療養記(29) 


 

2006年6月24日土曜日
 今日、朝、図書館に向けて歩いている時にふと呼吸が楽であるのに気がついた。相変わらず、鼻がつまっているのに、である。一つ思い当たることがあるのだが、もう少し様子を見たい。

 昨夜は寝るのが少し遅かったのと、疲れたのか、横になったらすぐに寝てしまった。レンドルミンから離脱できそうである。

 日野原さんの本の中にこんなことが書いてあって注意を引いた。自分が痛みを経験していないと、患者の痛みを理解できない。「私自身にしても、心筋梗塞を専門としてまいりましたけれども、心筋梗塞ならではの苦しみ、死ぬのではないかという死の不安をもった胸の痛みは私には理解できません」(日野原重明『命をみつめて』岩波現代文庫、p.156)。ある医学の教科書には、この苦しみを「絶滅感」と書いてある、と徳永進さんの本に書いてあったが、僕にはわかる。医学の教科書は医師が書くものだと思ってきたが、病気を体験した患者で知的に表現ができるverbalization(言語化)できる人の協力が必要であるという日野原さんの考えに賛成である(pp.156-7)。

 図書館で今日借りてきた水上勉の『心筋梗塞の前後』(文藝春秋社)に発作の時の描写がある。水上は70歳の時に心筋梗塞で倒れたが生還、その後、二年半入退院を繰り返した。発作時のあまりにリアルで僕は読んでいて怖くなる。「小さな虻が、拇指の先に羽をふるわせてとまる音がした。ぶーんという音である。そして、その音は、足の甲から、くるぶしから、ふくらはぎへあがってきた。先の方から順に感覚が失せてゆくのである。まるで、それは私の躯が一本の番傘になって、ひらいていたのが誰かにたたまれるような感覚だった」(p.80)。僕の経験とは違うのだが「ああ、これは、いつもとちがうな、と思った」というところはよくわかる。僕の場合は、直近の日々に何度かあった発作とくらべて「いつもとちがう」と感じたのではないように思う。人が何かを見て、「美しい」(F)と感じる時、それまで見てきたこれやあれの美しいもの(x)と比べて、美しいというのではなく、<美>(美のイデアφ)を想起するからだ、とプラトンはいうのだが、僕はただ「これはちがう」と思った。だからこそ、救急車を呼ぶ決心ができたのではないか、と後々何度もこの日の朝のことを考えた。

 水上は大山康晴の言葉を引いている。大山は79歳の時に癌に罹患、退院した。病院の廊下を歩いていると、皆に抜かされる。負けてなるものか、となるべく早く歩くようになった。

「すると、そんなことに気がついていなかったことをひとつ発見しました。一生懸命歩いていると、人間は自然に手を振るんですね。人みな歩くときは考えずに手を振っているものですな。あれがもどった……よし、と元気も出て、対局にも出ようと思いました」(p.218)

 水上はこの大山の言葉を受けてこんなふうにいう。

「たとえ無価値と人はいおうとも、生きるには、無意味に手をふる必要があるのである」(p.224)

 僕は手を振っているだろうか。 

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