療養記(19) 


 

2006年6月17日土曜日
 今日は血圧が低くてつらい。

 今日で退院して一ヶ月経った。入院していた頃に想像していたよりははるかにできたことは多い。したいことはあっても、どれだけ身体が回復するか予想できなかった。僕の予想をはるかに超えていた。しかし、まだできてないことは多い。カウンセリングも再開できていない。カウンセリングははたして再開できるのかもわからない。プライベートな話なら大丈夫なのだが。問い合わせは多い。申し訳なく思いながら今のところ全部断っている。

 新しい本(『アドラーを読む』)の中に、「できると思うがゆえにできる」というウェルギリウスの言葉を引いた。アドラーは『子どもの教育』の中で引いている。心筋梗塞のリハビリの場合は、できると思ってもできないことがあるのでむずかしい、とおもった。僕は、無茶をしたら血管が破れるというようなことをいわれなくても、厳格に医師の指示を守り、胸が痛くないからといってかってに歩き回るというようなことは思いもしなかったが、中には指示を守らない人もある、と聞いた。「幸い大事には至らなかったのですが」という看護師さんの言葉からすると、重症のケースだったのかもしれない。

 心臓リハビリは、自分でできると思っても、してはいけないわけである。この前提の上で、症状の改善に伴ってリハビリのステージを上げていった。連休の後、一般病棟に移ってからは順調に進んでいたが、体調を崩して延期になってしまった時は残念に思った。「リハビリは中止する」という医師の言葉を聞き、一瞬、僕の表情が変わったのだろうか、すぐに「いえ、中止ではなくて、延期です」といいなおされたのだが、退院が遠のいたような気がした。

 ある看護師さんは「自分でできることは自分でしてね」といわれた。僕としては忙しい看護師さんたちの邪魔をしたくはないので、いわれるまでもなく、自分でできることはしたいと思った。しかし、僕だったらこのようにいわれたら、本当は自分でしてはいけないこともしてしまいかねない。

 心臓リハビリについては、看護師さんと若干のせめぎ合いがあったけれども、その最中にこんなことを考えた。これはもっぱら育児の場面を念頭に置いてのことだが「自分でできることは自分でしてね」といわれるよりも、「〔自分で〕できないことがあったらいってね」といわれるほうが、結果的には自立を援助することになるのではないか。

 自分でできることであれば、自分ですればいいが、できないことはできないのである。自分でできないこともできるといえば、本人はただできないだけでも、まわりが困ることがある。僕は入院中、ナースコールを可能な限り押さないでおこうと考えていたが、ある日具合が悪くなったのに、それでも一時間もナースコールを押さなかった。「ちゃんと〔ナースコールを〕押してね」といわれた時は、ほっとした。

 退院してから日野原重明氏の著書を何冊か読んだがその中にこんなことが書いてあって、僕だけではないのか、と思ったものである。入院していた時、毎夜、ひどい汗をかいた。しかし、寝巻きを換えるのも遠慮する、という。「この病院に何十年も勤めている私ですら看護婦さんに遠慮するのですから、一般の人はどんなでしょう。看護婦さんが具合を尋ねてくれても、「まあまあです」といってすませているのではないでしょうか」(「病気から学んだこと」『命をみつめて』岩波文庫、p.279) 

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