療養記(37) 


 

2006年7月3日月曜日
 助けられた命を大切にしたいと思っているが、いつもなぜ助かったのか、と思いから離れることができない。治療のかいもなく二十歳で亡くなった若い友、戦争で「付帯的犠牲(collateral damage)」(ひどい言葉だ)としてあっけなく殺される人たちのことを思う。

 今、死に不可逆的に近づいていることは疑いない。身体はもとには戻らない。食事を制限し、努めて歩くようにしているが、今よりよくはならないと思うと、がっかりすることもあるのだが、小泉義之の言葉を借りると、それでも暫定的であってもいいから「それとして完成された状態」として落ち着くこと、あるいは、「あるプラトー(平面)」が生じることを願っている(『病いの哲学』小泉義之、ちくま新書、p.166)。人が生きる限り、暫定的以上のことを望めないこともよくわかっているが。

 人生がうっかりと過ぎてしまうことがないように生きたい、といっそう思うようになった。しかし、このように思って生きることは、必ずしも日々息詰まるような思いで生きることではない。

 鈴木大拙のことを思い出した。大拙は晩年親鸞の『教行信証』の英訳に取り組んだ。86歳の時にこの仕事の話が最初に現れた。年譜によると全6巻の英訳が完成したのは93歳の時であるが(90歳から仕事に着手)、食事以外の時間は翻訳に取り組み、一日10ページのノルマを達成できなければ、その日は終わらなかった。岡村美穂子はそのような様子を見て、本来の仕事や歳を省みることがないことにはらはらしながら時には腹を立てた、と書いている(『鈴木大拙とは誰か』岩波現代文庫、p.193)。

 何が先生を動かすのか、それは一体何なのか、と思った岡村はある日、「先生、本願って結局どういうことですか」とたずねた。まさにその瞬間、申し分のない答えが現れた。「ほうーら、美穂子さん、本願が上がって来たぞ」。大拙を動かしている本願力の働きそのものを見て岡村は圧倒された。「私達の中にあって私達を生かしている力、それにもう一度気付かされて、そのことが本当の生きる喜びになる、それが本願力の働きだとおっしゃってくださいました」(p.194)。

 高齢であるにもかかわらず大きな仕事が依頼されたら僕だったら完成できるだろうか、と思って躊躇してしまうかもしれない。今の僕の歳でも仕事を完遂しないで途半ばで倒れたらたくさんの人に迷惑をかけることになるだろう、と思ってしまう。今回、心筋梗塞で倒れ、人生に先があることにかけることがいよいよできなくなった。九十歳で『教行信証』の英訳を引き受けた鈴木大拙の勇気を思う。

 岡村が大拙の主治医だった日野原重明の言葉を引いている(p.192)。「大拙先生の場合、血圧が高いということが、お仕事ができるということなのか、お仕事をされるから高くなるのか、どちらかなのか判断しかねます。不思議ですね」。大拙の血圧は異常に高く、230もあった。当然、医師として注意が必要と判断した日野原は岡村に水銀血圧計を入手し、毎日何度か計って報告するよう指示したが、大拙の生き方を見た時に危険だからといって仕事をやめるようにといわなかったところが、大拙に日野原のことを「さすが名医」と感心させたのだろうか。入院している時にふとこの話を思い出して退院後日野原重明の著書を何冊か読んだ。

 リルケが手紙の中でこんなことをいっている。今は春の嵐の中にあっても必ず夏はくる。「しかし、夏はかならずきます。あたかも目の前には永遠があるかの如く、静かにゆったり構えている忍耐強い人のところには」。

 森有正が次のようにいう時、このリルケの言葉を念頭においているのかもしれない。「…しかしあわててはいけない。リールケの言ったように先に無限の時間があると考えて、落ち着いていなければいけない。それだけがよい質の仕事を生み出すからである」(『森有正全集』十三巻『日記』、p.31)。先のリルケの引用は、芸術作品は無理にせかしたりしたらだめで、成熟するまで抱懐して生み出すことがすべてだといっている個所から引いたものである。 

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