療養記(41) 


 

2006年7月6日木曜日
 この数日娘が試験中で、夜10時くらいから1時くらいまでダイニングのテーブルで勉強していた。あまり家では勉強をしている姿を見かけないのに勉強をしていることと、テレビを消して打込んでいることに驚く。僕もダイニングに本などを持ち込んで仕事をしているので、僕と娘は向かい合ってすわっていることになる。しかし、一言も言葉を交わさない。おかげで僕も仕事がはかどるが、娘が突如として寝てしまうと、僕は一人後に取り残されてしまう。そのためではないが、朝方まで眠れなかった。

 脱稿直前にアドラーの著作の翻訳(英語訳)を入手した。この翻訳者はドイツ語が読めないようだ(古代ギリシア人がプラトンを読めなかったというのと同じ意味でいっているのだが)。数行分訳が欠落していたり、難解なドイツ語原文が省略されている。日本語読者には正確な翻訳を読んでもらいますから、とアドラーに話しかけてみたくなる。おそらく脱稿まで後一週間。

2006年7月7日金曜日
 カタリナ女子高校。もう後一回しかない。そのせいか、今日は質問がたくさん寄せられていた。

 帰り、園部駅からそのまま京都駅まで出て、書店へ。入院前から構想している論文に必要な(必要と思われる、あるいは必要だということで)本を買い込む。『レヴィナス 何のために生きるのか』(小泉義之、NHK出版)読了。食べ物はないかといわれ、何もない時、私は他者のためにこの私の<肉体>をさしだすことができる。なるほど、ここから「カニバリズムの現代版」(小泉義之『病いの哲学』ちくま新書、p.142)としての臓器移植の議論につながるわけである。臓器移植については、ドナーの側からもレシピエントの側からも問題にしていく必要があるだろう。僕の冠状動脈に留置されているステントは人工物だから問題にならないが、これが他者の臓器であるとしたらどうか。あなた以外にドナーになることはできない、と緊急の決断を迫られた時どうするかなどなど。

 明日のヴァイツゼッカーの講読会の準備をしようと思ったのに、すわっていられなかった。大抵のことは(カウンセリングも含めて)前のようにできそうだという感触があったのに困ったことだ。長くすわってられないので横になっては、また起き出すという繰り返し。『関係としての自己』(木村敏、みすず書房)を途中まで読み進む。 

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