三つのいわゆる一神教宗教集団に加えるのが最も望まれよう。そして、これは、キリスト教宗派を統合し、世界的宗教間対話の理念を広めるのにキリスト教を中心とした普遍的運動を進める刺激ともなろう。

(聖典からのさらなる確証的文言については、私のウェブサイトの「仏教とヒンズー教の一神性」を参照。)                           

Lucien F. Cosijns, Priester Poppestraat 44, 2640 Mortsel, Belgium
Tel. 32 3 455.6880               lfc.cosijns@gmail.com
www.interfaithdialoguebasics.info


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