療養記(33) 


 

2006年6月28日水曜日
 暑い日だったが、夕方少し涼しい風が部屋の中を吹き渡ったので、外に出ることにした。毎日あちらこちらを歩くようになって気がついたのだが、僕が知っている街並みとはずいぶんと違ってきている。まれにどこを歩いているのかわからなくなることもある。この道でいいのだろうか、と恐る恐る歩いていると、また見慣れた街角に出る。

 ヴァイツゼッカーによれば、内因性の精神病、心因性の神経症、心身症、単純な外部的原因を求めることが困難な、むしろ身体そのものの内部事情から生じる病気など、そのような広い意味での「内因性」の病気はすべて患者の人生の歴史のなかで何かの意味をもっている、という(木村敏『心の病理を考える』岩波新書、p.159)。この意味は科学的合理性が到達できない、私的、個別的、主観的な性格のものであるので、そういった歴史における意味としての病気のすべてについて「何故ほかならぬいま」Warum gerade jetzt? 起こったのかを問うべきだという(ibid.)。

 この話に至るまでの議論はたいそう長くて、結論的なことだけを今あげたのだが、入院してほどなく『不幸の心理 幸福の哲学』(唯学書房)の中で、マイクル・クライトンを引いて、あらゆる病気に対してわれわれは直接責任があるということを論じたことを思い出した(p.174以下)。クライトンは動脈硬化が進行しており、いつ心臓発作が起こってもおかしくはないのに、なぜ来年ではなく今年、先週ではなく今週起きたのか、と考える(『トラヴェルズ—旅、心の軌跡』<上>p.174)。「なぜ心臓発作を起こしたのですか?」と質問しても誰も腹を立てなかった。そして誰も、動脈硬化の標準的な医学上の原因、例えば、喫煙とか食事とか運動不足をあげなかった。

 さて、同じ問いを突きつけられたら僕は何と答えるのだろう?

 ほとんど人の集まりの中に出かけていかず、自宅療養の延長のような生活を送っていると、どんどん世間から取り残されているような気がする。

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