療養記(32) 


 

2006年6月27日火曜日
 午前中はっきりしない天気で洗濯物を干したものか悩んでいたが、部屋の中に干す日が続いたので思い切って外に出したら、その後、晴天が戻ってきた。重いものを持ったり、身をかがめることができなくて長くこの仕事を免除してもらっていたが、また再開している。洗濯物は多くない。息子が東京に行ってしまっていないからである。息子のいない生活にはまだ慣れない。息子との議論は僕にとって至福の時間だったのだが。

 入院する前に考えていたことを取り戻すために、読みさしにしていた本や(僕にしてはめずらしく線が引いてあったりする)、書きためた原稿を読み直している。中にはいささか色褪せたものもないではないが、死の淵まで行った時、幸い、どうやら僕はあまりレーテ(忘却)の水を飲まなかったらしい。前に考えていたことが蘇ってきたようである。

 生還記の第7回に「ただ助かった、で終わる人もおられるのですけどね。でも、これからのことを考え、ゆっくり休んで、お若いのですから、もう一度生き直すつもりで頑張りましょう」と看護師さんにいわれたことを書いた。

 経験自体が人を賢くするわけではない。どんな瑣末な経験によってもそれによって深い意味を見出すことができる人もいれば、大きな経験をしても何も学ばない人もいる。経験し、経験を受け止め、そこから学ぶことができるという人生の態度こそが必要である。

 森有正は、経験はたとえどれだけ深くても、そこに凝固すると体験になる、と経験と体験を区別する。一種の経験の過去化が起こる。経験はむしろ未来に向かって開かれていなければならないのである。

 今日は『心の病理を考える』(木村敏、岩波新書)を読みながら、あれこれ考えていた。宇多田ヒカルが、「「やがてみんな海にたどりつき一つになるから怖くはないけれど」(Deep River)と歌っている。僕はそうは思えなかった。おそらく、僕はパーソナルな死を思っているからで、誰も変わり得ないこの私の死を死ぬことに伴う感情(怖いとか、悲しいとか、寂しいとか)は、種のレベルで生き続けることになるといわれても、ぬぐい去ることはできないように思う。 

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