療養記(38) 


 

2006年7月3日月曜日
 今日は烏丸御池を少し下がったところにある書店で本を何冊か買った。店を出ると強い雨が降った後のようで、まだ小降りだったが、雨に構わず四条烏丸まで歩いた。そんなにたいした距離ではないが、このあたりは精神科に勤務していた頃のいわばなわばりだったので、少し足取りが重くなってしまった。今は、もう前のところにはないということを聞いていたが、どこに引っ越したかは知らない。僕がいた頃は、祇園祭の宵山であろうが、山鉾巡行の日であろうが、かまわず開院していた。鉾町にあった医院の近辺は人がたくさん出て、歩くのは困難だった。患者さんが少なくて「今日は開店休業になるかしらね」と院長がいった途端に必ず「祇園祭だったのですね、知りませんでした」といって患者さんがこられたことや、デイケアの患者さんたちと鉾を見に行ったことなど今は懐かしく思い出される。

 すわっていると息が苦しくなるので横になると今度は寝てしまい、少しも仕事にならないので喫茶店で翻訳の仕事。禁煙の喫茶店を探すのは難しい。重いものを持てなくなったので以前のようにコンピュータを持ち歩くことは亡くなった。それで翻訳といっても、手書きで訳文をノートに書いていく。後で読み直せないことがあって、もう一度読み直さないといけないので、二度手間になる。僕が辞書を出すと、隣に受験生らしい女性が英語の本を出して勉強し始めた。僕が数行書く間に1ページくらいノートを書き進むのに驚いた。

『不幸の心理 幸福の哲学』の中で心臓のことに言及した個所が二個所ある。一つはマイケル・クライトンのエピソード。もう一つは、心臓はいつかは止まるからといって今止めていいということにはならない、と書いたところ。

「どうせ死ぬのだからといって自暴自棄になってどんな生き方をしてもいいといういことには許されないだろう。この世が終末を迎えるのであれ、不治の病にかかったのであれ、その日を迎える前に死ぬことだってある。どうせ死ぬのだからどうして今、死なないのかということはできない。心臓はやがて止まるのだから今止めればいいとはいえないのと同じである」(岸見一郎『不幸の心理 幸福の哲学』p.215)

 僕は「心臓を止める」という表現を使っているが、今回の経験をしてあまり現実的ではないようには思う。しかし、ここで書いたことについては今も同じ考えである。

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